ハイカラさんが通る【完結】 作:代理投稿者サクマ
それから私は、あまり外へ出ずに、家に引きこもるようになった。薄暗い部屋の中は落ち着いた。一応、暫く暇を貰うために食堂へと出向いたが、夏の穏やかな日差しは今の私にとってなんとなく辛辣に感じられた。
夜はまだよかった。夜になると、時々影狼が私の家を訪ねた。そうして影狼と飲み歩いていると胸のすく気分だった。
家にいる間も、私は極力体に主導権を与えなかった。体が私の意思とは別に動くのを見るのが、なんとなく嫌だったからだ。
それでも体は、私があんまり長い間引き籠もっていると、私の握る主導権に時たま指をかけた。私も、どうしても仕方ないときは体に主導権を明け渡した。すると、体は私の気をひくように、鏡の前でストレッチなどを始めるのだが、私はいつも、それを見るともなく見つめていた。
そうした日々の中、私は漠然と例の金魚達を思い浮かべていた。金魚達が大きな水槽で美しく泳ぐ様に夢中になっていると、いつもそのうちに無数の蟻が私の脳内に蝉の死骸を運んできた。そんなとき、私はいつも少し泣いた。
そんなある日、廃屋のような我が家の戸を、コン、コン、と丁重に叩く者があった。私はとっさに影狼の顔を浮かべたが、すぐにそれをかき消した。影狼の戸を叩く音は、どんどんどん、と云ったもので、今回のそれとは大きく異なっていたからだ。
しかし、戸を開けると、そこに居たのはやはり今泉影狼だったのである。
私は影狼がそんな丁重なノックをしたことに驚いたのだが、真に驚くべきは影狼のその姿だった。
先ず、身に付けた衣服が普段のそれとは大きく違った。その時の影狼の衣服には、普段の衣服にはない、慎ましいながらも瀟洒な装飾が施されていたのだった。影狼のその顔にも少なからず何か工夫が凝らされていたように思うが、そういったものに頓着のない私は詳しいことまでは判らなかった。
とにかく、影狼は普段よりずっと〝よそ行き〟だった。
そんな影狼を見て何とは無しに予想はついていたが、影狼はやはり〝姫〟に会いに行こうと、そう言った。
比較的涼しい空の下、私は影狼に連れられて、霧の湖へ向かうのだった。
山の麓、霧の湖までの道は意外なほど小綺麗に均されていて、それは歩きやすいものだった。影狼曰く、妖怪の山の神様が、最近観光客向けに道を整備したという話だった。私が妙に感心しながら小綺麗に均された道を歩いていると、程なくして霧の湖、その岸まで辿り着いた。
そこは大きく空が開かれていて、水面は陽光をキラキラさせながら、その大きな空を快く仰いでいた。その光景を見て、否応なしに湧き上がる感動に、私は少し変な気持ちになった。
岸辺には独特な形の石が二つ置かれていた。影狼はその石を一つ拾い上げると、水面にそれを放った。石はぽちゃん、という音を立てて、水底へと沈んでいった。どうやら、それがわかさぎ姫への合図になっているらしい。
ともすれば、岸辺にも一つ残された石は私の分なのだろう。私はなんとなく察していたが、それを放ることはしなかった。
不意に水面が揺らいだかと思うと、程なくして、水面は勢いよく飛沫をあげた。
私は飛沫に驚いて、一瞬の間目を瞑った。瞬間、
「影狼ちゃん!来てくれたんだ」
嬉しそうに影狼の名を呼ぶ声が響いた。
瞼を開くと、そこにはわかさぎ姫の姿が在った。
「それにばんきちゃんまで!ああ、今日はなんて良い日なのかしら」
陽光をキラキラと反射させる美しく澄んだ水面の中、嬉しそうに語るわかさぎ姫の姿は、その美しい景色そのものに思えた。
それから、私は私が驚くぐらいに言葉を紡いだ。
夏が始まって、影狼に襲われかけたこと、視界の端のミミズを追って目を回したこと、影狼のかけるどてかいサングラスのこと。それらをわかさぎ姫に面白可笑しく聞かせると、わかさぎ姫はその口に手を当てて美しく、しかし可愛らしく笑うのだった。
私はそんなわかさぎ姫の姿が妙に嬉しくて、夏に起きた出来事を殆ど語り尽くしてしまったほどだ。しかし私の話はやはり今泉影狼の素っ頓狂な行動が主な割合を占めた。すると影狼は負けじと、私の人間に絆されたことや、私が酒席でミミズを追いかけて目を回して仕舞いに吐いてしまったことなどを、わかさぎ姫に面白可笑しく語るのだった。それでも、わかさぎ姫はその口に手を当てて、しとやかに、はたまた快活に微笑むのだった。わかさぎ姫の手は透き通るような白さで、その指はすんなりと長く、一本一本の関節にはうやうやしく薄い紅が差していた。私は気付けば、わかさぎ姫の一挙手一投足に注視するようになっていた。
中でも私の目を引いたのは、わかさぎ姫を〝水棲の妖怪〟足らしめるその鱗だった。私にはその鱗の一枚一枚がキラキラと輝いて見えた。しかし、その鱗達が水面からチラリと覗く度、私は妙に恥ずかしいような気持ちになった。それはなにか、気安く見てはいけないものな気がしたのだ。
それから、私と影狼の話は途切れることを知らなかった。私たちが何かを話すたび、わかさぎ姫はただただ楽しそうに微笑んだ。
わかさぎ姫のしとやかで、はたまた可愛らしい澄んだ笑顔は、私の視界の中、どこまでも美しく輝いて映った。
恐らくその時、私はわかさぎ姫に恋をしたのだろう。
そんな楽しい時間は、日が落ちるまで続いた。
そうして、その日を境に、私は外に出ることの一切を放棄した。