寒椿の君   作:ばばすてやま

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三章
13.鉄樹花開く二月の春


 洋間の暖炉で薪が燃えている。

 ガラス窓の向こうでは、老梅の枝が雪をかぶってきらきらと輝いていた。

「母様、庭先の白梅が花をつけました」

「あら、本当。綺麗だこと」

 年老いた梅の木は、年々つける花の色が褪せていくので、来週中にでも切り倒される予定になっていた。椿はそれを聞いて、折角ぽつぽつとでも蕾をつけていたのに、可哀想だと思っていたのだ。見応えはなくとも、せめて最後の花が枯れ果てるまでは、伐採を延期して貰おう。

 椿は庭師を手配するよう父に頼みに行こうと席を立った。

「お仕事のお邪魔にならないようにね」

 母は書斎に向かう娘に優しく諭した。邪魔になんかならない。父が椿を無碍にしたことは一度もなかった。書斎の樫の扉を押して開けると、父はいつも通り洋椅子に座っている。側まで近寄り、おねだりに小さくて柔らかい手で着物の裾をぎゅっと握った。

「父様、ねえ、外をご覧になって。お庭の梅の木が……」

 こちらを向いた父の顔を見て、椿の全身が凍りついた。

 額におどろおどろしい角、顔は醜く歪み、口は裂け、巨大な牙と割れた舌が――

 

 ……

 嫌な夢を見た。

 眠りが浅かったためであろうか。鴉が外からしきりに鳴いて主人を呼ぶので目が覚める。任務帰りに仮眠を取るため立ち入った蕎麦屋の二階の煎餅布団に包まって、三時間と経っていなかった。

 平生ならば眠りを妨げられたことに億劫な気分になっただろうが、悪夢の続きを見ずに済んだから、今回はむしろ起こしてくれて良かったと思った。

 椿はぼうっとした頭を振りかぶって、立て付けの悪い引き戸をがたがたと音を立てながら開いた。清廉な朝の日が気持ちよかった。

 窓を開けると、鴉がすっと降りてきて、褒めて欲しげに椿の指を甘噛みした。椿の鎹鴉は少し甘えたな嫌いがある。とりわけ一度焼き鳥にされかけて以来恐ろしがってやまない不死川相手に手紙を運ぶ時などいっそう顕著だった。

 鴉から受け取った薄い紙には、不死川の字で「明日の昼に帰る」と書き付けてある。それで、もう二十七日(ふたなのか)か、と気付いて胸に手を当てた。

 

 下弦の鬼との戦いが終結して、二週間が経とうとしていた。

 

 不死川は下弦討伐の功を挙げた翌日には、空席のままになっていた柱の欠員を埋めた。当主からの任命状を受け取った不死川は表情一つ変えず、拝命早々、柱に割り当てられた警備担当地域に飛んでいった。今もそこで鬼を探しては戦っている。

 我が身を顧みず帰ってこない不死川を、椿は引き止めなかった。魂の芯から打ちのめされて、死の底にのめり込んだ人間に、慰めの言葉を一つ二つばかりかけて、一体何ほどの助けになるだろう。周りにできるのはせいぜい寝食の手配を整えて、彼が休みたいときに休ませてやるくらいである。

 家に戻ると、表では通いで家事仕事をしてくれている女中の千夜子が掃き掃除をしていた。

「彼、帰ってきていた?」

「はい。姿は見ておりませんが、台所の盥に皿がつけてありました」

 棕櫚箒を動かす手を止めて千夜子が答えた。

「お口に合えば良かったのだけれど」

「心配要りませんよ。椿様、本当にお料理が上手になりました」

「炊いたお米を丸めただけよ」

 椿は苦笑した。新しいレシピの収集に余念がない料理上手の胡蝶姉妹と比べたら、嬰児同然の腕前である。

 そういえばと、しのぶに「今度みんなで焼き菓子を作るから、都合がついたらお茶の時間にでも食べに来て」と言われていたのを思い出した。確か今日のはずだった。今から湯を浴びて支度をすれば、昼下がりには十分間に合うだろう。

 椿は居間に入ると、棚に設けた後飾りの祭壇に向かい、線香を上げて手を合わせた。白い布を敷いた棚の上に、真白い骨壺を置いている。

 粂野には近い縁者がなかった。身寄りのない隊士の亡骸は、鬼殺隊所縁の寺が墓の世話から弔い上げまですべて面倒を見てくれる。焼場から出されて数日の内には墓塔の穴の中に納まるのが通例だが、今回は椿が手配して、四十九日を迎えるまで遺骨を我が家で引き取って供養させてもらうことにした。

「いい奴ってのはすぐ死んじまうなあ」

 とは、間も無くやって来た樋上の言葉であった。

 粂野には人望があった。代わる代わる人が訪れ、周囲をあまねく照らす日輪のようだった青年の死を悼んだ。任務で危ないところを救われたことのある隊士とか、いつも良くやっていると励まされた隠の者とか、長年の戦友たちであるとか。

「あのさ、俺に言いたいこととかねえの?」

 いい加減そうな樋上の態度の中には、死にたいほどの惨めさがうっすら透けていた。

「俺はあいつらが死に物狂いで戦ってるのを横目に縁下でガタガタ震えてたんだぜ」

「彼の代わりに役立たずのあなたが死ねば良かったとでも言ってほしいのですか?」

 椿は冷たく突き放した。断罪を求める負い目を持った相手には、むしろこのくらい言ってやった方が慈悲心というものだ。

「そうかもな」

 樋上はさばさばと認めた。

「生きるべき奴が死に、死ぬべき奴が生きている。世の中って奴は本当に……」

 それ以上は言葉を継がず、樋上はため息をついた。あの時粂野が助けた芹澤は、両手と地位身分を失って、今は獄中で法の裁きを待つ身である。

「不死川はどこ行った」

「お仕事です」

「お前ついてってやらねえの」

「私は私でやるべきことがありますから」

「薄情な女だな」

 椿は薄く笑って否定しなかった。樋上は声を低くして言った。

「あいつ、大丈夫なのか?」

「大丈夫なわけないでしょう」

 あの二人の結びつきがどのようなものだったのか、部外者である椿に完全に推し量ることはできない。それでも、わかりようのない中にもわかるものはある。ただの戦友というだけではない、無二の親友同士だった、そういう人間を喪失してしまうことの痛みが椿には少しだけわかる気がした。

「けれど、いずれは嫌でも立ち上がらなければいけないのですもの。今は戦うことでしか悲しみを紛らわせないのなら、私はそれでいいと思います」

 大切な人が死に、仲間が死に、それでもひとたび鬼狩りとなったのならば、その命はもはや自分一人のものではない。己が無為に生きることを許された身ではないことくらい、不死川はとっくに承知しているはずだ。

「なんだかなあ。虚しくね?」

「放っておきなさい。人には人のけじめのつけ方があります」

 椿はいまはそっとしておいてやりたかった。無理に癒しめようとして、かえって虚勢など張らせるのは辛いことだ。

「じゃ、俺はこの辺で失礼するわ」

 線香が燃え崩れて灰になった頃、樋上は腰を上げた。

「機会があれば、いつでもお越し下さい」

「そうだな。ま、生きてりゃ顔合わすこともあるだろうさ」

 樋上と椿は元々それほど仲が良かったわけではない。同期の中ではむしろ疎遠な方だった。しかし、仲間が次々と死に絶えていった今では、昔話をできる希少な相手だった。

 

 冬空の往来で子供たちがきゃあきゃあと笑いながら鞠をついて遊んでいる。吐いた息は白く霞となって消えていく。平穏な冬の日だった。

 

 昼過ぎに蝶屋敷に到着すると、門口は閑散としていた。ここが静かなのは運び込まれてくるような怪我人がないということであるから、歓迎すべきことといえよう。

 椿は裏庭に回った。庭の隅の日陰に、白い花弁に紅色の吹き掛け絞りの小輪の花がいくつか抱え咲いていた。

 池の近くで素振りをしていた少女が、こちらに気付いて頭を下げた。

「椿さん、お疲れ様です」

 長い黒髪を後ろに結い上げ、蝶の髪留めをつけてたその少女の名前を小萩と言い、三月ほど前に蝶屋敷にやってきて、今はカナエが目にかけている継子の一人だった。

 椿が庭の花をじいっと眺めているのに気付いて、小萩が口を開いた。

「お師範様が冬の庭が寂しいからって、お花を植えて貰ったんですよ。綺麗でしょう?」

「そうね。少し小ぶりだけれど可愛らしい玉霞(たまがすみ)だわ」

「庭師さんたら、こんな隅っこに植えないでも良いのに」

「これは日陰に咲かせておいたほうが調子が良いのよ」

 こんなやりとりをしていると、主屋の縁側にしのぶとカナヲが顔を覗かせた。刳抜盆の上に菓子とティーカップを積んでいる。

「そこ寒いでしょ。こっちに上がって」

 火鉢の置かれた部屋に招き入れられて一息つくと、早速小萩が口火を切った。

「聞いてください椿さん、しのぶ様ったらこのあいだ冨岡さんとね、」

「小萩、口さがないことを言わない」

 しのぶが小萩の言葉をぴしゃりと遮って牽制したが、椿はその話題に乗っかることにした。くだらなくとも明るい話がしたい気分だった。

「しのぶが近頃、冨岡さんと仲良くしてると聞いたけど、そのこと?」

 椿が言うと、しのぶは本気で嫌そうな顔をした。

「ちょっと、椿までやめてよ。まさかそんな与太話を本気にしてるわけじゃないでしょうね」

「与太話なの?」

 椿は小萩に水を向けた。

「根拠はありますよ。だって普通、なんとも思わない人の隊服を剥ぎ取ってまで、ほつれた(ぼたん)を縫い直してあげたりしないでしょう?」

「そういうのじゃなくて……あの人、とにかく抜けてるんだから」

 しのぶがイライラしながら言った。

 人の世話が苦にならないのはしのぶの美徳だ。性根が善人で、行動力があり、その上生来の世話焼きなものだから、冨岡のようにどことなく抜けた人間を前にすると口と手を出さずにいられないのだろう。

 釦の取れかけていることを指摘して、わかっているんだかわかっていないんだかいまいち掴めない冨岡の返事に業を煮やして、上着を奪い取るしのぶの姿が目に浮かぶようだった。

「しのぶ、お母さんみたいね」

 しのぶは黙って紅茶をぐいと飲み干した。男女の仲だと勘繰られるのと母親扱いと、どちらがましか天秤にかけて、後者を選んだらしい。

「でも水柱さま、素敵じゃあないですか。強いし、見た目もかっこいいし」

 小萩が食い下がった。

「だから、そんなんじゃないって言ってるでしょ。冨岡さんに対して失礼だし、あなたときたらなんでもかんでも色恋沙汰に結びつけてしか物事を考えられないの」

 しのぶの手厳しい指摘を受けても、小萩は全然へこたれなかった。それどころか「年頃の男と女が連んでいるのに色恋沙汰にならないほうがおかしい」と姿勢をいっそう強固にした。

「あなたはどうなの。角の定食屋の息子さんと付き合ってるんじゃなかった?」

「振ってやりました。仕事をやめろと言ってきたので」

 それはそうだろうな、と椿は焼き菓子を口に運びながら心の中で思った。女が刀を振り回して化け物と戦っているだなんて、堅気の男に理解を求めるのは厳しいものがある。

「じゃあ、今度は手近で探してみたら。鬼殺隊は男余りよ」

「嫌ですよ、鬼狩りの男なんて。話は面白くないし、女心はわからないし、すぐに死ぬ」

 小萩の切り捨てるような物言いを受けて、しのぶが一瞬、気遣わしげにこちらを眼差したが、椿は気にしなかった。腫れ物に触るような態度で来られるよりはずっと良い。大体、鬼狩りがすぐに死ぬのは単純な事実だ。先頃、新入りの女の子が添い遂げる殿方を見つけるために入隊したとかいう意味不明な噂をかいつまんで耳に挟んだこともあったが、これぞ与太話というもので、こんな戦傷率の高い場所にわざわざ婿を探しにくる女がいるわけがない。

 それから、屋敷に出入りしている薬師一家に子供が産まれただの、刀鍛冶の里にあると聞く温泉に一度は行ってみたいものだのと、話題は方々へと飛んだ。カナヲはずっと言葉がなく、ひたすら焼き菓子を食べて三人の年嵩の女性たちの話に耳を傾けていたが、彼女はそれで十分楽しいことが表情で察せられた。

「そういえばカナエは?」ふと気になった椿が聞いた。

「姉さんは柱合会議。半年ぶりにお館様にお会いできるって朝方張り切って出て行ったわ」

 椿がそれを聞いて固まったので、しのぶと小萩が何事かと顔を覗き込んだ。

「どうしよう……彼にお館様の前ではお行儀よくしてねって念押ししておくの、忘れていたわ」

 椿は不死川の予定を把握しておかなかった後悔に頭を抱えた。不死川がご当主にいい感情を持っていないのは承知しているし、しかも今は普通の精神状態ではない。何をやらかすかわかったものではなかった。

「彼って、椿さんの良い人のことですか?私会ったことないですけど、その人、お館様の御前に出るのにそんなことを言い含められないといけないくらいヤバいんですか」

「掴み掛かって手を上げなければ上等ね」

「そんなに」

 小萩がしのぶの方を振り返った。

「柱合会議って何時からでしたっけ」

「昼前からだから、とっくに終わってる頃じゃない」

 当主は寛大慈悲のお方なので、無礼があっても気にお留めにならないだろうが、他の柱の仲間たちに袋叩きにされてないかはらはらする。ただでさえ人当たりが良い方ではないのに。

 椿は確かに、産屋敷の当主をこの上なく敬愛しているし、無作法を働く者がいれば叩っ斬ってやりたいと思っている。だが、今は不死川のことばかりが気にかかって仕方がない。色々と教え込もうとしていたのも、不死川がお上の面前で恥をかかないようにと思い遣ってのことである。

「大丈夫ですよ。お師範様がなんとかしてくれますって」

 降って湧いた懸案に気が気でないでいる椿を小萩が励ました。花柱の継子にとって、カナエは最強の女神である。できないことはない。

 そんなことをしていると、外の雨戸をこんこんと嘴で叩いている鎹鴉の姿が硝子障子の向こうに見えた。鴉にあるまじきごてごてしい装飾をつけている。鎹鴉は主人に似るのもいるし、主人の人格を補うように正反対の気質をしているのもいる。そこに見える音柱の烏は前者と言えよう。

「音柱さまの鴉?」

 カナヲが障子を開けると、鴉はつんざくような声で椿を呼んだ。主人が呼んでいるから、一緒に来いという。

「ほら、やっぱり何かあったんだわ。そうでもなければ、音柱さまがわざわざ呼びつけたりしないもの……」

 

 

 これ以上、しのぶたちに心配をかけるのは本意ではなかったので、暇を告げて蝶屋敷を後にする。宇髄の鴉に先導されて山道を登り、やってきたのは、勝手知ったる岩柱の修練場だった。

「音柱さま、これは一体?」

 崖に聳えた巨岩の上に宇髄とカナエが座っている。眼下では、悲鳴嶼と不死川が戦っていた。何故か素手で。

「こっちこっち」

 カナエが手招いたので、椿はその隣に並んで座った。

「お菓子はどうだった?私、下地だけ作ったんだけど、きちんと焼けていたかしら」

「ええ、とても美味しかった……で、何事ですか」

 椿の疑問に宇髄が答えた。

「見てわかるだろ。柱同士で稽古だ」

「稽古と言うか、制裁と言うか、打って叩かれている印象ですが」

 不死川は悲鳴嶼相手にかなり一方的にやられていた。柱は全員普通の隊士とは比べ物にならないくらい強いのだが、岩柱だけは柱の九人の中でも飛び抜けて強い。

「いつもこんなもんだ。最年長者から柱の新入りへの洗礼だよ」

 椿が「柱合会議はいかがでしたか」と聞くと、宇髄もカナエも顔を見合わせて口を閉ざしてしまった。一体何があったというのだ。

 不死川が放った手刀を悲鳴嶼は容易くいなした。そのまま反撃に出た悲鳴嶼の拳は強烈で、両腕で防御したにもかかわず威力を殺しきれなかった不死川の体勢が低く沈んだ。悲鳴嶼の攻防には一切の隙がない。

「順当ですね。岩柱さま相手によく食らいついていらっしゃる」

 素手での殴り合いと言うのは、身長や体重など体格そのものがそのまま実力に直結している。そういう点から言えばむしろ、不死川はよく健闘している方と言えた。

「応援してやれよ」

「鬼を素手で殴り潰す人間に勝てとはようも申しません」

 まず根本的な膂力が常人とかけ離れているのに、その上呼吸で身体能力を底上げしているのだ。悲鳴嶼と武器なしの取っ組み合いでいい勝負をしようと思ったら、羆でも連れてくるよりあるまい。

 悲鳴嶼は訓練にかけては手を抜かない人だが、弁えた人でもあるから、相手を見て戦い方に強弱もつける。しかし、今日は手加減なしのようで、肉体の切れの冴えたことときたら、そのまま拳で岩でも砕いてしまいそうだった。

「本気の悲鳴嶼さんに稽古をつけてもらえるなんていいなあ」

 カナエが心の底から羨ましそうに言った。いかに柱といえど所詮女性であるカナエは悲鳴嶼が手心を加える対象である。

 上から見物がてら話をしている内に決着がつき、ついに不死川は地面に突っ伏したまま立ち上がらなくなった。

「椿、こちらに」

 悲鳴嶼に呼ばれて助け起こしに行くと不死川は完全に気絶していた。しかし顔色は悪くない。少し安心した。

「半年後までに、目上の者への口の利き方を教えてやりなさい」

「承知しました」

 悲鳴嶼は万事に私情を挟む人ではないが、今回はちょっとばかりおかんむりのようだった。珍しいことだ。口の利き方というからには、やはり何かをやらかしたのだろうが、もう一度三人に尋ねても誰も教えてくれなかった。冨岡に聞いてみようと思ったが、これもまたまともに返事が返ってくるか怪しい。

「悲鳴嶼さん、私、次いいですか?」

 椿の後を追って崖下に降りてきたカナエが控えめに願い出た。悲鳴嶼が快諾したので、カナエはぱっと表情を明るくして、恋する乙女のごとき軽い足取りでそちらに駆けていった。

 椿は不死川をひょいと後ろ背に負って立ち上がり、宇髄の方を見上げた。

「彼は連れて帰ります。お世話になりました」

「おう、達者でな」

 宇髄の様子は常と変わりない。だが椿は、なんとなく、宇髄も自分の指揮のもとで部下が死んだことへの引け目があるのではないかと感じた。しかし、経験の豊富な宇髄は、そうした感情との折り合い方も上手いのだろう。椿は一礼してその場を去った。

 

 

 椿は粂野のことを思い、果たされなかった約束のことを思った。どんな悲しみもやりきれなさも、この世に生かされている以上は、足を止める理由にはならない。生きていればすべてが失われていく。今この時後ろに背負った、力強く脈打つ心臓も、正しく動いて息吹く肺も、この温もりも、いずれ失われる。例外はない。椿は目を閉じて大きく息を吐き出して、胸の内に起こった引き絞られるような感覚をやり過ごした。

 山道を下ってしばらくすると、不死川が身動ぎをして意識を取り戻した。すぐにでも降ろせと言われるかと思って様子を伺ったが、不死川は疲労のためか口を開かず、黙って背負われるままになっていた。

「椿」

 麓の近くまで来たところで声をかけられたので、そこで降ろした。足取りはしっかりしていて問題なさそうだ。

 二人が並んで歩くと、山の濡れた小径に落ちた小枝がぱきりぱきりと音を立てた。

「岩柱さま、強かったわね」

「そうだなァ……」

 不死川は憑物が落ちたかのようにすっきりとしていて、素直に返事をした。

「お館様から、正式な辞令を頂いた」

 不死川が立ち止まり、右手を突き出した。階級を示せと言葉とともに、手の甲に風の一文字が浮かび上がる。実際に目にするとなんだか不思議な感じがした。

「これからは風柱さまとお呼びした方が良い?」

「あのな」

「ふふ、冗談よ」

 椿が笑うと、不死川の表情もつられて和らいだ。

 今の不死川には、現実に根差して生きる人間の活力が戻っている。相変わらず何があったのかよくわからなかったが、不死川が大丈夫そうだったから、もうどうでもいいと思った。

「邸を拝領した。……ついてきてくれるか」

「私でいいの?」

 不死川はわずかな逡巡の後、「お前がいい」とだけ言った。椿は返事の代わりに、刻印の浮き出た手を両手で包んで強く握りしめた。彼の地獄への道行きのほんのわずかなよすがにしてもらえるなら、椿はそれだけでいいと思った。

 


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