アワー・ロスト・エイジ   作:Cabernet

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#02

 陽が落ちても夜が更けても女苑の豪遊という名の浪費は続いた。最初は紫苑も彼女の暴飲暴食に大いに付き合っていたが、三軒目も終わりになるころには消化に慣れていない胃腸が悲鳴を上げ肝臓が断末魔と共に事切れた。酔っぱらった女苑に足首をつかまれて宙に浮かびながら仰向けに連行されるさまは浜辺に打ち上げられた土左衛門のようだった。胃液まじりの涎を垂らしながら夜空を眺めている紫苑の視界には満天の冬の星空。里の繁華街とも呼ぶべきこの通りには提灯が朝まで消されることなく灯され続けていて、ぼやけた眼には魔法で生み出された燈火(ともしび)の行列のように見えた。それは紫苑にかつて過ごした街の夜の最期の明かりを思い起こさせた。二人で過ごしたあの季節。音楽。そして潜り続けてきた札束と金品の山。

 さあ付いてきなさいっ。まだまだ私たちの夜は終わらないわよ!

 女苑の旅路に付き従うのは紫苑だけではない。今や次の店を探す彼女の後ろには幾人もの若者たちがいた。裕福で夜の暇をもてあました次男坊たち。この世で足りないものは自由だけだと朗らかに赤らんだ顔は告げている。そんな彼らを紫苑は横目で見ていた。何も言葉を手渡すこともなく。

 河童の手で中が洋風に改装されたその店は泡(あぶく)のように金が消えていく他はそこらの居酒屋と何も変わらなそうに思われた。女苑はこの日のために店に届けさせた特別な酒を惜しげもなく若者たちに振る舞った。

 席についた紫苑は乾杯のあとで妹に向けて云った。

 ねえ女苑。このお酒。

 妹の声は呂律が回っていない。ええそうよ。ロマネ・コンティをドンペリのロゼで割ったやつ。

 よくもまあこの世界にあったものね。

 ほんと。云ってみるものね。懐かしいでしょ。ね、ね?

 まあ。うん。

 女苑はハイペースで呑み続けていった。紫苑はと云えばピンドンをひと口のんだだけで舌が痺れるような感覚が走りほっぺがぎゅっとすぼまった。ピンクのしゅわしゅわ、と口の中で呟いた。饗宴もここまで来てしまうと酒ばかりが進んで料理にはあまり手が付けられなくなる。紫苑は勿体なく思えて箸を動かす手を止められなかった。パーカーのフードを被って横顔を隠しひたすら食べ続ける。となりに座っていた若者が心配そうに声をかけてきた。紫苑は答えた。食べるったら食べるの。好いから。構わないで。こんなの次にいつありつけるか分からないじゃない。

 宴は続き余興が始まる。男たちは服を脱いだり得たいの知れないカクテルを罰ゲームと称して飲ませあったりし始めた。紫苑は箸を置いて座席にもたれた。シーリング・ファンに合わせて視界がぐるぐると回った。そのうち酩酊のあまり首が紐で吊るされた穴あき硬貨のように前後し始めた。女苑の叫ぶような歓声が聴こえる。なんて素晴らしい夜なんでしょう。なんて甘美なひと時なんでしょう!

 妹は突然ブーツを脱いだ。テーブルの上に飛び乗るとシルクハットを手に取り危なっかしく一礼した。若者たちが拳を振りあげ指笛を吹き鳴らす。紫苑が呆気に取られて見ていると妹はこちらを見てにっと白い歯を見せた。そしてジュリ扇を広げるとテーブルをスポットライトに飾られたステージに見立てて踊り始めた。店に沸き起こった歓声は虹色の輝きに満ちていて天井を突き破らんばかりだった。

 そのうち女苑は歯止めが掛からなくなった。金をばらまき酒をイッキ飲みし男たちと肩を組んで合唱した。そして若者の一人から煙草らしきものを受け取って吸ったところでぐったりとして席に項垂れてしまった。煙草を吸わせた男が介抱のために姉妹の間に割りこむように座った。紫苑は身を乗り出して二人を見た。彼は女苑の背中をさすりながらもう一方の手をスカートの中に潜りこませていた。彼が手を動かすと女苑が子猫のように首を動かして男の肩に頭をもたせかけた。

 紫苑は立ち上がった。

 おいてめえ。――ちょっと女苑。ねえってば。

 なによぅ。

 帰りましょう。

 まだまだこれからじゃない。

 いくらなんでも飲みすぎ。見てられないわ。

 でも気持ち好いの。とっても気持ち好いのよ。なんで帰らないといけないの。

 そう云っていつも後悔してるじゃない。

 紫苑の言葉に女苑は無言になった。さっきまであれだけどんちき騒ぎしていた若者たちも押し黙った。そして一人また一人と立ち上がってこちらを見ていた。紫苑の深い海色の髪が逆立ち渦を巻くように動き始めると彼らは身を引いた。

 好い子ね。

 紫苑はそう云って女苑に肩を貸し金を支払って店を出た。

 

 昼間は晴れていた空からいつの間にか雪が降っていた。人影は疎らだった。歩けない妹を負ぶって紫苑は歩きだした。紙袋と合わさって重みは凄まじいものだった。女苑の酒くさい息が頬をなでてくる。その濁った吐息は屋根の庇(ひさし)にたどり着く前に消えてしまった。すこし進んでから紫苑は立ち止まって耳を澄ませた。妹が肩を震わせながら泣いていた。

 女苑。

 ……使っちゃった。

 え?

 また使っちゃったよう。ぜんぶ。すべて。何もかも。

 もっかい稼げば好いじゃない。あんたにはそれができるんだから。

 ちがう。そうじゃないの。姉さん分かってて意地悪いってるでしょ。

 まあね。

 しばらくして女苑は泣き止んだ。鼻をスンと云わせる音が紫苑の鼓膜を打った。妹はバッグに入れていたスキットルからブランデーを口に含むとすこしゆすいでから吐き出した。そして紫苑の肩に顎を乗せて話した。

 ああ。くそ。あいつ煙草なんて嘘ついて変なもの吸わせやがった。

 紫苑は微笑みを返してから歩き出した。

 ずっと前にハートの形をした錠剤を飲まされていたときに比べれば全然マシな顔色をしているわよ。

 姉さんももっと早く止めに入ってくれれば好かったんだ。

 あんたがほどほどで切り上げちゃったら私がおこぼれに与かれないじゃない。

 ……姉さん。

 なに。

 私はこの前に限らず頑張ってきたんだよこれでも。

 ええ見ていたわよ。

 少しは私なんかでも変われるのかなって。

 そうね。

 姉さんだって同じでしょ。何とかしたいっていつも――。

 ぜんぶ空振りに終わったけどね。けっきょく自分から動けば動くほど周りがとばっちりを喰らうから最近はそれも面倒になったわ。あんたには云ってなかったけど向こうにいたころは真面目に働こうと一念発起して地下鉄工事に志願したことがあったのよ。それであんなことが起こって思い知らされたわ。私はそもそも働いちゃいけない存在なんだってね。

 ……金で手に入らない幸せってなんだろね。

 クサいこと云わないでよ今さら。

 私もお寺を出たあとにもう一度だけ働いてみたのよ。

 あれから?

 ええ。

 どこで。

 それって答える必要あるの。

 あんた放っておくとすぐ楽して稼げるヤバい仕事はじめちゃうんだもの。眼が離せないわ。

 ただの飲み屋よ。さっきの店よりもうんと惨めなところ。

 私の眼にはさっきのあんた以上に惨めになるなんて信じられない。

 うるさいな。

 それで?

 散々下町の酔客の相手をさせられて分かったのはやっぱ貧乏ってクソだし清貧なんて言葉はやせ我慢の嘘っぱちってことね。結局のところ貧すれば貧するほど心も貧しくなるのよ。間違っても逆はないわ。

 これからどうするの。

 姉さんこそどうしたいの。

 ……天運を待つ。

 私たちにはもっとも縁遠い言葉ね。

 ええそうね。

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