ハイカラさんが通る【完結】 作:代理投稿者サクマ
そんなある日のことだった。
目が覚めて朝食を取り終えると、彼女が出し抜けに言い放つ。
「おねえちゃんが全然デートに連れて行ってくれないので、今日はわたしがおねえちゃんをデートに連れて行こーと思います」
私は瞬時に樟脳味の倦怠を感じて、はあ、それで? などと相槌を打ったが、実際のところ返答に興味もなかったし、そもそもどんな返答が返ってきたところでそれに行こうという気はなかった。
こいしは過剰に勿体つけた後にようやっと口を開いた。
「秘湯巡りを、敢行しようと思います」
「秘湯巡り」
彼女の口から放たれた言葉はデート、という単語とはかけ離れ、鄙びた浅梔子色の響きを纏っていた。悲しいかな私にとってその鄙びた色、率直に言えば枯れたおっさんの陽気さと似たその色は、多少なりとも魅力的な色をしていた。
「浴衣も用意したのです」
「ゆ、浴衣」
おねえちゃんのはこっちね。と差し出された浴衣を、私はおずおずと広げてしまった。それは卯の花の様な色をした着物で、朱色の小さな水玉で、朝顔の柄が可愛らしく結ばれている。帯は鮮やかな血液色をしていた。私は自分がこれを着た姿を想像しては、すぐにそれをかき消した。されど霧散したイメージはまた直ぐに集まって肖像を成す。私がそれをまたかき消していると、今度は頭の片隅で着合わせる為の靴を記憶の中に探し始めていた。
「ね。行こうよ。いいでしょ?」
「い、いや、えっと」
「お願いお願い」
「う、うーん」
「一生に一回のお願い! 五生(?)だから」
……。
「ま、まあ、温泉ぐらいなら。行ってやらん、ことも、ないけど」
「やったー! じゃ、早速準備するね!」
「お、おうよ」
一生に一回のお願いであれば仕方ない。私は彼女の提案を魅力的に感じてしまった悔しさを遠くへ追いやるように、そんなことを考えながら、そそくさと出発の準備をした。ああ、滑稽だ。
「ね、ね。手を繋ごうよ」
「イヤ」
彼女の案内に連れられて、私は地底の深部まで来ていた。広い空洞になっている地底の深部、その空気はジメジメとした水気を孕み、地面は湿気でぬらぬらとした光沢を帯びていた。一応、程度に慣らされた岩とも土ともつかぬ地面は硬く、ぬかるんでいるということも無い。お陰で足元が泥に汚れることもなく、比較的軽い足取りで歩くことができた。しかし、地面はところどころ蔓が這っていて、気をぬくと足を取られそうになる。それで転びなどすれば、着物は汚れてしまうし彼女の前で醜態を晒すことになる。結局私は、そこそこの注意を払いながら地底の深部を歩いていた。
「ねえ、あんた。これどこまで歩くのよ」
「えっとねー。うん、多分もう少しかな」
ここに降りてから暫く歩いたけれど、今のところそれらしい秘湯は見当たらなかった。私は彼女のアバウトな言葉に、多少不安を感じながらも彼女の後を追う。しかしながら、いつも殆ど決まった場所しか歩かない私の瞳に、見慣れぬ空洞の風景は新鮮さをもって映えていた。
水気の多い空気はやはり重たい気もしたけれど、しかし人の入らない場所だからだろうか、いつも居る地底の空気と比べると、そこには幾許かの清涼さが在った。広い空洞のお陰で、そこまでの暑さも感じない。どこかひんやりとした空気を、私は彼女に気付かれぬ程度に深く吸って、吐いた。すると、多少の心地よさが私の体を吹き抜けていった。
それから、少し遅れて彼女も大きく深呼吸をし、口を開いた。
「うーん、ここまで来ると空気もさすがに綺麗だね。でも、なんでなんだろう」
「さあ」
「さあ、って! 会話が全然続かないよー」
「いいじゃない、別に黙って歩けば」
「つまんないじゃん」
そんなこともないわ、なんて言葉が浮かんだけれど、それは言わないことにした。私は秘湯を探して広い空洞を歩くのが、不思議と楽しくなってきたのである。もっとも、これで彼女さえいなければ、もっと穏やかに楽しめるに違いないけど。
「イソカジカ」
「カガミダイ」
「イノコ」
「コイ」
「イカナゴ」
「ゴンズイ」
「なにそれー!」
「魚よ。髭のある、ナマズみたいな」
「えー。い、い……イノシシ!」
「魚じゃないじゃない」
「魚だもん!」
「イノシシは魚じゃないわ」
「イノシシって魚がいるのー!」
「どうだか」
彼女からしりとりをしようと持ちかけられた際、私はもちろん断った。しかし、すると彼女は一人しりとりを始めた。あんまりしつこく続けているものだから、私は鬱陶しくなって、仕方なく一緒にやってやることにしたのだ。それにしても、イノシシなんて魚がいるはずもない。水槽が空っぽになったからって、山から使者を差し向けて来るとはとんだ卑怯者だ。――後日調べたらイノシシという魚は、いた。――。
「いるのいるの! おねえちゃんが知らないだけでしょー」
「はいはい。わかったわ。じゃあ、シマダイ」
「また〝イ〟だ! う、うーん」
「イルカは哺乳類よ」
「知ってますー! うーん、うーん」
「勝負あったわね。時間制限を設けなかったのが悔やまれるわ。精々悩みなさい」
「く、くやしいー。絶対思い出してやる」
古明地こいしはイから始まる魚をぶつぶつと呟きながら思索をしているようだ。しかし残念ながら、イトマキフグやインヒシャ、イノミーダイ等のメジャーどころは既に私が潰していた。彼女はもう、詰んでいるのだ。
それにしても、肝心の秘湯はあれから未だに見つかっていない。秘湯巡り、なんていうものだから、もっとわんさか湧いているものだと考えていたのだが、こいしはいつまで経っても、もう少しだよ、多分、と答えるのみだった。こいつ、秘湯巡りだなんて言っておいて、本当は何も考えずにここに来ただけなのではないか。古明地こいしならばあり得そうな可能性を嗅ぎつけてしまった私の心は、隣で魚の名前を呟き続ける彼女を恨み始めた。
「あ!」
「ひっ」
唐突に叫ぶ彼女に驚いて、私は情けない声を上げてしまった。一体なんだというのだろう。
「アネモネ。アネモネだよ!」
「アネモネはたしか花でしょ。まさか今度は花を魚だなんて言い出すんじゃないでしょうね」
まったく彼女にも困ったものだ。ヤマメやキスメも卑怯だったけど、ババ抜きに麻雀を持ち込んだりはしなかった。山の使者が通ったからって、今度は野草を摘んでくるとは。――後日調べたら、クラウン・アネモネフィッシュというのがいるらしいが、だったら始めは〝ク〟じゃなければいけない。私の勝ちだ。――。
そういえば最近、あの二人に会ってない。私は二人のことを考えて、少し寂しくなった。
「違うよ、見て! なんでこんなところに咲いてるんだろう」
「あら……」
こいしの指差す先を見やると、そこには彼女の言う通り、一輪のアネモネがひっそりと咲いていた。それは白く、小さな花だったけれど、まるで作り物のような強さを持って、しっかりと花弁を広げていた。
「こんなところに咲くなんて。おねえちゃん、ほら見て」
「み、見てるったら」
こいしは私の袖を引っ張って、私の体を花の近くへと引き寄せる。同時に、彼女の体と私の体の、距離も縮まった。
「でも、季節外れだよね。まあ地底じゃ季節なんて関係ないけど。あ、地底だから余計不可解だよ。なんで咲いたんだろう。しかも一輪だけ」
こいしは繁々とアネモネを見つめては、なんでかな、どうしてかな、と呟いてる。あまり花に詳しくない私にとっても、地底の深くに一輪咲いたそれは不可解だった。しかし、私がそれを見て感じたのはそんな不可解さよりも、その花の綺麗さだった。どこかのっぺりとした深い白の花弁に囲まれた花冠は鮮やかに黒く。白い花弁と黒の花冠は素晴らしいモノトーン味の美しさを織り成していた。
「綺麗だね。綺麗すぎてなんか、作り物みたい。あはは」
彼女はそう笑って、
「行こっか」
と歩きだした。
私も一寸の間をおいて、彼女の後を追うように歩き始めた。しかし、私はなんだか、あの白いアネモネに後ろ髪を引かれるような気持ちで、見えなくなるまでに何度も、振り返ってしまったのだった。
その後、結局秘湯は見つからず、自宅に戻った私は彼女を連れて、旧都の大衆浴場へ赴くはめになった。
大衆浴場に向かうまで、こいしは何度も、手を繋ごう、と口を開いたが、私はもちろん、その一切を聞き入れることはしなかった。