・個性強い女オリ主と不死川兄の恋愛小説。
・原則人命救済はなし。
・時系列無視・独自設定、原作キャラ同士の男女恋愛要素、ネームドモブオリキャラ有。
1.分茶離迦にて罪を焼かれよ
番町に邸宅を構える二階堂家の一人娘は今年十三歳になる。椿の花をことの外好み、年少の女中たちがふざけて椿の御方、と称したのを自ら気に入ったので、家族もこの娘を椿と呼び習わした。社交界ではすでに評判の可憐な娘で、優しい父親、美しい母親、山ほど仕立てたとりどりの着物、美しい細工のかんざし、父にねだって手に入れた舶来の懐中時計や万年筆などたくさんの品々を持っていた。そして一夜のうちにそれら全てを失ってしまった。
明るい月の夜で、臨月の母親は寝台に横たわり、膨らんだ腹を撫でさすっていた。上の娘を産んでから、十年以上も待ち望んだ大切な赤子だった。周囲は後継の男児を望んでいたが、母にとっては男でも女でも可愛い我が子であるから、どちらでも構わず愛するつもりでいる。
開けた窓から初秋の金木犀の甘い香りがほのかに漂っていた。椿は自室で、生まれてから一度たりとも切ったことのない、自慢の長い髪を梳いていた。
椿の生まれた一族は近縁を華族に連ね、元禄年間には老中を輩出したといい、父は分家の際に祖父から与えられた伝来の刀を家宝にしていた。男であればその家名に恥じないよう勉学と武芸に励むようよくよく言い聞かされていたかもしれぬが、女の椿には相関わりない話だった。父は事業で財を築き、海沿いに工場をいくつかと広大な土地を所有して、大勢の使用人を傅かせて、流行りの西洋風の館を住まいとしていた。父も母も、娘をおおいに可愛がり甘やかした。
その日、夜半遅くになっても父が帰らなかったので、椿は不安だったが、母は会食で引き止められたのだろうと意にも介しない。ふいに外からどんどん、と大きな音がしたので、椿は自室を出て、玄関に向かった。
「父様?お帰りになったの?」
玄関口から聞こえたのは、父親の低い落ち着いた声ではなく、獣のような唸り声だった。戸口が突き破れる音、続け様に鈍い音がした。それが人の肉が潰れるときに発する音であると、この時の椿は知らなかった。
屋敷中の灯りが消えて、悲鳴が響き渡った。窓ガラスが割れる音、叫び声、何が起きているのか皆目分からぬまま、椿はその場に震えながら蹲って、嵐が過ぎ去るのを待った。
どれほどの時間が経っただろうか。あたりを静寂が満たしたので、椿は暗闇の中を恐る恐る這って進んだ。
途中廊下で、見知った顔の下男が血を流して倒れていた。後頭部が吹き飛び、頭蓋が露出している。死んでいた。
吐き気を堪えて吹き抜けを通り過ぎ、寝室に近づくと、か細い女の声がした。
「母様」
母親の声がする。椿は立ち上がり、破壊された扉の影から室内を覗いた。寝台の上になにか異様な「もの」が――それが母に覆いかぶさっている。
「お願い……子供だけは……子供だけはどうか……」
母の下肢は食いちぎられ、異形の口から血が滴っているのが月の明かりに照らされてはっきりと見えた。
異形は瀕死の母親の願いを嘲笑うかのように、大きく膨らんだ腹部に牙を突き立てた。口から血泡が溢れ、苦悶と絶望の声を上げて母は絶命した。
母親の凄惨な死に様を目のあたりにして、椿が微動だに出来ずにいると、異形の怪物がこちらを向いた。目が合った。
それは獣にあらず。剥き出しの両眼。血肉の滴る牙。人間のそれとは良く似ているけども決定的に異なる手足。
逃げなければならない。
椿は無我夢中で走った。異形が追う気配を後ろに感じながら、椿はほうほうの体で父の書斎に逃げ込んだ。棚には、父が大切にしていた家宝の刀が恭しげに安置されている。
椿は刀を手に取り、鞘から引き抜いて異形の方を振り向いた。異形は不愉快な調子を帯びて笑った。刀をひっつかんだ細い腕が震える。椿は剣など握ったこともない。これが初めてである。
だが戦わねば死ぬ。
思い切り刀を振りかぶったが、異形の腕の一振りで刃先は容易く叩き折られた。続け様に両の腕を切り裂かれ、苦痛のあまり刀を取り落とし膝をつく。
異形が爪についた血を舐めとった。生理的な嫌悪感で、この後に及んで背筋がぞっと震える。
「極上の稀血だ……最後まで残しておいた甲斐があった……俺は好物は最後までとっておくんだ」
異形が迫る。壁に突き飛ばされ、後背を強く打ち、意識が遠のく。
死んでしまうのだろうか。
走馬灯はなかった。ただ、魂が芯から凍えるような寒さがあった。
遠くなる視界に人影が過ぎる。それが何なのか、思考を巡らす暇はなかった。闇に浮かび上がった「滅」の一字だけが、消えゆく意識の最後に残った。
次に目が覚めたとき、椿はまったく軽傷で布団に寝かされていた。頭を多少強く打っていたのと、四肢を浅く切り裂かれただけ。悪夢の夜を生き延びたのは椿一人だった。それ以外のすべては館ごと燃えてしまった。混乱の最中、台所の火種が引火して燃え広がったということだった。
世間の人は皆々、やんごとない一家を襲った滅多にない悲劇である、不運な事故だと語り草った。それが人外の存在である鬼の仕業などと知りようがあるはずもなかった。
椿が最後に見た影は、鬼殺隊と称する鬼狩りの集団の一人であった。家族を喰い殺した鬼を屠り、燃え落ちる館から椿を連れて救ったその鬼狩りはまもなく見舞いに来てくれて、鬼のこと、その習性や始祖のこと、鬼殺隊の成り立ちなどを教えてくれた。
「あの鬼はわたしを『マレチ』と呼びました。『マレチ』とはなんですか」
椿が問うと、これまで明快に言葉を紡いでいた隊員が初めて言い淀んだ。
「稀血というのは……鬼にとって栄養価の高い血肉を持つ人間のことだ。鬼は人を喰えば喰うほど強くなるが、稀血の人間は一人で五十、百の人間に匹敵する。だから、鬼は稀血の人間を好んで襲う」
「それでは、あの鬼の狙いは私だったのですか。私のためにみな命を落としたのですか」
「それは違う。鬼は人間であれば、それがなんであれ容赦なく喰い殺す。失われた命の責任は、君一人が背負うことじゃない」
肉体の傷は癒えつつあり、看護師が「跡も残らなさそうだ」と喜んでくれていた。身の回りの世話をしてくれている下女は気を遣って、摘んできた竜胆を一輪挿しに挿して飾ってくれる。誰もが優しかった。
「あの化け物がこの世に跋扈して久しいと聞きます」
椿は往診に来た医師に向かって話しかけた。
「人の命があんなふうに夜毎脅かされ奪われているなんて、私、知りませんでした」
「お嬢さん、あまり気に病むんじゃないよ」
医師は痛ましげに諭したが、椿の耳には入らなかった。
椿はこの世の不条理の中に自分が生かされた意味についてこんこんと考えていた。
はらわたを悲しみと憎しみに焼き尽くされて、虚ろになった骸の中に心臓だけが取り残されて脈打っている。なぜいまだこの心臓が脈打つのか椿は不思議だった。
己の世界を構築するすべてを失い、それらを喰らい尽くした鬼もまた滅ぼされた。この命があるのが不思議でたまらない。今すぐ愛するものの後を追ったところで誰も引き留めはすまい。だが、許されてはいけないものがこの世にいまだ在ることを知ってしまった。
自分がこの世に生かされた意味があり、成し遂げなければならないことがあるとするなら、それは、有りうべからざるその存在を、この世から消し去ることの他にないのではないか。
そのことに気付けば話は早かった。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、はっきりと理解したのである。
椿の心は決まった。
ちょうどその頃に鬼殺隊の頭領である産屋敷の当主に面通りする機会を得たのは、思いがけない幸いだった。
椿は当然、こちらが赴くものと思っていたが、彼は尊い身分であるのに、わざわざこちらの病床まで見舞いにやってきた。それで彼の人柄が伺えた。
「失礼するよ」
彼は細君と思しき女性を伴っていた。産屋敷の当主は若く、椿とそう年も変わらない。額に奇っ怪なアザが広がっていたが、纏う空気の清廉さ、高潔さは年齢にそぐわず、自然と敬服したくなるような雰囲気を漂わせていた。
椿は畳の上に手をついて平伏した。
「産屋敷様、拝謁の機会を賜りましたことに感謝いたします。そして我が家財について、良く取り計らっていただいたこと、重ねて感謝を」
館は燃えたが、椿の手元には父から継承した様々な権利や有形無形の財産が残されていた。その財産を、椿が子供であることを良いことに、禿鷹のような一族の係累のものが掠め取っていこうとしたが、産屋敷がすべて取り戻してくれて、信用あるものに運用を任すよう取り計らってくれていた。
「顔を上げてくれないか。そんな風にかしこまらなくていい。当たり前のことをしたまでだから」
心地の良い声音がその場に落ちる。それで椿は顔を上げた。
「短い間ですが、こちらの方々にはお世話になりました。みなさまのおかげで身体も癒えましたので、明日には床払いとさせていただきます」
「急がなくてもいい。辛い目にあったのだから。心が落ち着くまで休んでいて良いんだよ」
「私ごときにもったいないお言葉。しかし、心配は無用です。産屋敷様、僭越ながら、お願いの儀がございます」
椿は流れるように言葉を続けた。
「私を鬼狩りの一員に加えていただきたい。『育手』を紹介いただきたいのです。身の程知らずのお願いであることは承知の上ですが、この通り」
七重の膝を八重に折り曲げて、椿は深々と頭を垂れた。産屋敷はまったく虚を突かれた風ではなく、むしろ、椿の申し出をはじめから予測していたようだった。
「対価無しとは申しません。私の財産をすべてそちら方に寄進致します。鬼殺隊の運営にでも、鬼に襲われた方の生活の再建にでも、自由にご用立ててください」
「そんなことをしなくてもいい。君の申し出を無下にはしないよ」
「いえ、いえ。お受け取りください。どうあってもこの私には無用のものです」
無用と感じる心は本当であったが、椿としては自分なりの覚悟を示したつもりでもあった。それは人の目には、覚悟というよりも、自棄と呼んだほうが正確に映る所業である。産屋敷はそんなことを指摘する野暮を犯さなかった。産屋敷の眼差しには、深い慈悲が宿っていた。
「椿の君、君がそう、望むなら……」