「―――っと、暗くて全然分からないな。どこだよここ?」
この日、凪原は視線を巡らせながら本棚の間を歩いていた。
聖イシドロス大学のキャンパス中央に位置する大学図書館は、校舎丸々1棟を使う大規模なものだ。地上3階から地下2階に及ぶ知識の倉庫はしかし、電気が落とされた現在は完全なる迷宮と化していた。
左手に持ったランタンを掲げるも、その光が及ぶ範囲は狭い。高くそびえる本棚とそこに並ぶ書物が光を吸収し、しっかりと視界が通るのはせいぜい数メートル程度である。
収められた本のタイトルを確認するにもすぐ傍まで歩み寄ってやる必要があった。
「こんな暗いなら暗視スコープ持ってくるべきだった。っていうか案内板はどこだよ、普通入ってすぐのとこにあるもんだろ」
ぶつくさと文句を言いながらも、とりあえず自分が何のコーナーにいるのを確認しようと凪原が手近な本棚に向き直ったところで、彼の肩に背後から手が載せられた。
「やぁ、何してるの?」
「ッ!?」
全く気配がなかったことに驚愕しながらも凪原の動きは迅速だった。
まず右肩に置かれた手から離れるように、ほとんど飛び込むようにして逆側へ倒れ込む。
持っていたランタンを放棄して空になった左手と上腕を支えにして体を回転させ、半回転して体が
仮に相手が敵対存在であった場合、背後(それも超至近距離)を取られた状態というのはあまりにも分が悪い。不格好だろうと何だろうと、とにかく距離を取ることが重要なのだ。
ただしこれは逃走という事ではない。この距離まで近づかれている時点で戦闘は不可避、下手に逃げれば致命の一撃をもらうことになる。
あくまで自身が応戦可能な距離を取り、場を仕切り直すための動きだった。
そうであるがゆえに、着地し動きを止めた凪原の右手には腰の後ろから引き抜かれたナイフが順手で握られていた。
そして、先ほど体を後方へと押し出した左腕はそのまま前に出されている。肘をわずかに曲げた状態で力を抜き、相手の動きに柔軟に対応できるよう備えていた。
これは状況によっては左腕を犠牲にし得る構えである。
ゆえにあまり推奨されるものではないのだが、この距離まで自分に悟らせずに近づいて来ている時点で相手は格上の可能性が高い。
ある程度のダメージは覚悟する必要があった。
刹那の間にそこまで考え(というよりは脊髄反射で判断して)、臨戦態勢に入った凪原の視線の先では―――
「あーっと…、驚かせちゃったかな?」
―――長身の女性が少し困ったような笑みを浮かべて立っていた。
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「そうか、君が前に来た由紀君と美紀君が言っていた頼れる先輩なんだね」
「それであなたが桐子が言ってた図書館のヌシってわけですね」
数分後、凪原は名乗った女性に連れられて2階のとある場所へとやって来ていた。
テーブルとそれを囲うようにソファーがあるこの区画は、元は学生達の休憩用スペースだったのだろう。今は保存食のケースやペットボトル、毛布などが置かれ生活感が漂っている。
「久しぶりのお客さんなんだ、少し付き合ってくれないかい?」
そう言った彼女は凪原に席を勧めると自分はお茶の準備を始めた。
新しくペットボトルを開け、中身を電気ケトルに注いでスイッチを入れればすぐに加熱中のランプが灯り小さく音がし始める。
電気が通っている証だ。
「電気が来てるなら明かりもつければいいのに」
「ここの照明はフロア単位だからね。前ならそれでもいいけど今はもったいなくて使えないよ」
凪原の独り言に女性が返事をしたところでケトルのランプが消えて湯が沸いたことを知らせる。スイッチを押してからの時間は1分程度、どうやらかなり最新の機種だったらしい。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ紅茶で」
「おっ気が合うね、わたしもこっちがいいと思っていたんだ」
言いながらコップにお湯を注ぎ、そこにティーパックを入れソーサーで蓋をする。もう一つのコップも同じように準備したところで女性は凪原の方へと向き直った。
「ティーパックのもので申し訳ないけど、これはこれでなかなか気に入っていてね」
一方のカップを凪原に手渡してもう一方を両手で持ちながら、女性は凪原の正面のソファーに座った。
ソーサーを真ん中のテーブルに戻し、ティーパックを軽く泳がせてからその上に置く。
凪原もそれに倣い、2人はそろって紅茶を口に含んだ。
「おいしい」
「でしょ?ほんとは数分蒸らした方がいいらしいんだけど、このくらいでも結構いい味が出るんだ」
凪原の感想に笑って返事をする女性。
そのままコップの半分ほどを空にしたところで「さて、」と切り出してきた。
「そろそろ自己紹介をしておこうか。私は
「凪原 勇人、学園生活部のコーチをやってます。この大学じゃないですけど理工学部の2年生でした」
理瀬に対し、敬語とまではいかずとも自然と丁寧な言葉遣いになる凪原。
彼女の大人びた雰囲気がそうさせるのだろう。
大学4年ということは慈はもちろん葵よりも年下ということになるのだが、とてもそうは思えなかった。
黒いパンツルックという真面目な下半身と比較し、肩が一部分だけ見えるシャツに左目を隠した髪型というやや色気のある上半身。そしてなにより落ち着いた余裕ある話し方が彼女を実年齢より上に見せていた。
(サイズ、は関係ないよな。めぐねえもデカいし)
などと不埒なことを考える凪原だったが、そんな思考は次の理瀬の言葉で粉々になった。
「そういえば今日は愛しの彼女さんは一緒じゃないのかい?」
「ッ!!?」
辛うじて吹きだすことは回避したが、そのせいで紅茶が変なところに入り思い切りむせてしまう。
1分ほどかけて息を整えたところで、誰に聞いたのかを問いただす。とはいえ、凪原は誰が言ったのか予想できていた。
「ああ、由紀君が教えてくれたよ。『ナギさんと胡桃ちゃんはラブラブだからいっつも一緒にいるんだよ』だったかな?他にもいろいろ言っていたけど、聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいだったよ」
「やっぱ由紀か、これは般若心経の写経5周の刑だな」
「なかなか個性的な罰則だね」
「
「…………個性的だね」
若干引いている様子の理瀬に首をかしげる凪原。
実際、般若心経の写経は31期生の愉悦派に対する罰としては一般的なものだった。
彼等は叱られ慣れているため、普通にお説教するだけではあまり効果がない、というか懲りない。
唯一慈によるガチ説教だけは十分な効果があったが、問題を起こすたびにそれをしていると冗談抜きで彼女が仕事をする時間が無くなってしまうのだ。
さらに言えば、どう叱ればよいかが難しいという理由もあった。
確かに愉悦派は数々のトラブルを起こしたが、その中に倫理的な問題が合ったものはほとんどない。ただ単に常識を投げ捨てて行動したことによる結果だった。
以上の理由から、とりあえず皆が嫌がり、一定時間
もっとも、大方の予想通り効果はほぼ出なかった。
せいぜい、学年全体のうち3割が般若心経を諳んじ、1割が何も見ずに書くことができるようになった程度である。
「…………冷静に考えると結構変わってる?」
「うーん、私はそう思うかな。―――でもさ、」
ふと冷静になった凪原に頷いた後、理瀬は次のように言葉を続けて見せた。
「さっきの話だけど、由紀君、それに美紀君もか、2人とも君たちが付き合っていることを心から喜んでいるようだったよ。こんな状況でそこまで祝福してもらえる、それはとても素晴らしいことなんじゃないかな?」
揶揄うでも茶化すでもなくただ穏やかな笑みを浮かべてそう言われてしまうと、凪原としても誤魔化すこともてきとうに流すこともできず真面目に答えるしかない。
「いや、まぁそれは確かに…………嬉しいですけど」
この場に照山や早川などの同期がいなくて良かった、今の自分を見られたら何を言われるか分かったもんじゃない。
そう考える凪原の顔は自分でも分かるほどに熱を帯びていた。
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「―――そこで美紀君が言ったんだ、『そのための本ですよね』ってさ」
2杯目の紅茶を手に楽しそうに笑う理瀬。
「いやはやホントにその通りだよね。本好きを自負してたけど、まさか本の本質について諭されるとは思わなかった。だから驚いたと同時に反省したよ、私もまだまだだって」
彼女が話しているのは凪原達が前回大学に来た時のことだ。
由紀と美紀の2人が図書館に行き、図書館のヌシこと理世に会ったということは凪原も知っていた。
しかし、美紀はその後にも1人で理世のもとを訪れていたらしい。
そしてその時の会話で、理瀬は美紀の言葉に感銘を受けたようだった。
「美紀は賢いからなぁ、俺も時々ハッとさせられます。………でも、スタンスを変える気はないんでしょう?」
そのことには納得しつつも、理瀬を見る凪原の視線はやや冷たい。
しばらく会話をしてみて分かったことだが、理知的で穏やかに見える彼女はその実中身はかなりブッとんでいるようだった。
要するに
凪原の経験と自己分析上、この手の人間が高々感銘を受けた程度で自身の本質を改めるとは思えない。
そしてその予想通り、理瀬は満面の笑みを浮かべて頷いてみせた。
「当然っ。私はこの世にある全ての素晴らしい本を読みたい、その気持ちは全く変わらないよ」
その顔は、自分が間違っているという気はこれっぽちも持ち合わせておらず、ただ自分の信じた道を突き進もうとする人のものだ。
「確かに前はいくら読んでもすぐに新しい本が出ちゃってたから、この状況になったのが嬉しかった。でも美紀君に言われて気付いたよ、やっぱり新しい本はどんどん出た方がいい」
熱弁する理瀬。心なしか頬も上気しているように見える。
「だって新しい本が出てくれないと、いつか私が読む本が無くなっちゃうからね。前の私は本を読む覚悟とスピードが足りなかったんだよ、その2つさえあればどれだけ新しい本が出たとしても追いついていけるんだからね」
ついには両の拳を握りながら、彼女はそう締めくくった。
本を読む覚悟とはいったい何なのかとか、そもそも現存する本は読み切ってしまえるという確信はどこから来るのかなど、ツッコミどころは多々ある。
しかしそれを言ったところで彼女が考え直すとは到底思えないし、人というものが時として凄まじい力を発揮することを凪原は知っていた。
ゆえに、彼の言葉は次のようになった。
「それなら、頑張らないとですね」
案外この人ならあっさり達成するかもしれない、まだ会って1日も経っていないにもかかわらず凪原の頭にはそんな予感が芽生えていた。
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「―――それで紙は年を経るごとに劣化していくんだけど、手触りと同時に匂いも変化していってさ、新品もいいんだけど私はやっぱり―――」
「あの、そろそろ」
上機嫌で話し続ける理瀬に凪原は待ったをかける。
彼女の話はこれまで読んだ本の内容にとどまらず、本そのものの歴史や雑学など多岐にわたり聞いていて非常に楽しめた。
しかしさすがに時計の長針が2回転したとなれば話は変わってくる。
現に凪原は少し前から急激な眠気を感じ始め、先ほどは瞬きしたはずが5分経っていたという状態だった。
そしてそれにも気付かずに話し続ける理世に、堪らずストップをかけたというわけである。
このままでは今日図書館に来た意味が無くなってしまう。
「ん?ああ失敬失敬、つい話しすぎてしまったね。普段読書ばかりだから、偶に人と話すとこうなってしまうんだ。それじゃあちょっと待っていてくれるかい?」
ようやく凪原の様子に気付いた理瀬。
彼女は申し訳なさそうに謝ると席を立ち、やがて何冊かのノートを手に戻ってきた。
「お待たせ。これを見れば君の用事も早く済むと思うよ」
「それは?」
「ここにある図書の分類と書架の一覧表だよ。もともとはパソコン上で一括管理していたらしいんだけど私はパスワードが分からなくてね、しかたないから自分で作ったんだ」
「は!?」
「もちろん全ての本のタイトルとかが載っているわけではないよ?どのジャンルのものがどの書架にあるかってだけ程度」
言われてパラパラとページをめくってみれば、見やすく丁寧な文字が並んでいる。書架番号とそこに収められている本のジャンルが書かれているが、逆にジャンルから書架番号を調べることもできるようになっている。
分類自体もかなり緻密だ。例えば工学の分野なら4力1制御というだけでなくさらに細かく、それこそテーマとしている公式レベルでの分類となっていた。
「これはすごいな……、これならすぐに目当ての本が見つかりそうだ」
「暇に任せてかなりしっかり作り込んだからね。ちなみに、どんな本を探しているんだい?」
感嘆の声を漏らす凪原に、理瀬は自慢げに頷いた後首を傾げる。
「まずは東西問わず中世から近代の戦争形態と築城技術、それに絶対王政末期の市民革命の様子、心情ではなく物理的な情勢が分かるもの。後は野戦築城に関する資料と、重機なしでの土木作業の技術書。それともしベトコンとか民兵・ゲリラの武装や戦術に関する書籍があれば是非」
「えーーーっと?……ずいぶんユニークなチョイスだね、理由を聞いても?」
凪原の返事に一瞬固まる理瀬。
少し間を開けてからその真意について質問してきた。
「基本的には拠点の強化のためですね。奴等は飛び道具というかそもそも武器を使わないし、昔の城塞の防御設備は十分に役立つと思うので手本にするつもりです。あとはまぁ、手持ちにある装備の活かしの参考になればと」
「なるほど、確かに今の要塞とかより昔のお城の方が彼等相手にはいいのかもね。それなら確かこっちに良さそうな本があったかな―――」
凪原の説明に納得した理瀬も手伝ったことで、30分足らずでめぼしい資料を見繕うことができた。もし彼女の助けがなくただ闇雲に探していたとしたら、数倍の時間をかけても今選んだ本の半分を見つけられればいい方だっただろう。
しかし、それぞれの書架の位置をメモしていざ回収に行こうと立ち上がった凪原を、唐突な眩暈が襲った。
「おっ、と?」
「ちょっ、大丈夫かい!?」
「は、はい。………平気、です」
思わず座り込んだ凪原に理瀬が慌てて声を掛けてくる。
それに手を挙げて答えつつ、凪原は自身の状態について確認していく。
数十秒ほどかけ、全身のチェックを終えたところで呟くように口を開く。
「急な眠気でふらついただけです」
「本当かい?疲れてるにしても普通はない感じのふらつき方だったけど…」
「ええ多分、今も眠気以外は不調がないですし…」
心配する理瀬に凪原自身も釈然としないながらもそう答えるしかなかった。
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「結局何だったんださっきの」
図書館からの帰り道、凪原は見繕った本を詰めたバックを肩に掛けながら先ほどの現象について考えていた。
暴力的で引きずり込まれるような眠気、
そう表現すべき眠気は、強いて言うなら極度に体を酷使した日の夜ベットに倒れ込んだ時に感じるそれに近かった。
意識は起きているのに急速に体が動かなくなっていく感覚。恐らく、あの時傍に理世がおらず1人だったらそのまま眠り込んでいただろう。
「でも睡眠時間は最低限確保してると思うんだけどなぁ」
理瀬からは疲れが溜まってるのだと言われ、睡眠理論と効果的な休息の取り方に関する本をいくつか押し付けられた。
とはいえ今の独り言の通り、凪原としては体調には気を使っているつもりだった。
確かに最近は武闘派への対応のために不規則な生活になっている。凪原と胡桃、そして照山の3人でシフトを組み、常に2人以上が起きて違う場所をそれぞれ警戒するのだ。
少々無理をすることになるが、それでも1日あたり6時間の睡眠は確保している。以前の凪原であれば何の問題もないレベルだ。
しかし、先ほど感じた眠気が尋常なものでなかったのも事実である。
今も、頭に靄が掛かったかのように思考力が落ちているのを凪原は自覚していた。
とにかく一度仮眠を取らせてもらおう、そう考えながら穏健派のテリトリーに戻ってきた彼を待ち受けていたのは予想外の人物だった。
「うちが来たわ!!」
放送局で留守番をしているはずの早川が不敵な笑みを浮かべながら仁王立ちをしていた。
というわけで、冒頭で言ったように新(原作)キャラの図書館のヌシこと理瀬さん登場回です。
存在については6章の段階で出てきていましたが、今回初めてきちんと登場しました。
原作でそこそこ出番がある方なので話し方や性格はそれを参考にしています。とはいえ、微妙に(変人方向へ)人柄が変わっているので『なんか違う…』と感じた人がいたらごめんなさい。
それじゃあ補習コーナー、行ってみよー
・理瀬の生活スタイル
原作7巻では食事の時は校舎に戻っているとのことでしたが、本作では全て図書館の中で完結しています。本狂いのレベルが上がっているので、仮に凪原の同期達の中に放り込んでもマイペースを貫くでしょう。
・般若心境
ひたすら無心になって書き写しているといつしか悟りを開けたりする、らしい。260文字ほどの中に仏教の神髄が詰まっているのだからそういうこともあるのかもしれない。ただし、
・図書館の本の整理と記録
冷静に考えると膨大な手間がかかる作業だと思う。現実で図書館の運営をしている司書さん達にあらためて感謝。パソコンなしの手作業で0から蔵書の早見表を作るとか理瀬さんバケモンかよ、って自分で書いてて思った。
・暴力的で引きずり込まれるような眠気
疲れてる時って偶にこういうことない?有るよね?…え?無い?……………有れ
という感じで補習は終わりなんですが、
何が恐ろしいってプロット上では今回の話全部で1500文字くらいの予定だったんですよね。筆が進む時ってほんと訳分からん位進みます。ただその分進まないときはガチで進まない…………。
まあそんな筆者の愚痴は置いといて、次は考察回というか会議回になるんじゃないかと考えてます。
それではまた次回!