寒椿の君   作:ばばすてやま

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四章
17.彼岸之後


 玄弥は十にも届かぬ齢のうちに家族をすべて失った。生まれ育った喧々たる市街を離れ、山間の清閑な集落に住む伯父夫婦に引き取られて、そこで暮らすことになった。伯父は兵隊から戻って以来片腕が上がらないが、働き者の善人で、妻とともに小さな田と畑を耕して暮らしている。夫婦に子はなかった。二人の間に生まれた子はみんな虚弱で、三の年を数えないうちに病で命を落としてしまったからだ。

 世間の者の目には、先住の子のいない家にやってきた少年は幸いな身と映った。我が子のない伯父夫婦は、自然と甥を実子同然に遇したからである。

 暮らしぶりは慎ましかったが、毎日三食、お腹いっぱいになるまで食べることができたし、生まれて初めて学校に通わせてもらい、冬になればたくさん綿の入った半纏を仕立ててもらった。村人も、異郷からやってきた不幸な身の上の少年には何かにつけ気を配ってくれて、夏になると畑でとれた西瓜をどっさりと差し入れてくれた。

 しかし、どれほど善良な人々に囲まれて優しくされても、自分の居場所はここではない、という孤独と疎外感を拭い去ることはできなかった。

 玄弥には家族みんなで暮らした、長屋での貧しい日々が恋しくてたまらなかった。父に殴られようと、一日の糧を一杯の粥でやり過ごそうと、隙間風の寒さに震えようと、母と兄弟たちとさえ一緒にいられたなら、そんなことは大した問題ではなかった。

 通わせてもらった学校にはすぐに行かなくなった。働いて身体を動かしているほうが性分に合っていて好きだったというのもあるし、後ろ暗いものを背負わぬ同い年の子供たちの屈託のなさに耐えきれなかったのもある。

 夫婦は玄弥が勝手をしても責めなかった。二人はいつも、一夜のうちに親兄弟をすべて喪ってしまった甥を憐れんでいたから、大抵のことは彼の好きなようにさせていた。それに、玄弥に仕事を手伝ってもらうのは肉体の頑丈でない夫婦にとってありがたいことだった。玄弥は年の割に力が強く、体力があり、厳しい労働によく耐えた。米搗き麦搗きも、山に分け入って薪を取ってくるのも、重い俵を担いで家と倉を往復するのも難なくやってのけた。

 

 ここに来ては幾度、親と子が、あるいは兄と弟が、農務を終えてともに帰路につく後ろ姿を眺めやって羨んだことだろうか。

 

 そういう時には、必ず、この世に唯一残された肉親のことが思い出された。兄に会いたかった。例えよその人の家に育つことになっても、たった一人の血を分けた兄が一緒にいたなら、何も悲しいことなどなかっただろう。

 玄弥は苦しみの海でもがいていたが、これが自業自得の苦しみであるとも理解していた。家族を失った悲しい夜に、兄にひどいことを言ってしまったのは玄弥のほうだった。玄弥は兄に見捨てられたのでなくて、自ら突き放してしまったのであった。後悔しない日はなかった。

 兄の消息は杳として知れない。

 元気でいるだろうか、生きているだろうか?いや、絶対にどこかで生きているはずだ。万が一にも死んだなどとは想像したくなかった……

 

「玄弥か。どうしたのだ、こんな時間に」

 日暮れ時に、勝手知ったる寺院の石階段に腰掛けて悄然としていると、法衣を纏った老僧にそう声をかけられた。彼はこの山麓のただ一つの寺院の住職であった。

 玄弥はこの村にやってきて以来、毎朝のお寺参りを欠かしたことはない。風雨の打ち付ける日も、霜の降りる寒い日もである。玄弥は決して信心深い性質ではなかったが、兄の無事と、母と弟妹たちの死後の健やかを祈る気持ちはそれほど強かった。僧は玄弥をたいそう気に入って、うちのお寺においでと再三誘ってくれたが、今のところ、甥を出家させるつもりのない伯父夫婦はこの申し出を保留にしていた。

「ここにはいつ来ても良いが、夜はだめだ。いいかい、決して日が落ちてから外を出歩いてはいけないよ。鬼がでるからね」

「鬼?」

 玄弥が怪訝に聞き返すと、僧は重苦しく頷いた。

「人の血肉を喰らう怪物だ。鬼は夜になると出歩き始める。けれども、日の光を浴びると焼け消えてしまうから、日中のうちは安全だ」

 僧の言葉とともに、玄弥の脳裏に、太陽の光に照らされて塵と朽ちてゆく母親の最期がまざまざ思い出された。

「この山麓の家々は、どこも藤の花の香を焚いて夜を過ごすだろう。あれも鬼が家の中に入ってこないように……どうしたんだね、顔色が良くない」

 玄弥はからからに渇いた喉の奥から掠れた声を出した。

「なあ、お住持さん、俺がこれから言うこと、笑ったりしないできいてくれるって約束してくれるか」

「もちろんだとも」

 そして玄弥は、これまで誰にも打ち明けたことのない、自分の家族の上に起こった、悪夢のような出来事のあらましを打ち明けた。

「……そうかい。お前の母さんは鬼になってしまったんだね」

 玄弥の話を聞き終えると、僧は念仏を唱えながら手のひらで数珠を擦り合わせた。

「鬼は鬼としてこの世に生まれ出るわけではない。元は人間なのだよ。しかし、虫一匹殺さぬ行いの正しい人であっても、ひとたび鬼の血を浴びてしまえば性根は歪み腐り果てて人の血肉を求める怪物に成り下がってしまう。……けれども、良いかい、決して母さんを恨んだりしてはいけないよ。誰も鬼になりたくてなるわけではないんだからね。業縁に招かれた行いの報いを、その人個人の責めに帰しては、物事の正しいあり方を見失うことになる」

 玄弥にはもとより母を恨む気持ちなどなかったから、僧の言葉に素直に頷いた。

「……でも、そんなのが夜にうろつき回ってたら、誰も安心して暮らしていけねえじゃん」

「みんなが安泰に生きていけるよう、鬼は鬼狩り様が成敗してくれると昔から決まっているんだよ」

 玄弥はもっとたくさん話が聞きたかったが、僧はそれ以上は何も話したがらず、もう日が暮れるからと急いて家に戻るよう促した。

 僧によってつまびらかにされた真相は衝撃だったが、そうか、と附に落ちる思いでもあった。優しく微笑む母親の姿とその最期を思うと涙にくれずにはいられなかったが、一切衆生悉有仏性という考えが玄弥の心をわずかなりとも慰めた。そして、鬼などという、そんなけしからぬ怪物がこの世に野放しになっていて良いわけがない、とも思った。

 その日、玄弥は兄の夢を見た。血まみれの兄が夜路をさすらっている夢だった。玄弥は去りゆく後ろ姿に向かって名を呼びかけたが、兄がこちらを振り向く前に目が覚めてしまった。

 

 数日後、西からやってきた旅人が、寺に一宿一飯を求めて立ち寄った。たまたま来訪に居合わせた玄弥が洗足の盥を持って戸口までやっていくと、僧と旅人は軽い言い合いをしていた。

「お前さん、何もわざわざ難所の峠を越えてこなんでもよかったろうに」

 二人は知己らしく、砕けた調子でやりとりをしている。

「いやあ、いくら険しいと言ったって足腰さえしゃんとしてりゃあ難ないと思ってたがね、まさかあんな化物に襲われるとは……」

「思慮の浅いことだ。まったく鬼狩り様が居合わせねばどうなっていたことやら」

 旅人の男は峠で鬼に襲われたという。いまだ興奮がおさまらぬようで、鋭い鉤爪があわや喉元まで迫りきたとき、鬼狩りが現れて命を救われた一部始終を、さかんに身振り手振りを交えて語ってくれた。

「なあ、鬼狩り様ってどんな人だったんだ?」

 玄弥の素朴な問いに、男は記憶を辿って答えた。

「背の高い、白い髪の若い男だったな。顔にどでかい傷をこさえてあってよ、どっちが鬼だかわかりゃあしねえ、おっかねえ面してやがった」

「これ、命を救われておいてなんという言い草か」

 老僧がそう言ってたしなめた。玄弥の耳に、白い髪、顔に傷のある若い男、という言葉が反響した。

「なあ、その人の名前は聞いたか?どこに行ったか分かるか?」

「知らねえな。すぐにどっか行っちまって、礼も言えなかったしよ」

 男は胸ぐらに掴みかかる勢いで前のめりに聞き込む玄弥をまじまじと見つめた。

「そういや、あの男の傷、お前の顔の傷によく似てた……気がしないでもないな」

 様々な考えが頭の中をぐるぐる回り、すべてが繋がった。

 兄だ。きっと兄だ。鬼を殺す。己の身を危険に晒しさえして、誰かの命を守る。兄のやりそうなことではないか。

 もはやいてもたってもいることができなかった。鬼というものの実在を知った今、玄弥には暖かい寝床にもぐりこんで安穏と夜をやり過ごすことなど選べなかった。

 その晩、玄弥は夫婦が寝静まったのを見計らって、良心の呵責とともにくすねた紙幣小銭と身の回りのわずかな小間物を雑嚢に詰めこみ、薪割りに使う鉈をとって腰にぶらさげた。

 物音を立てないよう注意を払って家を抜け出し、村を出る街道までやってくる。ここまでくれば、誰にも出会すことはないだろう、という拙い予想は外れた。道標のそばには、明かりを携えた老僧が立っていたのであった。彼の墨染めの衣からは、藤の花の香がかすかに漂っていた。

 老僧は少年が出立する様子を見ても、何事かと問うこともせず、ただじっとこちらを見つめるばかりだった。玄弥が止めないでくれ、と言おうとするより先に僧が口を開いた。

「鬼狩りは鬼殺隊という組織に属している。黒い隊服を纏っているから、見ればそれとわかるはずだ。悲鳴嶼行冥という男を頼りなさい。盲目の、巨躯の僧侶だ。私の知り合いといえば、悪いようにはしないはずだ」

 いわくいいがたいその表情から、僧が何を考えていたのかを推し量るには、玄弥は幼すぎた。玄弥はもの言わず、軽く礼をして僧のそばを通り過ぎた。彼は玄弥の姿が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていた。

 向かうは青梅街道を西にさらに西、大菩薩峠である。月のない夜、眼前には果てしない闇が広がっていた。玄弥は竦み上がりそうな如法暗夜にも構わず、ただひらすらに走り進んだ。

 

 このような次第で、玄弥は村を出奔したわけだが、そこからの道行きは波乱に満ちていた。だいたい、そうあっさりと目的に辿り着けるようであれば、世の中にこれほど苦労ごとは溢れていない。山に入っては熊に襲われるわ、人里に寄れば人売りにかどわかされかけるわ、挙句寝ている間に持ち物を掏られて一文無しになるわで、これまでの自分がどれほど周囲に守られていたのかを嫌というほど痛感させられる始末であった。

 這々の体でようやく鬼狩りを見つけてみれば、「隊員でもない奴が悲鳴嶼さんに会えるわけないだろ。俺だって遠くから見たことあるだけなのに」とすげなくされる。

「じゃあどうやったら会えるんだよ」

「柱はおんなじ柱にでもならなきゃおいそれ会えたりしねえよ」

 鬼殺隊の平隊士は玄弥を鼻で軽くあしらったが、育手のもとに連れていくという先達としての最低限の義務を果たした。ひもじくして親兄弟も風雨を凌ぐ軒も持たぬ子供が、よりよい暮らしを求めて鬼殺隊に入ろうとするのは決して稀なことではなかったから、彼は当然、玄弥もその手合いだと思ったのだ。

 ところが、これが長続きしなかった。ものの一月も経たないうちに、育手から破門を言い渡されたのだ。

「才能がないって言ってんだよ。どっかで達者で暮らせ、悪いこた言わねえから」

 意味がわからなかった。玄弥は腕っ節が強い方で、その辺の町道場の小倅などとやりあっても、決して引けをとるとは思っていない。だが、育手は聞く耳をもたずぴしゃりと門戸を閉めた。

 このままおめおめと村に帰れるはずもなかった。そもそも玄弥には、もう二度とあの村に帰るつもりがない。あそこは玄弥の帰る場所ではない。

 

 暗い渓谷に吹き込む風の音がごうんごうんと反響している。

 

 青ざめた空に響き渡る、鴉の変わりばえしない野太い鳴き声さえ人を馬鹿にしているように感じられて腹立たしい。感情に任せて狙いすまして礫を投げつけてみるものの、当然のように躱されて石は虚しくぱらぱらと草むらに落ちた。

 惨めだった。何もかもが理不尽だという思いが込み上げてやるせなかった。

 こうなれば自力で鬼を狩るより、兄に辿りつく道はない。だが、鬼狩りにならずに鬼を殺すことは難しい。鬼は、太陽の光に炙られるか、鬼狩りの持つ特別な刀で頸を落とさなければ死に至ることはないということを、玄弥は育手のもとで学んでいた。

 石の落ちた茂みの中から、かさかさと物音がした。見れば狸の親子がひゅっと飛び出て走っていく。獣だって家族で暮らすのに。熊の子だって、母熊に教えられて狩りのやり方を覚えるのに。

 玄弥だって昔はそうだった。

 母は子守奉公をしていた際に文字を覚えてきて、それを長子である実弥に教えた。兄はそれを地面に書いて玄弥に教え、玄弥はさらに下の弟たちに教えた。それで一家は文盲の蒙昧から逃れた。兄は母の内職を見真似て、草鞋を編み、竹を割って団扇の骨を作ることを覚えたが、これも長じては下の子たちの仕事となった。年端行かない弟妹の面倒を見るのはもっぱら玄弥の役割で、その間、母と兄は外に働きにいくことができた。兄は荷車引きの仕事を受け負っていて、これは力が要る過酷な仕事だったが、時折、親切心の厚い親方から余分に駄賃をもらってきて、その金で弟たちに菓子を買って与えてくれた。玄弥が近所に住んでいる年上の悪童に囲まれて小突きまわされた時に助けてくれたのも兄だった。だから、玄弥も下の弟や妹たちが誰かからいじめられとき、同じようにして守った。自分より下の弱いものを守るという姿勢を、玄弥は兄から学んだのだった。

 反面、父親からは何も学ぶことがなかった。酒と博打で身持ちを崩しては、頻繁に家の金に手をつけていた男を父として尊敬することはできなかった。父がたった一度だけ、一家の長らしい姿を家族の前に見せたのは、高利貸しが徒党を組んで長屋の戸口を突き破って侵入してきたとき、むやみに拳を振り回して襲ってきた連中を追い払ったことだけだ。しかし、そもそも高利貸しに借金をこさえて返さなかったのは当の父親本人であったから、自ら撒いた火の粉を払っているに過ぎなくて、なんの心象の挽回にもならなかった……

 くたくただった。腹が減っていた。玄弥は近くに見つけた、荒れ寺の一部らしい小さな堂を寝床に借りようと、広縁まで上がっていこうとした。

 すると、暗がりで何かを蹴飛ばした。

「……え?」

 玄弥は足に感じた嫌な感触の正体を確認しようと、蹴飛ばされて転がっていった物体の方に顔を向けた。

 頭が一瞬、現実を理解することを拒んだ。それは人体の頭部であった。

 そして、玄弥はようやく、目の前で起こっていることを正しく認識した。血の海の真ん中で、損壊した男の骸を怠惰な様子で貪る怪物がいる。

 鬼だ。なぜ今の今まで気づかなかったのだ。

 立ち竦んでいる場合ではなかった。玄弥は気力を振り絞って鉈を振りかぶったが、鬼はうっとおしい蠅を払うように腕をひとなぎして、簡単にこちらの攻撃をいなしてしまった。衝撃で取り落とした鉈を拾おうと下に視線をやると、死んだ男の手にピストルが握られていることに気付く。咄嗟に男の腕に飛びかかり、硬直した手から強引にそれをもぎ取る。弾倉には弾丸が五発。近距離から狙いを定めて放った弾丸は、すべて鬼の頸に命中した。

「はは、お前、腕がいいな。持ち主の方は、明後日の方に一発撃つのがせいぜいだった……しかし、こんな飛び道具じゃ俺は殺せねえよ」

 鬼の体当たりを受けてひとたまりもなく地面に倒された。飛びかかってくる鬼から身を守ろうと突き出した腕は抉られて、上腕の肉はごっそりとこそげて白い骨が露出した。痛みと恐怖で、玄弥の全身から、どっと汗が噴き出た。

「食いどころが少ない上に肉の不味いガキだな。まあ腹の足しにはなるか……」

 無茶苦茶に値踏みされて、かっと頭に血にのぼる。好き勝手を言いやがってと、玄弥の内に怒りとともに、強烈な、原始的な生への渇望が沸き起こった。

 死にたくない。生きていたい。

 しかし、玄弥の手元に、起死回生の手が残されていないのは明らかである。鬼もこれ以上の抵抗はできないと思い込んで、悠々と捕食を続行する構えだった。だから、完全に油断し切って、今も身を食われつつある獲物の目が死んでいないことに気づいていない。

 玄弥はこの絶体絶命の危機を、自分の力だけで乗り切らなくてはならない。ここには兄はいない。誰かが助けに来てくれたりはしない。

 甘ったれた考えを捨てろ、と自分を叱咤する。

 自分だって戦える。兄が玄弥を守ってそうしたように。

 やるしかない。玄弥は歯を食いしばり、間近に露出した鬼の頸に、最後の武器である()()を突き立てた。

 

 

 春のたけなわを間近に控えた山々の沢には雪解けた水が流れ、鳥のさえずりが一段賑やかに響いている。訪れた堂のそばには、枝垂れ桜が枝をさかんに伸ばして狂い咲く。風に散らされた花びらが、亡骸を埋葬したばかりの湿った土の上に降り注いでいた。

 悲鳴嶼はそこで、死者のために弔いの経を上げていた。椿は終わるのを待って声をかけた。

「岩柱さま、こちらの後処理はつつがなく済みました」

 このたび椿の鉢合わせた鬼は、人を二、三ばかりしか喰っていなかった。瞬く間に頸を落とせる雑魚だが、そうはしない。生きたまま捕らえる。捕らえた鬼は特別の鉄檻に放り込んでおく。隠が数人がかりで檻を運ぶのに下級の隊士が一人随行して、日の高いうちに藤襲山に入り、鍵を解いた檻を山の中に置く。夜になると、鬼は勝手に抜けだして、空になった檻が残る。そして翌朝には、再び山に入って檻を回収する。これが一連の流れである。

 椿はこのやり方に疑問を抱いたことはない。鬼はみな救われ難き下品下生の畜生、等しく藤の花の牢獄で悶え苦しみ死に果てれば良い。

 椿は一般の隊士として最上位の階級に上り詰めた時、特別に志願して藤襲山に入り、真菰を殺した鬼を見つけ出して斬り殺していた。あれだけは放って置くことができなかった。かつて歯の立たなかった敵を易々打ち果たせるようになったのは椿の進歩を証したが、十三の年から永久に成長するのを止めてしまった優しい少女のことばかり思い返されて、喜びどころか、悲しみの情がより一層切実に勝った。

「この数日、辺り一帯をくまなく浚いましたが、鬼の数は減じるばかりです。やはり鬼舞辻無惨は、こちらを警戒して鳴りを潜めたか、あるいはすでにこの地を離れたものかと」

 悲鳴嶼は重々しく頷いた。

「ご苦労だった。私は持ち場に戻る」

「わざわざ足を運んでいただいたのに、手がかりを得られずに残念でございました」

 近頃、奥多摩で鬼が増殖しているという情報があった。鬼は始祖の血を注がれることで殖える。若い鬼が多いと言うことは、元凶が近辺を彷徨いている可能性が高いと言うことだ。だから悲鳴嶼がこの地に呼ばれた。

 在命の隊士で、鬼舞辻無惨と遭遇したものはいない。過去の鬼狩りの交戦記録も、断片的にしか残されていない。かといって鬼から無惨の情報を得ることもできない。始祖について何かを言わせようとしただけで細胞が自壊を始めるのである。人知を超越した生命体――手当たり次第に眷属を増やしてその存在の痕跡をあちこちに刻んで回っているわりに、自己顕示欲が薄いというか、己の情報を知らしめないことにかけては徹底していた。これは慎重さの発露だろうか、それとも臆病と評するべきだろうか?

「それともう一つ。小萩が川沿いに逃げた鬼を追ったまま帰ってきません」

 日はすでに高い。危険はないだろうが、念のため迎えに行こうということで、二人はともに曲がりくねった岨道を降りていった。椿は悲鳴嶼を横目に伺った。何せ大男で、並の子供と大人くらいの背の丈の差があるものだから、目線を上に合わせるのも一苦労だった。

「なにか聞きたいことでもあるのか」

 悲鳴嶼がそう言ったので、椿は思い切って疑問をぶつけることにした。

「兼ねてより不思議だったのですが、如何様にして物の相貌を把握なさっているのですか?私はどんな時にも岩柱さまが距離感を見誤るのを見た覚えがありません」

 椿は、悲鳴嶼にぼこぼこにされて帰ってきた不死川に湿布を貼ってやりながら「後ろに目ぇついてんのかあの人」「岩柱さまは物心ついてより盲人だそうよ」「俺ァ完全に気配殺して後ろから切りかかったんだぜ」「そう、そのお返しがこの真っ青な痣というわけね」「言うな」「言っても言わなくてもあなたが返り討ちにされた事実は変わらないわよ」「……」「それよりも、岩柱さまはどうやってあなたの攻撃を察知したのかしら……」という会話を交わして以来、そのことが気にかかって聞いてみたくて仕方なかったのである。

「言葉で表現するのは難しいのだが……単純に気配を探っていると言うのでは、君の疑問を解消するのに十分ではないだろうな」

「我々ですとて、生き物の気配や、誰かに見られているときの視線は感じとれますが、岩柱さまのそれはいささか理を超越しているように見受けられます。それとも、盲人の方とは、みなさまそのようになさっていらっしゃるのでしょうか」

「無論、目が見えない分、それ以外の感覚が鋭くなるということはあり得るだろうが……しかし、なぜにわかにそのようなことを?」

「岩柱さまを参考にすれば、仮に戦いの場で視覚を使えなくなっても継戦に耐えるだろうと、夫と話していたのです」

「君たちは家でもそんな話ばかりしているのか」

 悲鳴嶼の口調は若干呆れ混じりだった。

「そんな話ばかりというわけでは……そう、彼、先日任地からお手紙をくださったのです。けれど、怪我はしていないかとか、ちゃんと食事しているかとか、自分のことをちっとも書いてくださらないのが彼らしいというか……それに、お手紙に咲いたばかりの菜の花を添えてくださっていたの、花の名前を一つも覚えられないあの人が私にと選んでくれたものだと思うと、とても嬉しくて……」

 引きも切らずに喋り続ける椿を悲鳴嶼は邪険にしたりせず、むしろ微笑ましげに見守ってくれた。

 悲鳴嶼は心のやさしい男である。そして元来、殺生を忌み嫌う人である。蟻が地面を這って進んでいるのを、うっかり潰してしまわないように注意深く足を踏みしめるし、羽虫が食膳に紛れていたときでさえ、おおかわいそうにと小指にすくい上げて外に逃してしまう男だ。ことほど左様に性根が戦いに向いていない人間が、誰よりも鬼を殺す才能に恵まれているというのは、この世の皮肉としか言いようがなかった。

 そうこう話している内に川辺に出た。視界が開けたあたり一面に、春の喜びを湛えたとりどりの草花が咲き溢れているのが見るものの目を楽しませてくれた。悲鳴嶼も、視覚以外の感覚、匂いや、草葉の擦れる音や、あるいは先ほどに出た気配とやらで生命の息吹を感じ取って、心を和ませていた。

「?……騒がしいな」

 悲鳴嶼の疑問はすぐに解けた。少し行った先に、二人が探していた少女を発見したのだ。しかし、どういった理由でか、たいそうな剣幕で見知らぬ少年の腕を捻り上げている。少年のほうも負けじとじたばたして、なんとか拘束から抜け出そうともがいていた。春山の余韻は一気に霧散した。

「くそッ!離せよババア!」

「あんたさっきからババアババアってなによ!私はまだ十六歳よ!?」

「俺より年上じゃねーか!ババアだ!」

「こッのクソガキ!殺す!」

 悲鳴嶼は見るからに「あんな我欲まみれの醜い子供たちと関わりたくない……」という佇まいで一歩引いていた。選択の余地はなかった。椿は仲裁に入った。

「二人とも、落ち着きなさい」

 二人は引き離されても、しばし蛇と蛙のように睨み合っていた。椿は構わずに、小萩に向かって本来の仕事について問いかけた。

「こちらに逃げた鬼はどうしたの。生け捕りにするのではなかった?」

 小萩はあっと手のひらで口を覆った。

「すみません、うっかり殺しちゃいました……」

「……そう」

 小萩がしょげ返るのを見て、少年はいい気味だと言わんばかりに鼻を鳴らした。一体何があったというのだ。

「君も言葉遣いには気をつけなさい……あら、大変。怪我をしているのではなくて?」

 ずたずたに千切れた袖口と、衣服のあちこちに血がこびりついているのを見咎めて椿が気遣ったが、少年は「なんでもない」とつっけんどんに言い捨てた。

「人様に心配されて何、その生意気な態度は」

「あなた今、この子の腕を折ろうとしていたように見えたけれど」

「それはこの子が鬼を倒したとか、悲鳴嶼さんの知り合いとかいい加減なことばっかり言うから

 ――」

「嘘じゃねえよ!ほんとに俺一人でやっつけた!それに覚如って僧侶に、悲鳴嶼という男を訪ねろと言われた……」

 少年が声を張り上げたが、最後の方は悲鳴嶼の巨体に気勢をくじかれたのか小さくなっていった。

「御房が?」

「お知り合いですか」

 悲鳴嶼は椿の問いにははっきりと答えず、思案気にするばかりだった。

 小萩はあいも変わらず少年を見下すことに余念がなかった。

「悲鳴嶼さんがなんであんたみたいなガキを相手にするのよ」

「小萩、やめなさい」

 悲鳴嶼に諌められ、小萩は不服そうに黙った。

「私に用があるのだろう。話してみなさい」

 少年は最初こそ悲鳴嶼の風体に怖気付いていたようだが、気を取り直して、なんとか自分を立派に見せようとして胸を張り、たどたどしく話し始めた。

「兄貴を探してるんだ。多分鬼殺隊にいる……と思う……わかんねえけど」

 少年の話はいまいち要領を得なかったが、生き別れの兄を探している、鬼殺隊に入りたい、要旨としてはとにかくそういう内容だった。

「それで悲鳴嶼さんを当たるなら順序が逆よ。まずは修行して、最終選別に受からないことにはお話にならないわ。それなのにあんたときたら、育手のもとを追い出されたんですって?」

 少年の両手はぶるぶると震えていた。話からして、悲鳴嶼を最後のよすがと頼んでここまでやってきたのは明らかだった。悲鳴嶼本人は数珠を鳴らすばかりで黙したままだ。

 ずっと少年の話に耳を傾けていた椿が口を開いた。

「悲鳴嶼さん、良いではありませんか」

「しかし……」

「私はこの坊やを気に入りましたよ。力足らずでも一人で鬼を狩ろうなどと、見事な心延えではありませんか」

 無謀ですよ無謀、と小萩が囁いたが、椿は無謀なのは嫌いではない。所詮同じ狢の穴であるという同類意識の方が強い。

「当面は私が面倒をみましょう。坊や、お名前を教えてくださる?」

 


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