バーの扉を開けると、ざわめきとガラスをぶつけあう乾いた音が飛びこんでくる。
ムラマサと行ったパブとは違い、多くのNPCが宴を開く、街一番と言えるほど栄えた酒場だ。
長いカウンターにはマスターが立ち、いい加減に置かれた丸テーブルの隙間をウェイトレスが風のように駆け回っている。
クイナはそっと石畳を擦るようにして、足音を立てずにカウンターへ向かった。
こういう人ごみは好きではない。
とにかくうるさいし、空気がよどんでいる気がするからだ。
だが。
「よお嬢ちゃん! こんな男臭いバーになんのようだい?」
早速とばかりに、一番入り口近くのテーブルにいた男が声を掛けてくる。
もちろん彼はNPCだ。
どうやら、プレイヤーが一定範囲内に入ると声をかけてくるタイプらしい。
きっと、女なら疑問の、男なら歓迎のセリフなのだろう。
人ごみと関わりたくないという、現実ゆずりのクイナの努力は早くも水泡に帰してしまったらしい。
さすがにNPCだからと無視するのもはばかられるので、軽く会釈を返して奥に向かう。
「あの」
「ん? いらっしゃい。ご注文は?」
口周りに髭を生やした壮年のマスターは、意外にも親しげな声音で答えた。
見た限りでは、もっと無愛想な感じだと思ったのだが、伊達にこのバーのマスターではないようだ。
「はい、では……」
ふとメニューを見て、クイナは思わず苦い表情を浮かべてしまう。
コーヒー、エール、オートミール、ワイン。それと、ファイアオックスのステーキやサーペントテールといった、この世界独特の創作料理。
要約して言えば、クイナの好きな物が何一つなかった。
クイナは家柄の影響からか、緑茶や番茶などが好きだ。抹茶ならなおよしである。
家族のほとんどが西洋チックな飲み物を飲まないからか、クイナが紅茶やビールを見るのはこの世界に来てからがほとんどだ。
そう言えば、クロスはコーヒーを好んで飲んでいた。
あの濁った泥水のような飲み物は、果たしてどんな味なんだろうか。
「……コーヒーで」
「あいよ。ちょっと待ってな」
マスターはクイナの背中を向けて、何やら機械をいじりだす。
父親の部屋にもあった機械だ。名前は知らない。
「あいよ」
10分ほど待っていると、クイナの前にことりとカップが置かれた。
シンプルな白いカップには泥水――――もといコーヒーがなみなみと満ち、芳醇な香りと湯気を放っている。
なるほど。近くで嗅ぐと良い匂いだ。
カップを顔の前に持ってきて、クイナはカップを傾けた。
苦いッッッ!!!!!!!!
思わずむせてしまった。
すぐさまカップから口を離して、口の中に残ったコーヒーを飲み込む。
だがそれでも苦味が消えず、ひりひりとした苦味が舌を刺激する。
「……、」
クイナはすっかり冷め切ってしまったテンションで、眼前に鎮座するコーヒーを眺めた。
飲む前の興味と期待に満ちた瞳は、もうどこにもない。
これは果たして飲み物なのだろうか。
これをすまし顔で飲んでいたクロスの舌は、果たしてどういう構造をしているのだろうか。
クイナはそんな疑惑を抱きながら、カップに残ったコーヒーを憂うつな目で眺めた。
とにかく。これを飲みきらなければ。
クイナはまるでボス戦に挑むかのように覚悟を決めて、再びカップを傾けた。
◇ ◇ ◇
――――もうあんな物は飲まない。絶対に。
そう決心したクイナは、クエスト受注条件の一つである『注文後一定時間カウンターに座っておく』の達成を待っていた。
激闘の末飲み干したコーヒーは、もうそのカップが残っているだけだ。
(クロスさんの味覚はもう信用しないことにします、絶対に……!)
「なあ冒険者さん。最近この街を荒らす泥棒がいるって知ってるか?」
半ば責任転嫁な事を思っていると、マスターが声をかけてきた。
クエストの会話だ。
返事をしないと会話がリセットされてしまうので、無難な返事を返す。
「いいえ、知りません」
「嬢ちゃんも気をつけろよ。見る限り、腕はあるようだが……そうだ、一つ頼んで良いか?」
「ええ、もちろんです」
「そうか、ありがとう。で、その泥棒なんだけどよ……酒が好きらしいんだ」
「お酒、ですか……?」
「ああ。この前も知り合いが酒樽をまるまる飲み干されちまった。ソイツ、今日の夜も上等のワインを仕入れたし、心配なんだよ」
「そうなんですか……」
「で、嬢ちゃんには、俺と一緒にソイツの酒樽を守って欲しいんだ。どうだ、やってくれるか?」
「はい。いいですよ」
クイナも慣れたもので、NPCへの応対はちょっと手抜きだ。
あんまり小難しい応対をすると、互いの会話がずれてしまうので、これくらいがちょうどよくストーリーを把握できる。
マスターは見るからに顔をほころばせると、にこやかに微笑んだ。
「そうか! じゃあ今夜、貯蔵庫に来てくれないか。そこに納入されるんだ」
クイナは頷き、地図に貯蔵庫の場所が記されたのを確認すると、バーを後にした。
外へ出ると、絹のように薄い霧雨がしとしとと降り注いでいた。
白い霧が街中に立ち込めて、目立つはずの尖塔がまったく見えない。
クイナがいるのは町を穿つ大通りなのだが、見えるのは20メートルほど先までで、それから先は霧が視界を妨げていた。
それはまるで、かつてクロスやムラマサと戦い抜いたボス戦を彷彿とさせる。
この階層は気候すらロンドンを模しており、雨が多い。
霧吹きを吹きかけられているかのような霧雨の中を、何人かの人が行きかっている。
クイナも合羽(かっぱ)代わりの撥水マントを取り出すと、包まるように体に纏った。
雨の中に一歩踏み出し、霧の中を歩き出す。
フードが水を弾く音が、クイナの耳に響きだした。
いつも読んでくれてありがとうございます。
コーヒーについて色々言っていますが、気を悪くしたなら申し訳ないです……