寒椿の君   作:ばばすてやま

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14.俺たちに明日はない

 大正の年の明け、関東地方は寒波に見舞われた。山里の樹木の枝には霜が降り、水桶には氷が張った。

 正月元旦の早朝、ばしゃんと水が地面に跳ねる音がする。

 不死川は布団から起き上がり、廊下から戸を開けて縁の方まで出ていった。

 すると、裏手の井戸のそばで、全身を水でずぶ濡れにして髪を絞っている女がいる。足元には真っ赤に染まった血水が流れていた。

「何やってんだ」

 不死川が呆れを語尾に滲ませると、椿は悪さを見咎められた子供のように視線を泳がせた。

「隊服が汚れてしまったから、お家に上がる前に綺麗にしようと思って……」

 ものを言い終わる前に、不死川は椿の腕を引っ掴んで家の中に上がらせて、着ている物をすべて脱がせた。頬も四肢も、血潮が通っているかどうかも疑わしいほどに青白く透き通っている。頭から氷水など被るからだ。

 鬼殺隊士は呼吸で身体機能を向上する。代謝を活性することで体温も上昇するから、凍てつく寒さにも身体が震え出すことはない。鬼狩りが手先がかじかんで刀を握ることができないなど、笑い話にもならぬ。とはいえ、寒いものは寒い、冷たいものを冷たいと感じることに変わりない。

 今し方まで自分の使っていた毛布を被せて、火鉢に炭を足し、竈に火を焚き湯を沸かしにいく。丁度良い温度になったところで部屋に戻ると、椿は幼子のようながんぜない有様でうとうととしている。湯で温めた手拭で身体を拭ってやると、一体どんな戦い方をしたのか、耳の裏にまで血が飛んでこびりついていた。

「これ、全部私の血ではないの」

 椿が世話をされながら弁明した。

「確かだな」

「こんなことで嘘なんかつかないわ」

 拭き清めた身体からは、もう血の匂いはしない。剥き出しの裸体に傷は見当たらず、ほっと胸を撫で下ろした。

 年の変わり目でも、鬼は人の節季に構ってくれるわけではないから、隊士は交代で任務に当たっている。椿は大晦日の昼に任務に呼び出されて、その時点で、年越しを共にすることはできないとわかっていた。

「冨岡さんも一緒なの。柱が二人も要る仕事ではないわ」

 不死川の身体は空いていたので、同行しようかと申し出たが、このように断られ、軽く雪のちらつく中を渋々送り出した。冨岡は頭のてっぺんから足の爪先まで気に食わない男だが、鬼狩りとしての腕だけは認めざるを得ない。戦場で妻を任せるのに不足ない相手だ。死ぬほど癪に触ることだが。

「一服してから帰ってくりゃあよかっただろうがァ」

 どんなに順調に任務を終えたのだとしても、帰りが早すぎる。帰路を急ぎすぎるほど急いだのだろう。

「でも、一緒に初日の出を見たかったし、お雑煮を食べたかったの」

「雑煮は逃げねえよ。作っといてやるから、いっぺん寝ろ」

「初日の出は?」

「また来年な」

 銘仙を着せて軽く帯を締めてやると、椿が疲れ切った声で「ありがとう」と言った。

「お参りに行きたいから、昼中には起こしてね」

「ああ。他にはなんかあるかァ」

「うん、外から帰ってきたら、一緒にお風呂をいただいて、その後姫始めがしたい……」

「……わかった」

 それだけ言うと椿は満足して、心緩びた様子で寝息を立て始めた。

 袷の隙間からは形のいい乳房がこぼれて、手には柔らかく濡れた肌の感触がありありと残っている。すでに妻にした女から房事に誘われて、狼狽えることもないだろうと自分でも思うのだが、一度煩悩に振り回されはじめるとどうしようもなかった。不死川は自分も氷水を頭から引っ被るべきかいたく頭を悩ませながら、とりあえず昼までの時間を鍛錬に当てることに決め、桶を脇に抱えて部屋を後にした。

 

 

 年の瀬、新しい邸に移る前に宅で祝言を挙げた。

 簡素を極めた儀式だった。すべてが急にことが進んだので、何もかもが略式で、衣裳も道具小物もまるで手配が間に合わなかったのである。しかし、花嫁はまったく気にしない。それどころが、祝宴はおろか媒酌人も立てたくない、私とあなたがいればそれで良く、ただ神仏に誓いを立てればよろしい、といった具合だった。よって、その通りにしてやることにした。ただし、女側は支度のために介添人を外すことができず、これは胡蝶の姉が務めることになった。

 不死川からすると、種々の事情から引き延ばしていただけで、本来は数か月も前にやっておくべきことだったが、椿はいまいち気乗りしない様子だった。

 何が気に入らないのか、身分違いが嫌か、貧乏くささが嫌か、傷のある顔面が好かぬのか、いろいろと聞いても不満はないの一点張りで、そのくせ鬱々とした態度を崩さないので、ほとほと困り果てた。

 こういう時に一番相談相手になってくれた匡近はいまや骨と灰だけの身となって祭壇に鎮座している。藁にもすがる気持ちで仏に向かい合うと、友人の笑う顔が線香の煙の向こうに見えた気がした。何か言えよ、畜生が。なぜ死んだ。

「何ぞ思い悩んでいらっしゃるのか」

 と言ったのは、里から下りてきた初老の刀鍛冶だった。

 伊達で年をとっているわけでなく、肝が座っていて、不死川に遠慮することがない。あれこれ近況をほじくられ、結婚するのだと口を割らされた。

「以前から思っていたが、あなたは神経に細やかなところがおありだな、不死川殿。男はどっしり構えていればよろしい。女の機嫌なんぞ伺うだけ無駄な骨折りというもんです。情緒が刀の刃文より安定せんのだからやりようがない」

「てめえも嫁は叩いて言うことを聞かすクチか」

「そこまではやりませんが、あなたはとりわけ女を労る精神を持ち合わせているようだ。稀な精神だ。私は良いことと思いますよ」

「御託はいい。さっさと刀を寄越せェ」

 これまで使っていた日輪刀が身が擦り減って弱くなっていたので、これもいい節目だということで、新たな刀を鍛えてもらったのである。確認のために抜刀すると、刀身は常の如く緑色に染まる。棟の根元には悪鬼滅殺の文言が刻まれていた。

「見事な翡翠、鴗鳥の青。これぞ風の柱に相応しい。いやはや、僭越ながら私も鼻が高い。おめでとうございます」

「やるこたぁ変わんねえよ」

「そうでしたな」

 刀工は室内をぐるりと見渡した。婚儀を終えればそのまま新しい邸に移る予定だったから、小さな家屋の中は余計なものが取り払われてがらんとしている。

「私もたくさんの鬼狩りを見てきましたからね。使った刀を見れば人となりもわかろうというものです。そちらの日輪刀、お手にとっても?」

 刀台に縦掛けたそれは椿の日輪刀だった。本人の許可も得ずに獲物を人に触らせるのはどうかと迷ったが、この刀鍛冶がなにを言い出すのかと興味が優った。言っていることにまるで同意はしないが、人生経験は年の分だけ自分より豊富なはずだ。

 この日、椿は兄弟子を伴って育手の師の墓参をするので不在にしていた。この兄弟子と言う隊士、機嫌を悪くした不死川を目の前にしただけですでに泡を吹いて倒れそうになっていた。あまりの怯えようにさすがに居た堪れず、床に手をつき頭を下げて「妻をよろしく頼む」と言うと、気の抜けた意外そうな顔をして「はい」と返事をして、同じように礼をした。

「長の作ですね。水の女人のために打たれた刀、これは、ほう、ほう……」

 はあ、はあ、なるほどと得心が言ったようにしきりに頷く。刀を触らせたことを後悔したが、時すでに遅しだった。

「心配せんでも、あんた方は良い夫婦になるでしょう」

 刀工は根拠も示さずにきっぱりと言った。人相見よりも信憑性がない。家から叩き出した刀工はまるでこたえた様子もなく、「刀鍛冶の里の温泉は滋養に効く。新婚の旅先にでもどうぞ」と抜け抜け言い捨てて去っていった。腹が立ったので担当を外すよう言い付けようかとも思ったが、残念ながら新しい刀は見事な出来で、交代させる理由がなかった。あれで里でも指折りの刀鍛冶と言う。人格と能力は必ずしも比例するものではない。

 結局、女中が「婚前はどんな好きな男と一緒になるのでも、憂鬱な気持ちなものですよ」と自己の経験を引いて言うので、はあそういうものかと一応は納得した。不死川には女の心なんぞさっぱりわからぬ。

 二日前になって、椿は朝食の終わった席で卓袱台に頬杖をつき、恐ろしく厳しい顔でこう言った。

「結婚したら他の女の人と仲良くするのは許さない。遊郭も芸者遊びもだめ。お妾を持つなんてもっての他よ。それでいいの」

「そりゃあ困ったなァ」

 不死川は手元に広げた新聞から顔を上げずにまるでやる気のない返事をした。新聞は本所で失火があっただの、浅草公園で見世物をやっているだの、年の市が賑わっているだのと歳末の安穏な世情を伝えている。鬼の手掛かりは無さそうだ。

「困ったというくらいなら、それらしい顔をしなさい」

 椿は新聞の上から顔を出して、半目でじっとこちらを睨みつけた。そう言われても、これが脅し文句になると思ってる女がいじらしくて可愛らしく、口角が緩むのを堪えきれない。

 わかったわかったとこれまたぞんざいに応えると、椿は今度は裾を掴んで、きつく握り締めて俯いた。これがあまりにも思い詰めた様子だったので、さすがに不死川も身構えた。

「なんだァ、まだ言いたいことがあるなら言え」

 椿はいくらか逡巡して言いあぐねた挙句、重い口を開いた。

「赤ちゃん、産んであげられないかもしれない……」

 月のものの巡りが悪いので、子を持てる望みは薄いと言う。不死川は拍子抜けした。てっきり「私が鬼に成り果てたときにその頸を落とす覚悟もできない男とは一緒になれない」とでも言われるかと思ったのだ。

「お前、そんなつまんねェこと気にしてたのか」

「つまらなくないわ」

 椿は深々と傷付いた様子で家を飛び出した。半日ほど蝶屋敷にいたようだが、その日の夜には帰ってきていて、台所で黙々と夜食を作っていた。

 釜を持つ手つきに危うさを感じた不死川が手伝おうとすると「いいから座っていて」と追い出される。用意された雑炊は塩みが薄くやや味気なかったが、箸を進めるには十分だった。

「不味くなかった?」

 食事を終えると、椿は恐る恐る不死川に感想を尋ねた。

「まあまあだ」

「……無理していない?」

「してねえよ。ごちそうさん」

 そう言って、頭をぽんと叩くと、椿は少しだけ泣きそうな切ない表情をしていた。それで決着がついた。

 

 ずっとそんな調子だったので、当日になってなんとか用意して渡した婚礼装束の打掛も、嫌がられるかと思った。

「椿は不死川くんが選んだものならなんでも嬉しいと思うわ」と胡蝶の姉に参考にならない助言を貰い、迷いまくった挙句の選択だった。唐紅色に春の花を散らしたそれが白い肌にさぞよく映えると思ったのだ。

 風呂敷を解いて、色打掛を目にした途端、椿は瞳を大きく見開いて、物も言わず固まった。思わず「嫌か」と聞くと首を左右に振られた。

「嬉しいの。ありがとう」

 そして、そう言って、はらはらと涙を零し始めた。不死川がおろおろとして肩を抱いてやると、更に激しく泣き出した。本当によくわからない。

 

 そうこうと当日の準備をしていると日が暮れる。

 祝言の夜に、窓から空を見上げると、上空には天の川が散らばっていた。常は焦燥しか駆り立てない夜の空の下で心が凪いでいるのは妙な感覚だった。

「不死川くん、ありがとう」

 胡蝶の姉は改まった様子で、不死川にこう言った。

「あ?何がだ」

 胡蝶カナエは他人の頑なさを自然に解きほぐしてしまうようなところがある。というか、花柱とうまくやれない人間は見たことがない。不死川も例外ではなく、親しくとまではいかないまでも、それなりに良好な関係を築いていた。

「あの子は自分ではそう思ってないけれど、すごく寂しがり屋だから。一緒にいて、手を握って寄り添ってくれる人が出来て、私、本当に嬉しいの……」

 そう言うと、彼女は感極まったように目元に滲んだ涙を拭い、友人を迎えに行った。

 椿はいい友を持った。

 介添人に手を引かれてやってきた花嫁はうっすらと化粧をして、唇にはわずかに紅を乗せている。色打掛は想像通りよく似合った。束髪せず櫛を通しただけの豊かな髪が波打つ様がまた美しかった。

「綺麗だ」と言うと、椿は花が溢れるように笑った。

 ここに来て突然、この女が完璧に自分のものになる実感が湧き、心臓が跳ねる。

 夫婦固めの盃を交わして、それ以上はとくに堅苦しいこともせず、婚儀はあっさりと終わった。

 胡蝶の姉は早々に日輪刀を手に出立した。別れ際に女たちは瞳を潤ませて抱きあっていた。

 その間、不死川は居間の祭壇に向かって手を合わせていた。死者の心境をあれこれ想像するのは好きではないが、友人が生きてこの場に居合わせたなら、なんと言っただろうか。

「私に何か言いたいことはある?」

 装束を脱いで、布団の上で寛ぎながら、「あなた、さっきからずっと何か言いたげだったから」と椿が聞いた。

「お前、必ず生きて帰ってこいと言って、約束できるか」

「いいえ」

「だろうなァ……」

 互いにすでに命を惜しんでなどいない身だ。不死川は腕を広げて、切なく微笑む妻になった女の身体を抱え込んだ。同じ因業を抱える女。同じ泥梨の薄氷に立つ者同士。守ってやりたいような気持ちにもなるし、縋り付きたいような気持ちにもなる。

「できもしねえことを約束しろとは言わねえ。……出来るだけ長生きしろ」

 椿は瞠目して、視線を伏せた。そしてあるかなきかの小さな声で「はい」と言った。

「私たち、長生きして、たくさん鬼を殺しましょうね……」

 それで十分だった。柔らかい鞭のような両腕に絡めとられて胸に抱かれると、あとはもうどうでも良くなる。不死川は女を不具の魂と身体ごと愛した。

 

 

 三が日を過ぎた辺りで、方々から祝いの品が届き始めた。

 誰に何を伝えたわけでもなかったが、相続人を指定するために身上移動の届を隠の人間に渡したので、そこから話が野火のように広まったのだと思われる。

「またてめえらか」

 椿の鎹鴉は木の上で怯えて縮こまっていたが、不死川の鴉は「何が悪い」とばかりに堂々と視線の高さまで降りてきて餌を催促した。いい度胸をしている。

 胡蝶姉妹は九谷焼の茶碗、宇髄はよくわからん掛け軸を贈ってきた。その他、江戸切子の杯だの白足袋だの扇子だの酒類食物だの中に、産屋敷夫妻からの、黒漆塗金蒔絵の器を見るに及んで、不死川の胃がきりきりと痛んだ。

 お館様の御前での自分の振る舞いは、思い返すも腹を切って死にたくなる。罪悪感に耐えきれず、椿に柱合会議で何をしたのか白状した。滅茶苦茶に怒られるのを覚悟していたが、「反省している人間に怒ったって仕方ないでしょう」ということで、咎め立てはされなかった。座学の時間は増えた。

 冨岡はこの時ばかりはそのずば抜けた非社交性を発揮してほしい、という不死川の願いを叶えず、相当に上物らしい花器を贈ってきた。これを椿が気に入ってしまい、早速嬉々として花を生けて、掛け軸とともに新居の床の間に飾り立てた。不愉快な気分になりたくないので、出来るだけそこを通るのを避けるようになった。あからさますぎて笑われた。

 祝言の翌日に移った数寄屋造りの邸は、二人で暮らすには広すぎるくらいで、不死川はいまいち住み心地に慣れない。椿の方はというと、さっさと順応して、女中にあれやこれやと指示を飛ばすのが堂に入っていた。

 柱に一般隊士とは一線を画した、特権的な待遇が与えられるのは、職務がそれを要請するからだ。

 邸の敷地が広いのも理由のないことではなく、継子や弟子を住ませて後継を育てるためであり、自前の稽古場でいつでも鍛錬できるようにという取り計らいでもある。

 給金に上限が設けられていないのは、仕事にかかる経費もそこから捻出できるようにすることで、可能な限り任務を円滑に進めるためだ。この金は、いわばお館様の財布から直接お金を頂戴しているのと同義なので、これを無為無闇に散じて回るような不遜な者は柱にはいない。

 待遇の良いことを目的に柱を目指すものもいるが、そのことを不純だと言い立てるのは野暮というものだ。再三繰り返すが、鬼殺隊では強さが全てに優先するので、金が目的だろうとなんだろうと、強くさえあれば、それで人々を守ることさえできれば、何も後ろ指を指される理由にはあたらないのである。

 

 

 正月の喧騒が落ち着いた頃、休みが重なったので、祝い品の返礼物を見繕うために街に出かけた。

 椿は友禅の帯など締めて少し華やかにした一方、不死川は普段着に唐桟の羽織をひっかけただけで、一緒に並んで歩いていても、決して夫婦とは思われない。実際、陶器問屋をいくつか回っても、店の者たちは二人が女主人と使用人にしてはいやに親しげにしていると訝しんでいた。

「兄ちゃん、不倫も大概にしときなよ」

「……」

 いく先いく先このような調子で、忠言めいて耳元で囁かれるのにはまったくもって閉口させられた。椿の耳に入れずに済んだのはよかった。ややこしいことになったに違いないからだ。

 最後の店で品物を包むのを待つ間、椿は向かいで粟餅を売っているのを物珍しそうに見ていた。店先で杵をついて餅をこねるのを見世物にしているのである。

 かつて住んでいた横町にも、子供たちを得意にする粟餅屋があった。そこで粟餅を買っては、兄弟全員で分け合った遠い日の記憶を、不死川は思い出した。

「食うか」

 椿は頷いた。二人分の餅を買って、川縁の石に腰掛けて包みを開くと、椿の表情がぱっと明るくなった。甘い菓子はなんでも好きな女だ。

 不死川は一口で食べ終わると、妻がきなこをまぶした餅を竹串で器用に切っては小さな口に運ぶのを眺めていた。

「いい加減、弟さんを呼び寄せたら?」

 手を止めて、椿がふいにそう話を持ちかけた。その様子で、突然の思いつきではなく、ずっと言おうと思って機会を伺っていたのがわかった。

「やらねえ。あいつとは旧離切った間柄だ」

「嘘。縁を切った弟に、お給金を半分以上も送ったりしないでしょう」

 鬼殺隊に入り、まとまった金が手に入るようになって以来、不死川は毎月、弟が身を寄せている親族の家に送金していた。しかし、なぜそれを知られている。怪訝そうな不死川に椿が答えた。

「気になって会計部の人にお願いして教えてもらったの。ごめんなさい」

 椿は前から、それなりの給金を貰っていて、散財している様子でもないのに手持ちが無いのを不思議に思っていたらしい。

「いや」

 不審に思うのも調べるのも当然のことだ。伴侶に浪費癖でもあったら堪ったものではない。

「でも、弟さんにお金を送ることができるのも、あなたが生きていればでしょう。鬼殺隊の遺族見舞金は同居家族にしか出ないってわかっている?」

「……そうなのかァ?」

「『鬼殺隊賞恤金支給規則』第十六条五項に書いてあったわ。隠の総務の方が教えてたの」

 そんなものがあるのは初めて知った。ようは、不死川が死んだら、その後の弟の生活の保証ができないだろうと言いたいのだ。

「あいつもいい歳だ。仕送りなんぞなくても一人でやってけらァ」

「あのね、そういうことが言いたいのではないの。折角血の繋がった家族がいるのに、わざわざ離れて暮らす道理はないでしょう」

「とにかく、しねえもんはしねえ。この話はここで終いだ」

 こちらの取りつく島もない様子に、これ以上言うのは無駄だと悟って、椿は川を見ながら独り言じみてぼやいた。

「大きいお家なのに、継子もとらないし、寂しいわ」

 継子がないのは自分の責任だけではない――と言おうとしてやめる。

 上に立つと、今まで見えていなかったものが見えて来るようになる。

 不死川とて、後進の育成に何も思わないわけではなく、それなりに手を尽くそうと努力している。しかし、多くの隊士は、弱いのにはこの際目を瞑るとしても、弱いなりに血反吐を吐いてまで強くなろうと食らいついていく気骨に欠けている。軟弱だ。嘆かわしい質の低さだ。樋上やこれまで連んでいた隊士連中などまだましの部類だった。

 最初から才能技量のある隊士など知れている。ほとんどの隊士ははじめ弱く、鍛錬と経験を重ねて強くなるしかない。しかし死んでいくのは決まって戦意ある者やる気のある者からだ。こういう状況では隊士の練度も中々上がらず、人員配置も苦心してやりくりせざるを得ない。ということを宇髄と話していると、「お前も管理職の苦労が分かってきたか」としみじみ言われた。以前食ってかかったのを根に持っていたのか。

 

 それにしても、弟がいるとうっかり口を滑らせたのを、椿がいつまでも覚えていたのは不覚だった。

 椿は家族が一緒に暮らした方が良いと思って、善意で提案しているようだが、不死川は何があっても弟の前に二度と姿を見せる気はなかった。

 この世に残された、たった一人の血肉を分けた弟。母殺しの兄のことなぞどこかで野垂れ死んだと忘れて、親弟妹の菩提を弔い、新しい家族を作って安寧に暮らしてほしい。弟の人生に咎人の存在は不要だ。これは贖いであり、願いであり、祈りである。

 

 一月の内は寒さが続いた。椿は三味線をやらなくなり、どうしても手元が寂しい時は琴をつま弾いている。代わって、新しい家の庭の隅で花の世話をするようになった。

「これが紅獅子、これが太郎冠者、これが雪灯籠」

 背の低い樹木を一つ一つ指を指してそれらの名を教えてくれるが、ひとつも頭に残らない。だが耳障りの良い、可愛らしい声が耳朶を打つのが心地よいのでわざわざ遮ることもしない。

「ねえ、聞いていらっしゃるの」

 椿がむくれて、人差し指の爪先で不死川の手の甲を軽くひっかいた。

「もういいわ。木刀を持ってくるから、鍛錬に付き合って」

「今からか」

「本気で打ちかかってきてくれないと、おやつに買ってきたおはぎはなしよ」

「おい、そりゃ卑怯だ」

 麗かな陽の下で、愛しい女が笑っている。

 不死川は、尊属殺しの咎で死後の地獄落ちは決まった身である。

 もうこの程度で腰の引ける女ではないことを知っているので、一緒にいて臆することもない。好きなことを好きに生きる女だ。それでいい。それで不死川は救われる。

 二人が背を向けた後で、庭の片隅に咲いた赤い花びらが、あたかも首を落とされたかのように、花首からぼとりと音を立てて雪の日向に落ちた。

 


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