ハイカラさんが通る【完結】   作:代理投稿者サクマ

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日々は槻を濁すよに 2

 

「えー、たったこれだけ? この本全部で」

 会計台の上、山のように積まれた厚い本をペシペシと叩きながら、私は店の婆さんに抗議した。婆さんの時化た顔の皮膚に寄せられた皺は所謂しかめっ面というやつで、そこからてんで動かない。思えばこの婆さん、店に入った時からちっとも表情が変わっていない。店内の古びた本棚、又、古びた本と同様に、この婆さんの面の皮、その時間も止まってしまっているのだろうか。

「だいたいさ、婆さん。婆さんにこの本の価値が本当に分かってるっての? うっすい新書に分厚いだけの学術書。これ全部びっくりするほど高かったってのに、婆さんそれをこんな二束三文で買い叩こうっての」

 言うと、婆さんの顔の皺が蠢く。しかめっ面を更に顰めたようにも見えるし、薄ら笑っているような気もする。私が眉を潜めて婆さんの不気味な口元を見つめていると、婆さんはやおら、ゆらり、ゆらりと、二度、頷く。そして、婆さんの震える拳が私の胸元付近に差し出される。

「だーもう。わかんない人だな、全く」

 私がブルブルと震える婆さんの拳の下に手のひらを広げると同時に、婆さんの拳も開かれた。がちゃ、なんて擬音を格段に弱体化させたような音が私の手のひらに降ってくる。私はそんな弱々しい音を握り潰すように拳を固め、それを握りしめたまま店を出た。店を出る際、婆さんを今一度睨みつけてやろうかとも考えたが、振り向けば婆さんの顔に刻まれた皺は先よりよっぽど深くなっているのではないか、などと恐ろしく思えて、それを諦めた。

 握りしめた拳のまま、憤懣遣る方無い心持ちで往来を行く。通りにはいつも通り岡持ちを持ったのや、祭りでもないのに高そうな着物を着て歩くの等がわんさかしていた。もちろん、他にも色んなのがいたけれど、特に私の目に付いたのは岡持ちと着物だった。

 そこに特に理由は無かった。私はそこにプロレタリアート的格差を見いだすこともなかったし、岡持ちと着物に何かしらの共通項を見つけられたということもない。仮に共通項があるとすれば、今日はたまたまその二つが私の目に付くということぐらいだ。

 日は高く、暑くもなければ寒くもない。だから季節は多分春。それか、秋。

 私にとって季節なんてどうでもよかった。というのも、数年前までは季節が過ぎる毎に私の背は少し伸びた、が、数年前から私の背が伸びることはなくなった。それまでは自分の視点が少し高くなったことに気がつく度に、私は時の流れをしみじみと感じたものだった。けれど、最近ではそんな流れなんて感じやしない。私はまるで時が止まっているかのような日々の中にいた。しかし、時間は確かに流れている。あの婆さんの皺にしたってそうだ。私がまだ勉強熱心だった頃は、あの婆さんもまだオバちゃんくらいなもので、私はよくオバちゃんから新書や学術書を二束三文で買い叩いたものだ。

 さて、あの時化た本屋を出て数分経つが、気がつけば目的地が目の前までやってきている。はて、普段なら通りに面した店先に、ずらー、と塵か何かのように有象無象の酒類が並べられていて、その中の会計台越しにこれまた幸薄そうな婆ちゃんの顔が覗いているはずなのに、全く、それっぽいものは見つけられない。目の前にあるのは木製の、横開きの大きな扉のみだ。よく見ると扉には何やら張り紙が貼ってある。

『誠に勝手ながら本日は休業させて頂きます。腰が痛いのです。ごめんね。』

 ごめんねて。

 どうやら今日は休みらしい。私は一瞬、酒屋の婆ちゃんの腰の様子を見舞おうか、などと考えたが、握りしめた心許ない硬貨の数枚を拳の中で確かめて、自身の思い付きを却下した。

「仕方ない、帰るとするか」

「にしても酒屋とか本屋はジジババばっかりだな、あと数年もすれば、私の行きつけはみんな潰れてしまうかもしらん」

 以前よりずっと増えた独り言を遊ばせながら、私は家路を辿った。

 かと、思われたが、私は酒を諦めきれなかった。自分でもそこまでアルコールに執着するとは思っていなかったので自分自身大変驚いたが、考えてみれば当たり前のことだった。

 仮に、薄っぺらな硬貨数枚を握りしめて家に帰ったところで、結局は床に薄っぺらな数枚のそれが転がるのみで、それもいずれ、床板と床板の狭間に吸い込まれ気づかぬ間に消えてしまう。私はきっと、床下に吸い込まれた事実にも気づかなければ、そもそも床に転がる硬貨数枚の存在を覚えていられるわけもない。だから、このまま帰ってしまっては本当に、後には何も残らないというわけだ。せっかく役立たずの書なぞを全て処分して、それが二足三文に成ったのだ。酒を買わずに帰っては、味気ないにも程がある。

 私は本日休業中である婆ちゃんの酒屋から最寄りの酒屋へと向かった。酒を飲まずして酒屋をハシゴするとは私も酔狂よのう、なんて下らないことを考えながら、私は右上の方を眺めて歩く。そこには通りに立ち並ぶ家屋や店の屋根があり、屋根の向こうにはあおーい空があった。私はもちろん、あー、あおいなー、とか、そこらへんのことを、考えた。

 ふわっとした気持ちで歩いていると、酒屋にはすぐに着いた。店主の爺さんの息子らしき男が会計台の向こうにて店番をしている。肩肘をついているその男は、なにやら左上の方をぼんやりと見つめていて、非常に印象が、悪い。

 ときに、実のところ、この酒屋こそが私の家から最寄りの酒屋だった。家を出て五分と歩かぬうちに、この酒屋にはたどり着く。しかし、私はいつもこの酒屋ではなく、少し遠くの婆ちゃんの営む酒屋まで出向くのだ。その理由は間違いなく、現在店番をしているこの男にあった。

「電気ブラン」

 近付いて声をかけると、男が気だるそうに視線を寄越す。ん、だか、あ、だか、そんな声を上げたことから、この男のたるみ具合が窺える。そうして男は伸びをして、これまた気だるそうに口を開いた。

「ん、んー。あーあ……。オネエちゃん、また昼間っから呑むのかい」

 これが、非常に、嫌だった。昼間っから左上の方を見上げてうたた寝をしているやつに、こんなことを言われる筋合いはない。

「関係ないでしょ。はい、お金。さっさとしてよね」

 会計台の上に生暖かくなった硬貨を全て放って、私は奥の商品棚に置かれためあてのそれを指で差す。

「いやー、関係あるかもよ。案外知り合いだったりして。……まあ、関係ないけど」

 男は眠気を噛みながら、たらたらと酒を取りに立つ。

「あんたみたいな知り合い、いないよ」

「……向こうの酒屋は休みかい。婆ちゃん、腰でもいわしたかな」

 男は背を向けたまま、私の質問を無視して言った。

「関係ないでしょ」

「これは関係あるんだなあ。あの婆さん、親戚なんだ。はいよ」

 男が脱力のままに酒を置くもんだから、ダン、と結構な音がした。

「はい、ありがとね。それじゃ」

 片手で酒をふんだくって、歩き始める。来た道をそのまま真っ直ぐ進めば、私の家に辿り着く。

「まいど。……あ、これ、お代足りねえじゃねーか」

 男が背後で、なにやらごにょごにょとぼやいていたけれど、私は片耳を塞いで、そのまま店を後にした。

 あの男を見ていると、なんだか床にこぼした水を放ったらかして出来た黴を見てるような気分になって、妙に居心地が悪い。私は早速瓶の蓋を開けて、胸中の靄を洗い流すようにそれを、飲んだ。

 

 




 酒を飲むと、どうも思考が鈍くなる。いや、多分逆だ。古池の水が干上がって、色んなものが浮き彫りになるように、様々な想念や何かの本の引用なんかが、頭の中で浮かんでは消える。それも、逆かもしれない。消えては浮かぶ。そう言い換えても、なんら問題はない。中には現状を指し示す熟語の羅列も在った。それは、倦怠だとか、厭世だとか、無感動だとか、インポテンツだとか。とりわけしっくりきたものでいえば、間違いなく無感動のその字だった。自覚さえなければ、酔っ払って独り言が減る、なんてことも、なかっただろうと考える。
 とにかく、私は家に帰らずに、瓶の中の琥珀を揺らしながら、人里をぐるぐると回り、ふらついていた。気付けばもう夜だった。しかし、まだ夕飯程度の時刻のはずなのに、里は妙に静かだった。一度、自宅の前までは行ったのだけれど、その時には、私のパルスはアルコールに拐かされていたわけだ。
 里の通りに面して、私の家は在った。最近では里に住む妖怪も中々増えて来ているらしい。しかし、私はわりあい、昔から里に住んでいた。
 と、いうのも、私がまだ幼い頃、フロイトのフの字も知らない頃だった。そのころ私は家もなく、森の中で故知らぬ動物の肉なぞを喰らって生きていたのだが、少しすると、友人なんかができて、寺子屋に連れて行かれたりして、挙句家まで探してもらったというわけなのだ。家、といっても、端から立派なものではなく、長らく人の住まなくなった空き家を探して、そこに勝手に住んでいるだけで。だから厳密には、私の家ではないのかもしれない。
 何日間か探し回って、ちょうどいいボロの空き家を見つけたとき、あの子はたしか、なんと言っていただろう。
「『あたいの住処より、よっぽどじょーとーだ』」
 こんな感じだったかな。あんまり、よく覚えてないけれど。
「『二段ベッドだ! なんか、がいこくの、ろっじみたいだね』」
 これを言ったのは、誰だったか。あー、それにしても。
「あの子。あの子ねえ」
 これだから、酒はよくないや。まあ、飲まないよりは、よっぽどマシだけど。

 気付けばまた、先程の酒屋のある通りに来ていた。ちょっと進めば酒屋があって、さらに進めば家がある。だから私は、右上の方を眺めながら、ただただ歩いた。妙に静かな里の夜空には、疎らな星が散らかっていたけれど、月はどこにも見当たらなかった。気紛れに目を凝らせども、視線の先には夜だけが、曖昧に、続いていた。
 私はもちろん、あー、夜だなー、とか、そこら辺のことを考えた。一瞬、よいやみ、なんて言葉が浮かんだけど、とんでもない。一笑に伏すまでもなく、夜はただただ、夜だった。
 そうして。遠い夜空を背景に、去りし蒼夏の面影が、幻めいてみえた頃。家に着き。私は眠りに、就いたのだった。
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