寒椿の君   作:ばばすてやま

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不死川兄は母親や弟や妹にしてやれなかった分まで自分の女房と子供を幸せにする義務を背負っているので、一刻も早く婚活を開始するべきだと思います。


19.風雨対牀、櫛風沐雨

 鏡が嫌いだ。

 己が母の息子であるよりも、父の息子であることをあからさまに突きつけるからだ。骨格も顔つきも歳月を経るごとに父に似る。まるで亡霊に付き纏われているかのようである。

 椿は夫が鏡が嫌らしいということに気付いて、家中の鏡という鏡に布を掛けて覆い尽くした。気を遣わせるのが嫌だったので、全部外せと言ったら、澄ました顔で「埃除けよ」と応えられた。互いにそういうことにしておいた。

 しかし、僅かばかりの平穏を確保しても、結局は嫌でも目につくところに父の遺伝子を顕著に見出す。例えばこの手のひらがそうだ。己の手が年々、家族を殴って不幸にした手に似ていくのは、はっきり言うが中々の恐怖である。

 不死川が手指の爪を切りながら渋い顔をしていると、椿が「どうしたの」と言って隣に座った。

「自分の手を親の仇みたいに睨んだりして」

「親みてえだからだよ」

 椿はふうん、とだけ言って、不死川の手から爪切りを取り上げて道具箱にしまった。

 穏やかな陽気の昼下がり、近所の飼い犬はひねもす縁側でのんびりしている。障子紙は日光を透過して薄白く光っている。仮眠でも取ろうかと思っていると、ゆっくり肩を引かれる。不死川はそれに抗わず、一緒に畳の上にごろんと横たわった。腕を枕にして、椿の光沢のある艶やかな髪が畳に散らばった。

「私の髪は、母様譲りと言われたものだけど、もとは北国から嫁いで来られたお祖母様譲りなの。髪を結い上げてお仏壇の前に座っていると、お祖母様が生き返ったみたいだって、よく笑われたものよ……」

 椿とは違う。自分は親の悪いところばかり似ている。父親から受け継いだのは見目ばかりでない。短気なのも口よりも先に手が早く出るのもそうだ。もし、良いところがあるとすれば、それは母譲りだろう。しかし悲しかな、母に似ることはなかった。

 椿は横たわったまま、不死川の腕を掬い取って手のひらを合わせた。

「私は実弥さんの手、好きよ。大きくて分厚くて、たくさんの人を守ることのできる手だもの」

 椿の手も並みの女のそれではない。それでも十分、細長くて、華奢で、透き通るような美しい手だ。傷だらけのごつごつした男の手と合わせると一回りも小さくて、歴然と違って見える。

「そうか?」

「そうよ」

 節くれだった太い指に白い手が絡んだ。

「私もこのくらい手が大きかったら良かったのに。そうしたら、流しにお米をこぼさずに済むわね。桶を傾けたときに勢いで流れていってしまうの、手で掬おうとするのにうまくいかなくて……」

「お前、水仕事はそろそろ諦めろ」

「もう、人が頑張ってるっていうのに笑わないで」

 不死川は声を立てて笑ったが、椿は拗ねて頬を膨らませた。自分では一生好きになれそうにはないが、椿が好きだと言ってくれた手で、薄桃色の頬っぺたを突くように撫でると、口元にふつふつと笑みが戻った。

 水仕事というのは押し並べて過酷なものだ。炊事に洗濯、その他色々の仕事のために年がら年中あかぎれが治らなかった母を思い出す。

「また三味線弾けよ。好きなんだろ」

「いいの?」

「ほどほどにな」

 不死川は、椿のただでさえいらぬ苦労を重ねてきた手を、これ以上働かせたくなかった。楽を奏でたり、生き物や植物を愛でるために使われてほしかった。

「明日からしばらく任務に入る。家の留守は任せた」

 椿はうんと頷いて、「でも、たぶん、家のことは千夜子が全部やってしまうわ……」と小声で言った。それでいいんだ。お前は何もするな。

「いつ頃戻るの?」

「わからねえ。一月は要る」

「そう。できるだけ早く帰ってきてね。一月後なら、東京の桜は丁度見頃よ」

「わかった」

 衿の合わせに手を差し込んで胸の膨らみをまさぐると、椿はくすぐったそうに目を細めて、自ら腰帯を解いた。それからいつも通りのやり方で交わった。

 寝所を共にするようになって久しいが、一向に子のできる兆しはない。

 不妊の妻を前にした男のとるべき行動というのは、離縁して新しい女房を迎えるとか、または妾を囲ったりするのが椿の頭の中での世間並みらしいが、不死川はこのままで全然構わない。自分にはこの女一人で十分だ。

 まっとうな考えではないかもしれないが、そもそも二親揃って生死の狭間の泥沼であがいている身分で子を望むのは、それこそ悪徳というものではないか。椿は物寂しげにするが、この女は立派に戦って死にたいと破滅に奔りたがるその心で子供が欲しいと思う自己矛盾にも気付いていない。

 それでも、椿は、まともな人間の営みとはどのようなものか、不死川に教えてくれる。自分のような人間でも、誰かを幸せにする資格があるのではないかと思わせてくれる唯一の女性だ。頭がよく回り、決断力があり、己が及びもつかない豊かな感性で世界を捉えて、その美しさを分かち合おうとしてくれる。すらりと長い手足、くびれた腰つき、湿ったうなじ、外観の優美なことは言うまでもなく、頑固で向こう見ずで、少し抜けたところもあるが、むしろそこが可愛くてたまらないので、不死川にとってはまったく欠点ではない。

 この任務から戻ったら、墨堤の桜並木に連れて行ってやろう。深川の禅寺に芭蕉の句碑があると言って見に行きたがっていたから、それもついでだ。これ見よがしに咲き散る桜など、本来雑踏をかき分けてまで好き好んで見に行く気になれはしないが、満開の桜吹雪の下で笑う妻はさぞかし可憐であることだろう。

 

 

 

 それからきっかり一月後である。早朝の雨に洗われた桜の大木の下では、紋白蝶が群を成して羽ばたき、蝶屋敷に春の訪れを告げている。

 任務を終えて帰ってきた己の目の間に立つ椿は、ぴんと背筋を張って、腕を組み、冷たい眼差しでこちらを睥睨している。その後ろで、夜明けの世界に置き去りにした弟が、腫れた頬を押さえて震えている。

 一月前に望んだ光景ではなかったが、往々にして現実は理想とはかけ離れるものである。

「その不機嫌を仕舞いなさい。いい年をしてちゃんと話し合うこともできないの」

 椿は激昂した夫を前にして実に泰然たるものだ。

「何を話すってんだ」

「この子、あなたに会いたいためにここまでやって来たのよ。平手で顔を打つより先に、一言でも優しい言葉をかけてあげられないの。弟なのでしょう」

「そいつに兄貴呼ばわりされる筋合いがねえ」

 玄弥が何か物言いたげにこちらを向いた。

「よくも俺の前に面ァ出せたな。人様に散々迷惑かけやがって」

「にいちゃん」

「黙れ。俺は家の金を盗むようなクズを身内に持った覚えはねえぞォ」

 そう言うと、玄弥は憐れなほどしょげかえって、再び下を向いた。

 椿は兄弟のやりとりに口を挟まなかったが、こちらの振る舞いを良く思っていないのは明らかだ。弟と違い、椿は実弥の怒りなど一筋も恐れてなどいない。

「俺ァ弟なんぞいねえっつったよな?」

「あなた、この私にそんな言い逃れが通用すると思っているの?」

 椿の言葉は氷点下より冷たい。

 はじめの報せを受け取ったときは完全に寝耳に水で、真っ直ぐに親戚の家に帰せと書き送ったのだが、椿は実兄の意見などまるでお構いなしで、何もかも自分のしたいように手配した。ここ数十日間、弟はそれは呑気にやっていたらしいが、玄弥自身の預かり知らぬところで、本人を巡って激しい争いが繰り広げられていたのである。鬼殺隊には、鬼が人間に取り憑いたり、近親者に擬態したりして、あらゆる手段で頭領の首を狙ってきた過去の経緯があるから、身元不明の部外者を入れることには慎重にしている。だから不死川も、弟などいないと周りに言い切って、時間を稼いでいればやりようがあると踏んだ。しかし、政治的な手練手管では妻の方に分がある。彼女はこちらを説き伏せられないと見るや、さっさと身元を改め、戸籍を洗い出し、信頼に足る証言と証拠を揃えて、万が一この子を見染めた自分の目に曇りがあったなら、その時は腹を切るなり喉を突くなりして責任をお取りしますと上に申し添えて玄弥をここまで連れてきた。アホか。こんなことで命を張るな。

 お前の弟は鬼狩りになりたいと望んでいる。私は本人の意思を尊重して手を貸している。

 椿の主張は簡潔なだけに論理的な綻びを追及できない。そも、鬼殺隊の原理原則に従えば、椿の言い分におかしなことは何も見当たらない。極めつけは岩柱と炎柱が証人だ。不死川はまさに孤立無援の戦いを強いられている。しかし、それがなんだ。柱が何人認めようが知ったことか。俺が認めていない。

 それにつけても弟のバカさ加減に腹が立った。夜に外をうろうろ徘徊するな。ちょっと優しくされたくらいで知らん人間についていくな。炭鉱に売り飛ばされたらどうするんだ。

「どうでもいい。さっさとそいつを元いた場所に返して来い」

「山の中に捨ててこいとでも言うの。どうしてこんなにいじらしくて健気な子を邪険にできるの?」

 いじらしくて健気ときた。入れ込みすぎである。どうあっても玄弥の肩を持つ構えを崩す気がないらしい。

 妥協点を見出せない。

 椿の方もこちらが全然主張を引っ込めないので、少し途方に暮れている。普段、意見が反り合わなかった時は、大抵不死川が譲歩して決着するから、そうでないときの対処がないのだ。

「玄弥くんのこと、大事なんでしょう。守ってあげたんでしょう?」

「守ってねえよ」

 弟を遠ざけていた理由は単純なことである。玄弥は、兄が何をしているか知れば、絶対に自分の真似をせずにはおれないだろうという確信があったからだ。

 昔からそうだった。何をするにしても一分もそばを離れていたくないとばかりに兄の後ろをついて回った。家事をしていれば手伝いたがり、子守りをしていれば代わりたがり、荷を引いていれば隣を歩いて自分も取手を持ちたいとせがんだ。

 かつてはそれでもよかった。よく家族の面倒を見、よく働く兄は弟の模範に相応しかった。だが、今は違う。今の自分のようになってくれては困る。死と隣り合わせのこの場所に、たった一人生き残った弟を置いておけるわけがない。

 握りしめた拳に青筋が浮いた。

 なぜこんなところまで来てしまったのか。鬼の出ぬ揺籃の大地で、安らかに生きておりさえすればよかったものを。

 まるで実弥の怒りに共鳴するかのごとく、空は曇り強風が荒れ散らかしている。病室の洋窓は風に吹き立てられてガタガタと音を立てて鳴った。

「……私のことも殴る?いいわよ、避けないから」

 椿はそう言って、つんと顔を前に突き出した。

 こめかみがひきつった。こんな愛くるしい生き物に、怒りに任せて手など上げられるか!この女は手合わせの時にさえこちらがどれだけ心を痛めているか毛ほども理解してない。そして、やはり、妻を蹴り倒して平然としていたあの男はどうにかしてる。

 きりきりと張り詰めた空気の中、玄弥が意気地を振り絞って兄ちゃん、と口を開いた。

「俺が悪いから、椿さんに怒らないで……」

「玄弥くん」

 椿は自分の腰元に取り縋ってきた玄弥を、まるで庇うようにして抱き寄せた。

 小さくない衝撃が不死川を襲った。

 どうしたって、怒れる父から子供たちを庇う母の姿を思い出さずにはいられなかった。弟の目に映る今の自分の姿は、さぞかし父によく似ていることだろう。鏡を見ずともわかる。

「……そいつを、お前の姉弟(きょうだい)ごっこに付き合わすな」

「ごっこだなんてそんなつもりは──」

 言い返す椿に、不死川は止めの一撃を吐き捨てた。

「いい加減にしろ。弟妹(きょうだい)のいないお前には何もわからねえよ」

 口に出したそばから後悔した。顔を見ないでも、椿の表情から血の気が引くのが分かった。

 不死川は臨月の母親を亡くして、姉になり損ねた女が、弟とか妹とか言うものにどういう憧れを抱いているか、良く承知しているはずだった。

 これ以上この場にいることが耐え難く、大股で二人の側を通りすぎ、部屋を出て、廊下を曲がり、裏口から屋敷の庭に出る。人気のない池泉の側までやって来て、ようやく不死川は肩を落とした。なぜこうなる。

 

 思い通りにならないから、家族に当たり怒り散らす。自分は父と同じことをしている。

 

 父のことはやるせないクズだと思っている。ただし、実弥の父親に対する感情は玄弥のそれほど単純ではない。年長である分だけ、実弥には弟には見えていない景色が見えていた。

 物心ついたばかりの幼い日、父の逞しい腕に抱えられて、市場に節分の魔除けの飾りを買い求めた記憶が残っている。葉のついた柊の枝と葉鞘を落とした豆の木の枝を一束、その枝に焼いた鰯の頭を刺して、家の入口の高いところに飾るのである。これは主に地方に見られる、鬼を祓うための古い風習であった。まだ実弥が兄でなかった頃は、そういうことをする余裕もあった。

 父の素行不良は、子供が多くなってから始まった。

 今思えば、父が目の敵にしていたのは、母ではなく、山ほどいる子供たちだ。

 父を擁護するわけではないが、下町の貧しい裏長屋においては、切りなく増える子を疎み間引く親などさして珍しいものではない。生計上の不安から、川に何時間も浸かったり、あらんかぎりの不養生を働いて、なんとかして腹の子を流そうとする母親は少なくないし、縊り殺されて間引かれた嬰児の死体が菰に包まれて溝沼に漂っていることさえあった。運良く死なずに済んだ赤子にも、やはり明るい未来は用意されていなかった。

 椿には想像もできないに違いない。あまりにも無邪気に親子兄弟は慈しみあうのが当然だと思い込んでいる女だ。金や権力を巡る不和には通じていても、貧困に由来する想像を絶するほどの醜さや惨めさには理解が及ばないのだ。もっとも、そうした世界を知らないのは、椿が大事に大事に育てられた証である。だから、不死川は、彼女の無知を矯める気には到底なれなかった。臭いものをわざわざ鼻先に突きつけて、お前の認識は誤っているなどと能弁を垂れる必要などどこにもない。

 強者は弱者を虐げる。夫は妻を殴る。母は子を殴る。兄は弟を殴る。そういう世界がこの世にはある。

 母は子供たちを、そうした世界の真理を超越したところで愛してくれた。誰一人、間引くことを許さなかった。子供たちのために身を粉にして働いた。それが父には気に食わない。

 父には一家の家計は大黒柱たる夫の手一つによって賄われるべきという亭主関白的な信条があり、妻を外に働きに出すというのは通常の倫理の埒外にある。これはその発想自体が、妻と家庭を己の意のままに支配せんとする強烈な独善性の発露に他ならないのだが、それでも本来は、父の怒りは、まずをもって生活に困窮して女房を外に働きに出さざるを得ない、己自身の甲斐性のなさに端を発していた。その苛立ちで酒に手をだす。博打を打つ。ただでさえない金が消える。悪循環である。

 父の生き方は、旧習と迷信が支配する場末の地に生きる男たちの平均的なそれに堕した。

 そう、父から何かを教わった覚えはほとんどないが、脳裏に強烈に焼きついている一言がある。

「俺のようになるな」

 それは父が実弥に手を挙げるときの決まり文句だった。

 実弥は生来旺盛な反骨精神を発揮して、こんな畜生には絶対にならないと固く心に決めていたから、父にそう言われてもなんの感慨もなく、クズはクズなりにクズであることを自覚しているんだな、と淡白に思ったものだ。父親に対しては常に恐怖でなく、怒りが先行した。

 そういう子供であったから、殴られてもただでは転ばない。父を睨み付けると「親に向かってなんだその目は」とさらに殴られる。

「俺みてえなクズになりてえのか?嫌だろうが!嫌なら親の言うことを聞け!」

 だが、父がその言葉を口にした途端に、体中が痣だらけになるほど蹴られ殴られても涙一つ見せない母が、「やめて、やめて」と悲痛な声を上げて、振りかざした父の腕に縋るのである。

 母は子供たちを愛するのと同じように父を愛していた。そして父もまた、おそらくは、母を愛していたこともあったのだ。子供を愛そうと試みたことさえあったかもしれない。母は、我が子に己を誇ることのできない父という生き物を、哀れみ、悲しんでいた。

 あの時は父の哀れさも母の泣く理由も理解できなかった。どれほど大人らしく振る舞おうと背伸びしたところで、実弥は所詮子供だった。

 ところが、こうして自分が所帯を持つ身になると、あの時の両親のあり様に理解が及ぶ。血の繋がりのない他者の人生に責任を負うという、婚姻という社会契約が、不死川の精神を多少なりとも大人に引き上げた。

 貧しくさえなければ、果たして父の悪性があそこまで深化することがあっただろうか。

 いや、もはやそんなことはどうでもいい。いま肝心なのは、自分があの男と同じ轍を踏もうとしていることだけだ。

 池の水面には、強風によって飛ばされた花びらが吹き溜まり浮かんでいる。東京の桜は、この一両日のうちにあらかた散り落ちるだろう。

 不死川はその場を離れて歩き出した。

 玄弥、こちらにくるな。遠くに行け。俺のようになるな。

 

 

 

「ここは蝶屋敷と言うのよ」

 屋敷に足を踏み入れる前に椿はそう言った。建物中の床や壁に、独特の薬の匂いが染み付いている。それでここが医療施設であるということが説明されなくてもわかった。

 兄が出て行った後、椿は玄弥を大部屋の病室に伴った。昼前の病室では、少女が忙しなく働いている。先ほどとは打って変わって静穏な空気が流れている中、一つ不穏と言えそうなのは、窓際の寝台の上で、男が一人、ぶつぶつと恨み言のくだを巻いていることくらいだ。

「……このまま俺が死んだらあいつのせいだからな。俺の墓石に毎日団子餅を供えに来なけりゃ化けて出てやる……25歳までに頭がハゲ上がる呪いをかけてやる……」

「いい加減にしてください。それだけ喋れる人は死んだりなんかしません」

 男の包帯を替えている少女が呆れかえって言う。

「アオイちゃん、聞いてくれよお、不死川の奴ひどいんだぜ……俺の腹、ブスブス刺しやがって……官憲に見つかってたら確実に猟奇殺人の罪でお縄だったぞ……」

「でも、そのおかげで助かったんでしょう?不死川さんがお腹の中に入った血鬼術を日輪刀で焼いて無かったら命がなかったって、先生から聞きましたよ」

「麻酔なしだぞ!やってられるか!しかも急いで帰るからって汽車に乗っけられてさあ、揺れるたんびに腹は痛いし、傷が広がった気がするし……」

 兄の名が出たので思わず顔を上げた。椿は玄弥の座っているところから離れて、しくしくと泣いている男に声をかけた。

「樋上くん、お身体の加減はいかがですか」

「見ての通りだが?」

「良かった。命に別状がなくて何よりです」

「お前ら揃って人でなし夫婦だ……」

 樋上と呼ばれた男は、ぐったりして、女に囲まれて恥も知らずにめそめそしてる。玄弥はこんな情けない男でも隊士になれるのかと思った。ついさっき、才能がないから諦めろと言われた身としては忸怩たるものがある。

 椿は脇机の上に置かれた薬の処方箋に目を通した。

「毒ですか」

「毒っていうか、寄生虫みたいなもんらしい。目に見えないくらい小さい虫が口とか傷から入って、人の体の中で自己増殖するとか細胞分裂がどうのとか核酸とか……俺には先生の言ってることがさっぱりわからん」

 椿は顔を渋くして「話を聞きに行ってきます」と言い残して病室を出た。

「そいつ誰?」

「不死川さんの弟だそうですよ」

「あいつ、弟なんかいたのか」

 男は投げやりに頭の後ろに手を組んで寝そべった。少女は洗濯物を籠にまとめていた。

「でも、鬼の本体は倒したんですよね」

「ああ、デカかったぜ。十メートルはあったかなあ、太ったミミズみたいでさ。人の腹わたが大好物っつう……」

 二人の会話を流し聞きながら、玄弥は兄のことを考えた。

 会わない内に、兄は少年から大人の男になっていた。

 椿が「ものすごく怒っている」と脅かすので覚悟していたけれども、想像以上の「ものすごく怒っている」だった。あんな別れ方をして、また昔みたいに、兄が当然に笑いかけてくれると思っていた自分のなんと浅はかなことか。兄の怒る理由はもっともだったけれども、悲しいものは悲しい。

「……何はともあれ命の恩人さ、なあ。お前の兄貴は立派な奴だよ」

 それを聞いて、玄弥の気分が少し上向いた。

「あっ。何ですか、その顔は」

 アオイと呼ばれた少女が玄弥の腫れた頬を見とがめた。

「平気だって」

 玄弥は今、それはもう、この上なく落ち込んでいたけれども、ほとんど歳の変わらない女の子を前にして弱いところを見せるのは自尊心が許さなかった。

「駄目です。氷嚢を持ってきますから、大人しくしてください」

「あ、ああ」

 有無を言わせぬ迫力のある子だ。

「椿さん、こういうのよく気がつく人なんですけど。なんだか心ここにあらずでしたね」

「旦那とやりあってるからだろ。普段あいつ、嫁に異常に甘いからな」

 何か聞き捨てならないことが耳を貫通していった気がする。だが悲しかな、玄弥の脳みそ一つでは浮上してきた可能性を結びつけることができない。

「聞いていいか?」

 洗濯籠を持って部屋を出ようとするアオイに向かって玄弥が聞いた。

「?どうぞ」

「兄貴と椿さんって、その、一体、どういう……関係なのかなって……」

 二人は奇妙なことを聞いたとばかりに当惑していた。

「いや、どういう関係って、なあ」

「むしろ今まで何だと思ってたんですか。あの二人は──」

「やめろよアオイちゃん」

 樋上は口に手を押し当てて必死に笑いを堪えていた。

「本人たちから伝えさせる方がおも……筋が通ってるだろ」

「樋上さん、楽しんでますね……」

 男の人を小馬鹿にする態度が玄弥の短気を刺激した。

「あんたには聞いてねえよ」

「おうお前、なんだその態度は。こちとらこれでも一度は雷の呼吸の継承者と見込まれた男だぞ」

「偉いのかよ、それ」

「偉いわけないだろ。隊士になった時の先生の激励が『柱になれるように精進しろ』じゃなくて『死なないように頑張れ』だった時の悲しみがお前にわかるか!?」

「じゃあなんで威張るんだよ?!」

「騒がないでください!病室で!」

 そんな具合で三つ巴でわあわあと騒いでいると、慌ただしく廊下を走る音が聞こえてきた。

「彼、ここに来ていない?」

 扉の向こうから、ひどく切羽詰まった様子の椿が現れた。

「不死川さんのことなら、はい。お見えではないですが」

「まだ経過観察中で……大人しくしていないといけないのに、病室に戻ってきていないの」

 椿はもどかしげに周囲を見渡した。

「ここに来るまでに屋敷の内は一通り見回ったのだけれど、どこにもいなくて──玄弥くん?」

 

 

 悪い予感がした。

 玄弥は聞くものも聞かずに屋敷を飛び出した。

 兄が困難な局面に陥った時、どういう行動をとりたがるか玄弥は理解しているつもりだ。こんな不出来でも弟なものだから。兄はなんでも自分一人で解決しようとする。重い荷車は、たしかに、頑張ったら一人で引ける。でも、二人で押せば、もっと楽に動かせる。なのに一人でやろうとする。

 椿に手を引かれてやってきた道を戻った先、少し高くなったところに小さな鳥居がある。その昔、神社の境内は兄のお気に入りの場所だった。他の兄弟を遊ばせて、自分は社殿の階段に腰掛けて、まだ遊びに加われない下の子の面倒を見ていた……

 果たせるかな、そう高くもない階段を登り、鳥居をくぐった先に、狛犬が鎮座する石台を背もたれにして兄が足を投げ出して座っていた。

「来るな」

 先程より声に力がない。額には脂汗が浮かんでいる。

「か、顔色悪いよ、具合良くないの?」

「お前には関係ねえよ」

 兄がゆっくりと立ち上がった。

「椿を呼んでこい」

「でも」

「いいから呼んで──」

 そう言いかけた兄の口から、濁った咳とともに勢いよく鮮血が飛んだ。

 身体をくの字に折り曲げて、膝を突き、結核患者がごとく大量に喀血する兄の姿に、動転のあまり言葉も出ない。拒絶されるのも構わず兄の元に駆け寄る。病気か、怪我か?

「くんなつったろうが!」

 玄弥が手を出した瞬間に、苛烈な怒号が飛んだ。

「だって」

「てめえは何もわかっちゃいねえ」

 兄は一体どこにそんな力があるのかという勢いで玄弥の胸ぐらを掴んだ。言っているそばから、口から真っ赤な血がこぼれ、玄弥の顔面にまで血飛沫が飛ぶ。

「よく見とけ。鬼狩りになるっつうのが、どういうことかなァ……!」

 そう言って兄は玄弥を突き飛ばし、腰に挿した刀を鞘から抜いた。再びごほっと咳き込み、抜いた刀を逆手に持って、己の腹に押し当てた。

「ま、待──」

 止める間もなく、緑色の刃は、まるで豆腐でも切るかのように易々と腹を貫いた。

 震える手が鋸を引くように動いて内臓を抉る。肉を切る、鈍い、嫌な音がする。

「くそッ、あのミミズ野郎、悪足掻きしくさりやがって……」

 兄はぶつくさと文句を垂れながら腹部から刀を引き抜いた。白い羽織の袖で刀身の血を拭って鞘に納める。玄弥は兄があまりに平然としているので、かえって気が狂ったのではないかと疑わしく気がかりだった。刀などどうでも良いから、自分の腹の傷からどうにかしてほしい。

「……大丈夫?」

 玄弥が恐る恐る尋ねた。

「あ?こんなもんどうってことねえよ。とっとと消えろ」

 兄はそう言って、さばさばと腹に包帯を巻いて止血しだした。

「でも、ちゃんと医者に見せた方が……」

「しつけえなてめえは──ッ!」

 兄の言葉が途切れた。そして、喉を掻きむしるような仕草をしてうつ伏せに倒れた。玄弥が慌てて引き起こす。もはや邪険にした弟を振り払うような余裕もないようで、数秒のうちにぴたりと小刻みな痙攣すら止み、全身から力が抜けた。

 口元に手を当ててぞっとした。息をしていない。

 玄弥は兄の片腕を自分の首に引っ掛けて、無我夢中で元来た道を引き返そうとした。さっきまでいたあそこは病院だ。医者がいるはずだ。

 一刻も早く診て貰わなければならないのに、玄弥が背負うには兄は大きくなりすぎていた。引きずって歩いても全然前に進んだ気がしない。

 朝露に湿った小砂利の上に、点々と血が滴り落ちる。

 いよいよ兄が死んでしまうのではないかという恐怖が玄弥の胸を激しく穿った。

 またなのか?また何もできないまま家族を失うのか?

「玄弥くん!」

 前を向くと、石段の下から、椿が駆け上がってるのが見えた。頭上で鴉が人語らしきものを喚き散らしている。

「椿さん、に、兄ちゃんが」

 半泣きの玄弥から兄の身体を受け取って、椿は素早く喉や、胸や、身体のあちこちを触って調べた。

「血反吐が喉に詰まってる」

 そう言って、拳で背中を三度と強く叩いた。反応がない。

 効果がないと見ると、椿はすぐに姿勢を変えて、今度はぐいと下顎を掴んで上向きにさせた。そして、そのまま血塗れの口に、自らの唇を押し当てた。

 大きく息を吐く。吸う。肺を収縮させる毎に、喉奥から間欠に溢れた血泡を吸い出しては吐き出す。

 椿はそれを数回繰り返して、とうとう、体内を蝕んでいたそれを探り当てて地面に吐き捨てた。

 赤黒い血溜まりの中で、なにかが禍々しく蠢いている。玄弥はそれを、首を延ばして覗き込んだ。

 虫だ。黒い塊のようにも、肥え太った芋虫のようにも見える。

「玄弥くん、離れて」

 慎重を期した椿が、腰の刀に手をかけてそう指示した。しかし、それ以上の手間は要さなかった。地面に落ちたそれは、風に追いやられた雲の隙間から覗く太陽の光に照らされたことで、断末魔すら上げることなく、完全に蒸発して消え失せた。

 神社の境内に静寂が満ちる。椿が深い安堵の溜息をついた。

「……こうなるかもしれないから、入院してなさいと言われてたのに。カナエとしのぶが帰ってきたらお説教よ」

 その口ぶりから、もう心配はないのだと悟って、玄弥もまたその場にへなへなと崩れ落ちた。何もかも心臓に悪すぎる。

「椿」

 息を吹き返した兄が、うっすらと目を開いていた。焦点の合わない目で椿を探している。

「俺が悪かった」

「どうして謝るの」

 椿は兄の上半身を抱き起こしてぎゅっとしがみついた。

「こんなことであなたを嫌いになったりしない。ばかな人」

 兄はなおも何か言いたげにしていたが、椿が紅で塗るより赤く染まった唇で「大好き」と何度も繰り返すので、観念しきって、大きく息を吐いて瞼を閉じた。


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