9.
それから毎日のように、私は西住に勝負を挑んだ。
西住は戦車長だったから、私も戦車長になれるよう努力した。
挑んで、挑んで、挑んで。そして、負けた。ひたすらに負け続けた。
そうして、私の連敗記録が3桁に届こうかという頃、機甲科の3年生にひとりの生徒が編入した。
それだけでもかなりの異例なことであったが、さらに異例だったのは、その生徒が西住まほの姉で、しかも、いきなり戦車道チームの隊長に就任したことだった。
当然のように不満が噴出した。
しかし、それも長くは続かなかった。
ひとつは、彼女がとても魅力的な人物で、そのうえ気安い性格だったためである。それは、お堅い気風のある黒森峰では、特に新鮮に感じられた。
彼女は、できる限り多くの隊員と会話するように努めた。それは、訓練の合間だったり、訓練が終わったあとだったり、日中の休み時間にも積極的に話しかけた。
その内容は、多岐にわたる。戦車道の話だったり、かと思えば、好きな食べ物の話、趣味の話、おしゃれの話。日常の悩みごとを聞き出したこともあった。とにかく、どんな詰まらないことでもいいからと、隊員と話をするきっかけを作っていたようだった。それも、レギュラーであるか、そうでないかを問わずに、だ。
おかげで、
そして、それは、私も例外ではなかった。
私は、はじめから彼女の戦車道の腕前を知っていたこともあって、しつこいくらいに戦車についての相談をした。どうすれば上手く戦車を動かせるようになるか。戦車長の心得とは如何なるものか。そんなことを聞きたがった。
しかし、彼女は、一度も嫌な顔をせず、懇切丁寧に教えてくれた。本当に理想的な先輩だったのである。
嫌う理由はなかった。
そして、もうひとつ。彼女の隊長就任に際して、不満がすぐに止んだ理由があった。
それは、単純に彼女が強かったからである。
西住流の娘として、西住まほが優秀な戦車乗りであることは、この頃にはすべての隊員の共通認識だった。いや、相も変わらず、本人だけはそれを否定したが。
ともかく、西住みほが、彼女の姉であると名乗ったことと、西住まほが、姉を尊敬しているという様子で接しているのを見て、誰もが内心で高い高いハードルを設定したことは想像に難くない。そんな先入観をもって、戦車道チームの隊員たちは、彼女を受け入れたのだった。
しかし、そんな理不尽な
彼女が隊長に就任しての、はじめての対外試合でのことだ。試合の形式はフラッグ戦だったが、彼女は事前のミーティングで、相手を
誰もが、本当にこの優しい隊長が言い放った言葉なのだろうかと、不思議に思って困惑した。
おずおずと、一人の隊員が手を挙げて、それは本気か、と尋ねると、彼女は黙って、にこりと笑った。それは、隊員たちの相談を聞いている時と同じ笑顔だった。
結果、相手に一度として
当然のように、中学の大会は、黒森峰が優勝した。
それから、みほさんが高等部に進学すると、西住まほが中等部の隊長に選ばれ、副隊長には私が選ばれた。
チーム内の雰囲気は、みほさんが隊長だったころに比べると随分と静かというか、元の黒森峰のものに戻った。それを後輩たちは不満に思ったらしいが、私と西住ではどうにもできなかった。それは、能力的にもそうだが、何より性格的に難しかった。ただ、赤星がそういった不満を受け止めて、対処してくれたことには、本当に助けられたと思っている。彼女には、感謝してもしきれない。功労者を一人選ぶなら、私は彼女を選ぶだろう。しかし、3人もいて、ようやくみほさん1人分かと思うと、不甲斐ないという気持ちでいっぱいになった。
中等部最後の大会も、危なげなく優勝することができた。
ただ、結局中等部の間に、私が西住に勝つということはできなかった。数えるのも億劫になるほど敗北を重ねていた。
「私が、今度の大会に?」
突然の呼び出しだった。
にこにこと
私は、高等部に進学していた。
「わたしが推薦しました。エリカちゃんは、とても優秀な戦車長だから。それは、中等部の時から思っていたことだけど、最近は特に。あれかな。まほちゃんと競ってるのがいいのかな」
どうやら、私が西住のことを強く意識していることは、彼女の目にはお見通しらしかった。
もっとも、中等部の時にも、何度か相談に乗ってもらったことがあるのだから、勘づかれていてもおかしくない。西住のことを話題に出した覚えもある。
「むしろ、気づいていない子の方が少ないと思うけどね。それで、どうかな。やってくれるかな?」
「勿論です。こんな光栄なこと、断ったりしませんよ。ところで、乗員は決まっているのでしょうか」
「ううん。エリカちゃんが決めていいよ。戦車は、3号戦車のJ型。だから、乗員はエリカちゃんを除くと4人だね。候補は、すぐに決められる?」
西住隊長が、こてん、と首を横に倒して尋ねた。
そういえば、西住もこんな仕草をするなぁ、と場違いにも姉妹らしいところを見つけて、少しだけ面白くなった。
それはともかくとして、乗員の話だ。
3号戦車は、3人砲塔の扱いやすい中戦車である。普段の訓練でもよく使っているし、乗員は、いつも組んでいる4人でいいだろう。試合に出られない先輩方には悪いが、やはり同じ戦車に乗ることを考えると、組むのは慣れた相手の方がいい。技量は上でも、先輩に指示を出すのはやりづらいだろうし。
「前期型ですか?」
「60口径だから、いわゆる後期型だね」
「そうですか」
うーん、個人的には、前期型の方が訓練で使っているから慣れているのだけど。まぁ、違うのは口径の長さだけなので、大した違いではないか。砲手の子に言っておくだけでいいだろう。
「その、ところで」
「うん?」
「西住、じゃなくて、あいつは」
「ああ、まほちゃん?今回は、まほちゃんにはフラッグ車をお願いしようかな、って」
「フラッグ車、ですか?」
意外な人選と言えば、意外な人選だった。
てっきり、フラッグ車は隊長の戦車が務めるものだとばかり思っていたのだけど。
なぜならば、高校の戦車道大会は、ほとんどの場合でフラッグ戦のルールが適用される。つまり、フラッグ車が撃破されれば、他にどれだけ車輌が残っていようと負けになるのだ。だから、フラッグ車は大抵、安全な後方(もしくは、主戦場から離れた場所)で部隊全体に指示を出す役目に徹するのがセオリーである。
勿論、セオリーというだけで、そうしなければならないという決まりはないのだが。例えば、知波単学園なんかは、フラッグ車だろうとおかまいなしに突撃してくる。
「わたしがやってもいいんだけどね。けど、個人的には前線で指示する方が性に合ってるから。だから、ね。まほちゃんのこと、お願いね」
西住隊長が、ウィンクをする。
断る理由はなかった。
1回戦、2回戦、準決勝。
いずれも特筆するようなことはなかった。
順当に勝ち上がった。それだけである。
強いて挙げるなら、やはり西住隊長の指揮は凄い、ということぐらいだ。まるで相手の心が読めているんじゃないかと思うくらい的確な指示を出す。
もっとも、私はフラッグ車の護衛が役割なので、それほど戦闘に参加したという感覚はないのだけれども。唯一フラッグ車に近づくことができたのは、聖グロリアーナだけだった。それも一輌だけである。
しかも、西住の乗るフラッグ車は、ティーガーⅠだ。車体前面装甲100mm、側面でさえ80mmの重装甲戦車である。75mm砲搭載のシャーマンでさえ、前面装甲はゼロ距離でも抜くことが出来ず、側面を抜くためにも300m以内に近づかなければいけなかったという記録が残っているほどだ。精々が6ポンド砲(57mm砲)止まりの聖グロリアーナの保有戦車では言わずもがなである。待ち伏せか、包囲でもされない限りは安全だ。
しかし、決勝。プラウダ高校が相手では、そうもいかないだろう。
プラウダは、隊員の練度が低いくせに行進間射撃(戦車を走行させながら射撃すること。FCSのない戦車では大きく命中率が下がる代わりに被弾率が下がる)にこだわる学校であるが、保有する戦車の多くは、ティーガーの装甲でも防ぎきれないほど強力な砲を搭載している。万一ということもありうるだろう。特に、今年のプラウダには腕のいい砲手がいるという噂である。射撃精度だけが難点のプラウダだったが、油断はできない。
試合当日。天気は大雨だった。
隊員たちの表情は、先輩方も含めてみな鎮痛というか、重々しい表情であった。無理もない。今日の試合に勝てば10連覇という途方もない大記録が達成されるのだ。かかるプレッシャーも一入である。
もっとも、9連覇という時点で史上初の記録に違いはないし、そんなに重く受け止める必要はないんじゃないかとも思うが、そこはやはり、10という数字はなんとなく区切りがいいし、大きなことを達成したという風にも感じる。そのため、世間の期待も大きかった。
唐突に、ぱんぱん、と西住隊長が手を叩いた。
試合直前のブリーフィングでのことである。
「どうしたんですか皆さん。顔がいつも以上に強張ってますよ」
「あ、いや。緊張してしまって」
2年生の一人が答えた。周りも同調するように頷いたり、あるいは、隊長と目を合わせないように視線を逸らしたりした。
すると、西住隊長は、首をかしげて質問した。
「緊張、ですか。それは何故?」
全く分からない。そんな口調であった。
「え、だって、10連覇ですよ。10連覇。負けたりしたら、どうなるんだろうって」
同じ2年生が答える。それは、この場にいる隊員全員の気持ちを代弁しているようだった。しかし、西住隊長の表情は晴れない。むしろ、一層厳しくなったように感じた。
「『
隊長の口調は、いつもと変わらないものだった。穏やかなものである。決して声を張り上げているわけではない。しかし、どうしてか、「怒っている」と感じられた。否、「
それは、私だけが感じたわけではないようだった。他の隊員たちも、一様に困惑の表情を浮かべている。表情が変わらないのは、隊長の隣に立っている西住まほだけだった。
「そうですか。それは、残念です。とても、残念です」
西住隊長が、はぁ、とわざとらしくため息をついた。
それは、とても珍しいことだった。
「いいですか、皆さん」
西住隊長は、右手の人指し指をぴんと立てて、まるで言い聞かせるように話し出した。それは、母親が子供に世間のマナーを説くように、あるいは、教師が生徒に生活指導をするように、である。
「あなたたちは何様のつもりですか。試合の前に、負けたりしたら、だなんて。そんなこと。まるで、
滔々と語る。何人かが、思い当たることがあったかのように、さっ、と顔を伏せた。
「『自信』を持つことはいい。けれど、『傲慢』であることはよろしくない。
私たちは9連覇をしている。それは、正しいけれど、正しくない。9連覇を達成したのは、去年までの私たちです。断じてここにいる私たちではありません。
だから、勝って当たり前などという考え方は捨ててください。試合は、やってみなければわかりません。
いいですか。私たちは常に挑戦者です。負けたりしたら。そんなことは考えなくてよろしい。考えるべきことは、『どうやって勝つか』、『どうすれば勝てるか』、です。それだけを考えてください。そのために、私はここにいます。そのための訓練を、私はあなたたちに課してきました。最後の最後に、油断なんて余計なもの、載せる余力はどこにもありません」
西住隊長が、一息に話しきる。そして、すぅ、と息を吸った。
「異論は」
『Nein(ありません)!』
隊員たちの大合唱。そこに、不安げな表情の隊員は一人もいなかった。
そして、満足げに西住隊長はうなずいた。
「よろしい。それでは各員、戦車に乗ってください。試合を、決勝戦をはじめましょう」
そうして、ぞろぞろと隊員たちは準備をして、それぞれの戦車に乗っていく。
やっぱり西住隊長は凄い。彼女の言葉には力がある。人を動かす力が。
どうしたら、この人みたいになれるだろう。
中等部で思い知った。どれだけこの人が凄いのかってことを。けれど、そんな結論で終わってしまってはいけないのだ。
この人は2年生で、私たちは1年生だ。
再来年には、この人はいなくなる。そうしたら、隊長はきっと西住で、私か赤星が副隊長になるだろう。あるいは、両方かもしれない。
西住が口下手だということを、私はよく知っている。
私は、私にできることをする。
将来的には、西住のサポートだが、とりあえず今は、フラッグ車の護衛が私の仕事だ。
ふと、フラッグ車に乗っているのは西住だな、と気づいた。そして、どっちにしても同じことじゃないかと気づいて、戦車の中で、一人で笑った。
決勝戦がはじまった。
はじまりは静かなものだ。索敵と、ちょっとした小競り合い。決勝戦のフィールドは広いのだ。本隊同士がいきなりかち合うことはない。
プラウダの得意な戦術と言えば、やはり包囲戦だろう。特に、囮を使ってキルゾーンに呼び込むのが抜群に上手い。一度包囲されてしまえば、黒森峰の重戦車と言えど無事では済まない。
しかし、かと思えば、機動力を活かした突破戦を仕掛けたり、長距離からの火力戦で押し潰してみたりと、相対するうえで、とにかく気を抜くことが許されないチームがプラウダだ。おそらく、全国大会に出場する学校の中で、最も取りうる戦術の幅が広いのがプラウダ高校だろう。それも、主力であるT-34戦車の性能のおかげであるが。
そんなプラウダが強豪校、四強と呼ばれつつも優勝に手が届かないのは、他校との隊員の練度の差が原因であった。
四強のうち、最も戦車の性能が高い高校はどこか、と言えばプラウダの名前が上がったが、隊員の練度で言えば、最も低いというのがプラウダの評判だった。
もし、プラウダの戦車をサンダースかグロリアーナが使ったなら、あるいは黒森峰にも届きうる。そんな仮定の話が、盛んに戦車道ファンの間で語られた。
雨が強さを増した。
戦車を動かすうえで、最も大事なことは視界の確保だ。晴れているときと雨が降っているときでは、操縦手に見える景色は大きく異なる。特に、狭い道幅を通らざるを得ないときには、いつも以上に慎重になる必要があった。
向こう岸。距離は遠かったはずである。
がぉん、と砲弾が地面を穿った。
履帯の僅かに外側であった。ほんの数メートルという誤差である。ともすれば、当たっていてもおかしくなかった。
狙われたのだ。私たちが通っているのは、戦車2輌分とない狭い道である。フラッグ車の壁になることもできない。この道を通るように誘導されたのだ。
「っ、急いで!」
幸い、少し進めば道は開ける。そうすれば、フラッグ車を護衛の車輌で囲み、守ることができる。
先行しているのは、私たちの車輌だ。
しかし、それにしても、それにしてもだ。
凄まじい射撃の精度である。プラウダとは思えない。
この視界の悪い中で、この距離で動く的に当てようというのか。
きっと今の砲撃を修正してくる。相手は、この相手はそれができるほどの凄腕だ。
履帯にでも当たったりしたら、後ろのフラッグ車は進めなくなってしまう。そうなれば、流石のティーガーであっても、集中砲火を浴びたりすれば落ちるだろう。
「速度をあげて!」
「急げば川に落ちるわよっ!」
「それでもよっ!」
川に落ちるなら、それでもいい。
道を塞ぐことにならなければ、それでいいのだ。
特殊カーボンがある。川に落ちたとて、きっと大丈夫だ。
それよりも、ここでフラッグ車が撃たれるわけにはいかない。
私たちの仕事は、フラッグ車を守ることだ。
時間さえ稼げれば、きっと西住隊長が先に相手のフラッグ車を撃破してくれる。
足さえ止めなければ、この離れた距離だ、西住の乗ったティーガーが易々と撃破されることはない。
遠くで砲撃の音が聞こえた。
二発目が飛んでくる。
着弾は、またも地面だった。
しかし、さっきよりもさらに近い。
そして、運の悪いことに、着弾の衝撃で地面が盛り上がり、戦車の姿勢が崩れてしまった。僅かに進路が横に逸れる。
その程度、本来ならなんということはない。しかし、天候が荒れていたことが災いした。
「あ」
そしてもはや、いくらブレーキをかけたところで、戦車の重量は止められない。
車体が大きく横に傾いた。
そして、振動がやってきた。
第62回全国戦車道高校生大会決勝。
私の乗った戦車が、泥水の荒れ狂う川に滑落した。
10.
特殊カーボンでも、全くの無傷というわけにはいかなかった。
5人のうち3人が、崖を落ちるときの振動で車内の壁やらに頭を打ちつけ、気絶した。私もそうだ。体を揺さぶられ、私の名前を呼ぶ隊員の声が聞こえた気がした。
目が覚めるとそこは、病院のベッドの上だった。
幸い、誰にも大きな怪我はなく、精々が打ち身とか頭にこぶを作った程度だったが、念のためということで救急車で運ばれたらしかった。
試合の顛末は、病院で聞いた。
西住が、川に落ちた私たちを助けようとして、戦車を降りて飛び込んだのだと聞いた。
車長がフラッグ車を放りだすなんて、前代未聞のことだった。
しかし、プラウダ高校は、無防備にも動きを止めたフラッグ車を撃たなかったのだそうだ。現場で指揮を任されていた2年生、カチューシャという生徒が、無線で攻撃の中止を指示したのだと聞いた。
彼女は、試合後のインタビューでも、頑なに口を開こうとしなかった。
撃てば勝てたかもしれない。しかし、スポーツマンシップがそれを許さなかったのだ。そんなことを雑誌やニュースは囃し立てた。
試合には勝った。
しかし、西住の取った行動は、西住流の娘としては、問題のある行動だった。
西住流の信条は、勝利至上主義だ。犠牲があろうと突き進む。それが、西住流である。
その娘が、川に落ちた隊員を助けようとすることは、世間的には美談に映ったらしいが、家からの追及はすさまじいものであったらしかった。
何度も西住の本家に呼ばれる彼女の姿を見た。
電話が鳴って、すみません、と力なく謝罪する声も聴いた。
流石の西住も、憔悴の色を隠せなくなっていた。
そんな彼女に、私は何も言えていない。
感謝の言葉も、何も。何も、伝えられていない。
悔しかった。
恥ずかしかった。
彼女に勝つとか言っておきながら、足を引っ張ることしかできていない自分が。
自分のせいで、彼女に重荷を背負わせてしまったことが。
まともに顔を見せられなくなるくらい、恥ずかしかった。
やがて、西住は戦車道の訓練を休むようになった。
「……西住?」
ある日、私が寮の部屋に戻ると、西住の私物がなくなっていた。
勉強机も、本棚の書籍も、枕や布団なんかも。全部だ。きれいさっぱり、跡形もなく。一切合切が無くなっていた。
まるで、そこに何もなかったみたいに。
最初から、西住が居なかったみたいに。
私は、不安になって、携帯を開いた。
急いで電話帳を開く。たいして数の入っていない電話帳だ。すぐに西住の名前が見つかった。
そんな当たり前のことに、私はほっと胸を撫でおろす。彼女は、夢でも幻でもなかった。
コールのボタンを押して、電話をかけた。
『お客様がおかけになった電話番号は現在使われておりません』
無機質な電子音が無慈悲な宣告を伝える。
私は足元が崩れ去ったような感覚を覚えた。
そして、ぼとり、と携帯電話が床に落ちて転がった。
足元から、ぶるぶると何かの振動する音が聞こえた。
目をやると、落とした携帯が震えていた。
画面が光っている。
西住かもしれない。そんな淡い期待を持って、私は携帯を拾い上げた。
すると、メールが届いているようだった。
「西住、隊長……?」
送り主は、西住隊長であった。
私は、何事だろうと不思議に思って、慣れた手つきでメールを開く。
するとそこには、港の地図と連絡船のものと思われる時間だけが書いてあった。
その時間は、今から1時間後だった。
11.
「西住っ!」
私は、すぐに部屋を飛び出した。
荷物も何もない。鞄も全部投げ捨てて、財布と携帯電話だけを握りしめて駆け出した。
鍵をかけることも忘れて、ただただ必死だった。
連絡船の待合所、そこに小さなキャリーケースを抱えた西住がいた。
「エリカ…?」
西住が、目を丸くした。
彼女の顔は、記憶にあるよりもずっと疲れているように見えた。
こんなにも憔悴していたのか。
近くにいたはずなのに、気づいてやれていなかった自分に腹が立った。
「どこに行くつもり?」
違う。
そんなことを言いたいわけじゃない。
そんなことを言うために、ここに来たわけじゃないのに。
それでも、私の口は、私という人間は、責めるような声をつくってしまう。
「なぁに、ちょっとな。旅行だ。傷心旅行というやつだ」
「嘘」
ふい、と目線を逸らすように、西住が顔をそむけた。
癖なんて知らなくても、それが嘘だってことは分かる。
私は、携帯を取り出して、電話帳から西住の名前を探し出す。通話のボタンを押して、私は携帯を耳に押し当てた。
『お客様がおかけになった電話番号は現在使われておりません』
聞こえてきたのは、無機質な電子音だ。西住の携帯は鳴らない。
西住は、携帯を取り出そうともしなかった。
「携帯はどこかに落としてしまったんだ。そのうち新しいのを買うさ」
西住が肩を竦めて答えた。
私は、携帯電話の電源を切ってポケットに仕舞いこみ、つかつかと西住との距離を詰める。
勢いにまかせて、ぐっ、と両手で西住の首もとを掴み、お互いの顔を近づけた。頑なに、西住は目を合わせようとしなかった。
「ざっけんじゃないわよっ!」
それは、果たして誰に向けての言葉だったろう。
黙っていなくなろうとした西住に対してだろうか。
そこまで追い詰めた西住流の大人たちだろうか。
あるいは、
「言いなさい。どこに行くのか」
「はは。苦しいじゃないか。なあ、エリカ。苦しいんだ。手、離してくれ」
「いいから、言いなさいっ!」
「……大洗だ」
観念したように、西住が小さな声でつぶやいた。
「おお、あらい…?」
「お母さんに、言われたんだ。戦車道を離れてみたらどうか、って。……いい機会だと思ったよ」
大洗の学園艦、あそこには確か、戦車道をやっている学校はなかったはずである。
それを、西住流の師範代が勧めた?
それは、それでは、まるで…。
「お前は要らない、って。そう言われたように感じた」
消え入りそうな声で、西住が言う。
「どうしてだろうな。別に、好きでやっていたわけじゃなかったのに。楽しいなんて、一度も思ったこともなかったのに。なのに。やめてしまったら。戦車道をやめてしまったら、私には何もなくなってしまうことに気がついたんだ」
西住が、震えていた。
「姉さんのスペアでもいい。必要とされたかったんだって、気づいてしまったんだよ、エリカ」
ぼろぼろだった。
私が、この手を離してしまったら、西住は二度と立てなくなるんじゃないか。そう思ってしまうほど、西住は弱っていた。
「だったら、それをっ!どうして私に相談してくれなかったのよっ!!」
「エリカに、…弱い女だと、失望されたくなかった。何もない、空っぽだと知られたくなかった」
血管が切れるんじゃないかと思うほどだった。
だめだ。ああ、イライラする。まだ、そんな風に思われていたことにイライラする。
「あんたが強いやつだって、私はよく知っている!だけど、弱い人間なんだってことも、とっくの昔に知っているのよっ!」
だから私は、あなたと対等になりたいと思ったんだもの。
「空っぽ?気づいてたわよ!3年も前からずっとね!それも全部知ったうえで、私はあんたに勝ちたいの。勝ちたいと思ったのよっ!」
だってそうじゃなきゃ、あなたと対等になれないと思ったから。
「うそだ」
「嘘じゃない」
「嘘だっ!」
「嘘じゃないっ!!」
喉が裂けるんじゃないかと思った。
「気にくわないのよ。あんたが、『私』を見ないから」
西住が、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
顔と顔とが向かい合う。
ああ、そういうこと。
目を合わせようとしなかった理由がようやく分かった。
「今日、はじめて目が合ったわね」
私は、西住は絶対に泣かないやつだって思ってた。
涙なんて枯れてるんだって思ってた。
そんなことはなかったのだ。
ゆっくりと、私は手を離した。
「…絶対に続けなさいよ、戦車道」
西住が、驚きに目を見開いた。
そして、すぐに気まずそうに目を逸らす。
「いや、大洗に戦車道は」
「知らないわ、そんなの」
自分でも、無茶苦茶を言っているのは分かっていた。
それでも、言わなくちゃいけないことがあった。
そうしないと、きっと、本当に西住が空っぽになってしまうような気がしたから。
「ないなら、作ればいい」
それがどんなに無茶なことか、私にだって分からないはずはなかった。
人も必要だし、何より、必要な物が多すぎる。
戦車、装備、燃料。エトセトラを挙げればキリがない。
到底、個人で集めるなんて不可能だ。
だけど、どんなに荒唐無稽でも、ゴールはある。
いいや、そこはスタートラインなのだ。
「理由が必要なら、『私』を理由にしなさい。自分の気持ちも、親の期待もなくなって、戦車道を続ける理由がないのなら、『私』が理由になってあげる。私が絶対、あなたを空っぽになんかしてあげない」
このまま大洗に行けば、西住は何にも興味を示すことなく、死んだように日々を過ごすだろう。
そんなのは、嫌だ。
「私には、あなたが必要よ」
だったら、それがどんなに荒唐無稽なことであっても、やることがあれば、人は空っぽではいられない。
これまで西住は、親に強制されて戦車道をやっていた。強制されるのが親から私に変わったところで、大した違いはないだろう。
「どうして、そこまで」
西住が尋ねる。
答えは決まっていた。
「そんなの簡単よ。私は、あんたのライバルだから」
私は、胸を張って答えた。
やがて、耐えきれないとばかりに、西住が吹き出した。
「ふふっ、お前が、わたしに一度でも勝ったことがあったか?」
「ないわ!」
何百回、いや、4桁を数えたかもしれない。それだけの回数勝負を挑んでも、未だに勝利はない。それは間違いない。自信を持って言えることだった。
それでも私は、ライバルになるんだ。ならなくちゃいけないんだ。だから、先にやめられたら困るんだ。
「それでも、前に言ったでしょう。あんたが、嫌になるくらい勝負を挑むって。そして、いつか必ず、私はあんたに勝つのよ」
「そうか」
「そうよ。私はしつこいの」
「そうか。そうだな。そうだった。…それは、怖いな」
こんなのは、ただの屁理屈だ。子供だって使わないような
「だから、…あんたと私は、対等のライバルよ。あんたが、戦車道をやめない限り」
「…ああ。そうか」
こんなのは、ただの屁理屈だ。だけど、
「それじゃあ、やめるわけにはいかないな」
彼女がどこかへ行ってしまうことを、止めることができないのなら。
私たちが繋がるために。繋がり続けるために。
曖昧な関係性を形にしなくちゃいけないんだ。
言えなかった言葉がある。
言わなくちゃいけなかった言葉がある。
伝えたかった言葉がある。
けれど、それは、いつか。
「次は、パンツァージャケットを着て会いましょう」
私が、あなたと対等になったその日に、必ず言うから。
まぽりんを主役に小説を書くつもりが、気がつくとエリカが主人公に。…どうしてこうなった!?
ともかく、書きたいところまで書けたので、作者的には大満足です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございましたっ!!