ハイカラさんが通る【完結】 作:代理投稿者サクマ
体が少女と並び、二つある流しの一つでコップ類を洗っている頃だ。
私はやはりどうしても暇で、またも余所見をして、食堂にある窓の外の、空を眺めていた。
窓は台所からでも見えた。
窓から見える空はやはり青く。でっぷりと肥えた雲は白く。夏が始まってからずっとあの廃屋のような家で過ごして来た私は、どうしてもそんな空に焦がれずにはいられなかった。
そういえば、仕事が終われば影狼と居酒屋に行くのだった。空を眺める内に、その事を思い出して、私の心は踊った。
空を見ながら、この煩雑な仕事が終わる事を願っていた私の視界を、不意に何かが横切った。
気がつけば、私の視界の端にはあの〝小さなミミズ〟が現れていた。私はぼんやりしながら、ミミズを目で追いかける。
ミミズが逃げる。追いかける。
首から上が、四十五度回転する。
ミミズが逃げる。追いかけ、ぎゃっ。
体が、私を泡だらけの両掌で押さえつけた。
同時に、パリン、と、コップの割れる音がした。
「ああ!おせきちゃん、……やっちゃったね」
隣で皿を洗っていた少女が、僅かの驚きに憫然を混ぜた視線をこちらに向けた。私が俄かに焦りを感じて下を向くと、私の足元には粉々になったコップの欠けらが散らばっていた。
私はこのとき、計らずも〝しまった!〟のポーズをしていた。
当然、音を聞いた婆さんは店の奥からやってきた。
コップを見ると婆さんは、
「ああ!〝やった〟よこの子は。全く、大方余所見しながらぼんやりしてたんだろ。仕方ない子だね」
「まあ、割れちまったもんは仕方ないが、しっかりしておくれよ。全く」
それから婆さんは、全く、全く、と、いつまでもぼやきながらまた奥へと引っ込んで行った。
「まあ、お婆ちゃんの言う通り。割っちゃったものは仕方ないよ。おせきちゃん、あんまり気にせずにね。まあ少しは気をつけないと、ダメかもだけど」
少女はそう言って、えへへ、と笑って、流しに向き直しては皿洗いを再開した。
「あ、ああ。すまない、気をつけるとするよ」
体はいつまでも私を責めるように、その泡だらけの両掌で、私を首へと押し付け続けるのだった。それはもう、ぐりぐりと。
それから、少女と私、或いは少女と私の体が皿洗いを終えると、しばらく私は少女と共に暇を持て余していた。その間ずっと少女は私に語りかけては、他愛もない話を繰り広げるのだった。
あまり話題の持ち合わせのない私は、少女の話に相槌を入れて頷くことしかできなかったが、それは意外な程に楽しい時間だった。
日暮れ、そんな楽しい時間を打ち破るように、食堂に人が雪崩れ込んできた。客が雪崩れ込んでくると、婆さんは店先に出て『商い中』の看板を裏返した。少女から後で聞いた話だが、この食堂は基本、昼、夕の〝二回転〟からなるらしい。
その客の多さに私は面食らったが、婆さんと少女はテキパキと注文をこなし、体もまたテキパキとそれを運んだ。
そうして、空の橙色と紺色が程よい階調を為した頃、私の食堂での業務が終わった。影狼との約束があったので〝賄い〟は断った。
店を出ると、体は私の頭頂部を、ぽんぽん、と二度叩き、私にその主導権を明け渡した。
瞬間、私の内に解放感が駆け巡り、私は思わず伸びをする。
ぐ、ぐ、ぐ、と体を伸ばすととても気持ちがよくて、私の口から、勝手に呻き声が洩れだす。
頭上で絡めた指と指とを解き放ち、一つ大きく息をついた。
紺と橙が織りなす空、西の方角で、沈みかけている太陽はギラギラと輝いていて、それはまるで、今日の労働の終わりを讃えているようだった。
「まあ、私、何にもしてないけどな」
誰に言うともなく、私は独り言ちて、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めた。
胸中に湧き上がる借りてきた達成感と共に、地面を数歩踏みしめると、私は或ることに気がついた。
「いつもの居酒屋って、何処にあるんだ」
私は仕方なく主導権を〝体〟へと明け渡した。すると体は私の頭を、ぽんぽん、と二度叩いて、私の知らない〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めるのだった。
体が私を居酒屋へと運ぶ間、私は夕空にうっすらと浮かぶ丸い月や、里の往来を眺めていた。岡持ちを気怠そうに担ぐ者、何やら小銭袋を遊ばせて鼻歌を歌う者、手を繋ぎ家路を辿る親子。そんな夕空に照らされた夏の景観は、私にどこか憧憬の念を抱かせた。
しかし、私は直ぐに居酒屋に今泉影狼の待つことを思い出した。それを思えば、憧憬は情景へと変わり、その情景は一層美しく映えるのだった。
ああ、居酒屋に着いたら、いよいよ私の夏が始まってしまうな。
私は無自覚に微笑んでいた。
不意に、体が足を止めた。能天気な想像を頭に浮かべている頃、体が急に主導権を寄越すものだから、私は少しふらついてしまった。
少し蹴つまずきそうになりながら眼前の建物を見やった。
私の目の前には、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟が待ち受けていたのだった。