ハイカラさんが通る【完結】 作:代理投稿者サクマ
それからの私はというと、昼は食堂で働き、夕暮れ、仕事が終われば影狼と呑む、そんな日々を送っていた。
〝いつもの居酒屋〟は、妖怪だということがバレてを出入り禁止になったので、私と影狼は新たな行きつけを見つけるべく、夜毎店をハシゴしては呑んだくれていた。
影狼との酒席での話題は専ら〝人間について〟、或いは〝妖怪の尊厳〟、それらに付随する話だった。それから、比較的よく話題に上がったのは〝姫〟の話だった。〝姫〟の話をする影狼の表情はいつもどこか〝うっとり〟としたものだった。私はそんな影狼の語る〝姫〟の話を聞いて、件の姫に一度会ってみたいと考えるようになった。
しかし、その機会はなかなか得られずにいた。なんでも姫――わかさぎ姫は〝水棲〟の妖怪らしいのだ。その特性と一目見ただけで妖怪と判別のつく容姿から、人里に出るのは難しいようで、会うにはこちらから出向く他ないという。
私は影狼に何度か会いに行く提案をしてみたが、影狼はその度にうやうやしく私の提案をはぐらかすのみだった。
そんなわけで、影狼の案内なしではわかさぎ姫の住処に辿り着けない私は、影狼のうっとりとして語る〝姫〟には会えないままでいた。
そんなことよりも、夏の日差しの照りつける日々の中、私にとっての〝切実な問題〟は働き先の食堂に在った。
それは、また一段と暑い日のことだった。
私は日中目が覚めて、いつも通りに食堂へ向かった。道中、逃げて行く水溜まりを追いかけていると人里へはすぐに着いた。
食堂の前に来ると、いつもならそこで体へと主導権を渡すのだが、その日、私はそれをしなかった。おい、今日は私にやらせろよ、と、それは一種の悪戯めいた思いつきだった。
結論、その日の昼の業務は散々だった。雪崩込む注文の山中にて、皿を二枚割った頃、私は体へと主導権を明け渡したのだが。体は、やると決めたらやり通してみろ、などと言わんばかりに、主導権を受け取ることはなかった。
婆さんはそんな私をみて、料理を作る手を止めることなく、全く、全く、とぼやき続けた。それから更に二枚ほど皿を割ると、ついには少女までもが、なんでかなぁ、どうしてかなぁ、と、呟き始めた。それはちょっとした地獄のような時間だった。そんな地獄の中、軽率な思いつきで業務に当たってしまったことを、私は猛烈に後悔したのだった。
しかし、昼間の客をなんとか捌ききり、テーブルの上も片付いた頃、私はそんな身を焦がすような後悔も忘れ、夕暮れあたりにもう一度起こる〝注文の土砂崩れ〟までの時間を持て余していた。素直にいえば、暇だった。暇で、ぼんやりしていたのである。
それは少女も同じだったようで、その辺りの時間は婆さんが店の奥へと引っ込むのをいいことに、少女は私に楽しげに話しかけてくる。
お皿、あんまり気にしちゃダメだよ、なんてのを口開けに、少女の話は続いた。
これも、私にとって問題の一部だった。少女の快然たる表情や話口調は、連日の影狼との酒席での会話を私に想起させずにはいなかったのだ。
話もほどほどに、それにしても、暇だねえ、暑いねえ、などの言葉が頻出し始める。私はそんな少女に対し、なんとはない罪悪感を抱きながら、ああ、暑いなあ、なんて相槌を打っていた。
空が俄かに朱を帯びる頃、それは起こった。
やることが見当たらず、そんな時間が昼からずっと続いていた私は、いよいよもってぼんやりとしていた。
そんな普段にも増して〝ぼんやり〟な私の視界に、例の小さなミミズが現れたのである。気付けば私は〝ぼんやり〟と、視界の端のミミズを追いかけていた。体も〝ぼんやり〟していたのか、それを止めることはしなかった。
逃げるミミズを追いかけて、首が、くるん、くるん、くるん、と三回転したころ、私はハッとした。私の眼前には、目を丸くした少女の顔があったのだ。
少女は途端に腕を組み、なにやらぶつぶつと高速で呟き始めた。私はそれが、少女が何か自身を納得させる際の癖だということを承知していた。
私は焦って、違うんだ、これはその、特技であって……などと頓珍漢な弁明を試みるも、少女の〝呟き〟が治まる気配はなかった。
少女は時折首を傾げては、いやでもなぁ……、たしかに首が……、と呟き続けた。それから少しの間、少女のそれは続いたが、不意に少女は、コク、コクコク、と二、三頷き、その顔を上げるのだった。
おせきちゃん、ちょっと。と、少女は私の手を引いて、店の裏口から、其処の路地まで私を導いた。
路地の中、幅の狭い排水路の木蓋の上で、少女は私の方へと向き直しては、出し抜けに私に尋ねた。
「おせきちゃん、私の名前、覚えてる?」
私は少女の問いに対して、沈黙する他出来なかった。私は少女の名前を知らない。夏が始まってから、聞く機会が無かったのだ。無論、気にならないわけでは無かったが、名前を忘れたので教えて下さい、などと、言えるはずもなかった。
瞬間、私は、私が何か失敗する毎に励ましてくれたり、婆さんの永遠に続くような叱責から私をかばってくれた少女の姿を思い出し、少女に対して、とても申し訳ない気分になった。無論、連日の影狼との酒席での会話――人間いじりも、少女に対する罪悪感をより辛辣なものへと変えた。
その、ごめんよ。と口を開こうとする私を、少女の声が遮った。
「やっぱりね。おせきちゃん、また、なんだ」
また。また、〝また〟。
その一言は、私を酷く当惑させた。
「まあ、今日はやけにお皿割るもんだから、怪しいなあとは思ってたけど」
私は、少女の言わんとするところを今一つ解さないままでいた。
「おせきちゃん。私の前で首回すの、今回が初めてじゃないんだよ。覚えてないだろうけど」
「おせきちゃん、お皿割ったり、ぼーっとすることが多くなると、いつもそのうち首を回すの」
「そして、首を回すたびに、私の名前も忘れてる。あーあ、ショックだな、私」
少女は、態とらしく私を責めるような口調で言ってのけた。
その時、私はどんな表情をしていただろう。もしかすると、鳩が豆鉄砲喰らって忽ち禿げて、その代わりに筋骨隆々になったような顔をしていたかもしないし、街行く人が突然往来の筋骨隆々の鳩を捕らえて噛り付いたのを目撃した雀のような顔をしていたかもしれない。わからないが、一つ言えるのは、それほど間抜けな顔をしていだであろうということだけだ。
「じゃ、じゃあ、知ってたのか。私がその、人じゃないって」
「まあね」
少女は、えへへ、と笑って、 言葉を続けた。
「最初に分かった時なんて、今日よりもっとショッキングなもの、見せられたんだから」
少女の語るショッキングなもの。それは、在りし日の〝私〟が屈んだ際、首が、ぽろっ、と落ちて、転がる首を、首から上のない私の体が慌てて追いかけた、と、そういう話だった。
「でも、あの時のおせきちゃんの素っ頓狂な顔ときたら……」
少女はまた、えへへ、と笑った。私の口からは、思わず乾いた笑いが二、三溢れた。
「じゃあ、婆さんは。婆さんも知ってるのか?」
「お婆ちゃん?気付いてないんじゃないかな。まあ、お婆ちゃんもあれで勘がいいから、気付いてるかもしれないけど」
「そ、そうか……」
少女は、まあとにかく、と切り出して、
「そろそろ戻らなきゃ。もし混んでたら、お婆ちゃんカンカンだよ」
あんまり気にしちゃダメだよ、少女はそう言い残して、足早に店へと戻って行った。
気にしないなんてそんなこと、出来るわけないよなぁ。その時の私の心中に浮かんだのは、そんな言葉だった。
私は一つ溜息を吐いて、視線を下に向けた。そこには大雑把に組み上げられた排水パイプから流れ出た水が、生温くなって溜まっていた。
そんな水溜りを一瞥して、私は店に戻った。
店に戻るなり、私を待ち構えていた婆さんは私に小言を浴びせた。
「サボりに日当与えてたら、首が回らなくなっちまうよ。全く」
先に戻っていた少女に助けを求めるように視線を向けると、少女は私に向けて申し訳なさそうに、はたまた気まずそうに両手を合わせるのだった。
その後私は、結局有耶無耶になってしまった少女の名前について尋ねてみたが、少女曰く、悔しいから教えてあげない、自分で思い出してよね。とのことだった。
それからその夜、私はやはり影狼と酒を酌み交わしていた。影狼の話はいつも通り〝妖怪の尊厳〟に終始したが、私は日中の少女とのやり取りを思い出し、軽率にも、
「人間もそれほど悪くないかもな」
なんて台詞を吐いてしまったのだった。それはやはり軽率だった。影狼はそんな台詞を吐く私を訝しげに見つめた。
そうして暫くすると、影狼はわかった!と、出し抜けに切り出した。
「ばんきちゃん、食堂でなにかあったんでしょ?あーあ、妖怪ともあろうものが人間に絆されるなんて、情けないわー」
影狼はそのように、私を白々しく嘲るのだった。
私はそんな影狼に少し腹が立って、二、三反論を試みた。
しかし私がどれだけ言葉を尽くせど、影狼はニヤニヤと笑いながら、ふうん?と相槌を打つのみだった。