視点、西住まほ
1.
私には、血を分けた姉がいる。
彼女は、いわゆる天才だった。
それも、常人の理解が及ばない種類の異才だった。
結果。彼女にとっての
それからの彼女は、人々に分かる程度の秀才だった。
母も、ほかの大人も、みんなが彼女の変化を喜んだ。
だけど、わたしには、彼女がとても生きづらいように見えた。
まるで、狼が羊のフリを強いられているようで、息苦しいように見えた。
2.
穏やかな昼下がり。
チャイムが鳴って、クラスメイトたちは仲のいい友達同士で雑談をしながらお弁当を食べたり、学食に足を運んだりしていた。
さて、わたしはと言うと、自分の机で一人ぽつねんと、菊代さんの作ってくれたお弁当を広げて食べていた。菊代さんとは、わたしの家の家政婦さんである。休日になると、彼女は心配だからと学園艦に遊びに来て、たくさんの料理を作りおいてくれた。
運動をして、カロリーをたくさん消費するからと、同年代の女子に比べると、随分と大きめのお弁当箱だ。これを同級生にからかわれたのは、一度や二度ではないが、菊代さんがわざわざ学園艦まで足を運んでくれて、わたしのために(勿論、姉の分も一緒にだが)作ってくれたお弁当である。だから、恥ずかしいと思ったことはなかった。
もぐもぐと、わたしは静かに箸を進める。うん、美味しい。
やがて、どたどたとやかましい音が近づいてきた。まるで、崖を転がり落ちてくる岩のような轟音だ。
風紀委員はどこに行ったのか。廊下を走ってはいけないと、今こそ注意をするべき絶好の機会だろうに。彼女らは、居て欲しい時に居てくれない。逆に、居て欲しくないときには、どこにでも居るのだが。
がらがら。否、ばぁん!とでも表現するべき大きな音で、教室の扉が勢いよく開けられる。誰か先生が見ていれば、きっと雷が落ちただろう。扉の近くにいたクラスメイトは、びくっと驚いた様子だった。
日本人離れした端正な顔立ちの銀髪少女が、ただでさえつり目がちな目元をさらにつり上がらせて、鼻息荒く、ずかずかずかとわたしのいる方に近づいてくる。
だぁん!と、わたしの机に彼女の両手が振り下ろされた。
「
「エリカ、今は食事中だ。もう少し静かにしてくれないか?」
「食事なんて、そんなのは後よ!箸を置いて、今すぐわたしの質問に答えなさい!」
興奮した様子で、声を荒らげる銀髪少女。
彼女の名前は、逸見エリカ。わたしの
尤も、わたしは人付き合いの上手いほうではないので、今日のように怒らせてしまうことも多く、大手を振って友人と呼ぶのは憚られるところだった。わたしとしては、仲良くしたいと思っているのだが、向こうはどう思っているのだろうか。儘ならないものである。
わたしは、彼女の剣幕に押されながらも、努めて心を落ち着けて、宥めるような口調で言葉を返した。しかし、それがいけなかったらしい。
「エリカ。質問と言われても、わたしには何のことか分からない。…少し落ち着け」
「落ち着け?落ち着けですって?これが落ち着いていられるわけないでしょ!西住、あんた、国際強化選手の話を断ったなんて、聞いてないわよっ!!」
「言ってないからな。もぐもぐ」
わたしは、エリカの怒声を聞き流すようにして、箸を止めないでおかずをつついた。流石は、菊代さんだ。菊代さんの作る「冷めても美味しい唐揚げ」は、本当の本当に絶品である。いつかは私も家を出るだろうし(既に寮生活ではあるが)、今のうちに菊代さんに料理を教わるのもいいかもしれない。
そんな、なかば現実逃避をしていると、眼前の少女はますます一人でヒートアップしてしまったようだった。噴火寸前。いや、一部では溶岩が吹き出している。
「だからっ、食べるのを止めなさいっ!!」
当然のことだが、彼女の叫ぶような大声は、教室中に響き渡った。周囲のクラスメイトが、心配そうな目でこちらを見る。なかには、無遠慮に好奇心を隠さないで聞き耳を立てようとする姿も見つかるが、それを責めることはできないだろう。
わたしは、そのクラスメイトの名前を知らないが、向こうはわたしのことを知っている。自分で言うのもなんだが、この学校では、わたしの名前は有名に過ぎる(正しくは、わたしの家の名前は、だが)。有名人のスキャンダルなど、娯楽扱いされても仕方のないことだ。
「むぐむぐ、…ごくん」
まさか、口に物を入れたまま喋るわけにもいかず、(端から見ればマイペースに映るかもしれないが)何度か噛んで飲み込んでから、気になったことを気になったままに話した。
「…なぁ、エリカ。それは、そんなにお前が怒るようなことか?こう言っては悪いが、お前には、まったく関係のないことだろう」
「それはっ、…ない、けど…」
「そうだろうとも」
尻すぼみに小さくなっていくエリカの口調に、内心してやったりと思うが、努めて顔には出さない。そんなことをすれば、彼女の機嫌を損ねることは分かりきっているからだ。貴重な貴重な休み時間が、すべて彼女の説教
友人と呼べるかも微妙な関係ではあるが、曲がりなりにも中学からの付き合いである。いくら人付き合いが苦手なわたしでも、いい加減に学ぶのだ。
それに、瞬間湯沸し器のようなエリカのことだ。どこかで聞き付けてから、午前の授業の間中、ずっと平静でいられなかったに違いない。授業中に突撃してこなかっただけ、随分と我慢をした方だろう。敢えて煽り立てるような真似は必要ない。
すると、エリカは徐にわたしの前の席の椅子を、ギギギ、と引っ張り出すと、勢いよく(あるいは乱暴に)、どかっとその椅子に座った。なお、本来、その席に座っている生徒は友達と一緒に食堂に行っているらしいので、幸いにして今は使われていなかった。
エリカは、わたしの机の空いているところで頬杖をついた。
「…それでも気になったのよ」
それは、やや拗ねたような口調であったが、幾分冷静さは取り戻したらしい。わたしが言葉を間違えなければ、この昼休みは穏やかに過ぎてくれるだろう。
ここで、わたしが意地になって、絶対に話したくない、なんて突っ返せば、落ち着きかけたエリカの感情が再燃することも想像に難くない。が、別に隠すほどのことではなかった。
「…大した理由じゃない。ただ、何もしないうちに声をかけられても、気分が良くないと思っただけだ」
「どういうことよ」
「つまるところ、わたしは一年生ということだ。練習試合ならまだしも、高校の正式な試合には一度だって出ていない。それなのに、国際強化選手だなんて、嘘だろう。それで、誰が納得するというんだ」
「そんなの、あなたの実力で黙らせればいいじゃない。自信ないの?」
エリカは、挑むような、挑発をするような口調で尋ねる。
わたしは、肯定も否定もしなかった。
徐に、弁当箱の中身に箸を伸ばし、残っていた唐揚げを掴んで、自分の口の中へ放り込んだ。
もむもむ、と唐揚げを味わう。その間、エリカはじとーっとした視線をわたしに向け続けた。
わたしは、わざとらしくため息をひとつ吐いて、唐揚げを箸で掴んで、エリカの方へ近づける。
「食べるか?」
「食べるかっ!」
頬杖をはずし、そのまま手のひらを机に叩きつける。ばん、と音が鳴ったので、危うく唐揚げを落としてしまうところだった。
「美味しいのに…」
弁当の中に戻すのも憚られて、そのままわたしの口の中へ運んだ。もむもむ、と
「…それで誤魔化せるとか思ったら、大間違いよ」
「流石に唐突すぎたか」
苦笑する。わたしだって、こんなことで誤魔化せるとは最初から思っていなかった。
そもそも、口下手なわたしでは、執拗なエリカの追求をかわせるはずもないのだ。これ以上はぐらかすのは、無意味というものだろう。場を和ますジョークというのは、まったく難しい。
わたしは、肩を竦める仕草をして、それからゆっくり話しはじめた。
「最初のうちは、家柄だけで選ばれたとか、そんな風に批判されるのは、目に見えている。ただ、中学の実績だけを考えれば、そんな声もそのうち聞こえなくなるだろうし、今年はどうか分からないが、来年にはそれなりに実績も残せるだろう」
わたしだって、西住の女だ。自信がないと言えば嘘になる。こと戦車に関して言えば、それこそ同年代とは年季が違うのである。ただ、そんな傲慢な考え方をする自分が嫌いで、あまり吹聴する気にならないというだけだった。観念した、というポーズが必要なのである。
実際、中学の大会ではMVPにも選ばれた。もっとも、高校の試合は体験していないので、絶対に活躍ができるかと言われれば、それは約束できないが。しかし、西住の門下生(中にはプロも混ざっている)とも、訓練とはいえ試合をしたこともある。それなり以上の手応えはあった。
そんなわたしの答えに、エリカは満足したようだった。
難しそうな顔は崩れ、笑みすら浮かべている。何故か得意気な様子に見えた。
「この私に勝っておきながら、それでも自信がないなんて言ったら、そのふざけた口を縫い合わせるところだったわ」
「恐ろしいことを平気で言う女だ、お前は」
想像するだけで、背筋がぶるりと震えた。
きっとこの女は、本当に言ったことを、本当に言ったままに実行するだろう。
虚言とか、謀とか、そういう裏のあることとは、まったく無縁の女である。
そういうところも、まったく黒森峰の生徒らしい。実直というか、潔癖というか。ただしそれも、もう少し冷静さが備われば、であるが。逸見エリカという女は、少々周りから浮く程度には、熱くなりやすい性格だった。
「でも、それだったら、断る理由もないんじゃないの?」
「ああ、そうだな」
「そうだな、って…」
エリカが、呆れたという表情を浮かべる。その顔にはありありと、「こいつは何を言ってるんだ?」と書いてあった。
相も変わらず、クールそうな外見の割に、表情の豊かな奴である。それを羨ましいと思うくらいには、わたしも自分が無愛想であるという自覚はあった。
「あのね。称賛されるのが当たり前のあなたには分からないのかもしれないけれど。国際強化選手に選ばれるなんて、信じられないくらいに名誉なことなのよ?」
「知っているさ、それくらい」
それに、称賛されるのが当たり前、というわけでもない。端からは、そう見えているのかもしれないけれど。
意外に思われるかもしれないが、少なくとも自分では、わたしは劣等感の塊であるとすら感じている。
「…わたしはオマケだからな」
「オマケ…?」
意味が分からない、という様子でエリカが尋ねた。
わたしは努めて笑おうとしたが、きっと、それは自嘲するような薄笑いにしかならなかったのだと思う。鏡を見たいとは思わない。
「彼らの見ているものが、『西住まほ』なのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。とてもとても、嬉しいことだ。喜ばしいことだ。…けれど、連盟が本当に欲しいのは、わたしじゃない。彼らが見ているのは、わたしじゃない」
西住の娘。西住流を体現していると、西住流の後継者であると、そんな風に、世間はわたしを囃し立てる。
撃てば必中、守りは固く、進む姿は乱れ無し。なんと分かりやすく、そして、単純であることだろう。それはまったくわたしの性に合っていたし、その通りにするのも難しくなかった。
反対に、わたしは、その通りにすることしかできなかった。
見るものが見れば、わたしなど、先人の作ってきた道をなぞっているだけと分かるのだ。発展がない。進化がない。わたしの試合には、目新しいものが何もない。勝つべきものが勝って、負けるべきものが負けている。すべては、予定調和だった。
つまるところ、わたしが凄いのではない。西住流が凄いのだ。それはそれで、きっと価値のあることだとは思うのだけれど。
だけど、彼女は違った。
あの母が、教導でなく、矯正するしかできなかったほどの異才。西住という檻に縛りつけるしかできなかった異端。然して、縛りつけて尚、見え隠れするほどの異常。
本物の天才が、
「わたしじゃなくて、わたしなんかじゃなくて。彼らは、本物の天才が欲しいんだ。わたしの姉のような。西住みほのような。彼らが欲しいのはな、エリカ。『
西住みほもまた、連盟からの国際強化選手の打診を断っていた。
3.
わたしの姉の話をしよう。
彼女の名前は、西住みほと言った。
戦車道の大家(戦車道とは、戦車を使って模擬戦を行う女性向け武芸である)、西住の家の長女であり、わたしよりもひとつ年上のため、今年で17歳である。
彼女とわたしは、姉妹というだけあって、それなりに似た容姿をしている
らしいというのは、周りがそう言うだけであって、わたし自身はそんなことを思ったことが一度もないためである。髪の色も姉の方が少し明るいし、目の形も、姉がたれ目がちで、わたしはつり目がちである。何より、わたしよりも姉の方がずっと可愛らしい人だった。
わたしはよく、母に似ていると言われることがあるが、姉がそう言われているのは、一度も耳にしたことがない。だから、きっと似ているというのは、周囲のおためごかしなのだろうと思っている。
さて、そんな愛らしい容姿の姉であるが、一度戦車に乗れば、たちまちのうちに凛々しく、頼もしい指揮官の姿に変わった。この時ばかりは、西住の血を感じずにはいられない。キューポラ(戦車の上部にとりつけられた搭状のパーツ。ハッチがついていて、出入りに使われることもある)から、上半身を乗りだし、堂々とした振舞いで部隊を指揮する姿は、格好いいという言葉では足りないほどである。
そのためか、男性だけでなく、女性のファンというのも、姉には頗る多かった(現に、エリカなどは彼女の熱心的なファンである)。
戦車道には、いくつかの
ただし、それで彼女に他の役割ができないかと言うと、そんなことはなく。砲手も操縦手も、装填手も通信手も、どれも人並みにはこなせるのだが、どれが得意かと言えば、やはり車長になるということだった。これは、わたしも同じである。
そもそも、西住流の門下生は、必ずどの役割もこなせるよう修練を積むので、他の役割もできるということは、なにも特別なことではない。ただ、車長以外の役割を教導させれば、必ずと言っていいほど一流を育てるので、やはり特異な才覚があるのは間違いない。決して彼女自身は、操縦などは得意としていないのだが、名伯楽は名選手がなるものとは限らないということなのだろうか。
一方で、一番得意としているはずの車長については、人に教導することを苦手としている節があった。
さて、姉に戦車道の才能があるということは、まったく疑いようがない。
敢えて西住流の教えを守っても、わたしを含めた西住流の門下生の誰より、うまく部隊を動かしてみせた(事実、師範に匹敵するという声が相対した門下生からあがるほどである)。
何より、昨年は一年生ながら、黒森峰女学園の副隊長を拝命し、同校を全国大会の優勝に導いている(史上初の9連覇だそうだ)。そして、今年は、二年生にして隊長だ。
この結果には、普段は鉄面皮とも称される母であるが、流石に満足げな笑みを浮かべていたことが印象深い。
しかし、問題は、全国大会の後に起こった。
海外の強豪選手らと親善試合があったのだ。
それは、非公式戦ということで然程注目を集めてはいなかったのだが、それがいけなかった。
日本は、戦車道において、けして先進国ではない。それは、高校戦車道において、圧倒的な戦績を誇る黒森峰女学園であっても覆すことは難しかった。実際に前評判でも、黒森峰の勝利は全くと言っていいほど期待されていなかったし、強いて見所があるとすれば、西住家の長女が、どの程度善戦するか、といった具合だった。取材の数は、それほど多くはなかった。
ルールは、地力の差があるからと、逆転の目があるフラッグ戦が選択された(戦車道には、フラッグ戦のほか、殲滅戦と陣取り戦という対戦ルールが存在する)。
それもいけなかった。
然しもの姉も、殲滅戦となれば、頭を抱えたに違いない(殲滅戦は、相手の戦車を全て撃破しなくてはいけないため、運の要素が低減してしまい、部隊の練度の差がそのまま勝敗に結びつきやすい)。…そう思いたい。
果たしてあれは、西住流であったのだろうか。
少なくとも、同じことをやれと言われて、わたしにはできない。他の西住流の門下生にも無理だろう。
結論だけを述べれば、姉は前評判を覆して、見事勝利してみせた。
しかし、わたしの隣で試合を観戦していた(娘のことを応援していたはずの)母の顔には、穏やかな笑みは少しも浮かんでいなかった。むしろ、試合が進めば進むほど。戦車が展開されればされるほど、険しい顔に歪んでいった。
世間的に戦車道がマイナーということもあったし、非公式の、それも高校生同士の親善試合のことである。それは、大勢にとっては、小さなネットニュースのひとつでしかなかった。
ただ、戦車道の世界には、激震が走ったと表現してよいことだった。
4.
「本日の練習を終わります。お疲れ様でした」
『ありがとうございました!』
空は茜色を越えて、暗くなり始めていた。
わたしたちは、いつものように練習を終えて、終礼をする。
「あー、まほちゃんとエリカちゃん。ちょっと」
道具類を片付けようとしたときのことだった。
姉が、わたしとエリカに話しかける。ちょいちょいと手招きをしている。隣でエリカが、ぴんと背筋を伸ばしたのがわかった。
「はい。なんでしょうか、隊長」
「もう。姉妹なんだから、隊長は止めてっていつも言ってるじゃない…」
「いえ、姉妹だからこそ、チームでの上下関係はきっちりするべきです。そうでなければ、他の者たちに示しがつきません」
「むぅ、まほちゃんは真面目さんだね」
すると、姉は困ったような顔になった。心の奥底では、ぎちぎちと岩石でも押し付けられているような重い痛みを感じるが、理屈では間違っていないはずであると、譲るわけにはいかない。部隊の規律を守る責任は、副隊長であるわたしにも課されているのだ。
あと、エリカはわたしに噛みつくような視線を向けるのは止めてほしかった。
ともすれば、がるるる、とでも唸っていそうな表情であった。きっと、尊敬する隊長に何逆らってるのよ、とでも考えているのだろう。
しかし、戦車道の場で、姉さんとでも呼んでしまえば、それはそれで、けじめがなってないだとか、そんな風に噛みつかれることは目に見えている。どうすればいいんだ。というか、お前はどうしてほしいんだ。理不尽にも程がある。
ちなみにこのやりとりは、今日がはじめてということはなく、これまでも何度となく、それこそ毎日のように繰り返されてきたやり取りである。いい加減、姉にも諦めてほしかった。
「それで、隊長。我々に、どのようなご用向きでしょうか」
「ああ、うん。少し、教えてほしいことがあって」
「教えてほしいこと?隊長が、西住に?」
そんなことがあるのか、と言外に述べたエリカであるが、その顔は言葉よりもずっと雄弁だ。信じられないことを聞いた、なんて顔で、わたしの方を向かないでほしい。
姉は、そんなエリカの様子を見て、小さく笑い声を漏らした。
「ふふ。エリカちゃん、西住だと私もだよ?」
「え、あ、…す、すみません!西住隊長!」
「それに、隊長が教えてほしいというのは、わたしだけじゃなくて、エリカも含まれている。お前も呼ばれているんだからな」
「そんなのっ、あなたに言われなくても分かってるわよっ!っていうかっ!お前って言うなっ!」
エリカのテンションのアップダウンがあまりに激しい。というか、いつものことではあるのだが、お前、わたしと姉に対しての態度が違いすぎないか。わたしと姉はひとつしか歳も違わないし、同じ西住の娘なのだが。さらに言えば、姉は隊長かもしれないが、わたしだって副隊長だぞ。けじめはどうした。けじめは。
尤も、エリカから急に、今さら畏まったような態度で話しかけられても、わたしは困惑するだけなのだが。
そんな様子を微笑ましそうに眺めていた姉は、そろそろいいかな、と前置きして本題に入ろうとする。
エリカが、慌てた様子で、どうぞと促した。
「今日の練習で、6号車の動き、変じゃなかった?」
「…6号車ですか?」
6号車というと、確か一年生の赤星さんが車長を務めたⅢ号戦車だったか。変と言われても、そもそもいつの動きのことを言っているのか分からない。練習の間ずっと、という意味だろうか。だとすれば、そこまで印象に残るほど変だったとは思えないのだが。
しかし、姉の感覚は無視できるものではない。姉が変だったと感じたのであれば、そこには、やはり異常があったのだ。…こんなことを言うと、妄信的に聞こえるかもしれないが、それはわたしとエリカで衆目の一致するところだった。
「すみません、それは、いつのことでしょうか。練習中ずっと、ということであれば、それほどおかしい挙動には思えませんでしたが」
「ええと、3対3で模擬戦をやらせたとき。6号車が撃破される寸前の動きなんだけど」
「何かおかしいことがありましたか?」
エリカが聞いた。
あのとき、エリカは模擬戦に参加していたし、わたしと姉は、外野からその試合を見ていた側だ。
撃破された、ということであれば、まずい動きがあったのは確かだろうが。はて、姉は何が気になっているのだろうか。
「うーん。なんであのとき、6号車は敵のいる方へ進んでいったんだろうって思って。別に、それが必要な場面でもなかったよね?」
「いえ、それはそうですが。おそらく、赤星は戦車が待っているとは思わなかったのではないでしょうか。うまく隠れていましたし。それにしても、些か不用心だった、とは思いますが、…伏兵に撃たれることは、なにも珍しいことではないでしょう?」
エリカの回答を聞いても結局、姉は納得ができているという表情ではなかった。
エリカの回答は、あくまで予想だ。実際のところは、赤星さん本人に聞かないと分からずじまいだろう。ただ、そんなに外れた予想ではないように思えた。
そして、多分。ふたりのボタンの掛け違いに、わたしは気づいた。
「エリカ。そうじゃない。隊長が気にしているのは、
「へ?…だから、答えたじゃないの。敵がいると分からなかったからだ、って。そりゃあ、あなたも外から試合を見ていたなら、あそこに戦車がいたことは見えたのかも知れないけれど。でも、実際の戦場で、それも視界の悪い中であそこに戦車がいるなんて、分からなくても当然でしょう」
「隊長。
エリカが眉をひそめた。しかし、姉は漸く納得がいったという顔になったので、次にエリカの表情は、わからない、というものに変わった。
「そっかそっか。そうなんだ。そうなんだね。…そうなのかぁ」
姉は笑顔に戻って、ふたりともありがとう。すっきりした、なんて言って、三年生たちの輪に戻っていった。おそらく、先にシャワールームにでも向かうのだろう。
黒森峰は上下の意識が強く、片付けなんかは下級生の仕事だった。それに、シャワールームも戦車道チームの全員が、いっぺんに使えるほど広くはない。先に先輩方が使ってくれないことには、下級生は汗まみれの体でずっと待ってなくてはいけなかった。
「それで、隊長は納得してたみたいだけど、どういうことよ。説明しなさい」
「隊長が納得したんだから、いいだろう」
「私が納得できていないのよっ!」
然もありなん。
エリカは、地団駄でも踏むみたいに詰め寄った。
しかし、わたしとしては、あまり言葉にしたいことではないので、できれば聞いてほしくないというのが本音だった。
尤も、このエリカという女に捕まったら最後、わたしに話さないという選択肢は存在しないのであるが。抵抗は無駄である。なにせ、寮まで同室であるのだから。睡眠の時間にまで、問い詰められては堪らない。
「つまり、あの人は天才ということだ」
「そんなことは知ってるわ」
エリカは憮然とした口調で答えた。
しかし、その理解ではまだ足りないのだ。まだまだ足りないのだ。
「エリカ、お前は、あの試合を俯瞰して見ているから、どちらの戦車の動きも分かって、だからこそ、隠れている戦車も見つけられて当たり前だろうと、そう思っているな」
「そうよ。その通りでしょ?」
「そうだな。少なくとも、わたしにとってはその通りだ。だけど、エリカ。あの人にとって、それは違うんだ。あの人は、『たとえ戦場の中にいても』、同じように隠れている戦車に気づけただろうってことだ」
「はぁ?…あなたね。いくらシスコンだからって、隊長を神様かなにかと勘違いしてるんじゃないの?あの人だって、私たちと同じ人間なのよ?」
ぐっ、と我慢した。気を抜けば、お前が言うなと言ってしまいそうになる。
それに、別にわたしは、シスコンではない。姉は天使だと、常々思っているけども。
「あの人が人間だということは、よく知っている。けれど、それと同時に、同じくらいにあの人は
「…それじゃあ、なに?あの人は、私たちが、
わたしは、ただただ無言で頷いた。
わたしからすれば、こんなことは慣れっこである。あの姉が、戦車道のことでわたしを頼るのは、そんなに多いことではないが、しかし、両手で数えられるほどでもない。大抵は、自分と周囲のズレを修正したい時くらいのことだったが。
そして今のは、エリカがそのバロメーターだったということである。これまでは、その役割がわたしだった。
「それなのに、確認しただけで終わりなの?」
「まぁ、終わりだろうな」
「そんな、どうして…っ。普通は、どこが駄目だったとか、どう直せばいいとか、そういうことを教えるものでしょうっ!普段のミーティングでは、隊長もそうやって…っ。なんで、赤星にも、私にも…っ!」
エリカのそれは、悲鳴に近いものであった。
しかし、エリカだって馬鹿ではない。姉がそうしない理由を、頭では理解しているのだ。ただ、認めたくないというだけである。それを、わたしに突きつけさせようというのだ。この女は、マゾヒストかもしれない。
いや、これを指摘させることで、わたしが嫌な気持ちになることまで織り込んでいるのなら、真性のサディストだ。
「姉には、分からないんだ。エリカだってそうだろう。どうやって歩くのか、なんて。そんなこと。当たり前すぎて、他人に説明ができるものか。だから、姉は聞いたんだ。わたしたちに。わたしたちの『
例えば、最初から歩くことのできる人間に、競歩の仕方を教えることはできるだろう。ダンスのステップを踏むことだって、時間をかければ教えることができる。しかし、歩くことも知らない相手に、論理立ててそれらを教えることができるだろうか。そもそも、歩くことすら教えることはできないだろう。
もっと言えば、視力が2.0ある人間と視力が0.1しかない人間では、視界がそもそもまったく違う。どちらも、相手の視界がどうなっているのかなんて、分からないのだ。それでも、何が見えて、どこからが見えないのか。検査でもすれば、そんな風に判別をつけることはできる。いわば、姉がやっているのはそれと同じだ。
わたしたちには、どこまでが出来て、どこからが出来ないことなのか。わたしたちの
「それじゃあ、どうするのよ。どうすればいいのよ。そんなに、あの人とズレたままで。ついていくことも出来ないじゃない…」
エリカが悔しそうに呟いた。真っ白くなるくらい、両の拳は強く握られてしまっている。
「心配は要らないさ」
「何が、要らないのよっ!あの人が求めているレベルに、私たちじゃ、どうしたって追い付けないのよ!…私たちじゃ、あの人の力になれない。足を引っ張るだけなのよ」
「それこそ、心配の要らないことだ。それらも全部踏まえて、作戦を立ててしまえばいい。できないなら、できないなりに、できないことを前提にしてしまえばいい。あの人にはそれができるんだから」
わたしたちと、同じに考えるべきじゃあない。
5.
第62回、戦車道全国高校生大会。
西住みほ率いる黒森峰女学園は、前人未到の10連覇を達成した。
その決勝では、味方の車輌が増水した川に滑落して、さらには、フラッグ車の車長が救助のために体一つで川に飛び込んだ。という大きなトラブルには見舞われたものの、その程度のことは、彼女にとって想定外にもならなかったそうである。
試合のあと、西住みほは、インタビューに次のように答えている。
『優勝したことは嬉しいですけど。そんなことよりも、誰にも怪我がなくて、本当によかったです』
インタビュー記事を読んだ西住流師範は、娘を家に呼びつけたという…。