近隣の機械工場が排出する煙煤にまみれた土塀が左右に続いている。掘割の水面は油に塗れ墨で染めたように黒く淀んで動かず、往来は白昼にも関わらずものものしい空気が立ち込めている。貧家の痩せ細った子供たちが路地でたむろして、通りがかる不死川と樋上を暗い眼差しで見つめた。野良犬すら吠えるでもなく、くたびれ切った様子で残飯を漁っている。
「なんで連れが俺なんだよ。粂野ならここでだってさほど浮いたりしないだろ?」
樋上は己の顔を指して、粂野のそこにある古傷を擬した。堅気で生きてきてこさえた傷ではないと言いたいのだろう。
「手前の胡散臭さにゃ敵わねえよ。黙ってついてこい」
特有の饐えた悪臭を嗅げばいやがおうにも腐ったドブの中を這いずり回って生き延びていた頃を思い出す。まださほど昔のことではない。正直なところ、不死川はここに戻ってきたくなかったし、まして親友を連れてくるなど絶対に嫌だった。
そんな年でもないのにまだらな白髪だらけのざんばら髪の男が筵を引いた上に身を屈めてしゃがんでいる。不死川と樋上が前に立つと男は首を上に向けた。右目が白く濁っている。
「不死川か。何年ぶりだ?」
「数えちゃねえよ」
男は白目をぎょろと動かして樋上の方を向いた。樋上は不気味そうにたじろいだ。
「お前の舎弟か」
「そんなもんだ」
頭に会いにきたどこにいると尋ねれば、男は欠けた人差し指でぐいと三軒先の小料理店を指した。不死川は物も言わずにすたすたとその場を立ち去った。
「舎弟はないだろ。言っとくけど俺年上だし先輩だよ!?」
「俺に年功序列を説くたあいい度胸してんじゃねえか。何年隊士やってんだァ、てめえ」
樋上はうな垂れてそれ以上抗弁しなかった。鬼殺隊では強さがすべてに優先する。樋上の階級は上から数えて四番目の丁で止まって久しく、年下で後輩であるところの不死川にはものの数か月で抜かされた。
「さっきから何ビビってやがる」
「俺はいいとこいって小悪党なんだよ。まじもんの任侠相手とか勘弁こうむりたい」
鬼狩りのくせに何を気弱なと一喝しようという気持ちは、樋上の情けない態度を前に失せた。別に不死川だってこの連れを頼りにする気はない。宇髄からの命令がなければ相方など要りもしなかったのだ。
一連の失踪事件に唯一居合わせた俥夫から詳細な証言を聞き出すこと。それが今回音柱から不死川個人に課せられた任務だった。
この俥夫、その証言の内容の突飛さゆえに虚言虚実もしや下手人張本人と疑われ、訴えを聞いた巡査たちに捕縛されそうになったのを辛くも逃れてこの貧民窟に逃れてきたのだ。宇髄は独自の情報網でこの俥夫が逃げ込んだ先までは突き止めたが、一帯は縄張り意識が強く、無理に入り込むことができそうにない。そういう理由で不死川に、お前が適任だろうと仕事を振られた。
どこで不死川がこの地に縁があったことを宇髄が掴んだのかはわからないが、いずれにせよ際立った情報収集能力だった。そもそも、店を突き止めたのも宇髄の功績なのだ。あの風体で元忍だのなんだのとほざいているが、案外バカにしたものではないのかもしれないと、不死川は音柱への評価をいくらか上方に修正した。
汚らしい小料理店の二階で、日雇い人夫が集まって静かに賭博に興じていた。奥では倶利迦羅紋々の彫物を刺した坊主頭の男が煙草を吸って胡座をかいていた。
「来るならもうちっと暇な時に来い」男が言った。
「暇っつうのはどういう時だァ?負けが込んで胴元が破産した時かよ?」
手前に座った用心棒が挑発的な言葉にぴくと瞼を動かしたが、この場所に生きる無法者たちは逆らっていい人間と逆らってはいけない人間の弁別にかけては右に出るものがない。用心棒の目から見て不死川は後者だった。よって、壁に立てかけた突棒が用に立つことはなかった。
「何の用だ。博打しにきたって体でもねえだろう」
不死川は後ろに隠れた樋上にちらっと目線をやった。暗にお前も仕事をしろと急かされ、樋上は渋々前に出て口を開いた。
「雇主を殺した廉で逃げてきた俥夫に用がある。いるんだろう?」
男は人夫の中から、日に焼けた黒い肌の中年男を紹介した。
「俺あなんもやってねえよ」
不死川が男の隣に座ると、俥夫はこちらが言葉を発するより前に、まっすぐ前をむいて視線を合わさないまま言った。
「知ってらァ。話を聞きに来ただけだ」
俥夫の表情が興味深そうに動いた。
「へえ?人力俥夫のほら話を信用してくれるってのか?」
「信用してやる。聞いたことに答えろォ」
不死川の物言いはぞんざいだったが、むしろその言い回しに親近感を覚えたのか、心を開く気になったらしい。俥夫は頷いた。
「てめえの主人は、消える前になんぞ言っちゃァなかったか」
「あの晩はしたたか飲んでたっからな。酔っ払いの戯言だぞ」
「それでいい」
不死川が促すと、男は「三味線の音」とぽつりと言った。
「三味線の音が聞こえる、聞こえる、ってうわ言みてえに呟いてたなあ。俺ぁいつもの酔言と思って相手にもしなかった。前を向いて俥を引いてたのがフッと軽くなって……そんで振り向いたらよ、旦那さまの姿がなかったのよ。消えちまった。煙みてえに」
男は下を向いた。
「おい兄ちゃんよお、旦那さまは死んじまったのかい」
「ああ」
鬼に連れ去られたなら望みはない。希望を持たせる必要もないと思い、不死川は肯定した。
「俺みたいなもんにも心を砕いてくれる、いいお人だった」
男の皺だらけの目元に涙が光っていた。
「お前の濡れ衣は晴らす。主人の仇は打ってやる」
「頼むぜ。このまんまじゃやりきれねえよ」
店を出る時、彫物の男が寄ってきて、不死川に耳打ちした。
「ちょいと前の話だが、神楽坂の八幡さんで妙な騒ぎがあったらしい。的屋の喧嘩でカタがついたらしいがな」
「いつだ」
頭から聞き出したのは新嘗祭のきっかり十日前、柱が失踪した時期と重なる。これはいい情報だった。表向き博徒の喧嘩で処理されているなら、中々情報網にも上がらないだろう。
礼を言って背を向けた不死川に、男は勿体無げに声をかけた。
「おめえがここにまだいりゃ、なうての手配師になったろうによ。惜しいことをしたもんだ」
「おだててもここにゃ戻らねえぞォ」
「わかってら。鎌かけただけだ」
ここに生きる人々に対して、一片の親しみもないわけではない。だが、昔と変わらず夜の闇に身を置けども、ここにいては決して得られぬ陽だまりの温かさを分け与えられてしまった以上、もはや戻りたいとは一念たりとも思わなかった。
三つ夜が明けた。
椿はその日も出番を待つ間、三味線を弾き鳴らしていた。
「また弾いてるの?好きだねえ、それ」
まきをが微笑ましげに椿に言った。椿はにこりと笑って答えた。
「須磨、あんた握り飯食べたね。ほっぺたにご飯粒ついてるよ。どこからくすねてきたんだか」
「だってお腹空いたんですもん……」
大きな瞳をうるうるさせた須磨は許してあげたくなるような愛らしい風情だったが、まきをには通用しなかった。
「私の分を差し上げました。お腹が空いていなかったので」
椿が助け舟を出すと「ありがとう椿ちゃん!」と、須磨はこれまた愛らしく礼を言った。
「ほらもう、口元拭いてあげるからこっち来な」
仲睦まじい二人の様子を見ながら、椿は普段から思っていたことを口に出した。
「音柱の奥様方は、皆さんとても仲良しですね」
「うん?そりゃあ長い付き合いだしね」
「付き合いの長さだけでうまくいくものではありませんでしょう。一人の男性を共有するなら、なおさらのことです」
椿は実際に目にするまで、噂に聞く音柱の『三人の妻』とは如何なるものだろうかと思っていた。一人の男が多数の女を囲うことは世間に一般的に見られる風習である。しかし、多数の女を持つ場合でも妻は一人。あくまで正妻一人と妾複数なのである。普通は。
「自分の女たちを引き比べてあちらの方が良いこちらの方が良いと縺れに縺れて破局に至るなどありがちな話です」
多数の女を平等に遇するなど所詮絵空事、いかに男が手管良く女を扱おうともそこに嫉妬妬みが生まれるのは避けられぬ。ゆえに女の間には序列が生まれる。ところが宇髄と三人の妻はみな対等な身分で存立している。これは稀なことと言わねばならぬ。
「天元様は私たちを比べて何か言うことなんてありませんから」
「なかなか出来ることではありませんよ。娶った妻を全員平等に扱うなんて、光る君だってかないませんでした」
「おうおうなんだ。俺の噂話か」
後ろに雛鶴を連れた宇髄が用事から戻ってくると、須磨とまきをの表情が一気に華やいだ。
「音柱さまのような美丈夫を夫に持つと、妻は悋気に振り回されて苦労すると相場は決まっておりますでしょう?」
「旦那に悋気を起こすってのはあれだな、嫁への愛が足りてねえんだよ、愛が。俺は言葉でも行動でも派手に嫁を愛すると決めている。誤解も齟齬も生まれようがない」
「なるほど、安珍のごとき不義理者とは役者が違うというわけですね」
椿は得心がいったように頷いた。
「では、音柱さまに悋気は?皆さんお座敷では大評判、須磨さんなど社長のお妾にならないかと誘われていらっしゃるのですよ」
宇髄は美男なばかりか話が巧みでそれはもう大層女に好かれるが、妻たちもみなそれぞれに性格は違えど、気立てがよく魅力的な女性なのである。
宇髄は不敵な笑みを浮かべて須磨の方を振り向いた。
「須磨よ、そいつは俺よりいい男だったか?」
「いいえ」
須磨は首をぶんぶんと勢い良く振り、「天元様より素敵な殿方なんてこの世にいません」と断言した。
「そうか。もし俺よりいいと思う男ができたら言え」
「どうするんです?」
椿が聞いた。男を沈めるつもりだろうか。物理的に。
「決まってんだろ。言葉を尽くして口説くんだよ。もういっぺん俺に惚れ直してもらえるようにな」
よっぽど自分に自信がなければ言えない台詞だ。さすが冗談でも神を自称する男である。なにより宇髄の言には誠実さが篭っていた。椿は頭を下げるしかなかった。
「意地悪を申しました。音柱さまの海より深い甲斐性を侮っていたことをお許しください」
本題に入った。
「鴉からの報告は聞いたか」
「はい。あちらは首尾よく行ったようで何よりです」
「で、こっちはお前は欲しがってた分だ」
宇髄の持ってきた資料に素早く目を通した。
「お前が言ってた男の会社のここ数か月の損益表と人事資料だ」
「よく集めましたね」
「お館様の力をお借りした。消えた連中全員との繋がりまで突き止めたかったが、そこまで調べ切るには時間が足りねえ。だが、何件かは裏が取れた」
「十分です。見事なお手前です」
宇髄は腕を組んで思案げに言った。
「あの男、俺が見た限り鬼の気配はしなかったが」
「そこは疑っておりません。芹澤は間違いなく人間です」
「なぜわかる」
「割れたお猪口で指先を切って反応を見ました。私の血を前にした鬼ならどれほど巧妙に抑えても違和感が出るものです。しかし、あの男は私の失敗を前にして眉根一つ動かさず鼻で笑いました。徹頭徹尾冷血の通った人間です、彼は」
「なるほど」
宇髄が頷いた。
「今夜中に決着をつける。すでに不死川たちには作戦を伝えた」
「ただでは出てきませんでしょう。人間を介してその陰に隠れているような輩です」
「そのためにお前にも一仕事をしてもらう。まさか芸妓が馴染んで剣筋が鈍ったなんてことはないだろうな」
「ご心配なく。いつでも戦えます」
芸者をやるのはそれなりに楽しかったが、好きでもない他人に奉仕するのはやはりどうにも性に合わない。自分にはこちらの方がよほどお似合いだと、椿は日輪刀を鞘から引き抜いて刀身の具合を確かめた。
芹澤を一人部下から引き離して誘き出すのは拍子抜けするほど 簡単だった。座敷が終わった後、お店の外でお会いしましょうと誘うと、勘違いしてのぼせ上がった男はやすやす乗ってきた。値段の折り合いさえつけば、芸者とて遊女まがいの真似をする時世である。それもこれも身体を売らねば食ってゆけぬような不景気が悪い。
のこのこと待ち合わせ場所に一人でやってきた男の足を掬って地面になぎ倒し、喉元に小刀を突き立てた。芹澤は仰天して「誰か誰か」と叫ぶが、しかし誰もこない。往来の人払いは完璧だった。
「か、刀なぞ持ってどうしようと言うんだ。婦女子が男にかなうものか」
「生憎、私は素手でもあなたの首をねじ切るくらいのことはできますよ。理解したなら、質問に答えなさい」
呼吸で強化し極限まで鍛えた肉体に、武術の心得一つない人間の男がかなうはずもない。肩を抑えただけの拘束から抜け出そうとするも果たせず、男は道理の通らなさに目を白黒させた。
「狭斜の巷に身を堕すばかりか人切りとは、先祖の位牌に申し訳ないと思わないのか。この悪女」
「あなた、兄を殺しましたね」
苦し紛れに罵倒する芹澤の言に取り合わず、椿が核心から迫った。
「なんの話だ」男の顔から表情が消えた。
「河岸で上がったあなたの兄の遺体には上半身がなかった」
刀の切っ先が喉元につうと触れると、いよいよ芹澤の顔から色みが消え失せた。
「それがどうした。魚にでも食われたんだろう」
これ以上刀を持つ手を進める度胸がないと思ったのか、芹澤は強気を取り戻した。椿は芹澤の右手の小指を摘んで力を込めた。骨はあっけなく砕け、男は情けない悲鳴を上げた。
「口にする気になるまで、順番に両手指の骨を折ります」
こけ脅しでない椿の言葉に、芹澤は火がついたように己の所業を捲し立てた。
宴席の席で兄と口論になりかっとなった勢いで庭の池に沈めて殺してしまった、死体をどうしようかと考えあぐねていると女が現れた、女は兄を始末する代わりに自分が申し付けた連中を宴席に連れてこいといった、その通りにしただけだそいつらがどうなったかは知らない俺は悪くない俺はなにもやっていない
「女に言われた通り連れてきた。それだけですか?気に入らない人間や邪魔になる人間も尽くその女とやらに献上したのでしょう。社主を消して、乗っ取り買収したのも一社二社では済みますまい」
宇髄の資料と裏付けで、失踪者の人選にこの男の意図が絡んでいることは知れた。図星を突かれた芹澤はまごついてそれ以上何も反論できないようだった。
「……弟はどうしたのですか。書類上では北海道の子会社に出向したことになっていますが、見た者がありません」
男の形相が鬼じみて歪んだ。そこには肉親への憎悪がはっきりと見て取れた。
「店に連れてきて、女にくれてやった。今更、隠居親父が血迷ってしゃしゃりでてきてあいつを後継者に指名しちゃかなわんからな――ギャァ!?」
手首の骨がごきりと折れる音がした。
「あなた、尋問の役が私で運が良かったですね。他の隊士にかかればこの程度で済みませんでしたよ」
芹澤は二言三言ばかり吃りながら訳のわからぬことを言っていたが、ふいに呆然となって「三味線の音がする」と呟いた。
椿は顔を上げてあたりを見回した。宵中の辻は静まり返っている。
「助けてくれ!助けてくれ!――
今度は椿の耳にもはっきりと聞こえた。しゃんとなる三弦の音色が。
後ろを振り向くと、誰もなかった路地の終わりに女が立っていた。松園の美人絵から抜け出してきたような妖しくも艶かしい青白い顔が、月の光に照らされてくっきりと浮かび上がる。
女の姿を目にした瞬間、思考にかかっていた靄が晴れ、鮮明な像を結んだ。芹澤と再会した席に居合わせた、紅葉柄の着物を纏った女と目の前の女は同じだった。
「いややわ、全部喋ってしもたん」
鬼女の赤く熟れた唇から、まるで赤子を諭すような甘い声音が漏れた。
「助けてくれ紅葉、この女に殺される」
鬼女は冷ややかな眼差しで半泣きになっている芹澤を眺めた。
「うちがここに来たんはあんたを始末するためや。都合のええ手駒や思て泳がせといたけど、これ以上べらべら喋られたら、やり難うてたまらへん」
芹澤の身体からへなへなと力が抜けた。
椿は立ち上がり、日輪刀を構えて鬼女を注視した。極めて高い精度で人間に擬態している。だが、店で鬼と見破れなかったのはそれだけではない。
「ええ風やね。うちのお香は脳みそに効くんやけど、こない風が吹かれたらかなわへんわ」
「店でお前を鬼と認識できなかったのは、その認識阻害の血鬼術のためね」
何が楽しいのか、鬼女は笑みを絶やさない。
反対に椿の脳髄はしんと冷えていく一方だ。本能が訴える。この女は強い。
「そうや。でも、あんまり驚いてへんな」
「私が紅葉狩を舞ったとき、三味線を弾いた芸者はお前でしょう。あの時から妙な気がしていた」
芹澤はこの女を紅葉と呼んだ。
紅葉狩とは、平安時代の武将・平維茂が更科姫なる鬼女を退治する筋立てになる。鬼退治の物語なのだ。そのもととなった伝説の鬼女の名を紅葉と言う。無意識のうちにその名に縁する舞を選んでいたのは皮肉だった。
「あれはええもん見してもろたわ。なんでわかったん?」
「お前が消したある男は、三味線の音を聞いたと言った」
「それだけちがうやろ?三味線弾く幇間芸者は巷に山ほどおる」
鬼女はまるで面白い謎解きでも聞いているかのように続きを促した。
「あの時はただ違和感として残っただけだったけれど、今ならはっきりとわかる。お前の三味線、山の手の若い芸者風情が奏でて良い音色ではない。生涯を芸に捧げた瞽女老妓もかなわぬ三弦の極地よ」
「そない褒めてもらえるとは思いもよらへんかった。嬉しいわあ。どうもおおきに」
「褒めたように聞こえたの?その域に至るまで、一体どれほどの時を長らえた。どれだけ人を喰った。化物め」
水の呼吸・弐ノ型、水車
椿の技は鬼の手練で受け流された。椿もこれで仕留められるなどとははなから考えていない。
「これが三の糸」
第三の弦から高音が絶え間なく響き、間断なく衝撃波が飛んでくる。背後の家屋はことごとく切り裂かれて崩落した。
「だれもおらへん」
童女のような仕草で崩壊した家の中を覗き込んだ。家屋の中はもぬけのからだ。
「うちが来おへん間に逃したんやねえ。優しい子」
椿は黙って陸ノ型ねじれ渦を放った。身体が動く。思考も明快だ。今日はよく戦えている。
「思ってたより強いんやねえ。こないだ殺した柱とさして遜色あらへんわ」
椿の斬撃は鬼女の顔面を割ったが、傷は瞬く間に再生した。再生速度が異様に速い。ただの鬼ではない。
「これが二の糸」
女の放った鋭い鎌鼬をすべて避け切ることができず、左腕を深々切り裂かれて血が吹き出た。椿はこういう時、いくら模倣しようにもかなわない師の技の偉大さを思い知る。冨岡なら手傷一つ負うことなく今の攻撃をいなしただろう。
「……あんた、生娘違うのん?」
鬼女は風に乗った血の匂いをくんと嗅いで不機嫌そうに言った。処女血を好んで啜る鬼の類か、気色悪いことこの上なかった。
「あかんえ、若い娘が身売ったら」
「理から外れた人外畜生が異なことを言うのね」
「芸の道に色欲まみれの男がでしゃばる余地なんぞないわ」
あからさまに発露する男性嫌悪の幼稚さに、椿は嘲笑を堪えきれなかった。
「惚れた男と情を絡ます悦びも知らないなんて、哀れな女」
鬼の瞳に初めて殺意が滲んだ。
「生かしたまま連れて帰って鬼にしたろかおもたけど、気い変わったわ。手足引きちぎって頭から喰うたる」
鬼女が撥を跳ね上げるよりも先に、椿は懐から火薬玉を取り出して鬼の足元に投げた。爆発とともに地面が抉れて土埃が舞う。
「目眩し?大雑把な――」
そこから先の鬼女の言葉は巨大な爆発とともに弾け飛んだ。
鬼の死角から飛んできた音柱の日輪刀は、鬼女の身体を裂いていた。
宇髄の一撃で鬼女の頭は半分吹き飛んだが、頸を取るには至らない。悪態をつく口も再生しやらぬ内に、鬼女は凄まじい速度でその場から離脱する。まもなく気配そのものも掻き消えて追えなくなった。ここに来た時と同じように、血鬼術で空間を跳躍したのだろう。
「よく抑えた」
煙の中から宇髄が姿を現した。鬼女が冷静さを欠く瞬間に攻撃を叩き込めるまで、気配を殺して潜んでいたのである。多数で待ち構えていては、いかに情報の漏洩を危惧していようとも、鬼女は姿を見せなかっただろう。
「芹澤を連れて行かれました」
「それは目を離した俺が悪い。よくやった」
宇髄は椿の肩に手を置いて労った。ここで仕留めるのが最善だったが、次の手は打ってある。
「俺は鬼を追う。お前は雛鶴たちと合流して手当てを受けろ」
宇髄は戦線離脱を命じた。椿の作戦上における役目はすでに終わっていた。
「私も行きます」
「足手まといだ」
宇髄は左腕の傷を見ながら冷静に言った。
「利き腕ではありません。血も止まっていますから、戦うのに支障は出ませんよ。もし両腕が使えなくなっても肉壁くらいにはなれますし、いざとなれば火薬玉に火をつけて特攻します」
「いや……お前さ……俺もう不死川がかわいそうになってきたわ」
椿は左腕にきりきりと包帯を巻いた。何がかわいそうなものか。絶対に鬼を許さない。地の果てまで追い詰めてでも殺す。それが自分たちを繋ぐ最大の寄る辺だ。
「問答をしている暇はありません。神楽坂に急ぎましょう」
異様な胸騒ぎがする。夜明けは遠くないのに、よくない事が起こりそうな予感が身に纏わりついて離れなかった。