寒椿の君   作:ばばすてやま

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15.日は紅影を催す

 身の丈に茂った馬酔木が花を咲かせる頃の昼下がりに、手に抱え込めるくらいの果実籠を携えてしのぶが訪れた。午前の時間を鍛錬に当てていた椿は、友人の来る前触れを受け取って、早速身支度を整えてしのぶを出迎えた。

「北海道から取り寄せたの」

 そう言って差し出された籠の中には、この辺りの青物屋ではほとんどお目にかかれない、林檎の果実が収まっている。

「何もかも頂戴してばかりで申し訳ないわ。お礼に上がらなければいけないのはこちらなのに」

 先だって、祝儀と介添を務めてもらったことの礼として、伊万里焼の皿と舶来の硝子細工を姉妹に贈った。その細工の華奢なことにカナエがいたく感激して気に入ってしまい、こんな良いものを貰ったからにはと、それにまた返礼の品を寄越したのであった。

 カナエ本人は、年明けから任務が立て込んでいて、今朝やっと自邸に帰ってくることができた。見た目は元気そうだったが、やはり疲れが溜まっていたらしく、今は久方ぶりの安眠に癒しを得ているという。

「まだ帯も返せていないし……少し待っていて、取ってくるから」

「いいのいいの。急いで必要になるものじゃないから、椿に持っておいてほしいの」

 しのぶがにこやかに手を振った。

「そんなことより、こんな大切なことを私たちに内緒にしておくつもりだったなんて、信じられない」

 このことを咎められるのはこれが初めてでもないのだが、ちくりと刺すような物言いには抗弁しようもなく、椿は首を傾けて心苦しくするしかできなかった。彼女の姉にも、まったく同じことを言われたのだった。

「ごめんなさい、本当に内内で済ませるつもりだったから」

 そもそも椿は金襴緞子で飾った花嫁を羨ましいと思う心を一切欠いた女である。そこにきて、本来父に用意され母から受け継ぐはずだった婚入りの道具を何一つ持たぬ身の上であったから、ますます華やぐ気分にもなれぬという、そういう気持ちで婚儀の日を待っていたのである。

「椿、私に何か言うことがあるわよね」

 しかし、常の穏やかさを湛えながらも、珍しく目の据わったカナエにこう問い詰められれば、内情を白状するしかなかった。

「本当に何も気を使わないでほしいの。形式だけのことなのだし」

「だめよ。形式だけと言うけど、形式は大切なことよ。一生に一度のことなんだから」

 カナエはその洞察力と、あとは単純に付き合いの長さで、友人が結婚という行為そのものに並ならぬ忌避感を抱いているのを見抜いていた。椿が結婚を受け入れた理由というのは、ただ愛する男がそれを望んでいるという一点にしかなかったのである。

 カナエには、恋とは素晴らしいものであり、もちろん結婚というのも幸せに違いなく、またそうあるべきだという信念がある。だから、不死川からどうか椿に良いようにしてやってくれと頼まれるまでもなく、自分にできる限りのことをしてあげようと決心していた。

「お願いだから受け取って。椿に使って欲しいの」

 カナエが椿に差し出そうとしたのは、婚礼装束の一式である。カナエとしのぶは亡母から立派な三襲の衣裳や角隠しなどの諸々を受け継いでいて、姉妹の意見の一致の結果として、それらを椿に都合したいと申し出たのだ。

「大切なものでしょう。血縁でもない私がお借りするわけにはいかないわ」

「こんな時に他人行儀にしないで。私はそんなに友達甲斐がない?」

「も、もうカナエったら、意地悪なことを言わないで……」

 椿は困り果てた。これはいわば姉妹の母の遺品であって、本来の持ち主を差し置いて使わせていただくのは失礼である。道理が通らない。しかし、これ以上ないほどに向けられた好意の証を無碍にするのは、もっと失礼である。

 結局、カナエは衣裳のすべてを明け渡すことは叶わなかった。しかしながら、祝言当日にカナエが椿に締めてあげた綾織の帯は、一式の内から姉妹が提供したものだった。ここが二人の妥協点だった。

 椿は、その時は困惑させられたけれども、今になって改めて思えば、品そのものの価値にも増して、そこまでしてくれようとした友人の思いやりがひどく嬉しく思われた。

 とにかく色々あったが、椿はようやく女戸主の身分から解き放たれて人妻になったのである。

「それで、どう?」

 しのぶは年若い娘としての好奇心ではなく、身内がまっとうな生活を営んでいるかを案じる女家族じみた関心をこめて聞いた。

「特段変わりないわ。もともと一緒に暮らしていたのだもの」

「収まるところに収まって本当に良かったわね」

「一時期は彼のこと毛嫌いしていたのに、どういう吹き回し?」

「だって彼と一緒になってあなたが幸せになれるかどうか、判別がつかなかったのよ」

 しのぶはずっと、友人が好きになってしまった男の人柄を見極めようとしていたのである。その冷淡な態度の底には、この程度で腰の引ける男に友人を任せることはできないという思いやりがあり、椿にはありがたいが、不死川にはかわいそうなことであった。

 年がら年中忌中の鬼殺隊に慶事が少ないかというと、そうでもない。

 むしろみな、命短さを骨身に染みて理解しているから、若くともこれという人がいれば早々に身を固めてしまう。数年生き延びることがかなった後は引退して、育手になったり他の職分に就くのは最も上手く行った例と言え、死ぬまで戦って妻子を残していくのもさして珍しくなかった。遺族には見舞金が出るし、鬼殺隊の仲間内の互助の仕組みで、妻や幼い子供が自立できるまではしっかり面倒を見てもらえて、家族が路頭に迷わないとわかっているから、そういうこともできる。

「俺の同期もこないだ結婚したよ。相手は太物問屋の娘さんだったかな。こうと決めたら早かったな」

 このように言ったのは椿の兄弟子だった。慶事を師へと報告すべく墓に参る道すがらのことだ。

「いいなあ。俺だって結婚できるものならしたいよ」

 えらく哀愁のこもる言いようだった。そういえば村田も男であった。なぜかこの兄弟子のことは女友達と同じように扱っていて、あまり異性という感覚がなかった。

 椿はそうするのが義理のような気がして、村田に似合いの、年頃の良い女子がないかと思考を巡らせた。外で働く男が内室に望むのは、身の回りの世話をし、子を産み育てて、内職でもして家計を助けて、忠実に主人の帰りを家で待ってる女である。しかし、椿はそんな定型にうまく嵌りそうな女性をどうあっても朋友の中に見出すことはできそうになかった。椿はせめて兄弟子に良い人が見つかりますようにと、師の墓前に手を合わせて祈った。

 椿がそんなことを思い出している間に、しのぶは客間の床の間に視線を向けていた。

「これ、良いものでしょう」

 さすがにしのぶは良家の子女なだけあって中々の目利きで、器の形と色の具合でそれが並の代物ではないことを見抜いていた。

「ええ。今回のお祝いにと、冨岡さんからいただいたの」

 市場にもあまり出回らないような、滅多にない見事な染付である。たかが同僚への祝物として贈呈するには値打ちが過ぎるほどだ。こんなものをいただいてしまうのは、冨岡の浮世離れにつけ込んだようで、椿は若干、気が咎めないでもなかった。

 そこにいくと宇髄はさすがで、秀逸な品ながらこちらが気後れしない程度の価値のものを寄越した。

「こちらの懸物は不折の揮毫。音柱さまからよ。見事だと思わない?」

「私は書は詳しくないんだけど、なんだかとても……個性的な字ねえ。お祝い品にしては本人の趣味に寄すぎじゃない?」

「どうかしら。でもこういう時に『高砂』や『松竹梅鶴亀』の古典的な図画を選ばないのが、あの方らしい見事な感性よね……」

 ちなみに、不死川は宇髄の芸術的感性などまるでお構いなしで、掛け軸と睨み合いっこしながら「ガキみてえな字」だの「まだ俺の方がましに書ける」だのとぶつぶつ言い立ててしきりに首を捻っていた。芸術とはおしなべて並一通りに理解しがたい要素を含んでいるものである。

 

 しのぶは忙しい中を抜け出して立ち寄ったというので、話もそこそこに切り上げて暇乞いを申し出た。途中の四つ辻まで見送ろうと、二人は連れ立って往来を歩いた。

「それでね、姉さんが言うのよ。友達の結婚式に出る夢は叶ったから、あとは私の白無垢姿を見るまで死ねないって」

「まあ、当然の姉心でしょう」

「そんなの、自分の方が先に……何事?」

 常は長閑な往来の向こうから、どよめく声がわずかに聞こえきた。隊士たちが共用で使っている道場の方だ。

「行ってみましょうか」

 怪我人がいたらついでに手当てしてやろうというつもりで、道場に足を踏み入れると、そこには思いがけない光景が展開されていた。

 衆目を集めながら、道場の一角で相対するのは両者とも蝶屋敷の住人だった。一人は神崎アオイで、もう一人は小萩だ。

 椿は、アオイが戦うための道具を手に持っているところを初めて目撃した。普段、洗濯物の入った籠などを抱えて、忙しなく働いているのが印象的であったから、剣を持っているのも似つかわしくない感じがしたが、そういえば彼女も一応、鬼殺隊の一員なのだった。仕事用の白衣に覆われているが、その下に彼女が纏うのは、隊員であることを示す黒衣に他ならない。

 小萩はいつもの楽天的な雰囲気をどこかにかなぐり捨てて、研ぎ澄ました剣士の鋭さでアオイに打ち掛かっていた。しかし、柱の継子と癸の隊士には歴然とした力量差があって、しかも上位者である小萩がまったく手心を加えないので、ほとんど弱いものいじめの様相を呈していた。

「本当に弱い。情けない」

 小萩はそう言いながら、中段から竹刀を跳ね上げてアオイに打ち掛かった。アオイは間合いを取ろうと後ろに飛び退くが、小萩が距離を詰める方が早い。

「鬼が怖くて逃げ出すような人間に、その隊服に袖を通す資格なんかない。わかってんの」

 小萩は心を抉るのを目的とした痛罵を放ちながら、肉体を削る手を休めることもしない。アオイは右胴を打ち払われて、悲鳴を上げることもかなわず、膝を付いて身体をくの字に曲げた。

「さっさと鬼殺隊をやめなさい。みっともない恥知らず」

 体勢を崩したまま身動きのとれないアオイに向かって、小萩が竹刀を上段に構えた。その時である。

「小萩!」

 しのぶが大声で名前を呼んだ。小萩ははっとした面持ちで一瞬こちらを見たかと思えば、踵を返して背を向け、竹刀をその辺にいた隊士に押し付けて、足早に道場から出て行ってしまった。

「待ちなさい、小萩――椿、アオイを頼んでもいい?」

 友人が頷いたのを見届けて、しのぶは小萩の後を追った。

 椿はぺたんと座り込んでしまったアオイに声をかけた。

「立てる?」

「あ……はい」

 アオイは差し出された手を取って立ち上がった。普段の気の強そうなしっかりした表情も、きっちり整えた髪型も崩れて、緊張の糸が切れて呆然としている。

 階級が上のものが下のものに向かって一方的に憂さ晴らしをしているようにしか見えようがなかったから、アオイは周囲の隊士たちの同情を一身に浴びていた。それは彼女が見目可愛らしい少女であるだけになおさら顕著だった。しかも椿に手をひかれながら申し訳なさそうに、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すので、少女の不憫さはよりいっそう増した。

「ひでえよなあ」

「あそこまで言わなくたって」

などと好き勝手をのたまう野次馬を、椿は睥睨しつつ「見世物ではありませんよ、訓練に戻りなさい」と言って退散させた。誰も彼もかわいそうといいながら、自分からは柱の継子相手に食ってかかりもしない根性なし揃いである。

 神崎アオイは最終選別に生き残って隊士となったが、選別で心が挫けて任務に出られなくなってしまった。このような隊士は本来、除名処分となって、隠になったり、市井に戻るのが相場なのであるが、彼女の場合は経緯あって蝶屋敷に引き取られた。最初は肩身狭そうにしていたけれども、てきぱきとよく働くので重宝されて、今は諸々の雑務を取り仕切り、屋敷にもすっかり馴染んでいる。非常に真面目な少女で、このような騒動の種になるとは想像もしていなかった。

 椿はアオイを自分の住居に連れて帰った。蝶屋敷の方ではしのぶが小萩を締め上げている頃だろうから、ほとぼりが冷めるまでここで休ませようと思ったのだ。ついでに手当てもしてやらねばならない。裾から覗いたアオイの前腕には、かなり痛々しい青痣が点々と浮いていた。

 椿が棚から薬膏を取り出して「服を脱いで」と指示すると、アオイが慌てて首と手を同時に振った。

「あの、大丈夫です!椿さんのお手を煩わせるほどではありません、自分でできます!」

「そう?」

 アオイが強く押して大丈夫だというので、手当てするのは本人に任せて、その間椿は女中に言いつけて茶を用意してもらった。

「こんなことがよくあるの?」

「いいえ、普段は、その……話もしませんから」

 アオイは引き続き遠慮しきりだったが、椿は「私がやりたいの」と言って、乱れた髪を櫛で梳いてやった。

「ちょっとやり過ぎね。カナエには私からも言っておくわ」

「それには及びません。私の不甲斐なさが原因ですから」

「物には言い方があるでしょう。それに、あなたたち二人だけの問題ではないのよ。部下同士であんな体たらくを晒していては、カナエが柱としての軽重を問われかねないのだし」

 上官に累が及ぶことまでは想定していなかったらしいアオイはばっと顔を上げた。

「他の人は誰も悪くありません。私が役立たずで、情けないのが悪いんです」

「そこまで卑下しなくても。あなたは十分、役に立っていると思うわよ」

 蝶屋敷で働ける人間は希少だ。昼も夜もない激務が続くことも稀ではない環境だから、並の女には務まらない。

 椿もアオイには恩義がある。彼女に洗濯物は干す前に軽く畳んだり叩いたりしてしわを伸ばすのが良いのだと教えてもらわなければ、椿は洗濯物が綺麗に乾き上がらないという難事に、今でも頭を悩ませ続けていたことだろう。

「そういえば、あなたたちは同期だったわね」

 椿は女の子が二人同時に入隊したという話題が、以前知人たちとの会話に登ったことを思い出していた。女子の入隊は珍しいから、それだけで噂になる。と言っても、同じ屋敷に暮らしているはずのアオイと小萩が話しているところはおろか、一緒にいるところさえ、見た覚えがなかったのだが。

「……ただの同期じゃありません。私たちは昔、同じ育手の先生に教えてもらっていたんです」

 椿がちょっと目を瞠ると、アオイは聞いていただけますか、と前置きをして、膝を揃えて姿勢を正して話し始めた。

 鬼殺隊に入る前のことである。アオイがその育手への師事を始めた時には、年の頃二、三ばかり上になる小萩はすでにそこにいた。しかし、育手には明らかに持て余されていた。家族を殺された復讐心を縁に門を叩いたアオイと違い、小萩は家族を病に殺されて、郭勤めも性に合わず、もとより死んだも同然の身だからと、半ば自暴自棄で鬼狩りの道に進んだのだ。身の入り方が違った。

――小萩、そんなところで寝転がって何をしているの。先生に素振りを千回なさいって言われたでしょ

――いいじゃん、ちょっとくらい。それよりアオイ、こっちおいでよ。日差しが気持ちいいよお

――もう、先生に叱られても知らないから!

 万事このような調子で、年下ながらしっかりもののアオイの方が、なにかと物臭で自堕落になりがちな小萩を叱責して引っ張るような関係だったのだという。

 しかし、妹分が出来て張り合いが出たのか、小萩は徐々に真面目に鍛錬に取り組むようになりはじめた。そうすると、もとより両者とも天涯孤独の身同士で、仲良くなるのに時は要しなかった。

 やがて共に過ごすうち、二人の目的は同じになった。

 一緒に強くなろう。強くなって、鬼に襲われる人たちを救おう。

 そうして小指を結んで約束したことを、アオイは懐かしさと痛みを滲ませて語ってくれた。誰かに聞いてほしくて堰き止めていた思いが溢れて止まらないようだった。

「……でも私は駄目でした。戦えませんでした」

 手が震える。足がすくむ。身体がへたってまともに立っていられない。

 この時のために鍛錬を重ねてきたはずなのに、鬼と真っ正面から相対すると、すべてが吹き飛んだ。そして、あれほど憎んだはずの鬼を前に、命乞いをしてでも生き延びたいと思っている自分がいることに気付いた。それでもう駄目になってしまった。心が折れた。

――アオイ、待って!行かないで!

 友の静止の声も聞かず、狂乱状態になって逃げ出した。気が付けば山の中でたった一人、はぐれた友を探して彷徨う意気地もなく、アオイはひたすら、どうぞ鬼に見つかりませんように、小萩が無事でありますようにと、それだけを祈りながら生き長らえた。

 そして最後の夜のことだった。

――こんなところにいたの。この意気地なし

 物音に怯えて木の幹に這い蹲った自分を、冴え冴えと見下ろす姉弟子の眼差しを、アオイは数瞬前のように鮮明に思い出すことができる。

 明け方、小萩に引きずられるようにして山を降りた。一言も口を利くことはなかった。こうして二人の関係は決した。

「侮蔑されて当然です。私は友達を置いて逃げ出して、その間彼女はぼろぼろになるまで戦って、鬼を六も殺したんですから」

 自己嫌悪が煮詰まって、アオイは前を向くのも苦痛になって俯いた。

「それほど鬼を恐ろしいと思うなら、いっそ彼女の言う通り、鬼殺隊をやめてしまえば」

 心が折れたことは理解した。それ自体は責められることではないが、小萩の言うことにも一理があって、戦いから退いた人間を悠長に隊に残しておくことへの風当たりは決して優しいものではない。

「浅ましいことはわかってるんです。でも、ここにいることさえできれば、もう二度と小萩と離れずに一緒にいられる。鬼と戦う度胸もないのに、こんなことを言うなんてどうにかしてるって、自分でも思います」

 アオイの強く握った拳の上に涙がぽたぽたと落ちた。

「あ、あたしはもう、どんなに軽蔑されても仕方ないけれど、姉さんが戦っている時に、全然関係のないところにいて何もしないでいるなんて、耐えられない……」

 突風が吹いて、戸がわずかにかたかたと音を立てるのが遠くに聞こえた。

 それ以上、アオイが何かを話すことはなかった。椿も何も聞かなかった。

「お茶、冷めてしまったわね」

「お気になさらないでください。長居してしまいましたから、これで失礼します。お話、聞いてくださってありがとうございました」

「小萩にいじめられたら、いつでもおいで」

 椿が軽い口ぶりでそのように言うと、アオイは少し眉尻を下げてわずかに微笑んだ。

 蝶屋敷まで送ると言った椿の申し出を固辞して、一人で帰っていったアオイを後ろ姿を見送ると、しばらくして立ち代わりに小萩がやってきた。玄関口で頭を下げる小萩は、しのぶに相当絞られたらしく、やや消沈としている。

「迷惑をかけました」

 わざと主語を曖昧にぼやかした物言いに、椿はこれはまったく反省していないな、と呆れたが、そのことには触れず、「ほどほどになさいね」と言うだけに留めた。

「椿さんは、ああいう人間は嫌いだと思ってましたけど」

「カナエとお館様が彼女の処遇を認めている以上、私が何かを口に出す筋合いではないもの」

 椿は確かに戦う意志のある人間を評価するが、そうでない人間を前線に放り出せとは思わない。それに、アオイは己の身の程を知って、戦う場所を後方に移したのだから、その決断そのものはなんら責められるべき性質のものではない。

「みんな甘すぎます。あんなのを宙ぶらりんのまま野放しにしておくなんて、隊規もなにもあったものじゃない。隊士の士気に関わる」

「具体的には?」

「少なくとも私の士気はガタ落ちです。命を張ってる人間とただの下働きが同じ隊員として認められるなんて、馬鹿げてると思わないんですか」

 心底苦々しげに吐き捨てる小萩を真っすぐに見据えて椿が言った。

「随分厳しく当たるのね。同門ではないの?」

「同門なんて!あんな愚図と一緒にしないでください」

 小萩はひどく不愉快そうに足を踏み鳴らした。

「とにかく、そんなことはどうでもいいんです――戦うなら戦う、戦えないなら隊を去る。私、何かおかしいことを言ってます?」

 言いたいだけ言って、小萩は帰っていった。

 アオイは姉弟子に対して、今なお尽きせぬ愛着を抱いている。翻って小萩の方はと言えば、妹弟子のことを同門どころか他人以下の存在と思い定めているようだ。

 小萩の言うことは過激だが理屈は通っている。同門ならなおさら不甲斐なさを嫌う気持ちもわかる。しかし、ただ単純に嫌っていて鬼殺隊から追い出したいにしては、やり方が中途半端に陰湿である気がした。あんな大勢の人の目に着くところでいじめ抜いたところで、やった方の風評に傷がつくだけである。

 椿は小萩の激しさが何に起因するのか計りかねていたが、いくら考えても、それらしい答えに辿り着けなかった。

 

 まもなく、夕暮れ時に差し掛かる前特有の気怠い感じの日ざしが人里を覆いはじめた。

 椿は広い濡縁に置いた籐椅子にもたれて、女主の手で整形されて色彩豊かになった庭を見やった。まだ肌寒い時期だが、日没前に多少でも日の光を浴びておきたいと思ったのである。

 松の木の太い枝には警戒心のない白鶺鴒が遊んでいて、愛らしい鳴き声を上げている。今日は良い来客日和だった。

 鬼狩りは昼夜逆転の生活を送りがちになるが、人間の生命活動、ことに精神状態を良好に保つために太陽は必須だと、夜勤が続いた時などは特に強くそう感じる。取りも直さず、人と鬼とを分つ断崖がここにある。

 鬼狩りとは、身命にも増して、強烈に神経を削る稼業でもある。

 同僚は早々と死んでいくし、守ろうとして守り切れるばかりでなし、殺された者の無念、残されたものの悲嘆、そうしたものばかり目の当たりにしていると、怒りや悲しみが澱のように積もって、身体より先に心の方が根をあげる。

 心身は一体のものだから、心が折れれば身体もそれに追随する。剣を握れなくなる。

 結局、どんなに強そうに見えたとしても、所詮人間である以上、心の強度を過信していてはあっけなく壊れてしまうということだ。

 だから休息は大切だった。熟練の戦士ほど、己の心身を労る術を心得ている。

 

「椿さま、旦那さまがお目覚めです」

 女中からこのように呼ばれたので、椿は椅子から腰を上げて、この邸の主人のいる場所に向かった。

 椿があちこちに手を回して、自分好みに家中を作り変えていた一方、不死川は広い部屋が落ち着かないのか、南向きに張り出した、一番日当たりは良いが一番狭い六畳間を居室にして過ごしていた。よって必然、椿が一番長く滞在する室もここになった。

 襖を開けて部屋に入ると、不死川は押入に布団を片して、使い勝手の良い桑材の机の上に新聞を広げて湯漬けを食っていた。この机は粂野の遺品である。朋輩らとの形見分けの際に貰ってきたのだ。

「今日はしのぶがきてくれてね、林檎をいただいたから、後で剥いて差し上げるわ」

 隣に腰を下ろして椿が言った。

「千夜子にやらせろ。包丁で手先切ってりゃ世話ねぇぜ」

「大丈夫よ。前よりは少しは上手になったもの」

「これでもかァ」

 不死川は皿に並んだ異様に厚さの不揃いな沢庵漬けを箸で摘んで言った。

「……」

 沈黙の落ちた空間に、漬物をばりばりと咀嚼する音が響く。

 おかしい。刀の扱いはそこらの男にも負けたものではないと自負しているのに、包丁となると途端に手元が狂いだす。

 椿が下を向いていると、食事を終えた不死川が口を開いた。

「あれが花柱の継子かよ」

「起きていたの?」

「うるせえ女だ。嫌でも聞こえてくらァ」

 少々無神経なところのある小萩と不死川はいかにも相性が悪そうなので、あまり顔を突き合わせないよう配慮しておいたのは正解だった。今後も二人が鉢合わないよう気を付けようと椿は心に決めた。

 まもなく膳を下げにやってきた女中に、林檎と包丁を持ってくるように言いつけると、不死川が「切って持ってこい」と言うので、この独断には椿は大いに反発した。

「だめ。私がやるの」

「ものを幅を揃えて切れるようになってから言え」

 千夜子は顔を下に向けながら肩を震わせた。

「わかりました。持って参ります」

「千夜子、どちらの味方をするの」

「旦那さまの言いつけ通りに致します」

 頼みにしている女中に裏切られて椿が不満げにすると、千夜子はいよいよ笑いを噛み殺すのが困難になったのか、立ち上がって台所に向い、ものの数分で戻ってくると果実の乗った器を置いてさっさと退散した。

「私がやりたかったのに」

 椿の子供じみたわがままを、不死川は「もう少しうまくなってからにしろ」と言って、肩を引き寄せてなだめた。椿の小さな癇癪はそれで霧散してしまった。

 林檎は酸味が程良く美味だった。不死川は二、三口と手をつけると、後は椿が食べるところを飽きもせずに眺めていた。

 手持ち無沙汰になった不死川が、妻が何かやっているのを見世物にするのはよくあることだった。その注視のやり方ときたらあまりにあからさまでいっそ不躾と形容できるほどだったが、椿は彼が黒目を大きくしてじいっとこちらを眼差す視線の中に十分な愛情を感じ取っていたから、何にも言わないで、夫がしたいようにさせていた。

 椿は不死川に何かをしてもらった分だけ、何かしてあげたかった。

 とはいえ、椿は鬼狩りの上に石女ときているから、最初から世間並の嫁らしいことはできない。元来、人に奉仕する気質でないし、どちらかと言えば、奉仕させることに慣れた人種なので、うっかりしていると、何かしてもらうばかりになる。

 そういうわけで、己の美しさを愛でて心を満たしてもらえるのは椿にとって大きな喜びだった。もともと椿には、形貌の美しさで不死川の愛情を勝ち取ったという自信がある。

 日が足早に沈んで外が暗くなった。

 灯をつけると、椿はどういうことか、突然にアオイのことばかり思考に過ぎった。どんなに惨めでも姉弟子と一緒にいたいと言って泣いた少女、あれほど一途に慕っているのに、邪険に扱われるのはどれほど苦しいことだろうか。もし夫が、自分が彼を愛するのと同じようにこちらを愛してくれなかったとしたら、きっと舌を噛み切りたいくらい悲しくて辛かっただろう。それと同じことだ。

「アオイは小萩のことが好きなのに、小萩はアオイのことが嫌いらしいの。辛いことね」

「さっきの話か。ほっとけェ。胡蝶がなんとかするだろうよ」

 これはまったく不死川の言う通りで、あの二人の身柄は花柱の管轄だから、万事彼女を通して物事を収めるのが筋というものである。

 それにしても、不死川はカナエのことをとても高く評価して信頼しているようだ。

「最近、カナエと仲良くしているのね」

「は?」

「とぼけないで。今朝、あなたたちが一緒に任務から帰ってきたところを見ていたのよ。随分楽しそうにお話していたじゃない」

 今回の仕事ははじめカナエだけに割り振られていたが、不死川が増援に呼ばれて、それで均衡していた状況が一気に崩れて任務を達成したと聞いている。このところ不死川はカナエと組まされることが多くて、共闘しても相性が良いらしい。夫と親友の仲が良いのは椿にとって嬉しいことだった。

 岩柱には稽古に臨んでは叩きのめされているようだし、音柱とは仕事の愚痴を言い合っているらしいし、先日新たに柱の席に連なった炎柱とも良好な関係を築いていると聞くし、いずれも歓迎すべきことだ。欲を言えば、冨岡との仲はもう少しなんとかならないのかと思わないでもないが、気の合わないものは仕方がない。不仲が仕事上で差し支えがない範囲に留まるなら、無理に上っ面を繕ってまで仲良くする必要はないと思う。

「待て待て待てェ、なんの話だァ」

「何って、柱同士で親睦を深めるのは良いことねって……」

「それだけか」

「ほかに何があるの」

 煮え切らない態度をつついてみると、どうも浮気を疑って当てこすられたと思ったらしい。椿は呆れた。

「言っておくけれど、カナエにはもうずっと前から心に固く決めた人がいるから、浮気相手にするのは無謀だと思うわ」

「しねえよ。浮気は許さねえんだろ」

 不死川は心外とばかりに言った。

「当たり前でしょう。相手が誰でも絶対に許さない」

 椿がそう言い切ると、不死川は安堵と焦燥が入り混じった複雑な表情を浮かべた。それを見て、椿はほんの少し意地の悪い気分になって頬を緩めた。

「嫉妬してほしかったの?可愛い人ね……」

 不死川はうんともすんとも言わないで黙り込んだ。そして、妻に抱きしめられるのと、自分の額の皮膚の薄くなったところに口付けされるのを受け入れた。

 色々な細々とした不安を抱えていたけれども、椿は幸せだった。こんなに幸せを与えてもらって許されるのかと思うくらい幸せだった。

 

 

 

 走っている。

 左右に田畑の広がる畦道を、少年はまるで何かに追い立てられるかのように駆け抜けている。

 なぜ自分はこんなところに一人でいる。自分の役割は家族を守ることだ。兄と一緒に、母と幼い弟妹たちを守ることだ。

――もうみんないなくなってしまったのに、一体何を守るというのか。

 途方もない孤独感に押しつぶされそうになり、鼻の奥がつんと痛んだ。泣くな、しっかりしろ、前を向け、走れ。自分は母の息子、兄の弟、弟妹たちの兄だろう。

 夜通し走り抜いた身体は疲労を訴えて休息を取りたがった。冬の冷たい空気を辛うじて吸い込むごとに肺が膨らんでは縮み、心臓は破裂しそうなほど強く打ち、内臓がどうにかしてしまったのではないかと思うほど脇腹が痛む。

 それでも足を止めることなく、不死川玄弥は夜の闇の中をひた走った。

 


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