寒椿の君   作:ばばすてやま

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※本作は言うまでもなく二次創作であり、時系列、設定は必ずしも原作に準拠しません。


16-1.積もり積もりて情けの深み

 

 かつて、姉と私は一心同体であった。

「早く生まれておいで」

 母の腹に向かってかけられた下の子の誕生を待ちわびる声も、産着に包まった赤子を愛しげに見つめる眼差しも、記憶にあるはずがないのに、遠くに思い返せるような気さえする。

 物心つかないうちから、しのぶは姉の後ろについて、姉のすることの真似ばかりしていた。お手本は母であるよりも姉であり、親に笑われるほど常に一緒で、嬉しいことも悲しいことも、すべての感情を共有し合っていた。

 成長するに従って、嗜好も特技も趣味もはっきりとした違いが出てきて、見た目にはそれぞれに異なった美しさを持っていたし、性格も、穏やかでおっとりとした姉と、せっかちなきらいのある妹は対照だった。

 しのぶとカナエは混同しようもなく別個の人間だった。それでも、むしろ、真反対だったからこそ、蝶の羽のひとつがいが羽ばたくために不可欠であるのと同じように、ひしりと手を取り合って存立しえていたのだとも言える。

 長じて鬼狩りとなり、姉との才能の差をはっきりと突きつけられて打ちのめされても、しのぶのカナエへの敬慕の念はいささかも変わることはなかった。姉を愛していた。羨望こそあれ、嫉妬の念など湧き起こりようもなかった。これほど強く、美しい人が自分の姉であることはしのぶの幸福であり、自慢であり、誇りだった。

 

 

 桃の節句に合わせて姉妹が誂えた着物に、椿から贈られた洋靴を履いて、カナヲが特に何がしたいという当てもなく、ただ庭を歩き回っている。

「気に入ったの?」

 しのぶがそう問いかけると、カナヲは控え目に頷いた。相変わらず言葉は少ないが、顔つきが柔和になり、情感が備わりつつある。完全に銅貨なしで物事を判断できるようになるまではまだまだ時間がかかるだろうが、ここにやってきた当初のことを思えば、目覚ましいばかりの情緒の進歩だ。

「アオイが手が空いたから、鍛錬に付き合ってくれるそうよ。行きましょう」

 カナヲは蝶屋敷の女性たちに鍛えられて、すでに隊士相当の剣の技量は身につけていたが、最終選別には送り出していない。

 そもそも、本来、姉妹にはカナヲを隊士にする気などなかった。それがこんなことになったのは、椿から「筋違いかもしれないけれど」と、遠慮がちながらも鞭のように厳しい指摘を受けたためだった。

「カナエ、あの子をどうするつもりなの。犬や猫ではないのよ。甘やかして大事にしているだけでは、あなたたちの身に何かあった時、路頭に迷わせることになるわ」

 椿は近しい部外者として冷静に物事を見定めて、このように言ったのである。

 蝶屋敷は慈善施設ではない。姉妹が卓越した技能によって、お館様より土地と家屋敷をまるごと施与受けた、鬼殺隊の医療機関である。幼い少女たちとて、看護婦として鬼殺隊の役に立てるからそこに住まわせてもらえるのだ。カナヲほど意志に乏しくて、家事にも人の世話にも向かない壊れた少女であっても、穀潰しのままでは姉妹に何かあった時に身の置き場所がなくなってしまう。彼女のような子供が、理解ある庇護者から離れて安楽に生きていけるほど、世間は優しい場所ではない。

 だから、時期尚早のように思われても、とにかく何か身につけさせるべきだと椿は言った。とても反論できない正当な意見だった。

 それで、いざ試しにと竹刀を握らせてみると、カナヲには戦いで生き残るための天性の資質が備わっていることがはっきりわかりはじめた。目と反射が良いのである。しのぶは、この子は訓練を積み重ねれば、自分よりも強くなれる、と直感した。不本意なことではあったが。

 そういう経緯で、カナヲは、育手のもとにいる子供たちと同じように、隊士となるための訓練を受けている。

 それでも、カナエもしのぶも、カナヲが鬼狩りではない、普通の少女らしい生活を望めるのではないかという見込みを、いまだ捨てきれていなかった。椿に言わせればそれは甘さだっただろうが、もっとも、椿とて、ものをくれてやったり、稽古をつけてやったりして、カナヲを可愛がることにかけては姉妹と大差なかったのだが。

 しのぶがカナヲを伴い主屋に戻ると、玄関先では、椿とカナエが真剣な表情で話し込んでいた。

「奥多摩の巡回が手薄なの。人手を借りることはできる?」

「小萩を向かわせるわ。今夜からでいいかしら」

「ありがとう、助かるわ」

「いいのよ。そういえば、不死川くんは一緒ではないのね」

 しのぶの見たところ、彼らは同じ任務に一緒にあたることはあまりしない。柱が身内を継子にしたり任務に同行させるのは珍しいことではなく、むしろ後進育成とか士気向上の観点から奨励される傾向にあるのだが、当面こうしたことに私情を交えないのが彼らなりのけじめらしかった。

「彼は別件で一昨日から不在にしているの。行先は教えてくれなかったけど、遠方なのですって」

「しばらく会えないんじゃない?寂しいわね」

 カナエが同情を込めて言った。遠方での任務は長期にわたりがちだった。

「一月は帰って来れないそうなの。でも暇があったら、お手紙を書いてくれるそうだから、寂しくないわ」

 椿は美しくなった。もともと美しかったのが、このところは会うたび会うたびより一層輝きを増しているようだった。鬼狩りのいかめしい地味な装いすら、娘盛りのまばゆさを押し潰すことはかなわなかった。

「この後お寺参りに行って、帰りに甘いものでもいただいてから任地に発つつもりなのだけれど、良かったら途中までご一緒にどう?」

「嬉しい。しのぶ、カナヲ、一緒に行きましょうよ」

「私たちはこれから鍛錬に入るから、二人で行ってきたら」

 このところ多忙だった姉にはちょうどいい息抜きになるだろう。

 妹の言葉に甘えて、友人と連れ立って屋敷を出るカナエを見送りながら、しのぶはしみじみとした気持ちになった。

 椿とカナエは、これ以上の仲睦まじい様子はないだろうという調子で喋り合っている。

 しかし、この二人は、出会った最初から今のような仲良しなわけではなかった。むしろ、椿からすれば、カナエは不倶戴天の敵と呼んで差し支えなかった。

 

 

 椿と初めて出会ったのは、色付いた木々の葉が地に枯れ落ちる晩秋の頃だった。同じときに姉の思いつきで、庭に赤い落ち葉と枝を積んで火を焚いて暖まったことを覚えている。

「水の呼吸を使う女の子のことを、話に聞いたことはあるかい」

 鬼殺隊に仕えて長い老医師が、世間話にそう切り出した。

「椿ちゃんのこと?」と即座に反応したのはカナエである。

「ああ、カナエさんは知っていたんだね」

 しのぶは初耳だった。

 その頃のしのぶは、周囲の何かに気を取られている余裕などなかった。姉と肩を並べて戦うために、人より早く大人になる必要があったのだ。今では蝶屋敷と呼ばれているが、当時はたんに隊士たちの救護施設であった屋敷で、そこを取りまとめる医師らの世話になりながら、任務の時と、カナエが息抜きに外に連れ出してくれる時以外は、ひたすら研究と鍛錬に開け暮れていたのである。

 しのぶが鬼と戦うためには藤の花の毒が絶対に必要で、その研究は鬼殺隊にとって有益であったから、屋敷に住むことを許された。研究には、前線で負傷して帰ってくる隊士たちから得られる、鬼という生物に関する情報と知見の積み重ねが不可欠であったのだ。

「年の頃も近いそうだし、仲良くなれたら良いと思ってね。先ほどここに来ていたから、挨拶でもと」

 カナエがぱっと勢い良く立ち上がった。

「栗花落先生ったら、それを早く言ってくれないと」

「おや、何か彼女に用事でもあるのかい」

「ええ!」

 カナエはばたばたと大急ぎで部屋を出て行った。

 老医師は元気な孫娘でも見るかのように目を細めた。

 カナエは屋敷の人気者だった。妹が研究に邁進する一方で、姉はここに置いてもらう以上はと、自ら看護婦の役目を買って出ていた。彼女はいつもそうだったが、その振る舞いは周囲に好意的に受け止められた。夜中、暗闇の中でランプを片手に傷病者を一人一人見て回るカナエの姿に、生きる活力を見出す隊士も少なくなかったのである。機能回復訓練を今のような形で考案したのもカナエで、姉は強く優しいばかりでなくて、そういう才能も持ち合わせていた。

「しのぶさん、ほら、窓の外を御覧なさい。あの子がそうだよ」

 老医師は格子窓の外に見えた、屋敷の門口に向かう女性の後ろ姿を指さした。それを追って、矢のように飛んでくる人影がある。

「椿ちゃん、待って!」

 走って追ってきたカナエに声をかけられて、彼女がこちら側に振り返った。

 姉と同じか、その次に綺麗な人――しのぶは咄嗟にそのように思った。カナエより美しい人はこの世に存在しないから、これはしのぶが人の容貌を褒めるときの最大級の賛辞である。

 カナエが春の日溜りのような温もりを纏った女性であるとするなら、椿は反対に、冬の早朝の清く澄んだ空気を思い起こさせる怜悧な雰囲気を放つ女性だった。しかし、完璧に整った形貌には隙がなさすぎて、やすやすと近寄りがたい印象を見るものに与えた。

 二人はその場で二言、三言交わした。そして最後に、カナエが至って友好的に差し伸べた手を、椿はやんわりと、だが冷厳な意思を持って振り払った。

 剣呑な様子に、しのぶが慌てて姉のもとに向かうと、すでに彼女は門外に姿を消していた。

「姉さん、何かあったの?」

「今度の週末に、一緒に浅草に遊びに行きましょうって誘ったのだけれど、断られちゃった」

 門口に向けられたカナエの視線は、すでに姿のない椿の影を追っているようだった。

「どうしたらもっと仲良くなれるのかなあ……」

 

 

 カナエの話によるとこうである。数日前の夜のことだ。

 子供の鬼がいた。まだ鬼になったばかりで、人間だったときの記憶が色濃く残っていた。

「おかあさん、おかあさん……」

 母を呼びながら泣きじゃくる子鬼の口元は血に塗れていた。

「お母さん、どこに行っちゃったの?うう、うー……」

 自分のやってしまったことを理解できないほど頑是ない様子に、カナエの心は哀れみに満ちた。ここにくるまでに目のあたりにした、我が子に喰い殺された若い女親の死体が脳裏をよぎる。丁寧に整頓された家内、ぴったり並んだ二人分の布団、夕食の団欒の痕跡。やりきれなかった。

 カナエが子鬼に近付こうとしたその時、目の前の小さな身躯は声もなく前のめりに崩れ倒れた。

 切断されて胴から滑り落ちた首が、まるで鞠のように軽やかに空を飛ぶ。

 カナエは手前に転がってきた鬼の首を、咄嗟に腕を伸ばして受け止めた。子の顔は恐怖と苦痛に染まり、瞳からはとめどなく涙が溢れ出していた。

 鬼の胴体が倒れ伏したその背後に、息を切らした椿が立っていた。彼女は背後から一気に接近して、相手に何が起こるか気付かせる猶予も与えず、その頸を的確に切り落としたのだった。

 カナエは、胸の中にこうべを優しく抱き込み、泣き別れになった胴体の背中をさすってやった。そうすると、子鬼はわずかに、安心したように微笑んで――これはカナエの願望かもしれないが――塵になって消滅していった。カナエはどうかこの哀れな子に、神様が慈悲をくださいますように、そして天国で母親と再会できますように、と祈った。

「……まるでこちらが悪いことをしたかのようではありませんか」

 椿はカナエの鬼への哀悼を自分への非難と感じた。もっとも、椿にしてみれば、鬼を前にしてぼうっとしている仲間を救わねばならない、という使命感で刀を振り抜いたのに、当の本人がこのような有様だったので、焦った甲斐なく感じたのは当然だった。

「いいえ、そんなことはないわ。ありがとう、助けてくれて」

「……」

 カナエは目を伏せた。すでに鬼は形も残さず消滅している。

「この子、泣いていた。悲しんでいた……」

「何を悠長なことを。鬼に情けをかけてなんになるのです」

「みんな人間だったのよ。私たちと同じ、誰かを愛して、誰かに愛された人間だったのよ」

 カナエの訴えは、尋常の人間ならば思わず同調してしまいそうな切なさを帯びていたが、椿にはまったく通用しなかった。

「鬼がかつて人間だったことは誰でも知っています。それが一体なんだというのです?」

「鬼となっても、人間だったときの行いまで否定されるいわれはないわ」

「あなたの言っていることにはまるで道理がない。過去かつていかな善良な人間であったとしても、鬼となり人を喰い殺したからには、酌量の余地などない」

 鬼はあまねく無慈悲に滅ぼされるべきであるという彼女の信念は確固としていた。

 平生、姉を侮辱されて黙ることのないしのぶだが、これを聞かされては文句のつけようもなかった。

 椿の言うことは、鬼殺隊の理念に照らし合わせて正当な意見であって、実際、鬼にすら哀れみを持つカナエの方こそ異質なのである。

 しのぶとて話を聞いて、内心では安堵していた。外見をいかに取り繕っても、鬼は鬼、子供らしく装っていただけのことで、実際には目の前の人間への害意を秘めていたかもしれない。油断したところを攻撃する魂胆だったのかもしれない。しのぶは姉の強さと、鬼を前にして日輪刀の柄から手を離すほど愚かではないことを知っていたが、とはいえ、安易に自ら危険に首を突っ込みに行くような真似はして欲しくなかった。

 だから、しのぶは姉の手前、あからさまにはしなかったが、問答無用で鬼を仕留めた椿に対しては感謝の念すら抱いていたのである。

 

 

「私には私の、あなたにはあなたの信念があります。なぜ私たちが友人にならなければいけないのですか」

 カナエの理想を、椿は絶対に許容しなかった。

 かたやカナエは、この一件があっても、いや、むしろこの一件があったからこそ、椿とは絶対に仲良くなるしかないと心に決めたのである。人間と仲良くやれないで鬼と仲良くなれるわけがない――と考えたわけでもないのだが、いずれにせよ、カナエにとっては、仲間を案じて我が身も構わず刀を振るった椿の本質の方が、互いの信念上の問題より重要なことであった。

「そんなこと言わないで。私たち、良いお友達になれると思うの」

「やめてください。私はあなたが嫌いです」

 椿は物わかりの悪い子供に言い聞かせるように、誤解しようもないほど明瞭に言い放った。だが、この程度で距離を置こうとするようなら、それは胡蝶カナエではない。

「でも、私は椿ちゃんが好きよ」

 椿は思わぬ反撃を食らって黙り込んだ。そして、カナエのことを薄気味悪いもののように眼差した。

 カナエはどんなに冷たくされてもめげなかった。昼も夜もなく椿について回っては、とめどなく喋りかけた。

 

「ねえねえ椿ちゃん、一緒にお昼食べに行きましょうよ」

「行きません」

 

「三味線が得意なの?私も好き!」

「私の家から出て行っていただけますか」

 

「大きな湯船っていいわよね。あっここの銭湯ね、外風呂があるの!一緒にいきましょ!」

「お風呂の中にまでついてこないでください……」

 

 椿はカナエの攻勢に粘り強く抵抗した。カナエに対してこれほど長く拒絶的な態度を通した人間を、しのぶはかつても今も椿以外にお目にかかったことがない。

 そういうことがしばらく続いたある日、しのぶが調剤室で薬の整頓をしていると、廊下から椿と誰かが歩きながら話しているのが漏れ聞こえてきた。

「……どうしてそう嫌がることがあるんだ」

「宗旨の違いです。仏門に帰依した者と耶蘇教徒のようなものです。仲良くできるはずがありませんでしょう」

「最初からそう決めつけてしまうのは、俺はどうかと思うけどなあ。いい子なんだろう、その子」

「いい子と言いますか、人見知りをしない、人懐っこい方……」

 椿はカナエのことを説明するのに、「馴れ馴れしい」とか「しつこい」という無礼千万な形容は避けていたものの、この状況に相当参っていることだけは伝わってきた。弓を引いて矢を打ち込んでいるのに、お返しに大きな花束を投げて寄越されるというのは、やられる側からすると、ずいぶん精神がくたびれるものらしい。

「ほら、やっぱりいい子なんじゃないか。友達は何人いてもいいものだろ」

「粂野くん、他人事だと思って……」

 調剤室の引き戸が開いた。椿は少年の隊士を伴って薬を取りに来たのだった。

「薬をもらっても構わないか?打身に良く効くやつ」

 少年の要望に応えてしのぶは薬棚に手を伸ばした。後ろでは椿が「受け取っておくので、先に向かってください」と言って、少年を先に行かせていた。

 二人きりになった。室内に沈黙が落ちた。

「あの……」

 しのぶがおそるおそる話しかけようとするが、言葉がつっかえた。まごついたしのぶに、椿は表情を和らげてこう言った。

「あなたのお姉さまは、素敵な人ですね」

 言葉面だけ捉えると、皮肉のようにも思われたが、椿には一切他意はなかった。本心からそう思っていることが伝わる真摯な口ぶりだった。

「……姉さんのことは嫌いですか?」

「お姉さまを罵るような真似をしてごめんなさい。…… 嫌いというわけではありませんよ。ただ、彼女のような人と一緒にいると、自分が本当に嫌な人間に思えて……いえ、これは私の都合ですね」

 しのぶは椿の言い草と物腰におおいに戸惑った。彼女は本来、誰に対してもこうやって当たり良く接することのできる女性なのだ。そんな女性をああいう風に振舞わせるカナエは、ある意味では特別な存在とまでいえた。

「これだけ素気無くしたのですから、そろそろ諦める頃でしょう。あなたにも、迷惑をかけてごめんなさいね」

 椿はしのぶに向かって礼儀正しく一礼をして、薬を受け取って退室した。

 しのぶは、椿に向かって、私の姉さんはこのくらいで諦めるような人ではない、と言うべきか判断に迷った挙句、口を噤んだ。

 

「今年の初雪は遅いわね」

「今年は暖かいですから、この辺りでは雪は降らないかもしれませんよ」

「残念ねえ。雪が積もったら、椿ちゃんと一緒に雪だるまを作ろうと思っていたのに」

「作りません」

 

 椿は太陽に照らされた氷山がじわじわと溶け出していくように、カナエに心を許す兆しがあった。そして一時は難攻不落のように思われた鉄壁の牙城の崩れる日が、とうとうやってきたのであった。

 

 カナエが廊下を歩いていると、椿が処置室から出てきたところにたまたま鉢合わせた。椿の顔色がひどく青ざめていたから、カナエは彼女がどこかに怪我をしたのではないかと気がかりになって声をかけた。

「大丈夫?怪我をしたの?」

「月のものです。ご心配なさらずとも結構」

 椿の口調は常にも増してどん底に冷えきっていた。

「今晩、任務でしょう?私が代わりに行きましょうか」

「任務には差し障りありません」

「でも、あなたの血は……」

 椿ははっきりと憎しみが入り混じった形相でカナエを睨みつけた。

「夏の夜の燈に蚊が寄りつく程度のことです。むしろ、いつもより簡単ですよ。鬼を探す手間が省けますから」

 カナエは言葉を失った。こんなに具合が悪そうなのに、一人で鬼を倒しに行くつもりだなんて無謀だ。

「いつもこんなことを?」

「頻繁にではありません。でも、使えるものを利用しない手はないでしょう」

 これほどの無謀で、よく今まで死なずに生きながらえたものだ。椿は弱くはないが飛び抜けて剣技に優れていたわけでもないから、ここまで生き延びたのは本当にただ運が良かっただけだ。

 カナエは決心して言った。

「私も一緒にいく」

 椿はカナエの言葉を理解するのを拒むように瞳を瞬かせた。

「友達のことだもの。放っておけないわ」

「だから、友達ではないと言って……もういいです」

 椿はこれみよがしに大きなため息をついた。

「この体質をご存知なら、なおさら私に近づかない方が良い。……あなたは私とは違う。妹がいるんでしょう。たった一人の、かけがえのない大切な家族なんでしょう。自ら己の身を危険に晒すようなことをなさらないでください」

「私たちは同じ隊士よ。何も違ったりしないわ」

「違いますよ。私が死んでも、とりわけて悲しがる人はいません」

「私が悲しいわ。それではいけない?」

 カナエは椿の手を握りしめた。椿はもう、カナエの腕を振りほどいたりはしなかった。

「私の心配をしてくれるの。椿は優しいのね」

「……あなたに比べたら、私など塵芥にも値しません」

 椿は結局、その夜、カナエが自分の任務に同行するのを許した。

 その後にどのようなやりとりが交わされたのか、しのぶは聞かされていない。

 確かなことは、その日以来、二人が極めて親密な関係を持つようになったことだけだ。信念上の問題を除けば、もとより、二人には友人になれない要素は何もなかった。椿にとって、カナエの思想は我慢ならないものだったことは間違いない。だが、カナエが柱になったときすら、椿はそれを理由に何か物言いをつけることはしなかった。二人の鬼への見解は永久に交わることはなかったけれども、それ以外の部分で相手を認め合うことで、主義主張を超えたところで互いを愛し合い、労り合うことができた。

 

 そうなると面白くないのはしのぶである。

 自分一人だけの姉が、よその人に取られてしまったなどというのは子供っぽすぎる。しかし、胸の内に芽生えた反感の理由はそうとしか言い表しようがなかった。

「昔、日比谷に音楽堂ができた時のこと、覚えている?」

「ええ。すごい人混みだったのと、それにあの軍楽隊の吹奏楽!」

「陸軍学校の生徒さんたちの演奏、本当に見事だったわねえ」

 私たちあの時どこかですれ違っていたかもしれないわよ、とはしゃいでいる二人に声をかけ辛くて、しのぶは二人が話をしている部屋の前を静かに通り過ぎた。

 姉はどんな時でも前向きで、明るいところに今も昔も変わりはないと思っていたけれども、気兼ねなく親友として付き合える相手を見出すと、やはり両親の死がその気質に影を落としていたのだと痛感させられた。姉はかつて祖母から教わって得意としていた長唄をとんとやらなくなっていたのに、しのぶは自分のことだけで精一杯で、たった一人の肉親のことなのに、そういう変化に気付いてあげる余裕もなかったのだ。

 

 実に豊かなる日の本の、橋の袂の初霞、江戸紫の曙染めや

 水上白き雪の富士、雲の袖なる花の波、目もと美し御所桜

 御殿山なす人群れの、香りに酔ひし園の蝶……

 

 椿の奏でる三味線の音に乗せて、カナエが軽やかな声で吾妻八景をうたっている。

 その光景と音色は、桜の花見に家族で川沿いを歩いた情景を、途方もない郷愁ととともにしのぶの胸の内に思い起こさせた。

 気候の穏やかな、春に近くなった日のことだった。

 

 


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