寒椿の君   作:ばばすてやま

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18.彼女と俺の二十日間

 謎の女である。

 玄弥は軍鶏鍋の締めのうどんを啜りながら、対面に座った女の顔色を上目遣いに窺った。料理屋の座敷に上げられて、早々に運ばれてきた鍋の中身は、育ち盛りの少年とそれに負けじとよく食う女の二人分の胃袋にきれいに収まった。女はにっこりと笑った。

「おいしい?」

「う、うん……」

「良かった。ここのお食事は評判なのよ」

 女は給仕を呼びつけて、穴子の蒲焼き丼を玄弥の前に置かせた。卓の上にはそのほか、牛肉も錦糸卵も天ぷらも山盛り積んでいる。お祝い事の席のようなご馳走である。かつて大根河岸の料理屋の前を通る時、厨房から漂ってくる匂いを嗅いでは、一生に一度はこんなうまそうなものをお腹一杯になるまで食ってみたいと願ったものだったが、こんな形で果たされるとは予想していなかった。

 遠慮がちに箸をさ迷わせる玄弥に、女がどうぞお食べと促した。

「お代金の心配なんかしなくても良いのよ。お腹が空いているんでしょう」

 女の言う通り、食べ盛りの胃袋はこれだけ食ってもまだまだ満ち足りていなかった。玄弥は食欲に負けてそれらに箸をつけた。どれもこれも美味しかった。

「……ほんとに俺に修行つけてくれるんだよな?」

「ええ。でも、その前にまず養生なさい。それほどみすぼらしくては何も教えられないわ」

 玄弥は警戒心を緩めなかった。僧侶が頼れと言った悲鳴嶼のことは信頼していたけれども、それ以外の人間は誰も信じるに値しなかった。ここに来るまでの惨憺たる苦労や心痛は少年の心をずいぶん頑なにし、また疑り深くさせていたのである。世の中そんなうまい話は転がっていない。ポン引きに唆されて、この世の地獄のような鉱山に売り飛ばされて、馬車馬の方がましというほど働かされる羽目になった哀れな田舎者の青年の話など、まったく他人事ではなかったのだった。

 腹がくちくなると、女は店のものと話すため部屋をでていった。頭がかゆいのが気になり、頭皮を掻き毟ると、髪の隙間からぽろぽろとしらみが落ちてくる。店に着いて、いの一番に風呂場に連行されて湯船に突っ込まれたといえ、数か月にわたる不潔な暮らしの残滓はそう易々落とし切れるものではない。

 玄弥が逐一指でそれらを潰していると、女が目の細い櫛を片手に戻ってきた。

「おいでなさい。髪を梳いて虫を取ってあげる」

「いやだ。自分でやれる」

「自分では見えるものも見えないでしょう?」

 女は有無を言わせぬ態度で玄弥の前に正座した。そして「ここに頭を乗せなさい」と己の膝の上を指差した。いわゆる膝枕の体勢である。

 

 嫌だ。こんな得体の知れない女の前でそんな無防備な姿を晒すのは嫌だ。

 

 玄弥が棒立ちしていると、女は痺れを切らして「嫌ならそのお(ぐし)、全部刈り取ってしまうわよ」と物騒を言い出した。玄弥は観念して、おそるおそる膝の上に左の耳を下にして頭を乗せた。

 もうほとんど、喉に包丁を突きつけられたニワトリのような心境で、やっぱり全部剃った方が早いと剃刀を取り出されないか体を固めてはらはらしていたが、女は意外にも、目の細い櫛と、真珠を削ったような光沢のある爪先で髪を梳いて、根本にへばりついたしらみの卵までこそぎ落としていく。

 柔らかい丁寧な手つきが心地よい眠気を誘った。玄弥は油断してはいけないと思って、襲ってくる睡魔に耐えた。寝ている間に有り金を全部持っていかれた苦い経験はそう簡単に忘れられるものではない。

 だが、女から漂う優しくて甘い香りは、疲れきった心にきつく締めたたがを緩めさせるには十分だった。大体、こんな、なんの不自由もなく満ち足りてそうな女が、玄弥みたいな子供に一体なんの下心を抱くというのか。まさか、炭鉱に売り飛ばすためにこんなご馳走を用意する手間をとったりはしないだろう……そう自分を納得させて、玄弥は眠りに落ちていった。

 

 

 兄は鬼殺隊の『柱』で、難しい仕事を任されており、遠方にいるため、今は会えない。

 これは悲鳴嶼が言ったから確かだ。鬼狩りが兄だと直感した玄弥の勘は当たっていたわけだ。

 玄弥は兄が組織の中でひときわ高い地位を得ているらしいことが単純に誇らしかった。しかし、悲鳴嶼は忙しいとかでさっさとどこかに行ってしまった。ついでに、小萩と呼ばれたこまっしゃくれた娘は、玄弥の名を聞くや否や「私ちょっと用事を思いだしました!」と脱兎のごとく背を向けて逃走していったので、玄弥は必然、もう一人の女と二人で取り残されることになった。

 女は椿と名乗った。

「俺、あんたの世話になんかならねえよ」

「どうして?」

「どうしてって……あんた、その形で剣士なのかよ」

「私の実力を疑っているの?心配しないで。こう見えても柱の次くらいに強いのよ」

 嘘をついているようには見えないが、いまいち信頼に欠ける。椿は確かに女としては上背があって、刀を腰に差しているけれども、いかにも線が細くて、これが茶屋の看板娘なら上等だろうが、鬼狩りとして見るといかにも心許ない。こんな淡雪の精みたいな女が、本当に鬼を殺せるんだろうか。玄弥だって()()()()()()()全然敵わなかったのに。

 しかし、今はこの女を信用するしか他にやりようがない。

 玄弥の目的は二つあって、第一は兄に会うことだが、第二が鬼狩りになることだ。椿は兄の任務が明けたら引き合わせてあげられるし、それまでは鬼狩りになるために鍛えてくれると約束した。話がうますぎる気がしたが、禍福は糾える縄の如く、これまでの不運の分だけようやく幸運が巡ってきたのだ。玄弥はそう思うことにした。

 

 

 目を覚ますと、時計の針はぐるりと二周回って朝だった。一昼夜も眠りこけていたようだ。

 布団から這い出て廊下に出ると、階下で店の女将と椿が楽しげに話しているのが聞こえてきた。

「此度はご主人さまはお付き添いではないんですね」

「今は遠方に出張しているものですから。次は一緒に、ただのお客として参りますわ。彼、ここのお料理を大層気に入っていらっしゃるの」

「これは嬉しいことを聞きました。是非にお待ち申しております」

 ふうん、そうなのか、人妻なのか。だったらなおさら、鬼狩りなんか辞めて、家で飯を作って亭主の帰りを待っていれば良いのに。

 家人に案内されて風呂場で顔を洗わせてもらい、部屋に戻って所在なげにしていると、用を終えた椿が現れた。女将に頼んで、玄弥の破けた上着を繕ってもらったのだと言う。

「布団を片付けたら、一階に降りてきてね。朝食を食べたら出立するわ」

 朝食は白米に焼魚に味噌汁。食事の間、椿はここがどういうところか話してくれた。

 世間には鬼殺隊に協力する仁恕の民がいる。彼らは家屋に藤花の紋を掲げていて、鬼狩りに無償で軒を貸し、必要な諸物を調達して施してくれる。命を守ってもらったことへ恩義を感じた人々の好意で供されているから、規模も一様ではなく、庄屋のお屋敷のように立派なところもあれば、ごく普通の民家のこともあれば、質素な古びた狩猟小屋のことすらある。ここもその一つである。

「私は昔に、ここの旦那さまとご縁があって、未だにこちらにくると大変良くしてくださるのよ」

 到着の折に、元気そうでなによりだ、いるものは無いかと、まるで嫁に行った娘が里に帰ってきたかのように手厚く迎えてくれた初老の男がその旦那という。彼に限らず、この家の人はみんな椿のことが好きらしかった。この話をしている最中も折につけ誰かが様子を見に来て、おかわりは要らないかと声をかけてくれる。出立の段に至っては、一家総出で惜別の情を述べられて送り出された。

 椿は玄弥の方を振り返った。

「これから岩柱さまの修行場まで歩いて行くけれど、着いて来られるわね」

 悲鳴嶼の修行場は、人里離れた山の奥にあると言う。

 玄弥は頷いた。なんせずっと兄を探して山中を走り回っていたし、一度は育手のところで訓練を受けたのだ。体力には自信がある。

 だが、その自信は早々にもろく崩れ去った。

 確かに椿は歩いているのだが、歩く速度が早すぎるので、玄弥の足では全力で走ってついていくのがやっとだった。平地でさえそんな有様だから、山間に入るとその差は開く一方で、彼女に追いつくまでいちいち待たせる羽目になった。

 椿は足を脚絆で固めもせず、悠々と急斜面を登っていく。千里を踏破してもなお余裕のありそうな健脚。こうなって玄弥は、ようやく椿を女風情と見た目だけで判断して完全に舐め腐っていたのに気づかされた。この女、淡雪の精どころか、天狗の娘か何かだ。

 荒れた岨道を越えると、眼前には禿げた断崖が聳えていた。玄弥の顔面が引きつった。ここを越えていくのか。

「この丘を越えるのが一番の近道なの」

「こんなもんは丘なんていわねえよ!崖ってんだよ!」

 絶壁の岩肌にどうにかしてしがみつきながら玄弥は絶叫した。椿は拳一個分もない足場に片足だけ乗っけて立ちながら、玄弥を上から見下ろしている。強風に煽られて足を踏み外しそうになるたびに、「落ちそうになったら拾ってあげるから、下を見ないで一思いに上がっておいで」と励ましてくれるのは、ありがたいことには違いないが、その余裕が心底恨めしかった。

 そんなこんなで、目的地だという草庵に辿り付いたときには、精魂尽き果ててへろへろになっていた。椿は汗だくで地面に倒れてくたばってる玄弥に向かって、「よく頑張ったわねえ、お水をあげましょう」と甕一杯に汲んできた水を注いだ。喉が潤う。生き返った。

「鬼はどんなに長く戦っても疲れないし、傷を負わせてもすぐに再生する。夜明け前に体力を消耗しつくせば朝日を拝めないものと思いなさい。さあ、いつまでもそんなところに寝ていないで。これから鍛錬を始めるのよ」

 椿の冷厳とした態度に、玄弥は重い体を起こして神妙に「はい」と返事をした。初っ端から大変な試練だったが、この程度で弱音を吐いていては強くなんかなれっこないだろう。

 

 その日から、青葉の茂る鬱蒼とした森の中で修行もといひたすらこてんぱんにやっつけられる日々が始まった。

 

 椿は最初、「体力がなさすぎる」と言って、山の中をひたすら走らせたが、玄弥がせがむと、思いの外あっさりと刀を握らせてくれた。日輪刀ではなくて、刀鍛冶が習作に鍛えたという無骨なだんびらだったが、それを持って切りかかっておいで、と言われた時には流石に躊躇した。しかし、刀を構えて斬りかかっても丸腰の椿にまるで敵わず、散々に打ち負かされたので、それ以来、一切のためらいは捨てた。

 椿は厳しかったが、それなりに丁寧にものを教えてくれる人でもあった。どうやって身体を動かせば良いのか、手足や筋肉の動かし方一つ一つを取って指導してくれる。玄弥は浴びせられる教えの十のうち一をなんとか拾い上げるという体たらくで、しかし椿は同じ間違いは一度までは許すが、二度目からは容赦なく竹刀を振り飛ばすので、青痣とたんこぶの癒える暇がなかった。

「苦労しないと強くなれないわよ」

「うっせえな!あんたは苦労したことあんのかよ!」

 玄弥が癇癪を爆発させると、椿は笑いながら、人並みにはねえ、と返した。いまいち真偽のほどを図りかねる返答であった。この女には、明らかに甘やかされ、大切にされて育った雰囲気がある。それでいて玄弥が足元にも及ばないくらい強いのである。存在そのものがどこかいびつだった。

 

 修行を開始して間も無くして、食糧のほか、毛布やら衣服やら生活品を詰め込んだ行李を肩に担いだ男が草庵を訪れた。

「後藤さん、ありがとうございます」

「いいよいいよ。これが仕事だしな。そっちが風さんの弟?」

「そうです。可愛いでしょう」

「えっ……うーん……まあ……はあ……」

 答えあぐねて言葉を詰まらせた男と視線が合う。玄弥が肩を竦めると、二人の間に奇妙な連帯感が生まれた。そして、ちょっとどっかおかしいよなこの人、と言う心の声を通わせた。

 男は荷物を届けるという任を果たすと、世間話もそこそこに立ち去った。この後にも仕事が入っているということだった。

「彼らは『隠』というの。鬼殺隊の後方支援を任されているのよ」

 後藤が帰った後、顔を半分も隠した異様な風体への疑念を見てとったのか、椿はそう説明した。

「あいつらも戦うのか?」

「いいえ。彼らは事後処理や、私たちに必要なものを用意してくれるの。……ああ、戦わないからと言って、彼らを軽んじたり、見下したりしてはいけないわよ」

 玄弥の物言いたげな視線を受けて椿が言った。

「君だけではないわ。多くの人が刀を持って戦うことが一番偉いと思っている」

「そりゃ、命懸けなんだから、当たり前だろ」

 椿は「人には向き不向き、天稟があるの」と言って諫めたけれども、それ以上言葉を重ねて、玄弥の見方を正そうとはしなかった。

 

 椿は夜は仕事だと言って頻繁に山を下り、朝日が登る頃に帰ってきて玄弥の指導してくれる。玄弥は次第に、彼女は自分を柱の次に強いと言ったけれども、それもあながち誇張ではないのかもしれない、と思い始めた。玄弥の面倒を見るかたわらで、自分も修行などと言って素手で薪を割ったりしている。真似をしたら、木の鋭いささくれが手に突き刺さって怪我をした。椿は「君にはまだ早い」と、顔をしかめて説教をしながら手当てしてくれた。

 彼女は強さにかけては申し分ない人だったが、十分な生活能力を備えているとは言い難かった。最初の食事に作って貰った雑炊は味が濃すぎたし、二度に出された味噌汁は薄すぎて味がしなかった。味付けに関し適量とか目分量という概念が完全に欠落しているものと思われる。よって、三度目は玄弥が自ら飯炊きの任を買って出た。椿が鴨を獲ってきたので、それの首を落として羽を毟って捌いて鍋にして出すと「玄弥くんすごい、お上手ね、お料理の才能があるわ」といささか過大なほど褒めちぎられた。その後は、何を作っても笑顔でおいしいおいしいと食べてくれる。悪い気はしない。

 彼女が現状に対して、なんの努力もしていないわけではない。玄弥が言いつけられた回数分素振りを終えて草庵に戻ると、椿は包丁を片手に持ったまま机の上に半ば突っ伏して陰鬱な顔を晒していた。怪談じみていてぎょっとするからやめてほしい。

「うわ、何やってんだよ」

「りんごを……剥くのを練習しようと思って……」

 椿の前では、瑞々しい林檎だったものが器の上にいびつな破片になって飛び散っていた。一体何をしたらこんな風になるんだ。

 玄弥は粉砕されてばらばらになったりんごの小さな破片をつまみながら、はじめ彼女に髪を梳かれたとき、自分の頭蓋骨がこんな風に砕け散ることにならなくて良かったなあ、と思った。

 

 森の中では、たまに悲鳴嶼の姿を見ることもあった。大抵、気配を消して向こうの木陰に隠れてじっとこちらを伺っている。が、あまり長いことではない。というのも、そうしているとどこからか猫が現れて、悲鳴嶼の足元に、にゃーんと鳴きながら戯れつくのである。それで悲鳴嶼は猫を抱きかかえてあたふたとどこかに去っていくのがお決まりだった。

「なあ、あの人なにやってんの」

「君が心配で見に来てくれているのよ。気付いていない振りをしておあげなさい」

「あの猫は?」

「このお山に住んでいる猫様。岩柱さまにたいそう懐いているのだけれど、留守がちだから、帰ってきたときは構ってほしいのね」

 どんな大樹も悲鳴嶼の巨体を隠すには足りていないので、気付かない振りをしろという椿の注文はかなりの無茶振りだったが、玄弥は言われた通り、あまり気にしないように努めた。

 

 椿との毎日は、おおむねそのような調子で過ぎていった。

 

 ある朝のこと、椿が机を出して、筆で文を書きつけている。かなり集中していて、玄弥が部屋に入ってきたことに気づいていない。後から近寄って手元を覗き込むと、何やら誰かに宛てて手紙を書いているようだ。それはこういう書き出しで始まっていた。

 

 山々に春霞たなびき、どこかもの憂く陽気が続きますこの頃、精励恪勤にして安らかにおられますでしょうか。御近況をつまびらかになさらないので心細く感じておりますが、前後に冥加のありますことを日々神仏にお祈り申し上げ……

 

 そこまで読んで、こら、と人差し指で額を小突かれた。

「人の手紙を盗み見るなんて、いけない子」

「ご、ごめんなさい」

 玄弥がまごつきながら素直に謝ると、椿は目を細めて「いいのよ」と言った。

「でも、失礼なことだから、他の人にはやってはいけないわよ」

 机の上にはもう一つ手紙があった。丁寧に広げられて、翡翠の文鎮を上に置いてある。

「そちらは主人からの手紙」

 椿の仰々しい、装飾が過ぎる筆致に比べるとずいぶん質実な書き振りだ。宛名と差出人の名前は書いていない。内容はこうだ。

 身体の調子に変わりないか。開き戸の蝶番が壊れたのは己が帰ってから修理するからお前は何もしなくていい。それから、飼育箱の中の腐葉土は時期を見て入れ替えること、そして四月に入ったらもう何もする必要はないこと、というのが念押しに二回も書いてあった。一体なんのことだろう。

「彼、虫を飼っていてね」

 しらみじゃないだろうな。

「はじめは蜂の子みたいに炒めて食べるために飼っているのかと思ってたら、そんなわけないだろうってすごく怒られたの。土の中で芋虫みたいにもぞもぞと動いてね、私もお世話をしている内になんだか愛着が湧いてきたわ」

 愛着か。椿の親切は日に日に度を越すようになり、昨日など、寝しなに枕元まで寄ってきて「お話を読んで差し上げましょうね」と本を開く始末。こっちをいくつだと思ってるのかと怒鳴ると、しゅんと肩を落としてしまったので、好きにしろと言うと、嬉々として『一寸法師』を物語り始めた。透き通った良い声だった。すぐに寝た。

 こういうことをされるのも、世話をしているうちに愛着が湧いたというやつなんだろうか?俺は虫けら並みか。

 とはいえ、玄弥は椿の調子に慣らされつつあったし、実際もう大分に打ち解けていた。彼女はかなりの変わり者で、辛辣なことも言うが、基本的には親切でやさしい人だということもわかった。筆跡を愛おしげに撫でて、丁寧に手紙を折りたたむ仕草から、椿がその人をとても大切に思っていることが伝わる。彼女のような女性に想われて、生涯添い遂げることを誓った男の人というのはきっと幸せなんだろうな、と玄弥はしみじみ思った。

 

 

「今日はお出かけしましょうね」

 その提案は唐突だったが、玄弥に否やはなかった。

 椿はどこに行くのかと尋ねても「楽しいところ」といってもったいぶって教えてくれない。

 山の麓まで走らされて、そこから少し行くと神社が見えた。境内は人混みでごったがえしている。立て看板には、この度、新しい社殿が落成したことと、巡業の奉納相撲の催しがある旨が番付表とともに貼り出されていた。

 玄弥は落ち着きなくきょろきょろとあたりを見回した。お祭り騒ぎの浮かれた賑やかさが懐かしく嬉しかった。玄弥はそもそも都会育ちで、自然よりも人の多い雑多な場所に郷愁の念を覚える。

「ああ、いらっしゃったわ」

 境内に設けられた土俵の周りに、老若男女が筵を敷いて座り込んでいる。その後ろの方にいた、頭髪の目立つ男に近寄っていくと、男の方が先にこちらに気付いて会釈をした。

「息災か、椿の御方」

「はい。煉獄様もご健勝で何よりです。今日は千寿郎くんはお付きでないのですね」

「午睡を起こすに忍びなくてな!そちらの少年は噂の弟か」

 男は煉獄杏寿郎と名乗った。平服で悠然と構えているが、立ち振る舞いからただものでは無いというのがひしひしと伝わってくる。この人も鬼殺隊の剣士なんだろう。

「では、後はよろしくお願いします」

 玄弥を煉獄に引き渡して、椿は人混みの中に消えてしまった。

「椿さんは?」

「彼女は所用だ。何、小一時間ばかりで済む」

 椿と離れると途端に落ち着かなくなった。どうせなら一緒にいて欲しかった。

 ただ、椿が玄弥を任せるのにこの男を選んだ理由もなんとなく察せられた。煉獄は派手な外貌の割に、人に緊張を強いるような(いかめ)しさがなくて、公正で寛大な空気を纏っていた。

「山の中に篭りきりでは息苦しいだろうと、俺に君を任せられないかと頼んできたのだ。だが、その様子では無用の心遣だったようだな」

 たぶん、同性の方が気兼ねなくいられるだろうという彼女なりの配慮だったのだろうが、それにしても初対面の男と相撲を観覧させるという趣向はよくわからない。

「すみません、付き合わせて」

「気にするな!そもそも俺はここに相撲を見にきたに過ぎん!同伴者が一人増えるくらいどうということはない」

 この人、ずっと真顔だな。

「それに、俺にも弟がいる。弟はいいものだ、愛いものだ」

 そう言われて、兄のことを思い出した。もちろん、忘れていたわけではないが、椿がそう約束してくれた以上、遠からず再会できるのは間違いないから、もうかつてほどの焦燥は覚えなかった。しかし、会って無事を確かめて……それからどうする。昔そうだったように、玄弥は兄の役に立ちたい。しかし、椿に「お話にならないくらい弱い」と評されている今の玄弥では力になることは叶わないだろう。玄弥の中に突然、兄に会うのが躊躇われる気持ちが起こった。兄の前に出て恥ずかしくないくらい強く立派になってから出直したい。

「俺、頑張ってるつもりだけど、中々うまくいかなくて、こんなんで、兄ちゃ……兄貴に、認めてもらえるかなって思っただけ……です」

 玄弥の口からするりと湧いて出た懸念が溢れた。この人の前で嘘をついたり、誤魔化したりするのは無意味であると思った。

「何、心配無用だ。いやしくも兄ならば、努力する弟を粗略に扱ったりするものか」

 煉獄はそう言ってぽんぽんと肩を叩いた。彼の励ましには、人を大いに勇気づけ落ち着かせる力があった。

「困ったことがあれば椿を頼るといい。力になってくれるはずだ」

「いや、あの人にそこまで迷惑、かけらんねえし」

 すでに世話になりすぎるほどなっている自覚はある。

「何を言う、彼女は君の――」

 周りからわっと歓声が上がったために、彼女が玄弥のなんなのかを聞く機会を逸してしまった。土俵上で取組が始まり、煉獄は拳を握って前のめりになった。どうもかなりの相撲好きのようで、あの力士は小柄だが粘り強いとか、この力士は押しが得意とか、色々と解説してくれたので、あんまりもののわかっていない玄弥も最後まで飽きずに楽しむことができた。

 

 弓取式の終わる頃に椿は戻ってきた。

「今度、九段で梅若兄弟が『景清』を勤めるそうだが、君は行かないのか」と煉獄が言う。

「都合がつけば行くつもりですが、同行くださる方がなくて。よろしければ一緒にいかがですか」

「俺は構わないが、君の亭主に申し訳が立たん。二人で行ってきたらどうだ」

「でもあの人、能の舞台はお好みではないのです。正月明けに神社で一緒に『翁』を観覧したのですけれど、本当に退屈そうで」

「あれは神事だから、ああいう男には面白くないだろう。もう少し物語性のあるわかりやすいものが……『土蜘蛛』などが良いのではないか」

「ご最も。考えて見ることに致しますわ」

「そうするといい。あいつにあまり悋気を起こさせてやるな。哀れだ」

 それから二人は玄弥にはちんぷんかんぷんの趣味人の会話を交わしてから別れた。

「いい人だったでしょう」

「うん」

「お相撲はどうだった?」と聞かれたので「ちっこいのがでっかいのを投げ飛ばしてて面白かった」と答えると、椿はそれはよかったわねえと破顔した。

 帰りしなに二人で屋台を冷やかすのも面白かった。これは玄弥よりも、椿の方がずっとはしゃいでいた。

 

 一方、修行は情け容赦のなさを増していった。「これに耐えられないようなら呼吸を教わる資格もない」と激流の中に蹴り落とされた時は運良く浅瀬に出られて生き延びたが、「あれはマジで死ぬ」と抗議しても「死ぬ気でやった方が早く身につくわ」という調子で聞く耳を持たなかった。ただし、うまくやったときは綺麗な顔を綻ばせて、口を極めて褒めてくれるのである。それで玄弥はなんとか、また頑張ろう、というやる気を奮い立たせることができた。

 

 その夜は、もう春もたけなわというのに、ひどい寒の戻りがあった。山の冷え込みは平地のそれに比べてひとしおである。すでに囲炉裏の火を落としていて、継ぎ足す炭もなかったから、玄弥は布団を二枚重ねて包まって寒さに耐えて浅い眠りについていた。

 ふいに目を覚ますと、椿の姿が暗闇にぼんやりと浮かんでいる。今夜は任務で不在にしているはずだったのに。

「椿さん、任務は……?」

「他の人に交替してもらったのよ。ほら、今日はひどく冷えるでしょう」

 炭を切らしていたのを思い出して、急いで帰ってきたの、と囲炉裏に新しい炭を入れて火を起こしている。灰の中で赤々とおこる炭火を見ていると、今まで優しくしてくれた親切な人たちの顔が思い起こされた。分けても伯父夫婦に対しては、あれほど良くしてもらったのに不義理を働いたと胸が痛んだ。

「ありがとう……」

 寝ぼけ眼で玄弥はもそもそと礼を言った。椿は「ゆっくりおやすみ」と頬を包んで微笑んでくれた。

 この人は全然、母とは似ていない。母からは少し埃っぽい、暖かいお日様の香りがした。椿からは花のような甘い香りがする。なのになんで、こうやって寝かしつけてもらったり「偉いね、頑張ったね」と褒められるたびに、母を思い出すんだろう。

 

 

 さらに数日あまりが経過した。椿がこの草庵を引き払って、鬼狩りの住む里まで行くと言った。

「本拠に君を連れて行く許可が下りたの」

 鬼狩りの里は、鬼殺隊の者ばかりでなく、彼らの世話をすることで生計立てている市井の人も住んでいるが、全員、家族関係や住居などを把握されていて、外からやって来る者はきちんと身上調査を受けて、許可が下りないと立ち入ることを許されていないのだという。これは鬼に隊の所在を知られぬための措置の一つであると椿は言った。

 徒歩で山を下り、力車を乗り継ぎ、ここからはご自身の足でと下ろされる。

 あたり一面は、燻った煙のような霧に包まれている。目の前を歩く椿の姿がおぼろになるほど濃い。玄弥は逸れるまいと椿の手を掴んでぎゅっと握りしめた。

 次第に靄が晴れてきて、視界が開けた。

「ここ?」一直線に塀が続くある邸の前で椿が立ち止まった。

「そうよ。我が家へようこそいらっしゃい」

 裏の戸口から、紅や白の花の咲き乱れる庭園を横切って邸内に通される。

 玄弥はこんな立派なお屋敷にお目にかかったのは生まれて初めてだった。立派というのは、なにも規模のことばかり指しているのではない。万事に調和がとれており、質素ではないが華美過ぎず、清潔で、何よりも、ここを居心地の良い空間にしようという配慮が隅々まで行き届いている。

 縁側から春の海にまどろむ庭を見渡すに及んでは、その造形に感嘆の情を覚えずにはいられなかった。うららかな日射しがよく手入れされた松や苔の緑の上に弾けて光っている。玄弥はこの風景の素晴らしさを十全に表現する語彙を持たなかったが、これが見事な、趣のある庭園であることははっきりと理解できた。

 これは当事者たちに預かり知らぬことだったが、玄弥は美術的な方面に関しては、生来、兄よりも鋭敏な感性を持ち合わせていたのである。

 玄弥は縁側から吹き込むやわらかい風に身を揺すられながら、このような家や庭を作る人の人となりというものに想いを馳せた。

「ここにおいで」

 椿に呼び寄せられて、玄弥は、素直に言われたところに座った。そして、何を言われるのかを待った。

 椿は穏やかな表情で口を開いた。

 

「玄弥くん、君は鬼殺隊に入るのはやめなさい」

 

 玄弥は馬鹿みたいにぽかんと口を開けた。時間が止まった気がした。ししおどしの立てる乾いた音で我に帰らなければ、ずっとそうしていたかもしれない。

「な、なんで」

 玄弥はつっかえながらそう返した。これまであんなに熱心に鍛えてくれたのに、それを突然やめろだなんて、不条理だ。理不尽だ。意味がわからない。

「君には才能がない」

 こちらの動揺に反して、椿は落ち着き過ぎるほど落ち着いていた。

「呼吸の適性は生まれつきのものだから、努力ではどうにもならないし、そういうひとは珍しくない。それでも、どうしても鬼殺隊の力になりたいなら、隠に推薦してあげても良い。いずれにせよ、刀を持って戦う鬼狩りは諦めなさい」

 素の身体能力の向上を加算とするなら、呼吸はそれを乗算で引き上げる。素の腕力のみで鬼と戦うのは、特別に才能がある人間を除いては、ほとんどなし得ないことだ。そして玄弥にはその才能がない。腕っ節は強いが、超常のものではない。

「昔、君みたいな、呼吸をほとんど使えないような子の面倒を見たことがある。その子は死んだわ」

「死ぬのなんか怖くねえよ」

 玄弥はほとんど反射で答えた。見え透いたはったりだった。

「あんまり軽々しく死んでも構わないなどと言うものではないわよ」

 椿の声音に変わりはない。

 そして、次の瞬間、世界が反転した。間を置いて、手刀で肩を打たれて、畳の上に組み伏せられたことを理解した。

「くそっ!離せよ!」

「だめ。君のような身の程知らずを野放しにしておくと他の人の迷惑になる。ここで両手両足を折って二度と使い物にならないようにしておきます」

 椿は本気である。掴まれた手首が軋む。打たれた肩は焼けるように熱い。玄弥はじたばた暴れたが、まったく勝負にならずに抑え込まれる。今はもう椿がどれだけ強いかわかっていた。山の中で戦った鬼よりも彼女は強く、玄弥に対抗する術はなかった。

「それが嫌なら、鬼狩りになるのは諦めるとだけ言えば良い。安心なさい、君はここ以外のどこででもうまくやっていけるわ」

 

 走馬灯のように、玄弥の脳裏に思い出されることがあった。

 

 もうずっと昔のことだ。

 粗相をして、うっかり棚の上にあった父親の酒瓶を落として割ってしまったことがある。父親に殴られる恐怖に震え上がった玄弥を慰めながら、兄はこう言った。

「兄ちゃんに任せろ。お前は絶対に、何も言うなよ」

 そして、外から帰ってきて、いつもの場所に酒瓶がないことに怒り狂った父に自ら「俺が割った」と名乗り出た。

 弟に代わってすべての責めを負った兄は、顔面が血だらけになるまで父親に掴まれて引き回された。そのとき、玄弥はずっと両手で顔を覆って、部屋の隅で震えて泣いていたのだ。

 

 ……あの時の、この世からむなしく消えてしまいたいほどの惨めさ、情けなさときたら!

 

 玄弥が一番許せないのは、目の前で兄が打たれているのに、父の暴力を恐れて、本当は自分がやったのだと言い出せない自分自身だった。

 ここで逃げ出すのは、あの時と同じ轍を踏むということだった。そうなれば玄弥は今度こそ、生涯、自分を許せなくなる。兄を犠牲にして、生きる理由も甲斐も失って長らえる命にいったいなんの意味があると言うのだ?たとえこの道を選んだことで命を失うことになったとしても構わない。己を恥じて生きていくよりもずっと良い。

「いやだ」

 玄弥は椿の透徹した眼差しを真っ直ぐに睨み返した。あまりに力を込めすぎたので、目の血管が破れて血が滲んだのではないかと思った。

 目尻を伝って流れるものがある。涙だった。

「……そう」

 椿が大きなため息をついた。

 その表情は、どこか、嬉しいようでもあり、切ないようでもある。

 彼女はゆっくりと身を引いて、玄弥を開放した。そしてすっと立ち上がって袂を翻した。

「……そこまで覚悟を定めているなら、きっと大丈夫ね。さあ、君のお兄様に会いに行きましょう」

 




主人公、人様の弟で念願のお姉ちゃんムーブを心ゆくまで楽しんでおりますが、次回実の兄にめちゃくちゃ怒られますね。

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