「うぅ~、誰かあたしの記憶を消してくれぇ」
「おーよしよし気にすんなって、誰でも勘違いすることはあるからさ」
背中を丸め身体を普段の半分ほどにして椅子に座り、今にも消え入りそうな声で呟いている胡桃。両手で顔を覆っているためその表情を窺うことはできない。しかし紅葉を思わせるうなじと頭から上がる湯気を見ればその内心は一目瞭然である。
一方で隣に座る凪原は慰めてはいるものの、その顔は笑っていた。頭の中がショートして弱弱モードになっている胡桃が可愛いということに加え、彼女が自身に対する嫉妬から怒ってくれたのが嬉しかったからだ。
どちらかというと女性側が考えそうなことだなと思わなくもない。それでも嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。
「そんで、何であんなこと叫びながら突入してきたんだ?だいたい予想はつくけど誰かの入れ知恵?」
そんな内心はさておいてとりあえず先の奇行の理由を尋ねる凪原。ただし実のところほぼ確信しており、その確認というニュアンスが強い。
「そうっ、トーコの奴がいきなり変なこと言ってきたんだ!」
「うん、やっぱあいつか」
「え?知ってたの?」
興奮気味に報告した胡桃だったがあまりにフラットな凪原の反応に勢いを削がれたのか、キョトンとした顔で首を傾げた。
「知ってたというか平常運転というか、桐子あいつ息をするようにアホな嘘つくからな」
対して答える凪原は苦虫でも噛み潰したかのような表情である。
「んでたまにそれをさらに誇張して
「あー、なるほど、なんて言えばいいか分からないけど、おつかれ?」
「ありがとな………あーでも思い出したらなんか腹立ってきた。ここは一発シメとくか、胡桃もやる?」
「やる」
即答だった。
数秒前までの気づかわし気な様子から一変した胡桃。感じていた恥ずかしさやら怒りやらを向ける先が明確になったらだろう、今やゾンビと相対する時もかくやというほどの闘気を放っていた。
「卒業から結構経ってるから油断してるだろうし、派手にお灸を据えてやる」
「あたしに恥ずかしい思いをさせやがって、しっかりお返ししてやるから覚悟しとけ」
「「フフフフフフ………」」
「おーいきみ達~?2人とも顔が怖いけど平気かーい―――って平気じゃあなさそうだね」(まぁ私に被害はこないようだし面白そうだからいいか)
悪い顔をして低く笑い続ける凪原と胡桃に声をかける理瀬。しかし返事が返ってくる気配がないことに肩をすくめると、先ほどまで飲んでいた緑茶に代わって今度は紅茶の準備をし始めた。
そのまま
綾河原理瀬、美紀や圭であればブラックコーヒーを一気飲みしたくなる光景を前にしてなお大量の砂糖を摂取できる、筋金入りの甘党だった。
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「―――おや、もう大丈夫かい?」
「ええ、ちょっと恥ずかしいところを見せました」
「いやいや、なかなか楽しく観察させてもらったさ。それと、紅茶を淹れておいたから水分補給がてら議論で消費した当分の補給でもどうかな?もちろん彼女さんの分も準備してあるよ」
およそ20分後、現実に復帰してきた凪原に笑いながら紅茶を勧める理瀬。いつの間にか2人の目の前に置かれていたカップからは、湯気と共に茶葉の香りが立ち上っていた。
「あっ、ありがとうございます。えーっと初めまして、あたしは恵飛須沢胡桃っていいます。元巡ヶ丘高校3年で今は学園生活部です、それからナギの―――」
「―――恋人だね、皆から話は聞いているよ。それから私は人の大事な人を横からかっさらう趣味は無いからね、安心してイチャついてくれ給え」
「い、いや別にイチャついてなんか……」
理瀬のからかい半分の言葉にモゴモゴと応じていた胡桃。
しかし本人も半ば自覚がある分うまい反論が思いつかなかったのか、やがてカップを手に取るとそれで顔を隠すようにしながら飲み始めた。
「さてさてそれじゃあ
「むっ」
胡桃が沈黙したことで理瀬の興味の矛先が再び凪原へと戻ってくる。
そしてシレっと名前呼びをしたせいで胡桃の額にしわが寄り、次いでその視線を受けた凪原の背中が冷汗でジンワリと湿った。
「待った胡桃。これは別にそういうのじゃない、単純に理瀬さんの癖だ」
苗字とは所属している共同体、すなわち家族の名称であり特定の人物1人を指すものではない。その人個人に対してならば姓ではなく名で呼ぶ方が合理的である。
というのが理瀬の考え方らしかった。
確かに理にはかなっているのだが、胡桃のように異性を下の名前で呼ぶことに特別な意味を感じている女子の前でそれをやられると深刻な誤解が発生する可能性がある――というか現在進行形で発生している――ので凪原としては正直勘弁してほしい。
「はいはい分かってますよーだ。別にあたしは何とも思ってないから、安心して鼻の下伸ばしとけばいいじゃん」
「いや教科書に事例として載りそうなレベルで拗ねてんじゃねーか!」
結局、胡桃の機嫌を元に戻すのに更に10分ほどかかったところでようやく話が次のステップへと進む。
「―――全く、君のせいでなかなか本題に入れないじゃないか。もう本当に大丈夫かい?」
「主な原因は理瀬さんの方にある思うんすけど……、って言っても無駄ですよね」
「うん、無駄だね」
「簡潔な返答どうも。それじゃ質問どうぞ」
正面切っての苦言もどこ吹く風で、飄々とした態度を崩さない理瀬に凪原は疲れたような表情でため息をついた。
この手合いの人間に対しては文句を言うだけ無駄なのだ、自身も同じタイプだからこそよく分かる。自分に振り回されている時、慈や
(やっぱり、振り回されるより振り回す方が愉しいな)
そんな風にはた迷惑な結論に至ったところで、理瀬の方も質問をまとめ終わったようだった。
「さてそれじゃあ質問だね、さっきまでは1つだったんだけど胡桃君が来たことで2つになったよ」
「あれ、そんなもんですか?もっといろいろ聞かれると思ってたんですけど」
ピッ、と指を2本立てた理瀬に首をかしげる凪原。彼女のような知識厨ならここぞとばかりに質問攻めをされると思っていたので拍子抜けになった形だ。
「いやいやもちろんほかにも質問はあるんだけどね。でも恐らくこの2つが本質的なところで、他の疑問も全部含まれていると思うんだ」
そう前置きしてから理瀬は肝心の質問を口にし始めた。
「1つ目は気になって当然のことだけど、理学棟で探そうとしていたものは何だい?聞くところによれば君達は既に生きていくに十分な量の物資を持っているようだし、わざわざ手に入れたいものがあるとは思えなくてね」
立てていた指のうち1本を仕舞う。
「そして2つ目は、君達2人が首から下げているそのお揃いの
2本目を仕舞いながらもう一方の手で胸元をトントンと叩く理瀬。
彼女の言葉通り、現在凪原と胡桃は首からストップウォッチを下げている。それもその辺の百均を探せば手に入りそうなちゃちなものではなくかなり武骨でしっかりとしたものを、である。
凪原としてもこの違和感アリアリのアクセサリーについては聞かれるだろうと思っていた。
もう一つの質問に関しても想定内だ。
というより、こちらについてはむしろ質問されないとおかしい。
「ま、やっぱり気になるところと言えばそこですよね。分かりました、俺が知っている限りのことは説明しますよ」
彼女に対して全面的な情報開示をすることは既に仲間達に話を通してある。
ゆえに凪原は誰に気兼ねすることなく、何でもないことを話すかのような調子で語り始めた。
====================
「―――とまあ、かなりざっくりと話しましたけど大体こんな感じですね」
「なるほどねぇ…、情報量が尋常じゃなかったからまだいまいち理解が及んでいない部分もあるが、大まかのところは理解できたよ」
理瀬に凪原がした説明は以前自堕落同好会の面々や篠生達にしたものと同じだ。
つまりこれまでの学園生活部の動向と現在の拠点について、そしてランダルコーポレーションが作成したと推定される生物兵器やその治療ワクチン、さらに凪原と胡桃が感染しているのに発症していないことなどである。
そしてそこに新しい内容として、篠生と高上が非発症感染者として加わったことと、凪原達がストップウォッチを身につけ始めた理由が加わっている。
少し前の発作的睡魔を経験して以降、凪原と胡桃は1日当たりの睡眠時間、より詳しく言えば直近24時間のうちの睡眠時間が10時間を下回らない生活を送るようになっていた。
日常の中で突然眠り込んでしまうのを避けるためという理由ももちろんある。しかしなにより暴力的な睡魔によって無理矢理意識を落とされるという感覚はそう何度も経験したいものではなかったからである。
とはいえ1日10時間睡眠というのは意外に難易度が高い。仮に一度の睡眠でまとめて取ろうとするなら、朝8時に起きるためには夜10時には寝なければならないのだ。
夜間警戒なども行っている身としてはなかなか難しいものがある。
なので日中の時間ができたタイミングで昼寝などをしているのだが、そうなると今日一体何時間寝ているかが分かりにくくなってしまう。
そこで、ストップウォッチの出番というわけである。
使い方は一般的なタイム計測のそれと同様だ。目を覚ました時点でタイマースタート、そして夜布団に入ったタイミングでタイマーストップである。正午過ぎの昼寝についてはラップ機能を利用してその時間も記録しておく。
こうすればいつでもその日何時間起きているかをある程度正確に知ることができる。
常に時間を気にするというのは言葉だけ見れば窮屈に思えるが、実際にやってみればそこまで大変ではない。元々腕時計を付けているので感覚的にはそれと似たようなものだ。胡桃の方も陸上部時代はタイム計測用として良く首から下げていたらしいので特に違和感は無いようだった。
なお2人ともこの武骨なデザインを気に入っていたりする、中学生男子か。
「それにしても、聞いておいてあれだけど私の様な部外者にそんなに話しちゃって大丈夫なのかい?結構重要な情報も混ざっていたよね」
「いや、俺達からしたら理瀬さんはもう仲間っていうか身内にカウントされてるんですけど」
「へ?」
苦笑しながら言っていた理瀬だったが、凪原の返答に虚をつかれたように固まった。
「なか、ま?」
「はい」
思わずと言った感じで聞き返すと逆に不思議そうな顔をされ、視線を巡らせてみれば今日初めてあったはずの胡桃にも頷かれた。
「………なんで?」
「うちには人物鑑定に一家言あるメンバーが多いもんで。
「………」
ごく自然に紡がれた言葉に理瀬は一瞬目を見開いた後、ゆっくりと顔を下に向けた。長い前髪が垂れ下がり彼女の顔に影を作る。
「………いやはや、私自身は自分のことをただの観察者、良くて知り合いぐらいに評価していたし、それで十分と思っていたのだけれどね。でもそうか、君達はもう仲間だと思っていたんだね」
片手を鼻元にやっていることも相まって凪原達からはその表情全体を窺うことはできない。
「フフッ、なかなかどうして……… 結構嬉しいじゃないか」
しかし、凪原の目からわずかに見えた彼女の口元は、確かに緩やかな弧を描いていた。
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その日の夜。
「「なにやってんの(してるの)?」」
「たすけて~~~」
歯磨きを終えて部屋に戻ってきた晶と比嘉子の視線の先で、布団で簀巻きにされた桐子が助けを求めていた。
ご丁寧なことに、敷布団と掛布団で二重に包まれた上からさらにロープが巻かれているという念の入れようである。頭と足先だけがはみ出している様子は、布の色合いも相まっておでんのごぼう巻きに見えなくもない。
「いやね、部屋に入った瞬間にいきなり胡桃ちゃんに布団の上に投げ出されたと思ったら会長に転がされて、反応する間もなくあっという間にこの状態だよ。プロだねっ、あの2人は!」
「何のプロよいったい………。ていうか凪原もいたんだ、あいつ基本的に
「多分、これが原因」
凪原の普段と違う行動に呆れながらも首をかしげる晶、それに答えたのは比嘉子だった。
ペリッ、と音を立てて剥がしたのは桐子巻きの中央に貼られていた紙で、紙面には筆ペンで書かれたのであろう無駄に達筆な文字が躍っていた。
「えーと『ウマに蹴られて処されるべし』、あーそういうことか。トーコ、あんたあの2人に変なちょっかい出したんでしょ?」
「いやいや、大したことはしてないよ?胡桃ちゃんに会長がどこにいるか知らないって聞かれたから、『結構前に図書館に行ってから見てないよ、もしかしたらあそこの主と浮気中かもね』って言っただけで」
悪びれることなく答えた桐子の言葉により彼女に向けられていたジト目の温度が一気に下がる。
「………ヒカ、どう思う?」
「ギルティ、足裏こちょこちょの刑」
「妥当なラインね」
「えぇッ!?」
普段引っ込み思案の比嘉子が即断即決で有罪と判断する程度には、桐子の所業は許されざるものだったらしい。
そして言い渡された刑罰が予想外に重くて驚く桐子。簀巻きにされた状態のまま器用に飛び跳ね、陸に上げられた魚を思わせる動きで抗議の声を上げる。
「ちょ、ダメダメダメダメだめだってボクってば足の裏すっごく敏感なんだから!罰にしたってもっと別のライトなものとかあるじゃ「そーいえばそうだったわね」ヒッ!?」
部屋に響いた声に、ピチピチ跳ねながら減刑要求をしていた桐子が冗談抜きの恐怖の声が漏れる。
「ふ、副会長様?いつからそこにいたんでせうか?」
「んー?まさに今来たとこよ。にしても人巻きを見たのは久しぶりね」
どこかがおかしい桐子の敬語を聞き捨てながら比嘉子の手にある紙を覗き込む早川。どうやらつい先ほどまでシャワーを浴びていたようで、長い髪をすべて頭の上にまとめてその上からタオルを巻きつけていた。
「わざわざこんな
「じゃじゃあ、あえて解放してくれたりしないかな~なんて」
「―――でもこんな楽しそうなことをみすみす逃すのはうちのプライドが許さないわ」
「ちくしょうやっぱそうだよねコンチクショー!もう煮るなり焼くなり好きにしろってんでいッ」
早川が自分を見逃がす気がないことを再確認してヤケクソ気味に叫ぶ桐子。これは逃げられないことを悟った巡ヶ丘31期愉悦派が良く見せる行動である。
「さーて、それじゃあ本人の同意が得られたところで刑罰執行といきましょうか。こいつめちゃくちゃ暴れるから2人が抑えて1人がくすぐるって感じでヤるわよ」
「オッケー、1分経ったら交代ね」
「りょうかい 思いっきりやる」
「あ、あのー?副会長はともかくとしてもヒカもアキも顔が怖いよ?」
フフフフフ、と怪しく笑いながら近づいてくる3人から少しでも距離を取ろうと転がっていた桐子だが、すぐに壁へと突き当たってしまう。
「や、やめ………やめ、やめ…ヤメロォォォオオオッ」
夜の校舎に断末魔の叫びが響いた。
====================
同時刻、大学構内のとある仮眠室。
「―――よし、悪は滅びた」
「当然の報いだ。………あ、あのさ」
「分かってるって。誤解とはいえ不安にさせたのは事実だし、その分の埋め合わせはしっかりしないとな」
「……うんっ」
一つの布団の上で恋人を後ろから抱きかかえながら座る青年と、その腕の中で顔を耳まで赤くしながらも嬉しそうに頷く少女の姿があったとかなかったとか。
つーことで理瀬加入&最近の凪原と胡桃の状況回でした。
それでは色々書く前に1つお知らせをば、本作の更新頻度についてですが現在小説情報ページに記載している毎週更新から隔週更新へ変更させていただきます。最近の更新が既に隔週になっていることもありますが、現在のリアル事情である程度プロットや整合性を考えて書くためにはこの感覚が限界であると判断しました。
今後リアルの状況が変わったり調子が良くなってきたらまた毎週更新に戻そうと思っておりますので何卒ご理解のほどよろしくお願いします。
それでは今回(というか今章)についていろいろ(やっと書ける...)
大学編最終章のこの章ですが、じつはもともと大学編は2章建ての予定でした。しかし前章(7章)の中盤あたりを書いている時に「あ、これムリだ」となった結果3章仕立てと相成りました。せっかく増えたからということで内容もマシマシになっているのでお楽しみいただけると幸いです。
理瀬さん
なんか動かしている間に原作からキャラが予定外にブレちゃった人。図書館にいる→知識欲過ごそう→研究者?それと、原作見ていると驚かそうとしていたりと意外に茶目っ気がある→人を揶揄って楽しんだりしてそう→愉悦派?という図式が頭に浮かびました。そしてここに某ウマの擬人化ゲームにおける筆者の推しである白衣を回す彼女の要素が加わったことで本作の理瀬さんが誕生したというわけです。偶発的に生まれた人格ですが割と気に入っていたりします。
凪原&胡桃
「とりあえず寝とけ」(某生徒会庶務)
「症状も一緒なんだし一緒に寝ときなさい、扱いやすいから」(某生徒会副会長)
との言葉もあり同じ部屋で枕を並べて寝るようになった。仮眠室なので内鍵もかかるし防音処理もしっかりされているが、もちろん睡眠時間はしっかり確保している模様。そうでないと日中いきなりぶっ倒れます。
ワクチンの保管場所
主に作中に書いた通り。保管に適した場所があるならそこに隠すよね、というお話。特に研究室棟のような場所は、隣の部屋で誰がどんな研究をしてるかなど全く知らないし興味もないという人間のたまり場です(筆者の経験に基づく偏見)。何をどこに隠そうがやりたい放題でしょう、多分。
さてだいたいこんなところですかね、久々に色々書けたので満足です。
それではまた次回!