宇髄がこの一件を持ってくる、二週間ほど前のことである。
「お館様にお会いしたことがないの?」
椿は驚きで目をぱちぱちさせた。
柔らかい日差しが窓格子の隙間から入り込む秋の昼下がり、二人で座卓の上に本を広げて読み合わせていた。その日の教本は太平記で、ちょうど天皇の御子である大塔宮が幕府軍に追われて熊野へ逼塞する場面に差し掛かっていた。
なぜ軍記物の読み合わせなどしているのかというと、椿の突拍子ない言に発端があった。
「実弥さんは柱になるんでしょう」
「藪から棒になんだ」
「柱になる人は見ていてわかるわ。煉獄家のご子息はご存知?万夫不当の素晴らしい剣士だそうよ」
「煉獄か。あいつァ確かにいい腕っぷしだった」
任務で一緒になったことのある、金獅子のごとき風体の男を思い返した。代々一族に受け継がれてきた炎の呼吸の継承者となるべく幼少から鍛えたという剣技は見事なもので、その明朗で高潔な人柄といい、なるほど柱となるに相応しい剣士と思われた。
椿は、柱になる隊士は入隊した時にだいたい予想がつくと言った。一つの目安は階級の上がる速さだが、多くの場合、入ったときからすでに剣の筋が凡百とは違うのだという。とはいえそれらも命あっての話で、これは素質があると見込んでも、つまらぬことで足元を掬われて死ぬこともまた日常茶飯だった。
「だから、どこに出ても恥ずかしくないように礼節と教養を学んでおかなければね」
「なんでそうなる」
柱になるのに必要なのは強さのみである。礼節などどこに用立てるつもりなのか。
「お館様に直々拝謁する機会が増えるのよ。産屋敷のご当主に無作法を働いて鬼殺隊に籍を置くことはできません」
すでにそれが決定事項とばかりに、椿は不死川に礼儀作法を叩き込むことを決めたらしい。うわべだけ取り繕っても所詮下町育ちの地金が出るというものと、不死川自身は特にやる気もなく椿の言うまま付き合っていた。だが彼女は小手先で済ませるつもりは毛頭なく、実技実践では足らず、書物を山ほど積み上げてみっちりと仕込まれる羽目になった。幸い、不死川は学ぶことを苦にせず、教えられたことは何でもするすると吸収した。椿はそれを喜ぶのと同じくらい「私が半年かけて覚えたことをあなたは三日で覚えてしまう」と拗ねたが、不死川が「お前の教え方がいい」というと素直に嬉しがった。これは本心だった。学校の教師にでもなれば、さぞ子供から慕われるだろう。
しかし、椿があまりにもお館様に失礼がないように奥方様にもご令息ご息女にも失礼がないようにと重ねて重ねて言うので、うんざりした心地になり、思わず「どんな野郎だ」と不死川が問うた。そして冒頭の言葉が発せられたのである。
椿は驚いていたが、そもそも鬼殺隊の頂点に君臨する産屋敷の当主は、一介の隊士が易々相対叶う相手ではない。
「比類なき聡明叡智のお方。隊士が鬼を狩ることのみに専念できるのも、お館様のご采配の賜物よ」
「はっ、そうかい」
不死川の鼻で括ったような返事に、椿は気を悪くして言った。
「もう少し敬意を払えないの。私たちのお給金も支給品も、隊の運営に必要なものはすべてご当主が家財で賄っているのよ」
それはたしかに大したものだが、だからなんだ、とも思う。不死川は上に立つ人間が、いくら賢かろうと物を知っていようと金を出そうと、それだけで敬意を持つ気にはなれなかった。戦場で命を張らない人間が何を言ったところで説得力などない。大塔宮が敗地にあって部下から慕われたのは、高貴な身分でありながら、自ら太刀を佩いて弓を取り戦場に立ったからだ。それに引き換え、鬼殺隊の当主は隊士たちが命をかけて戦っているのに、自分は姿も見せずただ部下に死んでこいと後ろに隠れて命令を下している。胸糞悪かった。椿が当主について語る言葉のどこかに陶酔したような響きがあるのもなお一層気に入らなかった。
不死川の上下感覚は単純明瞭である。強い人間が上で、弱い人間が下、それだけのことだ。野生の狼のごとき価値観だが、それは鬼殺隊の完全実力主義とも合致している。いかに社交性が欠如していようと人望がなかろうとも、能力さえ有れば許容されるのだ。水柱が良い例ではないか。
「鴉ごしに上から命令するだけで顔もみせやがらねェ、そんな奴の何を敬えってんだ」
「こちらがお会いしたいと望めば、相手が誰であろうとも応えてくださるわ。ただお忙しい方だし、みな遠慮をするから、そんな機会がないだけ」
彼女は鬼殺隊に入る折、当主に直々頭を下げて鬼狩りになりたいと頼みこんだのだと言った。その際に父親から相続した多額の財産もすべて出捐した。それを聞いてますますとんでもない奴だと思った。
家族を失ったばかりの子供があえて夜叉に身を落とそうとしているなら、悲劇を飲み下して市井の娘として生きていけと諭すのが人倫の筋というもので、財産をとりあげてあまつさえ過酷な鬼狩りの道を歩ませるなど、およそまっとうな人間の所業ではない。
しかし言えば言うほど椿の目が据わってきたので、この話題はお流れになった。休みの日に、つまらぬことで喧嘩をして気不味くなりたくなかったのだ。
そんなことがあったのを、不死川は宇髄とのやりとりの中で思い出していた。目下の苛立ちが、鬼殺隊当主の人事差配の手緩さに向けられていたためである。
決戦を前にして音柱に人員の増員を進言したところ、にべもなく跳ね除けられた。それどころか、哨戒に当たっていた隊員は軒並み引き上げることになり、宇髄が自ら連れてきた椿と不死川を除いて残ることを許されたのは、不死川が連携が取りやすいからと引っ張ってきた粂野と、その粂野が同期の誼で引っ張ってきた樋上だけだった。
「別件の対処で大規模な部隊が編成されることになった。こっちに人手を回す余裕がねんだとよ」
「正気か。これで逃げられでもしたらどうすんだァ、ああ?」
鬼殺隊の人手不足はいまに始まったことではないが、大物を仕留める絶好の機会を前にして、戦力を削減するなど妥当な判断とは思えなかった。
「この件は俺たちだけで処理できると上が判断したんだ。俺も文句はない」
宇髄にしてみれば、下級隊士を十人よりも、上位の隊士を一人寄越してもらえる方がありがたい、というのが現場指揮官としての率直な本音だった。これが人間同士の戦いならともかく、対鬼戦を想定すると、生半可な腕前では何人でかかろうともただ無為に命を落とすばかりで、被害が拡大するだけである。そういう観点から言えば、上位の隊士を優先して残して貰えたのは有難いことだった。
不死川は舌打ちした。
「てめえも『お館様』とやらを崇拝してるクチかよ」
「愚問だな。あの方のためなら俺は死ねる」
挑発をあっさりと流されたので、不死川もそれ以上突っかかるのは無意味と悟った。これが最後の定期連絡だ。
「安心しろよ。危なくなる前に俺が出て行く」
「当然だ。あいつに何かあったら俺がてめえを殺す」
「あの女はお前が思ってるほど弱くねえよ。もうちょっと信頼してやれよ」
宇髄はわかっていない。強いか弱いかはこの際問題ではない。すべては鬼を殺すためなら己の命を軽々投げ捨てていく椿の気性に原因がある。だが、さすがに不死川はわきまえていて、宇髄の提示した案にそれ以上異論を挟むことはしなかった。目的の達成のために手段を選ばないのは不死川も同じだった。
「ふーん。買われてるんだな、お前ら」
神楽坂の参道の途中にある団子屋で一服しながら、樋上が不死川から作戦内容を聞いた感想を述べた。
「共犯者っぽい男を締め上げて鬼を誘き出して、巣穴に戻ったところを叩く作戦だろ。後詰めに選ばれるなんて、信用されてる証拠だぜ」
店の奥に向かって、みたらし団子もう三串、と頼むと、あいよと威勢のいい返事が戻ってきた。
「音柱って、こないだ道場に乱入してきて、鍛えてやるとか言って隊員に稽古つけてくれたんだっけ?向上心のある奴からしたら、柱に稽古つけて貰えるなんてありがたいよな」
宇髄本人は継子候補を見繕いに来たらしいが、大半お眼鏡に敵わなかったらしい。
「そうそう、数人がかりでようやくまともに勝負になる感じでさ。俺も結構いい線いったと思うけど、継子にはしないって言われた。結局一対一で勝てたのは実弥だけだったなあ」
確かにその時は不死川が勝った。とはいえ、この結果が即座に実戦における絶対的な強さを示しているわけではない。宇髄の剣技の真価は巨大な二刀から繰り出す破壊力にあり、木刀と徒手空拳を駆使した手合わせにおいてはもとより不死川に分がある。
「俺は宇髄さんの意見に賛成だな。今回の鬼は確かに驚異だけど、この戦力で十分対処できる相手だと思う」と粂野は言った。
「ヤツは空間を跳躍して即時に移動する手段を持ってる。不測の事態に備えるに越したこたねえよ」これは不死川の意見である。
神楽坂の八幡宮、ここが鬼の巣穴なのは裏付けが取れている。敷地内を丹念に調べると、大量の人骨を埋めた穴があった。鬼の気配は巧妙に隠蔽されていたが、敷地裏手の草むらの中で消えた柱の日輪刀の破片が発見されたことで件の鬼がここにいたことが確定した。他の情報と合わせて推察した結論が間違っていなければ、鬼はここに逃れてくるはずだ。
「なんで?」樋口が率直に疑問をぶつけた。
「第一に、確実に店内にいた痕跡があるのに、出入り口に張り付いてた監視に引っかかってない。入口を介さず店の中に直接移動したとみていいだろう。おそらく、人間を拐ってるのも同種の血鬼術、でも、無条件に発動できるわけじゃない。状況から見て、誰にも見られていないこと、三味線の音が引き金になるんだろう。
第二に、店に潜入した彼女たちが違和感を感じながらも鬼を特定できなかったのは、認知機能に作用する血鬼術を行使していたと考えられる。だが、人間を拐うのに使用した節がない以上、それほど強い強制力を持つものではない。持続時間が短いか、至近距離じゃないと効果が発動しないんじゃないかな。
第三に、狩場から拐って別の場所で殺す手口、逃げて立ち回る程度の知能と慎重さもある。境内の痕跡からして、長年この地に縄張りを張ってたんだ。外で身の危機を感じて一旦引くとしたら、ここしかない」
鬼の血鬼術が、生前の性格や嗜好に強く影響を受けているのはよく知られている。行動を性格と能力の両面から検討すれば、敵の戦術も自ずと推測できようものだ。
「お前頭いいな」樋上が真顔で言った。
「宇髄さんと実弥も同じこと考えてたよ。なあ?」
にこにこと笑いながら粂野が不死川に水を向けた。不死川は団子の最後の一切れを食べ終わり、茶を啜っていた。
「鬼にとって、この場所が割れてるのは想定外だろう。この辺で変な事件なんか起きたことなかったみたいだし」
「スリ師が自分の家の前で盗みをやらねえのと同じだァ。狩場と縄張を分けてやがる」
日が落ちた。そろそろ時間だった。
夜になると宮司や巫女も全員引き上げ、境内から人気が完全に消える。
「樋上、お前は身を隠して、鬼が現われたら近くで待機してろ。鬼の前には出るな」
「えっ俺いないほうがいい?弱すぎるから?」
戦力外通告と思ったのか樋上が聞き返した。
「交戦の結果、俺たちの内のどちらか一人が死んだら、宇髄さんと合流して情報を持ち帰ってほしいんだ。それまでに出来るだけ鬼の手の内をあきらかに出来るよう努力する。生き残った方はその場に止まり、柱が到着するまで時間を稼ぐ」
粂野が穏やかな口調で剣呑なことを言った。
不死川と粂野は、もう一人を加えて戦力とするよりも、万一に備えて、より多くの情報を持ち帰らせることを優先した。下っ端は生き残ることも仕事のうちだ。
「了解。頼むから死んでくれるなよ。お前らの骨を拾うなんて俺はごめんだからな」
樋上と別れ、粂野と不死川は敷地全体を見渡せる楼門の上で鬼の到来を待った。
「実弥、強くなったよな」
粂野の言葉はこちらの返事を求めたものではなかった。嬉しそうにしていることは顔を見なくても声だけでわかった。
粂野は同期の中では一番優秀で、出世頭だったと聞く。そう歳も違わぬ弟弟子が楽々追い付いてくるなど、尋常の剣士ならばふつう嫉妬心の一つ二つも湧いてきそうなものだ。それでも粂野は最初会った時と何一つ変わらず、この上ない友人として不死川を遇してくれる。感謝しかなかった。
「俺は搦手から攻めるよ。頸を取るのは任せる」
「ああ」
不死川が返事をすると同時に、突如としてわずかに空気が揺らぐ。鬼の気配だ。
境内の北側、本殿。
一直線に走り、本殿の扉を蹴破る。鬼女が一体、人間の男が一人。日輪刀を構えて向かってくる二人の鬼狩りを前にして、捕食中の女鬼は獲物を投げ捨てて三味線の撥をとった。
不死川は拳を固めて鬼女の横っ面をぶん殴った。鬼はこちらが想定外の動きをしたことで動揺した――日輪刀で頸を狙ってくるのを予想して反撃を構えていたらしい。その隙に男を連れて鬼から距離を取る。男は両腕を肘近くまで食いちぎられていたが、粂野に抱えられると大声で喚き出した。声を出す体力はあるようだ。命に別状はあるまい。
「助けてくれ!死ぬ!死んでしまう!」
「男が見苦しく喚くな!大丈夫だ、この程度で死んだりしない」
粂野が男の腕を縛り上げて止血しながら叱責した。鬼の共謀者であることは椿の情報からほとんど間違いなかったが、だからと言ってこのまま鬼に喰われるのに任せて見殺しにするわけにもいかない。
鬼女は撥を跳ね上げて全方位に向かって鎌鼬を飛ばした。
「ぬりぃ風だな」
不死川は風の呼吸の肆ノ型で迎え撃ち、鬼の技を相殺した。
「なんで助けるん。身内でも殺す悪党やで、その男。ここで死んだ方がええんちゃう?」
鬼女は食事を邪魔されたためか不機嫌そうに言った。男は鬼に睨まれて、出血もあいまって、ひいと声を漏らしてついに気を失った。
「この男は人間だ。人の法で罪を裁く」
粂野が淡々と言った。鬼殺隊は人間に誅伐を下すための組織ではなく、法の秤に乗せる権利もない。鬼を殲滅するだけが大義である。
「てめえは鬼、よって現世の法に
風の呼吸・弐ノ型、爪々・科戸風
鬼女は再び弦を鳴らして衝撃波を飛ばした。手練だ。だが二人がかりならなんとか圧倒できる。
「あんたら、強いなあ……柱と、さっきの女よりも強い」
女は防御と、合間に攻撃の手を緩めないまま、視線は常にちらちらと退路を探っていた。想像していた通り、多対一を避けたがる傾向がある。
粂野の剣の切っ先が右脚を貫通する。ほとんど同時に放った剣撃で不死川は鬼女の両腕を切り落とし、柄を思い切り打ちつけて三味線の胴を叩き砕いた。
「なっ……!」
鬼女の顔が悲劇的に歪む。やはりこの三味線は、鬼にとって何らか特別なようだ。不死川はその隙を突いて一息に頸を刎ねた。
「やったか?」
畳の上に生首が転がる。だが、鬼女の身体はゆらゆらとしなりながらも突っ立っているままだった。
「……ほんま嫌やわ。なんでそんないけずするん?」
血塗れの生首から、地の底を這うような怨毒のこもった恨み声が溢れた。
頸を切り落としても身体が崩れる様子がない。何故だ。
頸の弱点を克服した鬼がいるというが、二人とも話に聞くばかりで、実際に相対するのは初めてだった。
しかし、鬼は鬼である以上、急所が存在しないはずがない。何か条件があるはずだ。そこを断てば良い。
めきめきと音を立てて、鬼女の身体が膨れ上がる。
鬼が変体を終える前に仕留めようと剣を振り下ろすが、肉が硬すぎて断ち切れない。およそ鬼狩りとして戦う中で初めて味わう感覚だった。
変貌した鬼女の姿は、もはや人とも女ともかけ離れていた。異形の肉の怪物。もとあった首の断面から生えた、蛇に似た頭がのそりと動く。ぐるんとこちらを向く目には「下壱」と文字が刻まれていた。
「とんだ清姫のお出ましだな……!」
粂野は汗の滲む両手で柄を握り直した。
「行けるか、匡近」
「当然」
軽い口調で互いの調子を確認し合う。
巨体のくせに一切隙がない。どこが急所にあたるかはわからない。だが、勝ち目は手繰り寄せるものだ。恐れは皆無だった。不死川は剣を構えた。
人間だった頃の記憶は擦り切れて、随分曖昧になった。
それでも、膝に染みる凍った雪の冷たさは覚えている。
幼少に眼病を患って以来この目は光を映さず、盲女はこれができねば食って行けぬからと、腹を空かせ撥で打たれながら三味線を仕込まれた。厳しい修行で芸を身につけて、自然それに誇りを持つようになる。
紅葉の属する座は同じような境遇の女で構成されていて、みな三味線や長唄を修めていた。芸を身につけた女たちは、村から村へと渡り歩き、宴席に招かれたり門付けに立って金品や食糧を得るのを生業とするのである。
紅葉の三味線はどこにいっても評判で、座で一番の稼ぎ頭だった。
紅葉は綺麗な女だったから、男たちから夜の誘いを受けることもままあったが、頑として強く跳ね除けた。座の掟では男と寝るのは厳禁だったし、紅葉もそんなことをして金を稼ぐのは絶対に嫌だった。身体を売って金を稼ぐなど、この世で最もおぞましい最低の仕事だと思っていた。三味線の腕一本で食い扶持を稼ぐことこそが紅葉の誇りだった。
聞きかじりの船場言葉など使って、他の瞽女とは違うと高慢に振る舞ううち、たいした腕前でもないくせにと座の女たちの嫉妬を買う。嫉妬した女たちの共謀で、顔面に煮立った油をかけられて、一命はとりとめたものの、上州一と謳われた白皙の美貌は面影もなく爛れた。
「お顔はこのように崩れましたが、音色に何一つ変わるものはありません」
「出て行け醜女、見目で楽しませるから招いてやったのだ。お前の三味線など何ほどでもない」かつて紅葉を歓迎した男たちは冷たく言った。
それ見たことかと笑う女たちの声に押し出されるように座を出て、雪の降る辻の地べたに座って三味線を奏でながら死を待つ。火傷の具合は重く、息をして顔を震わせるだけでも激痛が走り、包帯には血膿が滲み出た。
そして、あの方がお出ましになったのだ。
「これは鄙の地にそぐわぬ艶な三弦の音色だ。見事なものだ女よ」
胸に湧き上がる歓喜をどう形容したら良いのだろうか。
誰も認めなかった紅葉の芸術を、あの方は――鬼舞辻無惨は解したのだ。
あの方の血をいただいて鬼になった紅葉は、まっさきに長年寝食を共にした座の女たちを喰らい、自分を認めなかった男たちを喰らった。
定命から解き放たれた紅葉は三味線を自らの自負とすることに変わりなかったが、鬼としての本能が人間の血肉を求めた。この世には鬼狩りというものがあり、ひとたび彼らの目にとまれば鬼になりたての紅葉などたちまちのうちに狩られてしまう。しかし、鬼は人間を食べないと強くなれない。飢えが満たされない。どうすればいい?
それで、野心のある人間をうまく説き伏せて共謀者に仕立てあげ、人間を連れてこさせて数人を喰い殺し、足がつきそうになったら罪を被せて姿をくらました。獄中の犯罪者が鬼の仕業と喚いても、誰も信じない。
そうやって人間を喰らううち、いつのまにか下弦に叙され、あの方の尊顔を賜る機会があれば、進んで忠を示した。もとより慕う心に偽りなどない。
仕事を仰せつかることもあった。
「紅葉、お前に始末してほしい人間がいる」
それがどう言う意味を持つかなど紅葉は考えない。なぜ自ら手を下さないのかとか、そんなことを疑うのは紅葉の仕事ではない。命じられれば疑念を抱かず忠実に任務を果たすだけが紅葉の役目である。
ちょうど折りよく物色に立ち寄った店の庭で、男が死体を前にうろたえている。共犯者にならないかと嘯けば男は簡単に手駒になった。男は自分の馴染みの店に紅葉が言った人間たちを連れてきてくれて、あの方の命令は達成した。
普段はこれで終いなのだが、今回は止まらなかった。仕事を終えた褒美に分け与えられた血が、紅葉の気を大きくした。紅葉の行動は慎重さを欠き始めた。
一箇所に集中する不審な失踪事件は鬼狩りを呼び寄せたが、そのうちの一人、柱を首尾よく喰い殺したことでますます意気は上向いた。
このままうまくいき、あの方に許されれば、上弦に入れ替わりの血戦を申し込める。
反対に、鬼狩りの女は気に入った。紅葉の三味線を褒めてくれた。聞く耳を持ってる。この女の舞はさぞ我が三弦に映えるであろうと思って、連れて帰ってあの方に乞うて鬼にしてやろうと思った。だが、鬼狩りの女は予想以上にしぶとく、その上柱が現れたので台無しになった。
二対一で戦わない。紅葉は己の強さを自負していたけれど、根本的には確実性を期する性格である。縄張りに逃げ帰り、この程度の傷何ほどのことでもないが、とりあえず、この男で回復しようと腕を喰い千切る。女の鬼狩りのほうは、紅葉の三味線を聴かせたから、誰にも見られていないときに拐ってしまえる。それからまた他の連中を狩りに出れば良い。
そう算段を立てた矢先、再び鬼狩りの襲来を受ける。擬態の頸をはねられ、怒りのまま本性を剥き出す。それでも二人の鬼狩りはうまく連携して立ち回って、紅葉が肉の内に隠した頸椎を刈り取ってしまった。稀血の男の芳醇な血の香りに酩酊したからなどと言い訳にもならない。紅葉は敗北したのだ。待ち受けるのは死のみである。
惜しい、惜しい、死にたくない、まだ三味線を弾いていたい。いまだ己は伎芸天の至高の域に辿り着いていない。
けれど、どうしてそんなに三味線が上手くなりたかったのだっけ。そうしなければ食べてゆけなかったから?それとも、うまく弾けたときに誰かが褒めてくれた時が嬉しかったから……?
椿と宇髄がそこに到着したときには、すべてが終わっていた。
深夜の八幡宮の境内はしんとしている。
本殿の屋根は崩れ落ち、戦いの激しさを物語っていた。音柱は周囲の警戒をゆるめないまま境内の探索に向かった。
椿が辺りを探すと、砂利の上に転がっている蛇面の首を見つけた。衝撃で本殿の中からここまで転がってきたらしい。
鬼の方も椿に気付いたらしく、何か言いたげに口が動いた。
椿は無言で日輪刀に手をかけて振り抜き、ほとんど崩壊しかかった顔をさらに縦に割いた。それで鬼の顔面は完全に消滅した。
「椿」
樋上が駆け寄ってきた。どこにも怪我はしていないのに血の気の失せた顔で、「粂野が……」とだけ言い、肩を落とした。それ以上は言葉にならないようだった。それで椿はすべてを察した。
半壊した本殿の内部に二人の姿を認めて、椿はゆっくりと歩を進めて近寄った。
「実弥さん」
静かに声をかけると、不死川がよろよろと顔を上げた。瞳には怒りも悲しみもなく、ただ理解し難い現実を前にしてぼんやりと鈍っていた。不死川の口が開かれ、匡近が、と力ない声が溢れた。
「息、してねえ」
晴天の空に星は輝かず、夜の明けは遠かった。