寒椿の君   作:ばばすてやま

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二章
9.誰に見しよとて紅鉄漿つきよぞ


 目が覚めると日が落ちていて、外はもうすっかり暗くなっていた。近頃は一段と秋が深くなり、日没の時が随分と早くなってしまった。

 三、四日の間、仮眠も取らずに任務にあたっていた反動か、昼過ぎに家に帰ってきたまでは覚えていたが、それ以降の記憶がない。

 寝起きのぼうっとした意識のまま、布団の中で寝返りを打つと、不死川が囲炉裏のそばで羽織を繕っているのが見えた。椿は一気に目が覚めた。

「いつお戻りになったの?」

 椿が寝床から問いかけた。互いに別の任務に就いていたので、顔を合わせるのは一週間ぶりだった。

「日暮れ前だ。お前はまだ寝とけェ」

「いいえ、もう十分」

 椿は床から起き上がり、身支度を始めた。流石に今夜は任務に呼ばれることはないだろうと思って、隊服は着なかった。

 その間、不死川はそつなく白地の羽織を修復していた。

 手先が器用なのか年季が入ってるのか、針仕事ばかりでなく、洗濯でも、掃除でも、飯炊きでも、すべて不死川の方が上手くやってしまう。普段の家事は下女にやらせるから不都合はなかったけれども、椿は女として立つ瀬がなかった。家事を取り仕切るのは本来女の仕事だ。

 だが、人体を縫う技はまだこちらの方が優っている。仕事から帰ってきた男をなんとか労ってやりたいという気持ちで、椿は箪笥から医療道具を持ち出してきて、不死川の背中にそっと手を置いた。

「羽織と違って、こちらは自分では繕えないでしょう。見せてくださいな」

「かすり傷だ、こんなもん」

「ちゃんと手当てした方が早く治るわ」

 椿が説き伏せると、不死川は観念して、上衣の片袖を抜いて肌を晒した。思った通り、左肩から二の腕にかけて裂けた傷があった。傷の程度は深くない。感染症の心配もなさそうだったので、消毒をしてからざっくりと縫い合わせる。傷が出来てから縫うまでにかなり時間が経過してしまったから、これははっきりと痛ましい瘢痕が残ってしまうだろう。本人はまったく気にしないだろうが。

「どうしてすぐに蝶屋敷に行かなかったの」

「あの女をどうにかしろ。人の面を見るなり殺気立ちやがる」

「わかりました、しのぶには言っておきます。けれど、あの子は個人的な好悪で仕事をないがしろにするような子ではないわ。ちゃんと言えば手当てしてくれますよ」

 不死川が眉根を寄せた。縫合の痛みのためではない。横に座って皮膚を縫い合わせる椿の額に、うっすらと真新しい傷を見つけたのだ。別になんてことはない、一両日中に跡形もなく消えそうな傷だったが、不死川は気になったらしい。

「石を投げられたの。大丈夫、すぐ直ります」

 視線に答えるように椿は言った。

「誰だァ、そいつは」

「可哀想な子供たち。怒らないでね。鬼になった母親を私が殺したから」

 不死川の不穏が霧散した。鬼を殺して人を助けて、感謝されるばかりではない。家族や親しい者が鬼に成り果てたことを理解できず、助けた相手に理不尽な怒りをぶつけられることは決して珍しいことではなかった。

「悪いことをしたなどと思いもしません。私が斬ったのは彼らの母親ではなくて醜い悪鬼。悪鬼でなければ、後ろ身に抱えていた赤子を頭から貪り食らったりできないでしょう?」

 椿は怪我の負担にならないように、不死川の膝に頭をもたれた。少し疲れていた。

「因業ね。楽には死ねないわ、私たち」

「今更だ」

 椿の頭を撫でる不死川の手は優しかった。

「子供はどうした」

「親戚が迎えに来ました。あとは隠に任せましたから、よしなに取り計らってくれるでしょう」

 囲炉裏で炭があかあかと燃えている。日常に溶け込む穏やかな風景に、いまだ夢うつつにあるようだった。

 

 椿は雨の日に不死川と再会してから間も無くして、自宅の修復が終わったので、蝶屋敷から元の住処に帰った。そして、次の日には、不死川が居た堪れない様子で玄関口に突っ立っていた。性分に合わないことはわかっていながらも、一度口にしたことだからと律儀に努めを果たす気でいるらしかった。

 だが最初から椿には、不死川に百夜通いなんてまどろっこしいことをさせる気はさらさらなかった。椿には小野小町と違って男の愛を試している時間などない。これ幸いと家に引きずりこんで、二度目の夜を共に過ごし、以来、不死川はここに帰ってくるようになった。

 

 昼間の内に通いの下女が用意しておいてくれた夕食をいただいていると、戸口に人の気配を感じた。真っ当な人の訪れる時間ではないが、これも鬼狩りには常のことだ。

「邪魔するぞ」

 こちらが返事をするのを待たずに、玄関の引き戸が開いた。目立つ額当てに、奇妙な化粧をした男が姿を現す。音柱の宇髄である。彼は背丈が六尺五寸あまりもある大男で、家の中に入るのに窮屈そうに身を屈めなければならなかった。

「邪魔すんなら帰れェ」不死川が容赦なく言った。

「言葉の綾に突っかかるなよ。余裕ねえなあ、お前も」

 柱に向かって何という口の利き方をするのだと思ったが、宇髄は鷹揚に構えていた。上と下の関係に厳しい男だと思っていたから、意外だと椿は思った。

「お茶を出しましょうか」

「いや、すぐに帰る。指令を伝えにきただけだ」

 ただの指令を寄越すのに、鴉ではなく柱が自ら出向いて来るとは穏やかではない。何かあると思い、椿は居住まいを正した。

「私たちのどちらに」

「お前。女が要る。冨岡には話をつけた」

「私は水柱さまの継子ではないので、あの方の許可は必要ありませんよ」

「マジかよ。先に言っとけよ」

 音柱は時間を無駄にしたと無念そうに言った。冨岡はつい先日、柱に就任したばかりだ。椿は相変わらず中途半端な立場で、これからも稽古には付き合ってくれるらしいが、継子にはしないと言われた。冨岡の考えることは良くわからない。

「不死川、手前が築地で追ってた案件だ」

 不死川が不服そうに舌打ちした。彼が柱に任務を引き継いだ後、すでに数か月が経過している。それからもう一名、別の柱の宇髄が呼ばれているということは、調査の進捗が思わしくないということだ。

「なんのために柱を二人も投入してやがる。もう一人はどうしたァ」

「丸三日、潜伏先から音沙汰がなかった。事前の取り決めに従い、死んだものとみなした」

 これには剣呑にならざるを得なかった。宇髄の声音はさすがに軽薄ではない。

「そのような状況で、隊士一人を連れ出すのにわざわざおいでなさったのだから、ただ人手がいるというわけではないのでしょう?」

 椿が促した。宇髄が言うにはこうである。

 付近を捜索しても埒が開かず、失踪者の方を手がかりに調べていくと、共通点があった。ただの庶民ではなく、いずれも成金、官僚、軍人、身分ある人々とその縁者だった。その縁から捜査網を狭めていくと、起点が二か所浮上した。

「京橋の花谷に、芝の三縁亭」

 宇髄が挙げたのは、どちらも世に名を知られた料亭、料理屋である。紹介なしでは敷居を跨ぐこともできず、食事代だけで庶民の月収が軽く飛ぶ。彼らはみなこの二つの店の常連だった。

「芸者をやれ。座敷に上がって、店と常連客を洗い出すんだ。無理とは言わせねえぞ」

 料亭に芸者は付き物ものである。話術で客をもてなすし、同じ店に頻繁に出入りできるから、客にも店にも接近できる。店の内側を探るには恰好の隠蓑といえた。

「無論、命じられるなら、女工でも飴売りでもやります」

 椿は芸者について、世間並みのふんわりとした知識しかない。ただぼんやりと男の人の相手をする仕事だと想像している。

「先行して俺の嫁が潜入してる。置屋にも話を通した。器量良しで唄と踊りと三味線ができれば文句ないってよ」

 ちらっと視線をやると、不死川は相変わらず渋い顔をしていた。

「こいつに酌婦をやれってか」

「芸者と娼妓の区別くらいつけろ」

「わかってらァ」

 椿は任務で必要なら、身体だって差し出す覚悟はしている。宇髄にその意思を表明すべきか迷ったが、流石に黙っておくことにした。これ以上、不用意に不死川の機嫌を損ねるべきではない。話がややこしくなる。大体、椿だって好きでもない男に身体を明け渡すなんて極力御免被りたい。

「気になるならお前も一緒にこい。ちょうど男手も欲しかったとこだ」

「男手だァ?……箱屋か」

「お前にゃ向いてんぜ」

「喧嘩売ってんのか。テメエ、最初からその気だったな?」

「どうだかな」

 箱屋というのが何かわからず首を傾げると、不死川が芸者の付き人のことだと教えてくれた。三味線を入れた箱を担いで芸者の伴をするので、そう呼ばれるようになった。箱屋は女の供をすることから、世間ではおよそまともな男の就く仕事と見なされておらず、借金持ちや流れ者などが主ななり手だった。

 花柳の芸者と遊郭にいる遊女は混同されがちだが、全くの別物で、色を売るのが遊女とすれば、芸を売って客をもてなすのが芸者なのだと言う。

「不死川くんはどうしてそんなに詳しいの?」

 椿が興味本位で聞いた。不死川は黙った。

「男にゃ色々事情があるんだよ。ほっといてやれ」

 宇髄がたしなめたので、椿はそれ以外追求しなかった。

「では、寝所のお供はしなくてもよろしいのですね」

「それはない。まあ尻くらいは触られるかもしれねえが、耐えろ……おい、隣の奴をなんとかしろ。俺は味方だぞ」

 不死川は最早刀を抜いて斬りかかりそうな形相をしていた。

「音柱さま、申し訳ありませんが、私にはなんともできません」

 宇髄はまるで二人が珍妙な獣であるかのようにじろじろと見つめた。

「つーかお前らなんなの?夫婦じゃないのかよ。亭主に『不死川くん』はねえだろ、おい」

「女を三人も囲ってる奴に所帯の常識なんざ説かれたかねえよ」

「囲ってねーよ!全員!嫁だ!」

 椿は男たちがぎゃあぎゃあと言い合うのに巻き込まれたくないので、二の間に三味線を取りに行った。ぺんぺんと試しに音を鳴らしてから弦の緩みを調整する。

 椿がいなくなると、不死川と宇髄は二人でこそこそと話を始めた。

「とっとと祝言を挙げちまえよ。あんまり待たせると可哀想だろ」

「女の家に世話になってる身で祝言なんざ挙げられるかよ。柱になりゃァ、屋敷がもらえる。金にも不自由しねェ。話はそっからだ」

「柱とはまた派手に出たもんだ」

「俺に負けた分際で何を抜かしやがる」

「言うねえ。ま、お前もじきにこっち側だ。お前、鬼殺隊に入って何体鬼を倒した?」

「四十九」

「いいじゃねえか。今回の任務で丁度五十。生き残って、ケジメをつけてやるんだな」

 うっすらと漏れ聞こえる会話に、またどうでもいいことを考えているなあと、椿は三味線を適当にかいて音を鳴らした。

 一緒に暮らして、余人の目には夫婦のように見えているとはいえ、正式にこの人の妻になりたいのかと問われると、椿は自分でもよくわからなかった。

 椿は不死川が好きだったし、不死川も椿を好きでいてくれる。世間から指をさされそうな宙ぶらりんだったけども、椿は世間などどうでもいい。好き同士で一緒にいることのなにが悪いのだろう。それ以上何が必要なのだろう。

 妻になるというのは、家族になるということだ。

 今のところ、自分たちは家族というにはまったく心許ない。というか、不死川には本当の家族が別にいるのである。椿は不死川が弟がいると語ってくれたことを忘れていない。夫婦というのは元を正せば赤の他人の男と女であるから、血の繋がった家族の方が大切なのは当然である。当然なので、そのことを責める気は全然なかった。

 自分以外に一番の大切がある人を好きになってしまったのだから仕方ない。椿は考え方を変えることにした。

 私が死んでも、この人にはちゃんとした家族がほかにあるから大丈夫。

 そう思うことができれば、かえって心穏やかに、安心して甘えることができた。不死川の一番の大切になれないのは悲しかったが、互いに明日も知れぬ身である。一番になるのは別れに痛みを増して辛い気がするから、むしろ都合が良いかもしれない。

 それに、どうせ一緒にいても、椿は不死川にたいしたことはしてやれない。ぼたん一つうまくつけられない裁縫下手だし、着物を洗ったら加減がわからなくて生地を痛めてしまったし、煮物を炊こうとしたら真っ黒に焦がしてしまった。椿は道楽娘で許されて育って、昔からお金にならないことばかり得意だった。

 何か物事に失敗して沈んでいる度に、不死川は「こんなもんは安物だから気にするな」とか「俺はお前を飯炊き女にしたいわけじゃない」とか、なんだかんだと言って慰めてくれるのも、余計に情けなく恥ずかしかった。そういう時の不死川は常よりも更に優しかったから、嬉しい気持ちもあったけれども。

 

 椿がつらつらと考えていると、すっと板戸が開いた。宇髄が退出するらしい。

「明日の10時、日本橋の花街に来い。遅れるなよ」

 宇髄はそう言い残して去っていった。

 

 二人とも立て続けの仕事だったが、人遣いが荒いなどと弱音は吐かない。椿も不死川も、万全の体調であれば、休んでいる暇があるくらいなら、むしろ任務に入りたい類の人間だ。

 ただ最近は、二人で一緒に、森を散歩したり、街に出て買い物をしたり、本を読んで勉強したりする余暇の楽しみを覚えたばかりだったから、休みの短さが少しだけ惜しい気がした。

 宇髄が帰り、夜が深くなっても、不死川の機嫌はなかなか戻らなかった。椿は餉台に肘をついて、洋燈の灯りを調整している不死川に向かって尋ねた。

「私が他の男の人に愛想を振りまくのは嫌?」

 不死川がため息を吐いた。

「お前、何をしにいくかわかってんだろうなァ」

「綺麗に着飾って、お座敷で唄ったり踊ったりお喋りをしてお客を楽しませて、その中に鬼がいたら殺せばいいのよね?」

「間違っちゃいねェが」

「良かった」

「嫌な男がいたら、俺に言え」

「どうするの?」

「殺す」

「堅気の人間は殺しちゃだめよ」

「この不景気に夜な夜な乱痴気騒ぎしてやがる悪党共だ」

 不死川は話を持ち込まれた時点で断らないだけ、最大限譲歩していた。自分の妻を危険に晒している宇髄の手前というのもあったが、不死川は止めても止まらない椿の習性をすでに理解していた。だから心底嫌々ではあっても、送り出さないという選択肢はなかったのだ。

「実弥さん」

 椿は二人きりの時にしか呼ばない名前で不死川を振り向かせると、不満げに尖った唇に吸い付いた。

「こんなことを許すのはあなただけよ。それでも嫌?」

 不死川は目の前に差し出された誘惑に抗わなかった。椿の着物を解きながら、不死川はこんこんと言い述べた。

「座敷に上がるときは左手で褄を取れ」

「左手?」

「男の手が裾から入らなくなる」

「着物の上から触られたらどうするの」

「そいつの指を折れ」

 不死川の声は本気だった。

「うん、そうする……」

 椿は答えると、後は恋人の与えてくれる甘美な刺激に身体と思考を委ねた。まだしばらくは、このおままごとのようなぬるま湯に浸っていたい気分だった。

 

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