その建物の前で紫苑は立ち止まると眉をひそめた。寝息を立てている女苑の顔を横目で見た。溶けた雪が鼻の頭で雫をなしていた。それは山荘と云えば聞こえが好いが実際には半世紀ちかく放置されて忘れ去られたアパートの残骸に思えた。妖怪の山の麓に位置していて谷間から吹き下ろしてきた冷たい風が紫苑の素足を震わせた。
階段を昇って教えてもらった部屋に入り敷かれっぱなしの布団に妹を落ち着けると部屋のすみに荷物を置いて紫苑は溜め息をついた。時代遅れのブラウン管テレビが最初に眼についた。ラックに収められたVHSテープ。妹の丸っこい字でタイトルが書かれていてそこにはかつて姉妹でいっしょに鑑賞したトレンディ・ドラマがあった。きちんと整理整頓されているのはそこまでだった。あとはボスニア戦争が去った後のような散らかり具合だ。
相変わらず綺麗なのは外面(そとづら)ばかりなのね。
……聴こえてるわよ。
起きてたんだ。
女苑はうつ伏せになったまま身動きしなかった。紫苑は壁にもたれながら腕を組んで妹の言葉を待った。だが彼女は何も云わなかった。痺れを切らした紫苑は壁から身を離した。
女苑。ねえ。
なに。
帰って好いかな。
…………ゃ。
外にいるときは平気な顔して追っ払うくせに。
…………。
もう。――分かったわよ。
紫苑は女苑のそばに腰を下ろして枕元の本を手に取った。かつて妹がよく読んでいたフィッツジェラルドの短篇集だった。紫苑は女苑の髪をまとめているリボンに薬指を触れさせた。そして本を最初から読み始めた。
しばらくして女苑が身を起こした。爪で頭をかきながら薄緑色の重そうな冷蔵庫から水を取りだして空になるまで飲んだ。二リットルのペットボトルを片手の握力だけでくしゃくしゃにしてしまうとポケットから煙草を一本取り出して吸い始めた。
姉さんなに読んでるの。
マイ・ロスト・シティー。
どのあたり。
夕空の下タクシーでビルの谷間を進んでいく回想のところ。言葉にならない声。これ以上は手に入らない幸せについて。
今はあまり読みたい気分じゃないな。その場面。
あら。前はあんなに読み返していたのに。
本当に何もかも失ってしまったらやっぱりもういちど求めてしまうんだ。一生で手に入る幸せに限りがあるなんて信じられないし信じたくないもの。
傲慢ね。
疫病神だし。不遜で飄逸なくらいじゃないとやっていけない。
そうね。私もよ。
女苑がテレビを点けてビデオ・デッキにVHSのテープを入れた。巻き戻しをしていなかったのか途中の場面からいきなり始まった。ハンサムな男優と一世を風靡した女優が会食をしているところだった。紫苑は最初のうち本に意識を集中していたが諦めて妹のとなりに腰を落ち着けた。彼女は横目で見てきただけで離れることはしなかった。
姉さん。電気消して。
なんで。
いいから。
むき出しの電球の紐を引っ張ると部屋の照明はブラウン管からあふれ出す気だるい光の束だけになった。小さくて暗い部屋で二人はかつてのトレンディ・ドラマを無言で観続けた。肩を寄せ合いながら。息を通わせながら。ゆいいつ盛り上がったのはドラマのクライマックスとその後に録画されていた栄養ドリンクのコマーシャルだった。二人は腕を振りながら合唱した。二十四時間戦えますか。その後に大手家電メーカーのコンポの宣伝、当時は大人気で財力の象徴だった外国車のデモンストレーション、そして化粧品の広告が続いた。録画の再生が終わると映像は途切れテープが自動的に巻き戻しされた。きゅるきゅるという間の抜けていてそれでもどこか親しみの持てるような音が二人の肩をくすぐり天井に漂って消えていった。
紫苑は訊ねた。怒らないで聞いて欲しいんだけど。
どうしたの。
今でも面白いと思うの。ああいうドラマ。
ええ。楽しめるわよ。女苑はうなずいてからすぐうつむいた。ただ遠い世界の出来事のように感じるだけで。
本当に魔法のような時代だったわね。街の窓から漏れる明かりのひとつひとつに呪文がかけられていた。どんなことだって起こりうるし何ならどんなことだって起こせるんだという気概に満ちていた。私はあんたに振り回されていただけだったけど。
あの頃は過ごしやすかったわ。今日みたいに散財しても金は後から後から浴びるほど集めることができたからね。誰の不幸も気にする必要がないくらい街には運気があったし。
どうかな。私みたいな持たざる者にとってはけっきょく何も変わらなかったよ。すべてが終わった後でとばっちりだけはしっかり喰らっただけで。
そうかもね。まあ少なくともあの頃の姉さんにはまだ姉なりの威厳があったよ。
あんたには妹らしい可愛げがあったわ。
うるせえ。
ひびの入った窓からは雪がちらついているのが見えた。女苑の誘いもあって紫苑は泊まっていくことにした。テレビの電源を消すと二人は布団を分け合って横になった。女苑は昔話をした。淡々とした口調だった。晴れた日の小川のせせらぎのように変わらないがだからこそ安心できるようなそんな調子だった。
働くにしてもせめて楽して稼げる仕事が好かったわ。それでツテを頼りに紹介されたのがずいぶん奇妙なやつでね。何人かの仲間といっしょに誰も住んでいない部屋で数日間過ごすのよ。明かりを点けて。水道は流しっぱなしで。ただ来客があっても絶対に応対してはならないし外も出ちゃいけないって感じ。私は漫画を読んで過ごしていた。本当にそれだけだった。そのうち仲間が麻雀を始めたもんだから賭け試合にもつれ込んで大いに盛り上がった。さすがにうるさすぎるんじゃないかと思ったけどむしろ騒いだほうが好いらしいんだな。何度か来客があったけど云いつけ通り応対しなかった。楽しい時間は過ぎ去って仕事はあっという間に終わった。それでも一時間に一回鳴っていた柱時計の音は嫌に鮮明に覚えているわね。
紫苑は黙って話に耳を傾けていた。
それがどんな意味を持つ仕事だったのか知ったのはずいぶん後になってからだった。あのころ私のやった仕事は空き家に居座ったり留守の家の鍵を交換したり紙切れを玄関に貼りつけたりする地味なことばかりだった。それで大金が手に入った。誓って云うけど誰かを直接ぶん殴ったりして傷つけたことなんて一度もないよ。でもそうした仕事が崖から突き落とされるほどの不幸を誰かにもたらしていたなんて想像もしていなかった。疫病神の本質は自分が疫病神なんだっていう自覚すら持っていないということね。だから今は加減というものを覚えたわ。でもそこまでして神として存在する意味ってなんなんだ。
紫苑は囁いた。だから反省してこっちでやっていこうとしたんでしょう。
女苑は布団を引き上げて顔を隠した。人も神もそう簡単に変わることなんてできないよ。
確かにあんたの心のなかは変わらず貧相ね。
姉さん今日に限って辛辣すぎない?
でもだからこそ新しい思想を受け容れる余地もあるということ。
……そうかな。
そうよ。現に何度もやり直そうとあがいているじゃない。私はもう半ば諦めているわそのあたり。
新しい思想か。
別に信じなくても好いわよ。口から出まかせだしね。
最っ低。
ふふ。おやすみ。