ハイカラさんが通る【完結】   作:代理投稿者サクマ

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 目の悪い犬が吠える。惣菜屋の婆さんは誰かに向けて怒鳴っている。雨は降晴れでもない。晴天と雨雲の狭間に位置するのは鈴奈庵って名前の貸本屋だった。
 僕が手にとった本は、
『超ひも理論とは』『カオス理論の実証』
『善悪の彼岸』『罪と罰』
 こうだ。ああ、痺れるなあ。小鈴さんも、僕に一目置かざるを得ないだろう。
 おっと、小鈴さんに“お固い頭でっかち”だなんて思われないよう、これも借りておこう。アガサクリスQの新刊。
 読書をただの娯楽だと考えている品性のひの字も解せないアホの左が好む本を借りるのは癪だけど、小鈴さんにとってそういう“ギャップ”は、僕の魅力の一つと映るに違いない。
 ほらみたことか。彼女、僕の選んだ本を見て目を輝かせてる。あー、このままいけば小鈴さんとお付き合いできる日は近いかも知らん。左のやつ、さぞ悔しがるだろうなぁ。

 貸本屋を出れば目の悪い犬が僕をめがけて吠える。ここらへんは躾のなってない犬ばかりだ。僕は目一杯力を入れて犬を睨みつける。まさか僕にびびっているだなんて考えやしないが、何故か犬はこうすると、いつも黙った。
 犬の睨めば黙ることはよしとして、問題はいつもここから始まる。目を離した瞬間に、やつは僕に飛びかかってくるのだ。つまりここからはじまるのは持久戦。視線を差し合う膠着状態だった。

「おい。犬と睨めっこして楽しいのか?」

 二、三分の緊張の時を打ち破ったのは馴れ馴れしく、そして頭の悪そうな声だった。左だ。

「左お前、馴れ馴れしいな。話しかけるなって言っただろ」
「おいおい、まだ怒ってるのかよ。たかだがあんなことで」

 聞いているだけで頭の悪くなる左の声に犬は逃げた。畜生に倣うのは癪だけど、僕もとっとと帰ってしまおう。

「なあ門。あの爺さん、結局――」
「――うるさい! 話しかけるなって、言ってるだろ!」

 僕が怒声を上げてしまった原因が、アホの左にあるのか、それともあの、流行病の爺さんにあるのか、僕にはどうも、判然としなかった。




灰色の季節 3

 家に帰ると、家の前で暴動が起きていた。夕日の橙が暴力的に橙だったから、家の前の人混みは、きっと暴動に違いなかった。しかし、そんな人集りを青ざめた顔で愕然と見つめている父さんを見つけたとき、夕日の橙に押し止められていた僕の焦燥が、胸中、躍動を開始した。

 

 少し震える足を操作して父さんの隣まで行くと、僕が尋ねるまでもなく、父さんはやおら口を開いた。曰く、母さんが死んだらしい。

 

 僕は矢庭に地面を蹴って、玄関を潜ろうとしたけれど、周りの、父さんの友人やなんかに邪魔されて、家に入ることは叶わなかった。僕は大人たちに押さえつけられながらでかい声で疑問符を叫んでいたと思う。そんな僕に父さんがゆっくりと近付いてきて、父さんは僕の顔をしっかりと両手で押さえて、静かに、でも確かに、口を開いた。

 

 母さんは、流行病で死んだらしい。

 

 

 

 大人たちが僕を押さえつけるのに飽きた頃、僕は走った。お姉さんの住む長屋は桜並木沿いの川辺にある。だから、橙の世界も、桜の木々も、舞い散る淡桃の花弁も、爺さんが死んだのも、母さんが死んだのも、屋台の匂いも、捨てられた串に群がる蟻達も、目付きの悪い犬も、それら全てが、お姉さんのせいに思えた。

 

 玄関を潜ると、そこには夕陽に彩られた壁と畳があるのみで、お姉さんの姿は見当たらなかった。窓から差し込む橙は徐々に色調を落として、終いには紺色になった。

 月明かりが妙に明るく思えた頃に、玄関の戸が開いて、お姉さんが帰ってきた。

 

「ちょいと、あんた。勝手に他所様の家に上り込むなんて、なに考えてんだい」

 

 お姉さんの声色がいつも通りの軽さで、僕は胃が痛くなった。

 

「……どこに行ってたのさ」

「どこって。……ああ! さっきあんたの母さんと会ったよ。里を歩いてたら、偶然さ」

「嘘つくなよ。母さんは死んだんだ。お姉さんのせいで」

「死んだ? なに言ってんだい。さっき会ってきたって、言ったばかりじゃないか」

「――とぼけるなよ! 母さんは流行病で死んだんだ! お姉さん、医者だろ! お姉さんがちゃんと薬を飲ませてたら、母さんが死ぬこと、なかったじゃないか。あんたのせいだ。あの、爺さんにしたって、みんな、あんたのせいだよ!」

「流行病? ち、違うよ! あんたの母さんは自分で首括って……あれ? 違う、あたいはさっきあんたの母さんと会ったばかりなんだ。ああ、違う! 違うんだよ! あたいに、手紙が届くんだよ、手紙が届くんだ」

 

 

 

 それから暫く、お姉さんは頭を抱えて、手紙が届くんだ、と、それを繰り言にした。その時の僕が、そんな様子のお姉さんにかけられる言葉といえば、「あんたのせいだ」なんて言葉で、お姉さんから返ってくるのは、「あたいのせいじゃない」なんて言葉と、「出ていっておくれ」という言葉のみだった。

 

 僕は家に帰るのが嫌でたまらなく、夜が白むまで里を徘徊した。そのときの発見といえば、鈴奈庵の開店の早さだ。詳しい時間はわからないが、道に人の歩かないことから、相当に早い時間だったと思う。

 

 僕はそのとき、鈴奈庵で借りた本を持ったままでいたから、大人たちに押さえつけられた際、本を土で汚してしまったことを詫びるついでに、それらの本を返却しようと考えて、鈴奈庵に入った。

 

 入って、まず本を汚してしまったことを詫びると、小鈴さんは笑って許してくれた。だからついでに、僕は小鈴さんに告白をした。

 

 ――小鈴さん、僕と付き合ってはくれませんか。母さんが死んだんです。

 

 こんな具合に。

 

 当然、断られたので、僕はアガサクリスQの新刊以外を返却して、貸本屋を後にした。

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