Q.穂村尊は陽炎であったか   作:鈴近

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陽炎であったか?のアンサーです。
あなたのトラウマを刺激しうる要素 いじめ・自殺の示唆
二次創作要素 大学生設定、イグニス復元済み、ほむきくの婚約、同性間でっかい感情


シャーベットスノウ

 深いため息が鼓膜を揺らし、尊はひくりと肩を震わせた。

 どうしよう。なにか言わなきゃ。でもなにを? なにを話せばあいつはわかってくれるのだろう。尊が君の、なんてことのない、当然のように与えられた優しさにどれだけ救われたかという話だとか、ずっと大事な友達として接してきていたつもりだったとか、言いたいことはたくさんある。

 しかし、そのどれが彼の心に正確に届くというのだろうか。なんでもないように言い放たれた「俺たち別に友達でもなんでもないだろ」に、冷たく突き放された直後の頭では判別がつかない。無い知恵を絞ろうとする脳みそだけが空回りし続けてオーバーヒートしかねないくらいだ。その間にも時間は過ぎる。沈黙は続く。そこには、尊と彼のどちらが、この静寂を破るのが速いかという結果だけが残る。

「わかった」と、疲れ切った声がする。全身が強張った。唾を飲みこもうとしたが、舌の根はカラカラに乾いていて、飲みこむ唾がなかった。

 わかったって、なにが。オレが気持ち悪いやつだってことが? 

 ドッドッドッドッと耳元で忙しなく鼓動が鳴り響く。冷や汗はじっとりと背筋を濡らし、視界がチカチカと明滅する。呼吸は次第に浅く、荒くなっていく。悪い想像が津波のように次から次へと襲いかかってきて、尊は溺れてしまいそうだ。息継ぎで喘ぐように、「やっぱなし」と「タンマ」、「待って」をぎりぎり間に合うところで吐き出したかった。

 それよりも早く、静かな声が耳を揺らす。

 

『穂村、お前いつこっちに戻ってくる?』

「ぇ?」

 

 間抜けな声が、ひっくり返りそうになりながらこぼれ落ちた。ぷつんと途切れたように冬の夜の静けさが戻ってくる。

 いつ自分がDen Cityに戻るかなんて、今の会話の文脈のどこにその伏線があったというのだ。頭が混乱するのがわかった。尊はぽかんと口を開けて黙り込む。三が日が過ぎる頃に帰ろうとは思っていたけれど、前後が繋がらない。脳内をクエスチョンマークが埋め尽くしていく。

 電話越しの彼は面倒くさそうに、気だるげなまま、けれど矢継ぎ早に言葉を続けた。

 

『俺も腹括るって言ってんだよ。休み合わせるから会って話そう。藤木は連れてきても連れてこなくてもいい、いやもうまとめて話した方が早いのか?』

 

 はっとして、慌てて尊は待ったをかけた。

 

「ちょ、だけど、お前忙しいだろ。無理にそんな」

『こんなところで遠慮するんじゃねえアホ』

 

 一刀両断。返す刃もない。ぐうと唸り声をあげる。ため息交じりに彼は話を続ける。相も変わらず面倒そうだ。実際面倒なのだろうな、と尊は当然のようにその事実を受け止めていた。

 

『今回っつーか今までのは、俺に確実に否があるんだから、お前らが気にするようなことは小指の爪の先ほどもねえの。塵ひとつねえの。わかる?』

「う、えっと」

『はいって言え』

「はい……」

『それに、こういうのは、顔合わせて同じ空間でやらなきゃ意味がないらしいからな。酒でも飯でも好きなものつつきながら話をすればいい。なーんか俺とお前たちの間に認識の齟齬があるのもそれで埋まるだろ。俺としちゃあ、俺みたいなのと友達になりたかったって言われても、は? なにその天変地異の前触れ? って感じだけどな』

 

 絶句。さすがに聞き捨てならない。

 カッと腹の底が熱くなる。思わず使い古した携帯電話を握りしめてしまったせいで、ぎちっと音が鳴った。

 

「だからっ! なんでそうっ!」

 

 唾が飛びそうなほど、尊は声を張り上げた。

 なんでいつも■■はこうなんだ。お前がどれだけいいやつで、オレや遊作がどれだけお前を好きか、いくら伝えようとしたって一度たりともまともに受け止めてくれたことがない。それどころか自分を卑下するようなことばかり言う。そのたびにどんなに歯がゆかったか! 当然のように、かつふざけた調子で自分を貶めるお前を見るのがどれだけ悲しかったか、わかっているのか! 

 鼻息荒く、尊は激情を吐き出そうとした。「でも」、と彼が続ける。

 

『お前と藤木の気持ちを、俺が勝手に否定するのは、違うだろ』

 

 他人が俺を通して何を感じたのかを、俺が否定する権利なんてないんだから。

 静かな声。気焔がふっとかき消される。瞬間的に熱くなった思いはあっという間に鎮静化され、胸に宿っていたごうごうと燃える炎はしゅるんと霧散する。静謐を湛える彼の声は、音もなく降る霧雨のようだった。乾いた地面が水を吸い込んでいくように尊を黙らせる。

 

『俺は、俺のことをいいやつだと思ったことなんて一度もないし、自分のことを、打算と偽善にまみれた、みみっちくてつまんねえ人間だと認識してるよ』

 

 そんなこと、ないよ。か細い否定が喉にひっかかる。それなのに言えない。あとに続く言葉がなんとなくわかるから。

 彼の語り口はやわらかく、しずかで、ぽつりぽつりと尊の中に染み込んでいく。

 

『だけど、お前たち二人からしたらそうじゃないんだろ? じゃあ教えてくれよ。穂村と藤木、お前らに俺がどう見えているか。……ちゃんと向き合うから。うまくできるかは、やったことないから、わかんねえけど』

「うん。……うん。向き合おうとしてくれて、ありがとうな……」

 

 引き攣れそうな喉を絞ることで、尊はようやく、「ありがとう」を言えた。くらりと視界が揺れる。喉が熱い。ともすれば鼻を啜ってしまいそうだ。ついさっきとはまったく違う理由から、目頭が熱っぽくなっていけない。空いている左手で瞼を抑えると、ずれた眼鏡が小さく音を立てた。

 

『じゃ、よい休暇を。うまい飯食ってあったかくして寝ろよ』

「お前こそ」

 

 声が震えていないか心配だった。今までなら、なにも気にせずに軽口を叩けたのに。そして、「友達ではない」と思っていた相手にも、気軽な気遣いを当然の礼儀として見せられる彼にさみしさを感じた。

 

『あー……明日の仕事が終われば実家に顔出すし、休めるだろ。たぶん。おやすみ』

「おう、おやすみ」

 

 耳元から携帯電話を外して、通話終了ボタンを押す。

 ずび、と鼻を啜ってしまうのは外が寒いからだ。他に理由なんてない。帰省するたびに祖父にしこたま飲まされるものだから、誰かと通話するときは酔い覚ましもかねて、たいてい庭先の縁側に出ていた。今日もそうだった。

 白く、丸い月が、ナイフのように冴え冴えと、暗い夜空に輝いている。手を伸ばせば届きそうなくらい明るく光っているのに、実際はとてつもなく遠くにいるというのは、彼によく似ているように思えた。

 

(友達っていうものは、特別なことをしなくてもなれるもののはずだった。普通ならそうだと思う)

 

 Den Cityに住んでいた頃の自分は間違いなくそうだったし、今は恋人となった幼馴染にだって、仲のいい友達が複数人いる。それが「普通」のことだ。

 

(でも、オレはあの頃、自分で思うほど普通にはなれなかったから……。■■も、そうなのかな)

 

 教室にいる彼を思い出す。一人でいる時間は確かに多かったけれど、浮いていたというわけではない。クラスメートたちとコミュニケーションをとるのはとてもうまかったように思う。尊や遊作より、ずっと。それに、彼はみんなから一目置かれているというか、頼られているところがあった。

 彼はなんだか、教室の中でいちばん「おとな」だった。気まぐれな猫のように、みんなとは少し違う、傾いた視点で世界を眺めていた。

 だけど、よく思い返せば、彼は教室全体から平等に距離を置いていた……という見方もできたのかもしれない。観察するようにみんなを──もちろん、尊や遊作もそこに含まれていた──見ていた、とも受け取れるのだ。今となっては。それはまんべんなくサンプルを採って学習を続けるA.I.にも似ていたし、俯瞰的に全体を見渡す指揮官にも似ていた。だからこそ彼はあの教室の中で絶対の中立、バランサーであれたのだろう。

 そういえば、成人式のときも同窓会の知らせが届くときも、いつもそこに彼はいない。複数人でつるむ相手がいたのに、その誰も連絡が取れないと言う。毎回誰かが「あれ、今日も■■くんいないの?」と言葉にしている。それくらい、教室の多数派に彼は焼き付いているのに、きっと彼の中には教室の爪痕なんか残っていないのだ。あの口ぶりからして生真面目に年賀状を出しているのは尊だけで、日常的にチャットを飛ばし合っているのは遊作くらいなのは察せられる。

 誰が、彼の深いところに触れたことがあるだろうか。

 今まで壁なんてないと思っていたところに不可視の壁がある。地続きだと信じていた道に大きなクレバスがその顎をぐぱりと広げていて、尊が落ちてくるのを待っている。それは尊を戸惑わせ、悲しませた。

 でも、今からでも遅くないと気づいてもいた。だから「友達だと思っていた」じゃなくて、「友達になりたかった」と言ったのだ。今友達じゃなかったとしても、これから友達になれる可能性は開かれている。五年弱、彼が抱えていた奈落にも、自分たちの間に横たわっていた断絶にも気づけなかった自分がそう言うのはおこがましいのかもしれない。だが、ほしいと思ったものに手を伸ばすのを諦めるほど自分はまだ大人になりきれない。妥協と諦めは後悔になる。今はまた左腕に収まっていてくれる相棒を失った、あの十六の年に味わった辛酸は、痛いくらいに尊の背中を押すのだ。

 繋がることを恐れるな、手を伸ばすことを諦めるな、小さくて大きな一歩を踏み出せ、と。

 きっと、遊作も同じ感情を常々感じていることだろう。自分たちは超高性能A.I.が演算に演算を重ねた破滅の未来を蹴り飛ばして、共によりよい明日を紡いでいこうと手を伸ばし、強欲に、傲慢に彼らを黄泉返らせたのだから。

 選んだことより、選ばなかったことの方がよほどしこりになる。選ばなかった以上存在するはずもないifをぐちゃぐちゃと並べ立てたところで、それは水の中に沈殿していく淀みのようにじわじわと人間を腐らせていく。そのまま、腐り果てた人間は、絶対に未来に行けない状態で暗闇に取り残されるのだ。尊たちにはもうわかっている。

 だから尊は選んだ。隣にいると思っていた遠くの月に手を伸ばし、彼を理解したいと懇願する。そのためなら、たった一握りの人間にしか晒したことのない傷を、再び開いて見せても構わないと思った。

 ■■の自己評価の低さも、彼が新陳代謝のように繋がりを脱ぎ捨てていくのも、彼我に大きな断絶が横たわっているのも、きっと彼が自分を守るために着こんできた鎧が作り上げた結果なのだ。そして、彼にはその重く、冷たい鎧をまとわざるを得なくなるほどの傷があるに違いなかった。臆病に、消極的にならざるを得ない理由があるはずだった。自分と同じもの──呪いだとか、傷だとか、業だとか──を抱えた人間には鼻が敏感になる。フィルターを通してみたとき、数人にだけ色がついて見えるように。

 彼はその断絶を理解していたから、正確に距離を測ってボーダーを引いていたのだろう。そして今、あの人は崖の向こう側から手を伸ばしている。いつ奈落に落ちるかわからないまま、恐々と深い峡谷を覗き、それでも尊たちに手を伸ばして、その断崖を飛ぼうと決めてくれた。それが、たまらなく嬉しい。「今までやったことがないから上手くできるかはわからない」と言った彼の言葉を信じるなら、きっと尊と遊作がはじめて彼の一番弱いところに触れられる権利を得たということなのだから。

 あっけらかんと友達ではないと言われたときの悲しさ、切なさはもう消えていた。特別なひとりになれたような気分だった。

 はあ、と白んだ息で手を温める。今夜は冷える。この街も、また雪で埋まるだろう。黒い冬の海に雪が叩きつけられ、雷が空を割ることだろう。

 

「尊ー? そろそろ冷えてきたから中入ってよ、風邪引くよ~?」

「今行く!」

 

 廊下の向こうから幼馴染の声がする。それに大声で返事をして、よっこらせと尊は立ち上がった、「やっと戻ってきた」と呆れように呟く彼女は、いくらか酔いで頬を赤らめていた。足取りはしっかりしているから前後不覚になるまで飲まされてはいないだろう。祖父が二人を潰したのは二十歳の誕生日に「限界を知っておくといい」とぐでんぐでんになるまで飲ませ続けたときだけだ。あのとき尊は二日酔いがひどくて頭痛が激しかったが、隣の綺久はけろりとしていたので、酒飲みの素質があるのはきっと彼女の方だ。当人は甘い酒が好きなようなので、祖父の晩酌には付き合えないのだが。それでなくても祖父は男孫の自分と飲みたがるので、尊もほどほどに付き合うわけだ。

 酔いが回ってくるといつも席を立って、一人で、遠くに行ってしまった人たちのことを考える。頭がふわふわしているときは感傷に浸ってもそんなに悲しくならない。酩酊は胸の痛みを誤魔化してくれる。時の流れも同じことだった。

 ふと思い立って、尊は綺久に尋ねた。

 

「綺久はさあ、『お前なんか友達じゃない!』って言われたこと、あるか?」

「え、なにそれ? 誰を怒らせたの? ちゃんと仲直りしないとダメだよ?」

「おいおい、怒ったのはオレだよ……なんか、喧嘩の段階ですらなかったって感じ」

 

 首をかしげた婚約者は、ふうん? と言いながら眉を寄せる。

 

「うーん、みっちゃんもスゥちゃんもそこまでカンカンになったことないからなあ……っていうかそこまで言っちゃったら修復不可能だって子供心にもわかってるでしょ。だから、そういう風に怒る子は、私の周りにはいなかったな。『友達じゃない』ってわざわざ否定してくるのは、こっちを傷つけたいからだと思ってた。尊のは違いそうだけど、どうなの?」

「うん? ううん、友達になりたいって思ってたやつが、実は結構難攻不落! みたいな。もともと気難しいやつだとは思ってたけどここまでとは思ってなかったっていうか」

 

 へえ、と言いながら考え込み、視線をあっち、こっちと彷徨わせていた綺久が、急に「あ」と漏らす。そのまま顔を曇らせたものだから尊は少し嫌な予感がした。言いづらそうに、彼女が口を開く。

 

「……まさかと思うけど藤木くんじゃない、よね……」

「ちょぉっ、オレと遊作の友情を疑うなよ!」

 

 咄嗟にそう言った。言ったけれど、笑い飛ばせたらよかったのだが、一瞬考えてしまった。「俺たち友達だったのか?」といつもの真顔で聞いてくる、別学部の同窓生のことを。彼、「共に戦った仲間」とは認識できていても、友達かと聞かれるとためらいそうである。友達いなかった歴十年を甘く見てはいけない。

 さーっと血の気が引いて、思わず両手で綺久の肩をつかむ。

 

「……信じていいよな遊作を!? 改めて考えたら不安になってきちまった……! でも今さら『オレたち友達だよな?』って聞くのは重くねーか!?」

「まあ、普通はそうだよねー。幼稚園の頃ならよくあったけど、高校過ぎると確認したりしないよ。ていうか近いよ。おじいちゃんたちにも聞いてきたら? 男の友情っていうのは私にはわかんないもん」

 

 ステイステイ、と犬のようにあしらわれて若干機嫌が悪くなるものの、まあそれもそうかと肩から手を放し、近づけていた顔を遠ざける。尊はため息を吐いた。

 重ねて言うが、遊作の孤独期間とコミュニケーション弱者ぶりを嘗めてはいけない。だから未だに鴻上了見に対する距離感がバグっていて、健全な友人関係というものが遠いのだ。五年弱過ぎても互いに消化しがたい重い感情を抱えているように見えて、尊は心配している。

 というか尊が了見とそれなりに親しくなる方が早かった。友人というには気恥ずかしいし相性が悪いが、知り合いよりは近い距離にいると思う。彼とのデュエルを通して過去に蹴りをつけられたからだろうか? 自分たちは案外気安い。遊作がまごついている間にそんな仲になっていた。なんでだ。

 そしてなんで遊作は今の今になっても不器用すぎるアプローチを重ねているのか? たぶん、■■とのコミュニケーションもパーフェクトにはできていないのだろう。遊作に食事の誘いをかけるときに、ついでにカマをかけてみようか。

 

 

 後日、記録ダイエットに対して「野菜食え」とか「今度は肉が足りない」、「そもそも全体量が少ない、胃を拡張しろ」と会話を試みている■■からの返信で天を仰ぐ尊の姿が食堂で衆目にさらされるのであった。

 

「え……これを五年弱やって……? 二人ってオレが知らなかっただけで実は馬鹿だったのかな?」

「さすがに失礼だぞ」

「いやムッとするところじゃないから。遊作のやつただの日記じゃん。SNSのbotみたいになってるよ」

 

 尊もさすがにSNSやbotなどの用語は覚えた。インターネットリテラシーがガバガバだった田舎の高校生はもういない。

 

「■■もなんでこんなところ律儀なわけ? これじゃあもう惰性じゃなくて習慣でしょ」

「休学している間は連絡が途切れて、そのあと心配されたんだ。嬉しかった」

「照れんな。こら。……あのフルダイブ強行突破のときの限界飯まで見せてたら本物の馬鹿だと認識せざるを得なかったよ。ほんっとうに肝が冷えたんだからな」

 

 そこを詰められると遊作は弱い。うっと首を竦めて、ごまかすために豚汁を啜る。彼がもくもくとたくあんをかじっている数十秒の間も尊はじっとり遊作をねめつけていたが、次第に馬鹿らしくなったのだろう。ひとつため息を吐き、■■に食事に誘われたがいかないかと聞いた。遊作は二つ返事で頷いた。

 

「一緒に出掛けるのは初めてだな。楽しみだ」

「店はあいつが選んでくれるらしいから空いてる日だけ教えてくれってさ。グループチャット作る?」

「それもそうだな。俺が作っておく。尊はなにもしなくていい」

「はいはい、オレはどうせ機械オンチですよ~。■■にも誤爆チャットのこと言われたし……オレだって進歩してるのにさ……」

「……というか、いつ連絡を取ったんだ?」

 

 ごちそうさまでした、と手を合わせながら遊作が尋ねる。今度言葉に詰まったのは尊の方だった。あからさまに表情を曇らせた正面の彼を、怪訝そうに遊作は見つめ返す。

 

「それに■■から誘ってくるというのも妙じゃないか? いや、嬉しいが……でも俺たちは一緒に飲みに行くような仲には至れていないと思うんだ……」

「うん……おっしゃる通りです……ところで話は変わるんだけどさ、遊作」

「なんだ」

「オレたち友達だよな?」

 

 不安を表に出さないよう、気を遣いながら、なんでもないように尊は尋ねた。遊作は虚を突かれたように目を見開き、それから呆れたように口を開く。

 

「なにを今更。俺がお前を、大切な仲間だと思わない理由がないだろ」

 

 つまり、イエスだ。その答えにどれだけ安心したか。

 詰めていた息を吐き出し、尊はほっと胸を撫で下ろした。ドコドコと痛いくらい脈打っていた心臓が落ち着いていくのを感じる。その、今にもだるんと潰れそうな彼の様子を見て、遊作は眉を寄せた。心外とでも言いたげだ。

 

「まさか疑ったのか」

「いや……仲間とは言い切ってくれると思ってたんだけど、『仲間だけど友達じゃない』とか『俺たちは友達だったのか?』って言われる可能性を捨てきれなかった……」

 

 遊作はばつが悪そうに視線を逸らした。今までの自分の言動で、思うところがあるようだ。ふはっと尊は気の抜けた笑いを漏らし、垂らした前髪をかきあげる。はらはらと髪は散っていった。

 

「不安だったんだよ、ちょっとだけ。詳しくはまた今度話すね」

「? ああ」

 

 ちらりと壁掛け時計を見上げる。三限が始まる十分前と言ったところか。「そろそろ出よう」と言いつつ、遊作は席を立った。

 

 

 

 待ち合わせ場所に指定されたのは、シティ中央部から少しだけ離れたダウンタウンの駅だった。

 遊作も尊もあまり利用したことのない場所である。Den City中心部に企業や大学はビル、キャンパスを構えているし、その周辺は自然と住宅街もできて、人が多いから商業施設も増える。学生向けのファッションビルなどがいい例だ。ダウンタウンの方には安くてうまい飲み屋や昔ながらの商店街、急速な電子書籍の台頭によって今やデッドメディアとなりつつある古本を扱う古書店などがあるらしい。

 全部ネットで調べた情報だ。それくらい二人にはなじみのないエリアだった。大学生という身分である以上、生活の活動拠点は学校周辺になる。それに二人ともバイトはCafe Nagiでしているから、観光スポットに詳しくなることはあっても、古くから土地に根差している人々の生活圏にはとんと縁がない。サークルや部活に所属しているわけでもないから、飲み会の機会なんて面白いほどないし、そもそも二人ともそこまで酒が好きかというと首をひねる。まだまだ食べ盛りの青年たちは、草薙が作ってくれる優しい味の家庭料理の方がずっと好きだった。それは彼の弟の仁も同じらしい。三人とも、賄いのおまけでチューハイをちびちび飲むか、安いイタリアンでこれまた安いワインを一杯だけ飲むくらい。場の雰囲気に呑まれて無理に飲み、胃の中身をあらいざらいぶちまけるよりは、健康的な付き合い方をしているはずだ。

 財布を自動改札に当てる。機械音。雑踏。構内にある店から香る食事のにおい。

 

「よう」

 

 改札に出てすぐの場所に彼が立っていた。ポケットに両手を突っ込んで、寒そうに鼻頭をあかく染めている。

 オリーブグリーンのモッズコート、縄編みが印象的な黒のセーター、ネイビーのスキニーを合わせた、シンプルでラフな出で立ちである。それなのにやたらと様になるのが、この男だ。

 肌に吸い付くようなスキニーパンツは彼の股下が長いことをこれでもかと主張するし、そのふくらはぎの隆起が如何に流線的で均整がとれているか目に焼きつけてくる。職業柄まんべんなく、ごつめに筋肉がついているはずなのに、それ以上に上背があるから、肉が付きすぎているわけでも足りていないわけでもなく。バランスはさながら黄金比率。右の人差し指にはめられた繊細な造形のシルバーリングがまた憎い。さらにその爪先はウィングチップの革靴に包まれている。トゥには一点の曇りもなく、ぬるりとしたなめらかさすら持ってつやつや輝いていた。いつも通りの仏頂面すらクールな横顔に見える。

 内心尊は唸った。ほれぼれするほどかっこいい。

 結局、■■という男子生徒は尊にとって憧れの存在だったのだ。Playmakerに向けたようなヒーローを熱心に見つめる眼差しとは違う。ふと視界に入ったときについ彼の方を見てしまうような、そんな引力を彼は持っている。それに引き寄せられたのが自分たちにとっていいことだったのか、それともそうでなかったのかは、今となってはわからない。ほんの些細なことで人は人を好きになる。「憧れ」という形で、好意は尊の胸に息づいていた。

 

「……なに変な顔してんだ? 藤木まで」

「おお!? いや、なんでもない、なあ遊作!」

「ああ。それに俺も尊も変な顔はしていない」

「ふーん、じゃあ気のせいか。それじゃ行くぞ。すぐ近くだから、寒くても我慢しろ」

「わかった」

「おう!」

 

 尊と遊作は■■を挟んで並んだ。■■は黙って二人の顔を順繰りに見たが、しばらくするとそのまま歩き出した。二人はそれに着いていく。

 カラッと晴れた空には欠けた月が一つ。三人の足取りは人混みに消える。ぽつぽつ話していると、吐息が白く染まった。

 

 

 

 引き戸を開けて店の中に入ると、尊の眼鏡が曇った。「いらっしゃい」と微笑む女将に会釈して、ハンカチでレンズを拭う。クリアになった視界には、白熱灯の光で照らされた店内。木とだしの香りがふわっと鼻腔をくすぐった。「お友達?」「そんなもん」と、彼は女将とやり取りしながら靴を脱ぐ。尊たちもそれに倣う。コートを預かられて、そのまま三人は個室の座敷に通された。

 座椅子を引き、柔らかい座布団の上に尊は所在なさげに正座で座った。隣の遊作も似たようなものだ。そもそも遊作は和室が珍しいのだろう。店に入ったときから結構きょろきょろしている。畳の目は整っていて、部屋の片隅には生け花が置いてあり、雪見障子からはライトアップされた庭がよく見える。

 尊は声を潜めて向かいの■■に耳打ちした。

 

「なあ、ここって高いんじゃ」

「気にすんな、俺の奢りなんだし」

「なおさら気にするけど!?」

「は? 俺が社会人でお前ら学生なんだから当然だろうが」

「いや、でも……」

 

 遊作がおずおずと援護に入る。

 

「高い酒飲むわけでもないしそこまでかかんねえよ。どうしてもって言うなら初任給でなんか奢れ」

 

 二人とも黙った。そのまま唸るように頷く。満足そうに彼は鼻を鳴らした。

 タイミングを見計らってか、女将がすっと扉を開けてお通しを出してくれる。温かい番茶と、湯葉のおひたしが置かれた。「お前ら嫌いなものあったか」と伺いを立てる彼に尊も遊作も首を横に振ると、彼は慣れた口ぶりで注文を言っていく。女将はにこにこ頷いてメモを取り、部屋を後にした。

 冷えていた指先を湯呑で温める。遊作はちろりと視線を上げ、重い口を開いた。

 

「こういう店、よく来るのか」

「ん? あー、ここはじいさんの行きつけでさ。昔馴染みなんだよ。俺の家もわりと近い」

 

 そうなのか。そう呟いて、ちびちびと舐めるように熱い茶を口に含む。

 

「足、崩してもいいんだぞ」

「ああ、うん……」

 

 それきりみんな黙った。■■はなにを話すか考えているようだったし、尊と遊作は言葉を言いあぐねている。料理が運ばれてくるまで、部屋はとても静かだった。

 

 

 

 女将がてきぱきと配膳をしていく。運ばれてきたのは、一人一本ずつのだし巻き卵。ふっくらと炊かれた、だしの香る大根の煮つけ。漆塗りの茶碗に盛られたご飯と澄まし汁。それから、シェアできるサイズの豆腐サラダと、二口サイズのおばんざいが色とりどりに並べられた盛り合わせ。

 部屋を出ていく女将に■■がひらりと手を振り、尊と遊作は小さく会釈する。そして三人とも箸を取り、誰からともなく手を合わせて瞑目した。いただきます。静かに声が広がる。

 

「食いながらでいいから、聞いてくれるか」

「ああ」

 

 遊作が返事をして、尊も頷く。だし巻き卵を一切れ口に含んだ彼が咀嚼を終えてから、その口を開く。

 

「俺がわりと人間不信だってことは、藤木ももうわかってるよな」

「尊から聞いた。俺たちは友人になるそれ以前の段階だったと」

「まあ、そうだよ。ダチなんか必要ないと思ってた。だいたい他人はいつ期待を裏切るかわかったもんじゃない。だから当てにしてこなかった。信じるだけ無駄だと思ってきた」

 

 箸の爪先が豆腐を割るように、ふんわりと炊かれた大根を割いていく。一口分に切り取られたそれをよく味わってから、彼はじっと二人の目を見た。

 

「お前たちとちゃんと向き合おうと思って、どこから話すかとか、なんで俺がこうなったのかとか、どう説明するかをずっと考えてきた。前も言った通り、うまく話せるかは、わかんねえけど。だって自分の分解をやったことがないんだもんな。まあ、だから、なんか、わかりづらいところは質問してくれれば深掘りするし……いや前置きが長い。悪い」

 

 謝らなくていい。遊作も尊もぶんぶん首を横に振った。

 それから、少しの逡巡を経て、彼は口を開く。

 

 

「俺さあ、小学生の時期をほとんど不登校で過ごしたんだよ」

 

「よくある話だと思う。三年のときに身体の小ささとか、声の高さとか、そういうのでタゲられて、からかわれて、次第にいじめに発展して。文房具壊されたり、靴にゴミ詰められたり、終いにゃ俺が話すだけでにやにや笑いやがる。最初はなにが起きてるのかわからなくて、『みんな』なにか新しい遊びをしてて、それにノれてない俺が悪いのかなって思ってた。『いじめ』の概念も他人を侮辱することが罪だってことも知らないガキ。ついでに悪意を向けられたことなんてなかったからな、不格好に笑ってんのは道化みたいだっただろうよ。それで向こうは余計調子づいた」

 

「いじめってのは、被害者側がいじめだって言わない限りは、実態と結びつかないんだよな。主観で左右されるから、問題ないと思ってたことが唐突に火種になったりさ。流れてる空気が異様かどうか判断するのはその空間の外側にいるやつだ。当たり前になっちまえばそれは日常になる。外から見て歪んでいようが関係ない。本当に問題ないやつもいるのかもしれないけど……俺はそうじゃなかった。次第に学校に行くのが嫌になってきてた」

 

「なんか変だなってようやく気づいて、でも具体的にどうすればその流れを直せるのかわからなくて……そういう時期に市内で中学生が自殺した。そうそうあれだよ、SNS使ったいじめ。わりとセンセーショナルに報道されたよな。闇インターネットとか、子供のストレスとかメディアが過熱報道してさ。子供向け六法とかが出てもガキってのは狡猾だよ……ふと見たネットニュースに、被害者がどういう仕打ちを受けたかが書いてあって。全然他人事じゃねえなーって気づく頃にはいろいろ、掲示板とかニュースとか読んだあとだったな。このままだったら俺もこんな風に死ぬのかなってぼんやり思った。ストレスの限界だったんだろうよ。身体の方にも症状出てたし……親も親で心配してたらしいけど、俺に自覚がないなら意味がないんだよなあ。そのタイミングで、自分がされていることが理不尽な言い掛かりや暴力だって……やっと肯定されたような気分だった」

 

「そうしたら腹が立ってきたんだよ。なんで俺がこんな目に遭うんだ、ここで俺が思いつめて死んでも加害側は絶対のうのうと生きていくに違いない。だったら耐えるだけ無駄だろ? なんで今まで抵抗しなかったんだろうって呆然としたよ」

 

「まあまだ信じてたんだろうな、トモダチのこと。やめてって言ったらやめてくれるかもってさ」

 

「すぐにそんなわけないかと思い直したけど。簡単にやめてくれるならあんなに続くわけねえもんなあ。それで、その翌日も学校に行って。国語の授業で音読をやるよう教師に言われて、俺は言われた通り教科書を読んでたんだ。ガキ大将はにやにやしながらこっちを見ていた。『ヘンな声がするから集中できない』だったか? まあなんか難癖つけられて……」

 

 キレて窓を割った。そう言って彼は吸い物を啜った。思わず二人とも顔を見合わせて、ぽかんと口を開ける。聞き間違いじゃなく? つい尊は口を挟んだ。

 

「それマジ?」

「マジの大マジ。ちょうど窓際の席でさ、脚つかんで投げたら景気よく割れたんだわ。ついでに俺も額切った。もう教室は阿鼻叫喚の大騒ぎ。女子が泣き出してなあ。その最中で俺を馬鹿にした当人はぼけっと間抜け面をさらしてるから余計ムカついて。教師が動揺から帰ってくる前に、頭から血ィだらだら流しながら『なにがおかしいんだ、俺の目ェ見てもう一回言ってみろよ』って引き倒した、はず。いや、実を言うとその辺親から伝聞で聞いただけであんまり覚えてねえんだよな……で、駆け付けた他のクラスの担任に引きずり出されて翌日から不登校、チャンチャン。って感じ」

 

「反撃しちまったから俺も暴行罪働いたことになるんだよなー、あれ。あと器物損壊。被害者面し続けるには反抗しがたいってのも変な話だぜ。救いだったのは家族が『舐められるすなわち死』ってくらい喧嘩っ早かったことだよ。教頭校長が『あれは喧嘩だ、子供同士だから穏便に』ってぬるい隠蔽を謀ったらしくて、親はそれにキレ散らかして帰ってきたからな。来てくれと頭下げられても行く必要がないってカンカンでさぁ。父親が今まで見たことないような顔で泣いて、気づけなくてごめんって頭下げてくるんだ。自分で言わないって決めたのは俺なんだから気にしなくていいのに」

「いや、お前を大切に思っているなら、それは気にするだろう」

「そうだよなあ……そうなんだよなあ……」

 

 ふう、とため息を吐く。回り続けた舌をいたわるように彼は少し冷めたお茶を呷った。

 

「んー、箱入りで育った結果、悪意への対処方法を経験学習してなかったのは確かだから、そこを気にしてたんだとそのときは処理したんだ。初孫の長男だし……いや俺が女でもうちの家族は過保護だっただろうけど……そのあとから人間関係の中で如何にうまく立ち回るかとか、どうやったら相手に舐められないかを全身に叩き込まれるようになったから、教育方針の転換はあったと思う。戦う気があるなら戦え、武器なら準備してやるって、さ。それで、俺にやる気があったから残りの三年でいろいろやって、ちょっと遠くの進学校の中等部を受験した」

 

「引きこもってる間に成長期が来て、学力もついて、環境も変わったから、一気にヌルゲーになった感覚はあったな。毎年一人はクラスに家の等級や出身地区でうるせえやつはいたが──俺、下町の子供だから──その頃にはすっかり同世代への期待が失せてて、スクールカーストをどれだけ無視するかとか、年上から習ったことを試すこととかに夢中だった。だから中学の頃のことなにも覚えてねえの。教師の面白かった小話みたいなのは覚えてても、クラスメートの顔がまるで全然、なにも記憶にない。毎日ルーチンで学校行って、勉強と運動をこなして……ただひたすらその繰り返し」

 

「だから穂村が友達になりたいと思ってくれた俺も、その状態だった頃じゃないかな」

 

 どきりとした。尊は、いつの間にかあふれてきていた唾液を飲みこむ。

 

「人間として《そうすべき》と思ってきたことは《そう》してきたから、他人に対して親切な振る舞いはしてたかもしれないけど、なんていうか……俺の『やさしさ』みたいなものは全自動でふりまかれる反射であって、そこに俺の心とか感情は伴ってないんだと思う。どうやったら波風立たないかって計算もほぼ無意識でできるようになってたから、高校の頃には人を操縦する方法を覚えてたんじゃないか? 庭の整備と似たようなものだった。景観を整えるのに邪魔だから、脇芽や余分な枝を剪定する感じ」

 

 彼が人差し指と中指を立て、ちょきちょきと鋏を動かすように開いては閉じる。

 その顔を見ながら、尊は呆然としていた。

 自分は覚えている。転校してきたばかりのとき、遊作のひっつき虫になってクラスに馴染もうとしなかった自分を、「藤木と穂村は仲良いみたいだから、放っておいてやれよ」と、気遣ってくれた彼のことを。事実、尊は遊作に会うためだけに学校に行っていた。だから、■■の助け舟はとても嬉しかったし、助かったのだ。それで彼という一人の人間に興味を持った。自分が大事にしてきたきっかけは、彼にとっては取るに足らない日常だったというのは、一度彼に突き放された今ならば、素直に当然のことだと受け止めよう。寂しいのは事実だけれど。ぐっと机の下で手を握りしめる。

 

「だからさ、基本的に俺が信じているものは、家族とか、自分より経験のある年上ばっかりなんだよな。同年代は全員、同じ校舎に詰められることになっただけの生物。なにも期待してなかったし、第一友情を微塵も信じちゃいなかった。なにそれおいしいの? ってやつ。もちろん年上にだって尊敬に値しない人間はいるし、子供から学ぶこともある。とはいえ高校生の俺は今の俺より劣っていただろうし、クラスメートを全員見下すことで自意識を保っていたのかもしれない。間違いなく人間扱いはしてないよな。だから操縦なんて言えるわけだろ……」

 

 そう言いながら、再び彼は音を立てずにすうっと吸い物を啜る。

 隣の遊作がどんな顔をしているのか、尊には見ることができなかった。そして■■になにかを言うこともできない。

 そりゃあ、あえて比較をするならば、六歳のときに誘拐され、過酷な実験を強要されたロスト事件被害者の自分たちの方が、ひどい目に遭っているのだろう。最初に■■が言った通り、この現代社会において大人の中でも子供の中でもいじめはありふれている。よくある話だ。だが、ありふれたよくある話だからと言って、そのとき感じた苦しみを軽んじていいはずがないだろう。ましてや比較など。彼の小学生時代の苦い記憶は間違いなく彼の人生を捻じ曲げているのだ。

 

「繋がりに裏切られたから、繋がることをやめたのか」

「うん、そう」

 

 静かに問いかけた遊作に対し、彼はあっけらかんと言い放った。

 

「俺は完全にオフラインのスタンドアローンだった。でもお前らが、俺の今まで積み上げてきた壁を悠に五年はかけて崩した。結構すごいことだと思うんだけどな」

「ああ、俺もすごいことだと思う。今こうして、■■が俺たちに傷跡を晒してくれていることだって、そうだ」

 

 くしゃりと彼は笑った。

 

「だろ? だから今でよかったと思うんだ。高校のときに穂村から『友達になりたい』って主張されてたら、反射で、は? キモ……くらいは言ってたかもしれねえもん」

「ひでえ」

「本当にそうだよな~。たぶん、普通だったら毎年年賀状くれて頻繁にチャット飛ばし合う相手っていうのは友達と呼んでしかるべきだと思うし、俺が壁の中に引きこもったままずっと外に怯えてたからこうなったんだよ。穂村になんで律儀に年賀状くれんのってぽろっと言っちまったのも、それだけ無意識のうちに気を許してたっていうか、甘えてたんだと思うし。は~やだやだ、恥ずかしくなってきた」

 

 ぱたぱたと■■は襟をはたいて胸元を仰ぐ。目尻がかすかに赤くなっている気がした。酒は一滴も飲んでいないのに。だから、これは彼の本音だ。

 

「すごく振り回したし、傷つけたと思うけど、今からでも遅くないなら……今度こそ俺とトモダチになってくれるか?」

 

 そうやって彼が、初めて見るような顔ではにかむものだから。尊は考えるよりも早く頷いて、ずびっと鼻を啜った。遊作だってきっとそうだっただろう。それは向かいにいる彼が気恥ずかしそうに破顔したから、すぐにわかった。

 それを見た遊作が意を決したように眼光を鋭くしたのが、尊には見えた。嫌な予感がする。じわりと背中に汗が浮かんだ。反射的に立ち上がりかける。

 

「……■■、俺も、聞いてほしい話があるんだが」

「あ?」

「えっ、ちょ、遊作、この場でそれは絶対重いからやめよう!? な!? 胃もたれするから!! ■■がキャパオーバーになるから!!」

 慌てて止めに入る尊に対し、遊作は納得いかなさそうに唇をへの字に歪めている。けれど、しばらく無言でじっと尊の目を見て言外に訴えて、彼が絶対譲らないからね! と負けじと見返してくることで、ふうとため息を吐く。

「……それもそうか……」

「はーんだいたい察した。お前らが孤立して二人でべったりするに至った理由だな? じゃあ次の予定立てようぜ、つーか食えよ。冷めるぞ。ここの飯は冷めてもうまいけど、だし巻きはアツアツをホフホフ言いながら食うのが一番うまいんだぜ」

(ホフホフ……)

(ホフホフ……)

 

 尊と遊作は顔を見合わせて、くすりと小さく笑った。怪訝そうに彼が眉をひそめる。

 

「なんだよ」

「いや、お前ってたまに言動がなんか……かわいいよなって」

 

 思わずそう言ってしまって、ぎゅうっと彼の眉間に皺が寄ったから、アッ失敗した! と瞬時に尊は悟った。ご機嫌取りに忙しくなったのは言うまでもない。

 けれども、そのあとは会話は弾むようになったし、少し冷めてしまった卵焼きや澄まし汁に二人とも舌鼓を打った。今までのクールな表情が嘘のように■■の唇は笑っていた。それを見ていると、尊も嬉しくなって、気づけば三人ともかすかに微笑んでいた。

 

 空は晴れている。欠けた月は口の端を釣り上げて笑っている。今夜のことはしばらく忘れられそうにないな。遊作は、胸の内で一人、そう呟いた。




月を見て男を思うなって思ったけど、ジャック・アトラスが「あの月を見ていたらお前が来るような気がした」って言ってるから問題なかった。

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