寒椿の君   作:ばばすてやま

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20-1.夏も近づく八十八夜

 欅の枝先から病葉がほろほろと散る。

 杉皮で葺いた切妻造の茶室に陣取って、象牙の撥を三味線に叩きつける13歳の椿に、躙口をくぐって室に入ってきた父親が声をかけた。

「どうしたんだ、怖い顔をして」

「母様が、お花や三味線や舞にのめり込むのはやめなさいって」

「なぜだ?常盤津節の家元の前に出しても恥ずかしくない腕前と、お師匠がお褒めになっていたじゃないか。父様は鼻が高いぞ」

「お裁縫の段取りもうまく出来ないで遊芸に入れあげるような悪い女の子はお嫁の来てがないって。学課のお勉強ばかりよく出来たって仕方ないって……」

「ははあ、学校の成績表を見られたんだね」

 父は笑いながら不満顔の娘の正面に座った。母は娘にバイオリンやピアノをやらせたかったのに、椿が頑強に三味線とかお琴だとかの和楽器にこだわって抵抗したから辛辣なのだ。三味線が婦女の嗜みとなって久しいが、深窓の姫君である母は、未だにあんなものは芸娼妓の見世物だといい顔をしない。

 それにひきかえ、裁縫は女学校で学ぶ授業の一つで、女の子にとっては、国語や、数学や、外国語を学ぶよりもずっと大切な科目である。

「しかし、母様のご心配ももっともなことだ。もう少し、家政に力を入れてもばちはあたらないよ」

「嫌です」

 椿は撥をべんと強めに叩いた。

「お縫い物は全部()()がやってくれますもの」

「そりゃあ、今はそれで良いかもしれないが」

「つやは私がお嫁に行く時は必ずついて参りますと約束してくれたのよ。だから何にも不都合はありません」

「そうかそうか」

 父は、それなら好きにしなさいと言い、一度嫌だと思ったことには絶対に手をつけたがらない娘の気質を鷹揚に受け入れて、説得するのを諦めた。そして話を学業のことに移した。

「学校では英語しかやらないのか。そうだ、お前もフランス語をやるといい。父様が教えてやろう」

「結構です。フランス人の気取った書き物は性に合いません。近松や西鶴を読まされるほうが余程ましというものです」

「お前はそんなことを言って、若いくせに、旧幕の頃に無かったものは大抵良くないものだと決め付けてしまうのだからなあ」

「母様の受け売りですわ。父様がご執心のボードレールだかマラルメだかの詩を、毎夜聞かせられるのが我慢なりませんのよ」

「参った、勘弁してくれ」

 父が降参とばかりに両手を上げたのが面白くて、椿はようやく仏頂面を解いた。

「さて、父様はこれから客人をお迎えする。お部屋に戻りなさい」

「もう日が暮れるのに?」

「なんでも肌が弱いとかでね、夜にしかお見えにならないお客なんだよ」

 

 椿は父の言いつけに従い茶室を出て、両袖に細竹の垣根を結った門をくぐった。夕焼けが、権勢と富貴の象徴ごとく堂々聳える洋館のみならず、暮ゆく空と樹々と、目に入る世界のすべてを橙色に照らしていた。

 屋敷の炊事や水仕事を担う下女中たちが、木立の間に額を寄せ合ってお喋りしているのが耳に入る。

「以前にもお見えになったあのお客、あれほどの若さで製薬会社の役員を務めてらっしゃるとか」

「齢にそぐわないと言えば、あの落ち着きと見識ぶり!旦那様が驚いていらっしゃったわ」

「それだけじゃないわよ。惚れ惚れするほどの男前なんだから」

「独身なの?」

「独身でも私らと縁付くことなんかありゃしないわよ」

「あはは、違いないわ!」

 下女たちが声を上げて笑った。この場に女中頭がいれば、はしたないと言って注意しただろうが、椿は彼女たちの無邪気な会話を咎める気にはなれない。それに、こんな話を主家の娘に聞かせたことで叱責されるのは、自分ではなくてより立場の弱い下女たちの方だから、椿は誰にも気付かれないうちに急いでその場を離れた。

 大体、父のお客がどれだけ男前だかなんて、椿の関心外だ。

 もともと恋愛事に縁薄い性質である。同級生たちは舞台役者に熱を上げているが、椿は彼女たちが教室に持ち寄る、目鼻立ちの整った美男子の写真など見せつけられても心惹かれない。

 今の椿にとって、母のお腹に宿った新しい命のことを考える以上の重大なことはない。

 椿は姉になるのだ。母の妊娠がわかった時の、両親の喜びがどれほど大きかったか!できれば、事業の後継ぎになれる男の子が良い。もちろん、女の子でもまったく構わない。その時は、自分が婿養子を取ればいいだけのことだから。

 赤ん坊とはどれほどに可愛い生き物だろう。子守唄を唄ってあげよう。抱き締めてあげよう。そして、大きくなったら、絵本を読んであげたり、草花を摘んで冠を作ってあげたり、影ふみをして遊んであげるのだ。

 椿がその場を去った後も、飯炊女たちのお喋りは続く。

「お名前も素敵じゃあない?」

「そうね、名は体を表すというものね」

「気品があって清らかで、まるで月の光のようなお方──月彦様」

 

 

「あの子は大丈夫ですよ」

 玄弥を引き取って十日ほど経った頃のことである。椿は様子を見に来た悲鳴嶼にそう言った。

「多少情緒不安定なところは見えますが、あれは性格でしょう」

「君はそう思うのか?」

「岩柱さま」

 椿に牽制された悲鳴嶼は、少しばつが悪いようであった。悲鳴嶼の腕の中では猫がまん丸の目をこちらに向けてじっとしている。なんとなし抗議されている気分である。

「君が情に流されて判断を誤っていると言うつもりはない」

「あら、なおさら客観的に判断いただかなければ困りますわ。お館様への申し訳が立ちませんでしょう」

「私も問題はないと思う」

 彼は鬼と戦ったと言った。なるほど衣服は破け、血が飛んでいる。であるのに、身体に怪我らしい怪我が見当たらない。不自然だ。何かを隠している。

 とりわけ悲鳴嶼の疑心は強かった。彼は鋭敏な直感を働かせて、玄弥の様子が尋常ではないことを見抜いていた。

 しかし、これ以上は少年を疑いにかける材料に欠いていた。不死川玄弥は多少口が悪くて感情の昂りやすいところはあるが、健やかなよい少年であるという見解において、二人に相違するところはない。

 とはいえ、悲鳴嶼の懸念もまったく根拠のないことではなかった。ともに過ごす内に、椿の中に少年をひたすら可愛くおもう気持ちが芽生えていたのも事実であるからだ。

 椿はずっと昔から弟が欲しかった。

 女友達たちは妹の方が自分たちがかつてやってきた共通の遊びができるからずっと楽しい、男の子は乱暴だし意地悪だ、と言って妹の方をこそ望んでいたけれども、椿はできれば弟が欲しかった。

 玄弥は夫の弟なのだから、これは系図上では血の繋がった弟に限りなく近い。自分の弟と同じに扱って差し支えあるまい。そうした自分勝手な解釈を押し進めて、椿は大いに玄弥を可愛がった。これが血の繋がった弟か妹を得る機会は永久に閉ざされた女の、失われた世界を再構築しようとする虚しい試みと分かっていてもやめられなかった。

 その調子あまって、これは是非、我が家に引き取って世話をしてやろうと、うきうきとして夫に手紙を送ったのに、不死川の返事はにべもなかった。筆圧からは、はっきりとした怒りがひしひし滲み出ていた。

 椿がいますこし冷静なら、こういうことを言わざるを得ない実弥の心境に思いを巡らすこともできただろうが、なんせ正常な判断能力を幾分か喪失していたので、元来の跳ね返りが頭をもたげた。なぜこちらが怒られねばならぬのか、弟が命すら危険にさらして兄に会いにきたのに、顔も見たくないとはどういうことか。それに椿は、二人がお互いに合意して離れて暮らしていると思っていたのに、玄弥は兄の生死すら不明瞭なままでいたという。確かに自分は、彼のいう通り、兄弟というもののなんたるかなど頭の髄からわかっているわけではないが、人の道としてけじめはつけるべきだ。

 

 椿はもう、夫が好きな人にどういう愛し方をするか、よくよく承知していたから、この人が弟を大事にしているのは、どんなにそっけない態度を取っていたとしても理解できる。

 

 弟を鬼殺の道に進ませたくないというのは、非常にまっとうなものの考え方である。しかし、玄弥の方にももう十分すぎるほど情が移っていたので、彼の望みをどうにかしてかなえてやりたいという気持ちもあった。それは自分が来た道だった。かつて、産屋敷耀哉以外の誰も、椿がここまで戦えるようになると信じなかった。箸より重いものを持ったことのない小娘が刀など握って戦えるわけがない、鬼に食い殺されるのがおち、死ぬまで夜闇に震えて藤の香を焚き染めて生きていけ、というわけだ。

 こんなに人を馬鹿にした話はない。戦意を示したものの戦う道を上から押し潰して閉ざそうとするのは、その人の尊厳に対する侮辱でしかない。

 椿にはそういう思い出があるので、いくら内心で、夫のほうがよほどまともな考えをしていることをわかっていても、心憎いばかりの兄の気持ちと、少年の戦う意志を天秤にかけて、後者に肩入れしないという選択がなかった。どの道、どっちつかずでいていいことは何もない。

 しかし、もしも椿にちゃんとした血の繋がった弟か妹がいれば、もうすこし、彼の考えに共感を示してやれただろうか?そう思うと、夫にほんの少し不憫の情が湧いた。

 

 それにしても、夫が玄弥の言うことにまったく聞く耳も持とうとしないのは不思議だった。彼の論理上受け入れられないようなことを椿が言い出しても、とにかく一度は胸の内に入れて、酌量しようとしてくれるのに。

「弟というものを、兄に従うものと決め込んでおるのですよ」

 とは、二子を育てる当家の女中の意見である。

「うちの息子たちも、軍隊ごっこなどするといつも兄が大将をやりたがりまして、弟のお前は兵隊をやれ、という具合でございます。それで日に一度二度は我を忘れて格闘をしだすのですからね、たまりません」

「でも、殴る蹴るの喧嘩をすると言っても、千夜子のお子は九つと七つでしょう」

「長幼の序に齢は関係ありませんよ。いくつになっても兄は兄、弟は弟です」

 これは中々説得力のある意見だった。少なくとも椿が頭の中でああだこうだと理屈をこねくり回すよりはずっと真実味があった。

 一方で、「不死川くんの気持ちはよく分かるわ」と言ったのはカナエである。午後から午前に変わる切れ目の時刻に、不夜城浅草の喧騒を望む隅田川沿いの堤を二人連れ立って歩きながら、よもやまに繰り出した話題に、カナエは深く共感を示してくれた。

「下の子にはできるだけ危険なことはして欲しくないのよ」

「でもカナエは、最後にはしのぶの決めたことを尊重するでしょう?」

「どうかしら」

 カナエはいつになく歯切れが悪い。

 もしもカナエが、自分は戦うけれども、あなたはどこぞの良い男と結婚して、幸せに暮らしなさい、といって手を離したら、しのぶは怒り狂うだろう。怒り狂って、「私は絶対にてこでも動かないぞ」とばかり、カナエの腕を掴んで離さないに違いない。

 そうしてみると、カナエのやることは尊重というよりも、むしろ根負けである。

「しのぶによい年頃の男性がいたら是非連れてきてね。あの子、私が誰を紹介しても気に入らないばっかりなんだから」

「あの子はまだ早いでしょう。第一、あなたが片付かないのに妹が先に、というのは道理が通らないわよ」

「私は結婚しないわ」

 椿が訝しんでカナエの顔を伺った。

「一体何を言い出すの?」

 若い女が結婚をしないで一体何をするのか。仕事のない男、結婚しない女というのは確かに存在するけども、初めからそれらを放棄するのは、俗世を超越したこんな場所に生きる人々の中にあってさえ決して考えられぬことだった。

「私はね、神様に恋をしたの。だから結婚はしない」

 カナエの透き通った眼差しの強さは、これが言い逃れの方便でないことを椿に理解させるには十分すぎるほどだった。

 川の両岸には電気燈が灯り、遠く市街に輝くそれがまるで人魂のように揺らめいて見えた。

「……それ、しのぶに言った?」

 カナエは視線を明後日の方に泳がせた。姉からこんなことを聞かされたしのぶの剣幕は普段の比ではないだろうことは容易に想像がつく。

「でも、椿は私の味方になってくれるわよね?ね?」

「それは……まあ……ええ」

「良かった!」

 椿には到底いい仲裁者にはなれる自信はないが、カナエにはそれで十分だったようだ。

 兄弟の厄介について相談したら、今度は別の姉妹の厄介まで抱えることになってしまった。釈然としない気持ちを覚えながら、椿とカナエは巡回のためにそれぞれ二手に散った。

 やることが山積であった。

 近頃女がよく死ぬ。しかも、これは間違いなく鬼の仕業でしかないだろう、というやり方で殺される。新聞はこんな市中に猪や熊が出るものかと記事を書いているが、これは獣でなくて鬼だ。世間は人間の殺人者の可能性を疑わない。なぜなら人間は人間を食わないからだ。

 およそ二日ぶりに帰宅すると、玄弥は籐椅子の上に行儀悪く足を乗せて、じっと待っていた。

「あなたのお兄様、今日のお昼過ぎには退院するそうよ」

「もう?」

「言ったでしょう、大したことのない怪我なんだって」

 刀傷は重要な臓器は避けて通っていた。常人ならむこう一月は寝込まねばならない大怪我であるが、彼の基準からすればそう大した傷ではない。

 まだ鬼狩りになりたいと思うかとは問わなかった。

 玄弥の思考回路は理解しやすい。誰かが命をかけて戦っていることを知っているのに、自分一人が安全な場所でぬくぬく守られているなんて絶対に許容できない、そういう気持ちはよくわかる。だから、兄が目の前でこういう目に遭うこともあるんだぞ、と示してみせたのは彼の意図したのとはまったく逆の効果をもたらしたわけだ。

「さて、一緒にお迎えに上がりましょうか。千夜子、靴を用意してちょうだい」

 女中を先に玄関先に向かわせる。玄弥はもごもごと口を動かした。

「あのさ、椿さん、ああいうこと誰にでも言わない方がいいと思う……」

「ああいうことって」

「だから……」

 少年は手や首を振って、なんとか言い出しにくいことを言葉にしようと努力していた。

 準備を整えた千夜子が敷居際までやってきて手をついた。

「旦那様のお迎えでございますね」

「ええ、昼過ぎには退院すると連絡があったから」

 玄弥は不思議そうに首を傾げた。

「旦那って?」

「玄弥様の兄御様ですから、旦那様と申しました」

「??」

 玄弥の要領を得ない表情に、千夜子がこれはどうもきっぱりはっきり言わねば伝わらぬと口を切った。

「不死川実弥様は、私のお仕えする女主人のご亭主にあられます」

 女中は一切の誤解を排した明快な事実を述べた。

「……」

「玄弥様、玄弥様?あら大変、椿様。弟様が立ったまま気絶されておられます。……椿様?どういたしましたか、頭など抱えられて」

 

 

 同時刻、風柱邸から半里ほど離れた蝶屋敷の一室では、不死川のそう打たれ強くもない忍耐が試されていた。

「鬼を仕留め損ねて窒息死しかけるってなんだよ。間抜けか?ダセェな」

「柱とあろうものが情けない」

「情けないな」

 宇髄、煉獄、冨岡が、寝台に腰かけた不死川をとり囲んで口々に述べる。もともと遠慮のない間柄である。不死川の短気が爆発するのは順当な末路だった。

「てめェらとっとと出て行け!何しに来やがった!」

 柱が雁首揃えて暇か!と怒鳴りつける不死川に、三人は悪びれもせずこう答えた。

「俺は胡蝶との共同任務があるので、打ち合わせのために立ち寄った!」

「前を通りがかったついでに覗いてやろうと思ってな」

 あくまで実直な煉獄とにやにやしている宇髄を順番に睨みつけた後、不死川は突っ立った冨岡の方に恐ろしい形相を振り向けた。

「俺は不死川が怪我をしたというので、見舞いにきた」

 冨岡が臆面もなく風呂敷に包んだ菓子折りを差し出す。不死川は肩を落としてうなだれた。他人の身を案じて来訪した唯一の男がよりにもよって冨岡義勇だったことは痛恨の極みであった。

「しっかしまあ、お前がそこまでやられるとはねえ。どういう奴だったんだよおい」

「大したことねェよ。俺がヘタを打っただけだ」

 本体を討伐したことで多少気が緩んでいたのは否定できない事実である。ほとんどすべての血鬼術は、本体が死ねば効力を失う。二百年以上も一地方に巣食い生き永らえた狡猾な悪鬼の最後の悪あがきが「ほとんどすべて」にあてはまらない可能性をきちんと想定しておくべきだったのだ……いや、想定していたのだが、対処を誤った。

「それよりも退院したら、弟くんにちゃんと礼言っとけよ。お前が担ぎ込まれてきたときさ、泣いてたぜ」

 隣の寝台で横になっている樋上が、視線だけこちらに投げながらそう言った。不死川は忌々しげに舌打ちした。

「情けねェ奴だ」

「いや、兄貴が目の前で割腹したら普通は泣くだろ……」

 不死川は宇髄のもっともな指摘を完全に無視した。そして、点滴の面倒を見てくれている胡蝶しのぶに声をかけた。

「どうだ」

「この点滴で最後です」

 不死川の回復の速さに、そばについていた看護婦の少女は困惑の色を隠せず、樋上は「化物か?」とぼやいた。

「しのぶさま、お師範さまがお呼びですよー……うわっ風柱さま、人気者ですね!」

 胡蝶の鬱陶しい継子が、ひょいと頭を突き出して賑やかな病室をからかう。

 それを受け、面会はここまでとした胡蝶の一声で、人口密度の高い病室から柱たちが三々五々に散っていく。

 十数分もすると最後の点滴袋が空になった。針を抜いてくれた少女に「世話んなったなァ」と声をかけると、「どういたしまして」と返される。最初の頃は随分怯えられたものだが、出入りを繰り返しているうちに向こうが慣れた。もとより不死川には女子供をいたずらに威かす趣味はない。

 胡蝶はもうしばらく加療の必要があると患者に説いたが、不死川が頑として家に帰りたがったので、当分安静にしていること、太陽の光によく当たること、毎食後処方された薬を飲むことを条件に退院を許した。

 看護婦の見送りを受けて蝶屋敷を後にする。菓子に罪はないので、冨岡の置いていった菓子包みも持ち帰る。ちらりと中を見てみると、銀座の有名菓子屋の最中であった。午前中のうちに売り切れてしまうので、中々買えないのだと妻がぼやいているのを耳にしたことがある。これは椿が喜ぶぞ、と頬をわずか緩めそうになったが、いや待て、なぜ不死川の見舞いに嫁の好きな菓子を持ってくる。それ自体は構わないとしても、なぜ椿の好物を把握しているのだ?やはり冨岡は殺す。

 家までは徒歩で三十分ほどである。

 通りがかった共用井戸のそばでは御新造たちが世間話をしている。物価の上がり幅が著しくてかなわない、豆腐さえ二か月ごとに五厘値上がりすると愚痴をこぼしている。

 家庭の団欒の雰囲気をまとった女たちの姿に、家に帰りたい気持ちがいやでも増した。嫁の作ったちょっとどうかと思うほどまずい味噌汁すら恋しい。自分が不在の間に多少でも料理の腕が進歩しているだろうか。いや、しばらく任務続きだったようだし、まずはこの一月の苦労を労ってやらねばならぬ。玄弥のことは……帰って茶を飲んでから決める。不死川は丸二日も猶予があったのに何にも妙案が浮かばなかった自分の脳みそを恨んだ。

 

 戸口をくぐり御影石を踏んで家に入ると、玄関に上がる前からやいやいと騒ぐ声が聞こえた。

「ごめんね、ごめんねえ、玄弥くん」

「ざっけんなよ!なんっで兄貴が所帯持ちになったなんて一大事を飯炊女から聞かされなきゃならねえんだよ!」

 それで不死川は騒ぎの理由をだいたい察して、座敷の襖を開けた。

「あ、あなた、おかえりなさい!」

 椿が顔だけこちらに向けて、ぱっと華やいだ表情を見せた。玄弥は両腕を振り回して暴れていたが、椿は片手一本で頭を押さえて制圧している。

 不死川が「お前、何も言ってなかったのか」と言うと、椿は「忘れてた」あっけらかんと言った。

「信じらんねえ!忘れるか普通!?」

 一月も一緒に過ごしておいて今更この弟は何を言い出すのか。普通じゃないんだ、この女は。

「てめえはさっきから兄嫁に向かってなんつう口の利き方してやがる」

 とりあえず一発脳天に拳突を食らわすと玄弥は「痛ってえ」と呻きながら畳の上に転がった。

 しおらしくしていたので失念していたが、玄弥は元来えらい癇癪持ちで、自我の張り合いでそう他人に譲ることがない。相手が神だろうが仏だろうが兄だろうが知ったことではない。

「兄ちゃんのバカ……面食い……」

「あ!?」

「怒らないで!」

 椿は実弥に目配せして、自室に戻るよう促し、畳に伸びてる玄弥を二階に引きずっていった。

 一体玄弥は何がどう不満なんだ。兄嫁が美人で嬉しくないのか?

「旦那さま、例えば、例えばの話ですよ」

 千夜子が、不死川の手から菓子折りを受け取りながら辛抱強く言った。

「父親が、苦労を共にしてきた古女房と離縁して、とびきり若くて器量よしの継母を連れてきたら、どういうお気持ちになりますか」

 なんなんだその例えは。最悪というほかあるのか。

 

 自室に戻ると、そこは一月前に出て行く時と変わらず整然としていた。畳の上には塵一つ落ちていないし、机はぴかぴかに磨かれている。

 違うところといえば、時期を過ぎた火鉢が仕舞われていたのと、部屋の隅に畳んだ布団が、主人の帰りに合わせて外に干されたものとみえ、春の日差しを浴びて膨らんでいたことか。

 庭に望む障子は開け放され、そこから新緑の葉をそよがせる爽やかな風が吹き込んできた。

 不死川は縁の下に置かれた飼育箱を取り出した。箱一杯に敷かれた土の上で、前蛹がうねうねと微弱に動いている。不死川は安堵で胸を撫で下ろした。実は、ほんの少しだけ、喧嘩の腹いせに愛虫たちを山の中に埋め戻されている可能性を案じていたのだが、椿は万事指示通りにやってくれていたようだ。不死川は妻をもっと信頼するべきであったと反省した。

 しばらくすると、駄々っ子を宥めすかした椿が、急須と湯呑みを並べた盆を持って戻ってきた。じたばた暴れているのが天井から聞こえる。廊下から二階に聞こえるように「るせえぞ!」と怒鳴ると、ぴたりと物音は止んだ。

「玄弥くんにはね、二階の空き部屋を用意してあげたの。これからお召し物とか、家具とか、色々と揃えてあげないといけないわね」

 不死川は相槌も打たなかった。弟をここから追い出すのをまったく諦めていなかったので、わざわざくつろげるような提案に乗る気がなかった。文字通りの針の筵を用意するのも辞さない構えだ。

「それでね、近々呉服屋さんをお家にお呼びしようと思うのよ。どのみち私たちも夏物の着物を揃えなければいけないし。玄弥くん、好きなお色味はある?」

「本人に聞けェ」

 夫の投げやりな返答を一切意に介さず椿の話は続く。美味しいお菓子を食べさせたい。一緒に東京市内に買い物に行きたい。不死川は、妻の幸せではちきれそうな様子に、抵抗する気力を根こそぎ奪われていくのを感じた。これは早めに手を打たなければならない。

「お前、あいつからなんか聞いたか」

「何かって?」

 玄弥は何も具体的な話を椿にしていなかったようだ。椿の方も、不死川が何も過去を語らぬのに、自分が横からそれらを聞き出すのは公平な行為ではないと思って、控えていたという。

「聞け。俺には弟と妹が合わせて六人いた」

 椿はさすがに驚いて目を見開いた。こうやって自らの過去について語るのは初めてのことである。感傷的な身の上話は不死川のもっとも嫌うところだった。

「五人は死んだ。残った一人が玄弥だ。なあ、たった一人生き残った弟が、死に急ぐのを止めようと思う、俺の考えはおかしいか」

 思いがけず情に訴えるような言い方になってしまったのを後悔したが、一度口に出したものは飲み込めない。椿は小さくため息をついて不死川に向き直った。

「おかしいとは思わないわ。でもそういうことは、私に言うのでなくて、あなたの口から玄弥くんに伝えなさい」

「聞くタマかよ」

「どうして聞かないの?」

「……」

「ねえ、自分の言ってることが受け入れてもらえないって、わかってるんでしょ?ならそれが答えよ。あなたに玄弥くんの生き方を決める権利はないわ」

 自らの生と死に責任を負うのは己一人であり、自己の人生の決定権を他人に委ねてはならない。いやしくも鬼殺隊に身を置くならば誰もが身に染みて通暁しているはずの真理だ。

「鬼殺隊に入りたいなんざ……身の程知らずのグズの分際で……」

「身の程なんか弁えてたら、私たちの誰も鬼殺隊に入ってないわよ」

 椿はあくまで手厳しい。

「あの子、あなたに感謝しているのよ。そうでなければ、あんな苦労をしてわざわざこんなところまでやってきたりしないでしょう」

「はァ」

 心底どうでも良かった。兄が弟を守るのは、水が高きから低きに流れるように当然のことであって、感謝されたり、ましてや後ろめたく思われるいわれは小指の爪垢ほどもない。

「お前はえらく懐かれたな」

「そう見える?」

「甘えてんだよ、ありゃ」

「不思議よね。両手両足を折るって脅したのに」

「何やってんだ……?」

 手紙を読んだ限りでは仲良くやっているのかと思っていたが、どうもさっきの様相を見る限り、玄弥は大して従順でもなかったらしい。

「よく似ていらっしゃるわ」

 椿は膝をついて前屈みになり、夫の顔を覗き込んだ。細い腕が実弥の膝の上に落ちた。

「実は最初はね、見かけあんまり似ているとは思わなかったの。でも、あの子、日輪刀も持たないのに鬼を殺してやるって思い詰めて一人で戦おうとしていたのよ。本当にあなたそっくり……」

 椿はしみじみと血の繋がりというものの強さに感じ入っていたが、不死川の胸に兆したのは失意と悲しみだった。椿がなんと言おうとも、やはり認めることはできなかった。

 

 

 




次話で一区切り、そのあと大人気キャラ上弦の弐さん登場で話を加速させたいです。早く原作時間軸に突入した〜い。
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