ハイカラさんが通る【完結】 作:代理投稿者サクマ
ですが一度だけ、思うがままではいかなかったときがあります。ずっと待ち望んでいた、山を歩いて滝をみようという、滑稽な、夏の、一番長い日のことでした。
愛とは、一体なんなのでしょうね。その答えはきっと、そんなことをちっとも考えない人たちの、心の中にのみ存在しているのかもしれません。とにかく、私にはわかりませんでした。わかりませんでしたが、その日、彼女と一緒に食べるためのお弁当は、ほとんど勝手に出来上がってしまっていました。彼女の好物さえ知らないままに、彩りだけに気を使った、普段、神奈子様のために作るそれとなんら変わらないお弁当です。いえ、神奈子様の場合は鯖の塩焼きやら、玉子焼やら、なにか一つでも好物を入れないと諏訪子様伝いに文句をつけられるので、したがって、好物の一品に愛情なんてものを込められなくもないのです。けれど、彼女の場合は本当に、なにもわからないものですから、為す術もありませんでした。事前にやんわりと伺ってみても、わからない、わからない、と繰り言にして、また、不安げに笑ってみせるのです。果たして自分の好物がわからないなんてことがありましょうか。彼女はやはり、私の苛立ちを逆なでするために、そんな少女を演じていただけなのかもしれません。だとすれば、それは憎悪に他なりません。どうしたって驚かずに、自分を叱責するばかりの私に重なり積もった怨みに他なりません。ですが、それは私にしても同じことです。私は彼女が大嫌いでした。彼女が照れるみたく笑うたびに、彼女をどこか遠い、暗い世界にひとり、置き去りにしてやりたいような気が起きました。けれど、ああ、笑わないで下さい。けれど同時に、そんな世界の暗がりから、彼女を救ってやりたいとも思っていました。できることなら、彼女の傘になりたいと、そう思っていたのです。だって、ほら。ちょうど、そんな笑い方。彼女ときたら本当に、なにもわからなさそうにするんですもの。
ほんとうに、彼女はどうして傘をささなくなったのでしょう。以前なら晴れていたって、彼女は絶対に雨から守られていたのに。ああ、一つ思い出しました。あの子と最後に歩いた雨の日のことです。優しい雨でした。妙に汗ばむ暑い日の、懐かしい匂いのする雨でした。アスファルト。彼女はやはり傘をさして、隣を歩きながら、きっと、母親に電話をかけていたのでしょう。塾かなにかで遅くなるとか、なんとか言って。ああ。実際、あの傘は焦れったかったなあ。だけどね、降りやめばいいとは思いませんでした。むしろ、このままずっと、降り続ければいいと、そう思っていたんです。
ええと、どこまで話しましたっけ。ああ、そうだ。そうです。彼女が私の思い通りにならなかった日のことですね。改めて言葉にすると、私はなんて酷い話をしているのか。いえ、いいんです。どうせ、あとすこしのことですからね。あなた方も、大丈夫ですか。お友達も、ずいぶん減ってしまったようですよ。笑いすぎて、顔が鬱血した、熟れすぎた、トマトのようになっています。ほら、もう少しで、みんな話してしまいますから。落ちないように、しっかりと、聞いていてください。こんなつまらない話、あなたが悪いんですよ。だって、そんなふうに、笑うから。
ええ。
とにかく私はお弁当を持って、山道を歩いていました。山道は山の管理地と、関係者用のルート、僅かな私有地で成されていて、関係者用のルート以外は登山者や観光、修験僧のために誰でも立入れるようになっています。私も、傘を持っておずおずと隣を歩く彼女も、誰でも立入れる道を歩んでいました。立ち入り禁止のロープや看板の多い代わりに、広く、綺麗で、穏やかな道でした。そのころは神社の管理すら投げ出して、彼女の住まう長屋に泊まりきりでしたから、出発は里からほど近い川沿いの、古びた長屋の階段です。彼女には何でもおんなじだったかもしれません。ですが、彼女が私に会いにくるとき、いつも通っているであろう参道を歩くというのも芸がないように感じて、山に入るなりすぐに道をそれ、違った道を選びました。きっと、通な登山者や観光客用の山道でした。ところどころ、鬱蒼と茂った木々が開かれ、どれほど登ったかを見晴らせる、休憩用の避暑地があり、それまでそんなものの存在を知らなかった私は都度、諏訪子様と神奈子様の両名に、行き過ぎた過保護さと、面映さを感じたものです。彼女といえばカヤの枝を指して、きれい、とか、なんだかたのしい、だとかはにかむばかりで、感嘆を除けば、会話という会話はやはりありませんでした。美しい木々や木漏れ日を指す彼女を眺めれば、私はまた、ひどく意地悪な気分になって彼女に尋ねました。今指してる植物はなに? どうしてきれいなの? 彼女は焦ったみたいに、困ったみたいに、言葉を詰まらせながら、それは、だって、わかんないけど、きれいだから。などと、自信なさげに笑いました。結局、そのなかで彼女が知っていたのはヤブムラサキのみでした。じゃあそれ以外の植物はきれいじゃないのかと尋ねれば、彼女は泣きそうになりながら、弁解にもならぬ言葉をしどろもどろに絞り出していました。
それから、それは彼女が下を向いて、焦燥を梳かすみたく、水色の髪に手を潜らせたときのことでした。他のもきれいだけど、名前がわかんなくて。何の不自然さも、言い訳がましさもない筈の言葉は、不思議なほど、不自然に、言い訳がましく聞こえました。またなにかを言ってやろう、頭の中で彼女のこんがらがりそうな言葉を考えつつ、隣歩く彼女の左腕に隠れた横顔を眺めていると、すこし不健康に白い彼女の腕に、一匹の虫が留まったのです。蚊だったとは思いますが、あれは果たして蚊だったのでしょうか。とにかく、お腹の特徴的な虫でした。赤黒く膨れた腹部は見るからに血を吸う虫然として、彼女はきっと、あの怯えた表情で、その醜悪な腹部を見つめていました。私に助けを求めるともなく、ただじっと、見つめていたのです。私も虫が大の苦手でしたから、怯える彼女にただ言葉をかけたのみです。潰さないんですか。尋ねると、可哀想だから。と、彼女はそう言って、振り払おうとする素振りすら見せず、ただ為すがままに、グロテスクな虫の吸血をじっと見つめました。美しい木漏れ日の山中で、私は漠然と、二つのことを考えました。腕に虫の触れる埃に似た異物感、為すがままに血を吸われることは、きっと愛だと思いました。それから、彼女の華奢な身体にも、人となんら変わらない、虫に求められるような赤い血が流れていること。
妙に生々しく風が吹いて、不意に、頬に冷たい感触を感じました。気がついてから降り出すまでの時間というのは、不思議なほどに一瞬です。空を見上げた途端に、雨はなにかを急かすよう、瞬く間に降り出してしまいました。明るい夏を騙すような夕立です。太陽が舌を出して雲に隠れていくのを、たしかに私は見たのです。
お弁当の包みを持っていました。しかし、傘は持っていませんでした。私は濡れたくなかったので、いつのまにか虫のいなくなった彼女の腕に視線を移しました。すると、彼女は言うのです。わちきの家が近いよ。濡れた山道を行くぐらいなら、早苗ちゃんの家よりずっと、わちきの家が近い。妙な口調でした。普段の彼女らしからぬ、整然とした口調。そのまま歩き始めた彼女の背を追ううちに、私はどうも不安になって、なにか、取り繕わなければいけない気が起きました。小傘さん、小傘さんの傘をさしましょうよ。そしたら、二人とも、濡れずに済むんだから。だめだよ。これはわちきの、大切なものなんだから。使わないと意味がないじゃないですか。いくら早苗ちゃんでも、だめ。
為すがまま、彼女とお弁当がだめになって、気付けば長屋に着きました。季節というのは本当に不可解なもので、例えば春に訪れた桜並木と同じ場所を通っても、それが冬なら、同じ場所と思えないのとおんなじに、彼女の黴臭い四畳は、夏の日差しに照らされたそれとは全く別の、真新しく古びた印象を帯びていました。懐かしくて、苛々する香りがしました。黴と、雨と、衣類の香りです。彼女は家に着くなり、濡れちゃったねなんて、いつも通りに笑うものですから、思わず彼女を押し倒しました。夕立に晒された体を拭く間も無く、湿気っていた布団は決定的に濡れてしまいました。いやがる彼女の爪が、腕や背中に突き刺さりました。彼女は爪に着いた私の血を見るととたんにしおらしくなって、それからはずっと、いつもみたく、申し訳なさそうに、諦めたように、曖昧に、いえ。彼女が笑ったのは、彼女の髪を撫でたあとです。つまり、彼女の爪はずっと、私の肌に突き立てられていたのでしょう。それを愛だなどとは思いませんでした。それはもっとくだらない、なにか、別のものだと感じました。私は彼女のことなんて何も知らなかったし、知る気だって、ちっとも、なかったのですから。何時間も経っても、空は明るいままでした。代わりに雨のよわくなって、しとしと、しとしとと、いつまでも、屋根や、地面や雨樋を打ち続けていたのです。どうして、陽が落ちてしまったのでしょう。気付けば外は夜の世界で、雨は、わかりません。覚えていません。でもきっと、降っていたと思います。だって、そのとき私の考えていたことを、よく覚えていますから。雨が降ればいいのに。きっとそんなふうに、何もわからなさそうな彼女の寝顔を眺めていました。生暖かく体を湿らす、夏至の夜でした。