寒椿の君   作:ばばすてやま

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玄弥「身内のラブシーンはキツい」


20-2.野にも山にも若葉が茂る

 椿が、「お兄様がここにお住まいになっても良いって」と、弾んだ声で二階に上がっていくのを横目に、不死川は今日中にやるべきことを頭の中に書き出した。刀の手入れ、壊れた戸の修繕、そう、それにお館様への定時報告。これが最優先事項だ。

 重たい腰を上げ、手紙を書くために紙と筆を抽斗から取り出して机の前に向かう。

 不死川はなにもやけになっていたのではない。一縷の望みをかけていたのだ──椿の道楽に弟が感化されてくれるかもしれない、という望みである。

 自分一人では、弟を安穏な生活に向かわせるよう翻意させる望みを抱くことは到底不可能であったろうが、今の自分の隣には椿がいる。彼女は世の中の楽しいことをよく知っているし、その振る舞いで自然と、無学の子供に物事の新しい見方を教えることもできるだろう。このまま刀を持たすのを許さず、気楽な日常に身を置かせて、学問を身につけさせて、一人立ちさせるというのは、夢物語ではなく現実的な手段の一つとして十分考慮するに値した。

 不死川は、突如閃いたこの良い考えに縋りたかった。椿が、もう自分が教えられることは一通り教えたから、あとは当人の努力次第で、そちらで手助けする気は()()はないと言ったのにも大いに勇気づけられていた。

 どのみち、弟をここから追い出すのは棚上げせざるを得なかった。不義理を働いた伯父夫婦の家に戻すこともできないし、ここを追い出して野垂れ死にさせるわけにもいかない。

 上階では、玄弥が俺はまだ認めていないだのやいのやいのと喚いている。

「弟さま、そのように邪険にされずとも……椿さまを姉とお呼びするのがそれほど嫌でございますか」

「わ、私、お姉ちゃんって呼んでもらえるの?」

 椿の声音は抑えきれない甘美な期待に満ちていた。

「呼ぶわけないだろ!バーーカ!」

 玄弥はそう吐き捨てると、荒々しく階段を降りて、兄の部屋の前までやってきた。そして実弥が俺の嫁を罵倒するなと言うよりも先に、「結婚おめでとう!」と語勢も強く言い放って、再度ばたばたと階段を駆け上がって行った。

 大丈夫かあいつは。情緒不安定か。

 部屋に戻ってきた椿は、玄弥の癇癪に呆気にとられて首を傾げていた。

「認めてもらえたのかしら?」

「……多分な」

 手紙は椿に見てもらって、なんにも手入れをするところがないとお墨付きをもらって鎹鴉に託した。女中は帰り、玄弥は完全に沈黙し、椿は家の細々としたことに取り掛かった。春の日の午後はそのように過ぎて行った。

 

 

「あなた、ご飯よ」

 夕暮れを告げる山の寺の鐘が鳴る頃、椿に呼ばれたので戸棚を修理していた手を止めて茶の間へ入る。食膳の上には白い豆腐が鍋の中にぐつぐつと煮えていた。

「湯豆腐」

 食膳の前に正座させられた玄弥は、豆腐と茶碗に盛った飯の他に何もないか膳の上に目線を巡らした。

「こんだけ?」

「穀潰しの分際で出されたもんに文句つけてんじゃねえぞォ」

 玄弥はすんと押し黙って箸を動かしはじめた。実弥は、今まではあまり意識しなかったが、弟と生活を共にする以上は、家長としての威厳をはっきり示さねばならないと考えた。

「そんなことないわ。お山にいるときはご飯の用意をしたり、山女魚を釣ってくれたりしたもの」

「山女魚くらい俺でも釣れる。……おいなんだ、その目はァ」

 玄弥は、嫁に丸め込まれる兄に物言いたげな視線を寄越したが、兄に咎められると「別に」と肩を竦めて、再び椀を手に取って豆腐を掻き込んだ。

 一家団欒とはいかなかった。椿は当たり障りのない話題をこちらに振るのだが、兄も弟も「うん」「はあ」とか別別に答えるだけで、会話らしいものはそこに成り立たなかった。

 湯豆腐は食えたものだった。湯豆腐なんか豆腐を買ってきて、鍋で煮詰めるだけなんだから失敗しようがないと思うだろうが、椿が火加減などという繊細な作業をうまくやれると期待する方がはじめから間違っているのであって、これは彼女にとっては大成功の部類であろう。

「物足りないようなら台所にかき餅があるから、食べておいでなさい。あ、あなたはダメよ。絶食していたんだから、軽いものから始めないと」

 玄弥はちょっと迷った末に、台所に向かった。

「お前、あいつを──」

「甘やかすなと言いたいんでしょう?」と椿が先回りした。

「わかってんじゃねえか」

「どうせあなたが厳しくするのだから、私は優しくしてあげようと思って」

 皿を片付けながら椿が言う。

「芯がしっかりしてる子だから、甘やかしてだめになったりしないわ。それに、あのくらいの年頃の子って、これをやりなさいとかあれはだめだとか上から強要される分だけ反抗するものでしょう?」

 不死川はがくりとうなだれた。頭を冷やすと、椿の言うことはいちいちもっともなことのように思えた。

「椿」

「はい、なあに?」

「……苦労かけて、悪い」

「もう、謝らないでって、何度言わせるの」

 それから一緒に夕食の片付けをして、順番に風呂に入り、隣同士に布団を並べて、久しぶりの夫婦生活の幸福を味わった。

 不死川は太陽の光をよく浴びるように、とお達しが出ているため、しばらく昼型の生活になる。

 しかし、椿にはそんなことは関係ないので、明朝には鴉に呼び出されて任務に赴くことになった。彼女は夫が復帰するまでの間、彼の定常の警戒区域を他の柱や隊士と分担して受け持っているのだ。

「明日からは、午前中に千夜子が帰ってしまうから、晩ご飯の用意はお願いね」

「ああ」

「それから、私がいない間もご機嫌良くしておくこと」

 遠まわしに弟に突っかかるなと言い含められるのは不本意だったが、心労をかけるのもそれはそれで本意ではないから「わかった」と頷く。椿は表情を綻ばせて不死川の腕の中に収まり、自分よりもやや高いところにある夫の顔を近寄せた。

「いってらっしゃいのキスをして」

 望み通りに額に口付けて抱きしめてやる。抱擁した身体は柔く、どうしても大切にしてやらなくてはならない──と思うものの、不死川にしてやれることはなにもない。彼女は今から自分のいない戦地に赴いて、腰に差した刀で、鬼を殺しにいくのである。

 不死川は門口に立ち、小さくなっていく妻の背中を見送った。

 二階の窓からこちらを見下ろしていた玄弥が、部屋の柱に何度も頭をぶつけるという奇行に走っていたのは気付かなかったことにした。

 

 

 早朝は霧のような雨が降ったが、日の出から二時間も経つ頃にはすっかり晴れた。外から雲雀だか燕だかのさえずりがうるさいほど聞こえ出し、植込の連翹の黄色が目に鮮やかだった。

 玄弥は穀潰し扱いを返上しようとしてか、誰に言われるまでもなく庭掃除に勤しんでいる。

 現実問題として、この邸に男手が増えるのはありがたいことである。

 女中の千夜子は邸には住まずに、自宅に老いた母と二人の子があるということで、そこから通ってくる。あとは近所に住んでいる老女が掃除をしにくるくらいである。人手の足りていないこと甚だしい。鬼殺隊から寄越された下男は、不死川が独断で早々に解雇してしまった。

 これについてはかなり揉めた。家を維持するのにはどうしたって力仕事のできる男手が必要なんだというのが椿の言い分だった。

「俺がやりゃあいいだろ」

「あなたが働き者なのは認めるけれど、手が回らないでしょう。大体、何が気に入らなくて彼を雇い止めなさったりしたの」

 隠の父親を持つというこの下男は、細かいことによく気が利く、使用人としてはいささか出来過ぎなほど優秀な男だった。特段の落ち度もなく、何より茶の道だとか華の道だとかに良く通じていて、椿にとっては話甲斐のある相手だった。

 ようは妻と他の男が一緒にいて、自分の知らない話題で盛り上がっているのが嫌だったという愚かな嫉妬心だったのだが、流石にこれが情けなくみっともないことの自覚くらいはある。

「そこまで頑なに拘るのだったら、構わないけれど」

 不死川が口を割らないでいると、椿はそれ以上追求することをやめてしまった。しかし、内実の理由はなんとなく察されていた気がする。椿はその日一日機嫌が大層良かった。

 それにしても二人の間には、主にその育ち方の違いに起因する、埋め難い溝があった。

 不死川には実生活でも戦いの場でも、誰かを頼みにするという発想があまり湧かない。家族の中にあっても仲間の中にあっても、ほとんどの人間との関係において、不死川は相対的な強者であった。自分のことはなんでも自分でやらなくてはいけなかったから、他人に何かを頼むというのが収まりが悪くて落ち着かない。

 椿にもそういうところがないとは言わないが、実生活上のことに関して言えば、包丁の切れが悪いなら刃物屋に、鍋の底に穴が空いたら鋳掛屋に、下駄の底が擦り切れたら歯入に頼んで直してもらえば良いという具合である。多く使える財を持っている人間は、その財で他人を養う義務がある、というのが彼女の持論で、これは確かに筋が通っている。ただ、不死川がそういう生活習慣と縁のないところで生きてきた人間だったから馴染めないだけだ。

 椿は不死川の習慣を強いて変えさせようとはしなかったが、前から馴染みの職人に、仕事を依頼して手間賃をくれてやるという彼女なりの流儀を曲げることもなかった。

 よって、不死川は、下駄箱に底の擦り減った足駄を見つけた時、妻のやり方に歩み寄ろうとした。自分で直すこともできたが、それよりは、筋違いのところにある下駄屋に持っていくことにしたのである。

 店の軒先に近づくと、表に筵を敷いて座っている男がこちらに気付いて挨拶をした。

「調子はどうだ」

「まあまあだ」

 店先で草履を編んでいる中年の男は、二十年ほども前は鬼殺の剣士だったと聞くが、鬼との戦いで両足を膝下から切断した。それ以来、下駄の歯入れだの草履の裏付けだのの仕事で得られるわずかの収入で生計を立てている。本人は、自分は履物の要らん身になったので、今後は死ぬまで他人の履物の世話をするのだと言って笑い飛ばしており、聞いた方は笑ってやれば良いのか痛ましい顔をすれば良いのか判別しかねるところであるが、本人はこれを諧謔だと思っているらしい。余裕のある暮らしぶりには見えない。隊から年金を受け取ってもう少し楽をすることもできるのだが、自分に与えられる取り分があるならもっと困っている別の誰かにやってくれと固辞しているのだという。

「ようやく郷から身内を呼んできたのかい」

 不死川は、相変わらず噂の出回るのが早いと思った。

「うるさくてかなわねェよ」

「賑やかなのは良いことさ」

 自分より二回りも年上の、やもめ暮らしの男にそう諭されては黙るよりない。不死川は職人の仕事が済むまでの間、無造作に置いてあった木の箱の上に座って待つことにした。

 よそから鬼殺隊に入りにくるのは多くは天涯孤独だったが、身内のあるものは呼び寄せて一緒に暮らすのが多い。鬼狩りは人間であり、人間が生活する以上、井戸から水を汲まねばならぬし、火を焚くために薪を燃やさねばならぬし、飯を用意しなければいけないし、大工も要るし、医者も要る。これらすべてを賄うには、隠だけでは手が回り切らないが、鬼狩りは所在を秘匿するから、外部から人を呼ぶのも難儀である。そこですでに素性が割れていて事情を知った者を労働力に当て込むわけだ。閉ざされた共同体の中で、完結した経済を営むための苦肉の策とも言えるし、雇われる方も、たとい家族である隊士が死んでもここにいれば何かしら仕事を回されて食いっぱぐれることはないから、誰にとっても都合がいい。

「お嬢さんは元気にやってるかい」

「まあな」

「そりゃなによりだ」

 この男は鬼殺隊に入ったばかりの、まだ少女だった時の椿を知っているのである。

「ここに来た時は銀貨と銅貨の区別もままならならんかった子が人妻とは立派になったもんだね。いや人間進歩するもんだね。それに、よく笑うようになった」

 男は昔から顔馴染みの少女の成長に深く感じ入った様子だった。不死川にはいまいちぴんと来なかったが、椿が昔よりもよく笑うようになったのなら、それで十分だと思った。

 

 

 それから二日が経った。機能回復のための訓練を一通りこなして、そろそろ復帰しようかという頃合である。

 朝飯の用意のために台所の竈に火を起こしていると、ふいに玄弥が現れた。

「兄貴、手伝う」

 実弥は無言で竈の前から退き、弟に火の加減を見る仕事を任せて、流し台で野菜を切り始めた。

 互いに無言だった。口を開いたのは玄弥の方だった。

「いつ結婚したんだよ」

「去年の末」

「……早くね?」

「そうか?」

 自分の方は、確かに平均よりもやや早いかもしれないが、椿はこれ以上歳を食うと行き遅れになる。

「椿さん、いい人だな……」

 そう思うなら態度を改めろ、と言いかけたがやめた。玄弥の椿への当たり方は、嫌っているのではなくて、むしろ強烈な甘えたの発露であった。実弥は、玄弥の母性恋しさに対して想像を巡らすべきであったが、なんせもとがそれほど細やかに気を回せる性質でもないと自負しているから、いかんともしがたかった。

「まあ全然意外じゃないけどな。兄ちゃん、昔から器量良しが好きだったし」

「へえ、そうなの」

 ここにいないはずの人間が不穏な調子で相槌を打った。

 実弥は背筋に寒いものを感じながら振り返った。椿が勝手口の方に、格子窓から入る朝陽に照らされて気配もなく佇んでいた。

「いつ帰ってきた」

「ついさっき。予定よりも早く任務が終わることになったの。冨岡さんが、後はやっておくから、もう帰りなさいとおっしゃって下さって」

 鴉に連絡させたはずだけれど、気付かなかった?と椿が言う。玄弥はあさっての方角を向いて知らん顔をしている。鴉の連絡を手元で差し止めていた犯人はこれで明白である。

「それよりも、なんだか面白そうな話をしているのね」

 椿は心なしいつもより光の失せた目をひたと不死川に据えた。

「与太話だ、本気にすんなァ」

「でたらめじゃねえよ。いつも仕事帰りにわざわざ二筋手前の横丁を通って帰ってたの、煎餅屋の看板娘が見たかったからだろ。兄ちゃんあそこ通る時、いっつもあの子を見てた」

 玄弥は半目で兄の過去の遍歴を暴露する。

「違っ……、テメェ口を閉じろ!」

「どうして大きな声を出すの?別に気にしてなんかないわ。昔のことだものね」

 椿はいやに物わかり良さげな態度で、朝飯の準備を手伝うために服を着替えに行った。

 夫婦に不和の種を撒いた張本人は、素知らぬ顔どころかむしろ呆れた目つきで二人を眺めている。ここで玄弥に当たり散らかすことは容易いが、事態が悪化するだけのことである。不死川はぐっと耐えて、引き続き食事の用意を進めた。朝飯の席では、椿と玄弥が、春大根とねぎの味噌汁と豆の煮物を食いながら楽しそうに喋っていた。

 椿は風呂に入った後、布団の上に正座して、真珠を嵌め込んだ櫛で髪を解かしながら、朝の雑事を終えた夫を待ち構えていた。

「怒ってるか」

 不死川は清潔な布を持ってきて、いつもよりさらに優しい手つきで、風呂上がりで湿った妻の髪を包んで乾かした。

 彼の女性遍歴は、すべて結婚する前のことで、世間の道義に照らし合わせれば、後ろめたい気持ちになる必要は何もない。椿だってそういう理屈がわかっていないわけでもないだろうが。

「怒ってないわ」

 椿はつんと取り澄ましている。

「ただ、私は好きになったのも()()()()()のもあなたが初めてなのに、あなたは私が初めてではないのは不公平だと思っているだけ。……どうして笑うの」

「笑ってねえよ」

「嘘。笑ったわ」

 椿は後ろのめりになって夫を押し倒した。組んず解れつの取っ組み合いしている内に、不機嫌は霧散し、何で争っていたのかはどうでも良くなり、椿は子供のようにくすくすと笑って、夫の身体に身を寄せた。

 その日の夕食時、玄弥は顔を合わすなり、気味が悪そうに「兄貴、顔が気持ち悪い……」と言った。ついに堪忍袋の緒が切れた不死川は、もう遠慮する気も完全に吹き飛んで、弟の足を掴んでぎりぎりと絞り上げた。玄弥は「痛いってマジで痛いって」と喚き散らして抵抗し、椿は「仲良しっていいわねえ」とのんきに言って、しゃもじで御櫃の飯をほぐしていた。

 

 

 

 まもなく不死川は戦線に復帰したが、それほど忙しくならなかった。藤の花の季節がやってきたからだ。

 藤棚から紫の花房が目一杯に溢れ出すこの時期は、一年を通して鬼の活動が最も低調になる。鬼殺隊にとっては、正月よりも盆よりも一息つける時節というわけだ。

 柱も交代で休暇を取る。

 煉獄は連日歌舞伎座に芝居見物、悲鳴嶼は俳人の邸宅まで尺八を吹きに行き、宇髄は三人の嫁を引き連れて北関東に足を伸ばして温泉巡りと洒落込むらしい。

 胡蝶は医療施設を預かっている関係上、泊まりがけでどこかにいくことはしないが、妹や看護婦たちとともに、東京市内を電車に乗って観光して回った、日の高いうちに賓頭盧の頭を撫でて徐厄の功徳を積み、日が落ちてはお地蔵の縁日に参ったのだと言う。

 不死川はせいぜい昆虫飼育を楽しみにするくらいが関の山の、没趣味な男なので、お彼岸に出来なかった友人や仲間たちの墓参りを済ませた後は、なんにもやることがなくなり、いつも通り鍛錬に励んでいた。不死川は休みなんぞ欲しくはない。

 ただ、嬉しいのは妻がずっと家にいてくれることで、休暇の初めには彼女に連れられて能楽を観に行ったり、里山を散歩したり、ご飯ごとに今日の朝はこんなことがあった、昼にはこんなことをした、夜はこんなことをすると喋るのを聞くのが楽しかった。

「今日は玄弥くんと一緒に三越に行って、盛花の展示を見てきたの。それからお蕎麦をいただいて、お寿司屋さんにも寄ってね……」

 食べ過ぎだ。通りで玄弥が夕食の席に姿を見せないわけである。椿は細身の見た目によらず良く食う。晩飯の膳には土産の稲荷寿司が上がった。

「玄弥くんはよい感性をお持ちだわ。自然の風韻を尊ぶことをきちんと理解しているもの」

「そうかよ」

「もう、少しは褒めて差し上げて」

 自分には、椿が盛花に理屈は禁物だの自然本位であるべしだのと滔々と語っていることが全部右から左に突き抜けて行ったが、玄弥は違ったらしい。今は椿に買い与えられた真松や石榴の鉢植えを二階の窓枠に置いて育てている。こんなもんの世話をしている暇があったら勉強しろと、全部地面に突き落として叩き壊してやりたい衝動に駆られたが、椿がほとんど軽蔑に近い視線を投げて寄越してひき止めるのでやめた。

 なにもかも思い通りにとはいかなかったが、おおむね不死川の望んだ通りの日常が過ぎて行った。

 当初不死川は、弟の学課のあまりの出来の悪さに、この数年間一体何をしてきたのかと切れ散らかした。近所に住んでいた、尋常科の元教員を家に呼んで見させたところ、さすがに読み書きができないほどの愚かではないが、進学できる見込みはまったくないと評価されたのである。

「遊んでねぇで勉強しろ、この馬鹿!」

 弟には学で身を立てられるようになってほしいという兄心ゆえの怒りだったが、椿が、今日び、大学を出て学士様修士様になったところで良い勤め口が得られなくて難儀している若者が山ほどいる、手に職をつけるのも悪くないのでないか、ととりなすので一旦は矛先を収めた。玄弥は学業を疎かにしていた自覚はあったらしく、怒り散らす兄を前に抗弁の余地もなく、吐きそうな顔で俯いていた。

 椿は、玄弥を机に向かわせることはとっくに諦めていて、花鋏を持たせて庭の樹花の世話をさせている。そして近所の植栽を切り揃えさせて、駄賃に小銭をもらわせたりしていた。確かに、この調子で園丁にでもなれる腕をつけてくれたら、言うことはなにもないのだが。

「そうそう、日本橋に初鰹を出す美味しい料理屋があるらしいの。それに、その近くにある茶商は静岡で摘んだ茶葉を次の日には仕入れているのですって。今なら丁度、八十八夜に摘んだお茶が並んでいる頃よ」

 八十八夜に摘む茶葉とは、その年一年の息災を願う縁起物である。

「……行くか?」

「うん!」

 椿は嬉しそうに頷くと、二階に向かい、部屋に篭っている玄弥に声をかけた。

「玄弥くん、お兄様が市内に連れて行ってくれるのよ。一緒に行かない?」

「行かねー」

 今日行ってきたばかりだろと、玄弥はまるきりふてくされた駄々っ子の調子である。

「またアイスクリームを買ってあげるわ。おいしかったでしょう」

「いいって、二人で行ってこいよ」

 懸命に食い物で釣ろうとしている椿だが、玄弥にあるのは気遣いの色であった。

 不死川も椿も明後日にも休暇を終え、任務に戻ることになっている。せめて夫婦水入らずで過ごさせたいという思いやりを汲んだ不死川は、弟の成長を感じてしみじみとした気分になった。

「玄弥くん、いかないって……」

 椿はよっぽど三人で行きたかったのかやや沈んだ面持ちだった。不死川が宥めようとして「まだ次にすりゃいいじゃねえか」と言うと、「次なんかあるかどうかもわからない」と返された。それはそうだが。

 それでも、翌朝に汽車に乗る頃には大方持ち直して、車窓の田園風景を眺めながら楽しみねえとはしゃいでいた。

 東京市内に出るには、一番近い駅から鉄道を使う。終点まで二時間はかからない。そこからは、大した距離ではないから、停車場から徒歩で目的地まで向かう。

 天気の良い初夏のこの日はうっすら汗ばむほどの陽気で、街に連なる建物は地面に濃い影を落としている。

 二人とも暑さに根を上げるほど柔ではないが、道端の木陰に井戸があったので、そこで少し涼んでいくことにした。不死川は手拭いを水に浸して絞り、妻の額や首筋に浮いた汗を拭ってやった。

 そうしていると、井戸の周りで休んでいた車夫の中から一人、人相の悪い男がこちらに寄ってきて、「ご婦人、いかがだ。お安くするよ」と言って、人力車をしゃくって示したが、椿はやんわりと断った。

「ありがとう。でも結構です」

「しかし、そんな華奢な足駄では、鼻緒が切れんか不安にならぬか」

「もしそうなったら、夫に背負ってもらいますもの」

 不死川は不意を突かれた。かつて椿が、瀕死の怪我を負っても頑に不死川に背負われることを拒否したことを思い出したのである。あの頃の彼女なら、たとえ地面が焼けていても自分の足で歩くことを選んだに違いない。

「あら、なんだかご機嫌ね」

「別に」

 日本橋の大通りは、中折帽を被った紳士とか、文士風の痩せた男とか、島田に結った若い女とか、絹の手袋をした婦人とか言った、あらゆる種類の人間でごった返している。

 信号待ちをしていると、派出所の前に直立する巡査が、不死川の風采をけしからぬとみたのか、じろりとこちらを睨めつけてきた。このまま向かってくるかと思われたが、椿が不死川の腕を組んで、にこりと微笑みかけたので、巡査は意表をつかれて、あわてて前に向き直った。

「いつもこうなんだから」

 椿は立腹気味だったが、不死川は彼女の言う通りいつものことなので特に気に留めなかった。それにしても妻と一緒に歩いていると、警官に職務質問される回数が激減するのは動かし難い事実であった。

 不死川は通りに並ぶ宝石商や唐物屋を指して椿に尋ねた。

「お前、ああいうのは欲しくねえか」

「ううん、いらない」

 椿は店先に並ぶ、瑪瑙の指輪にも、珊瑚の首飾りにも、本鼈甲の簪にも、いずれにも心を動かされた様子はない。結婚してそれなりに経つのに、こうした装飾品の類を妻に買い与えてやれていないのは、夫として忸怩たる思いが募る。しかし、彼女の判断を仰がないで、自分ひとりで品を選んだのでは、妻の美的感覚に沿える自信がまったくないので、おいそれとそんな冒険には踏み出せなかった。

「それよりも、お昼ご飯を食べに行きましょうよ」

「わかったわかった」

 不死川は椿の希望を順番に叶えてやった。昼飯に初鰹を食っておいしいうまいと言い合い、茶商に寄ってはまったく茶葉ごときに色々な名前をつけて売るものだと感心した。

 それから二人は川沿いを下った。土手の木々は滴るような緑、日の光に輝く水上に河船の往来は著しく、空気に都会の工場から排出された粉塵が混ざっているのを差し引いても、昼下がりの散歩にはもってこいの麗かな気候だ。

 橋を渡ると、町並みは次第に、日稼人足などが住う木賃宿街へと移っていく。瓦を葺いている民家などここにはひとつも見出せない。不死川にはたいして面白くもないさびれ果てた下町だったが、椿の目は、広重や北斎が描いた江戸の風致をそこに見出そうとしているようである。彼女が見たがっていた芭蕉の句碑なども、こんなつまらぬものかと思うほど小さかったが、それでも非常な感銘を受けたらしい。椿は老樹が鬱々と茂る平凡な境内を探索して、男谷某とかいう幕末の剣士の墓を見つけて手を合わせた。

 ここで終わっていれば、素晴らしい良い休日で終わっていたものを、次に出発する汽車に間に合わせるために、電車に乗って戻ろうとしたのがいけなかった。

 座席に座っていると、前に立つ禿男が、しきりに椿の顔にちらちら視線を走らせるのである。不躾な態度に不死川が口を開こうとするより一歩先に、男が確信を持って声をかけた。

「もし、二階堂の御令嬢では」

「人違いでございましょう」椿が微動だにせず、早口に言った。

「何をおっしゃいますか、そのお声を聞いて確信いたしましたよ。いや、ご健在とは思いませなんだ」

 椿は、言い逃れが不可能と悟って、ぎこちなく笑うことでなんとか男の追求を交わそうとしていた。

「お屋敷が燃えたのは残念なことでございました。お父君は当世屈指の宋磁の収集家でしたのに……とりわけご所収の下蕪瓶は二つとない希少な品で……惜しいことでした」

 不死川は男の言い草に鼻白んだ。人が死んだことよりも、骨董品が焼失したことのほうがよっぽどの重大事と言わんばかりだ。悪意がないのが余計にたちが悪い。

 一刻も早く御免願いたいものだが、生憎電車の中である。逃げ場がない。

「ご生前のお父君から、お代を頂いた品物を預かったままになっておるのです。是非、店にお越し下さい」

「それは……でも、汽車の時間が……」

 椿は気の塞いだ様子で夫の方を伺った。

「嫌なら行くな。行きたいんなら、一本遅らせりゃァいいだけだ」

「なんだお前は」

 男は横から口を挟んだ不死川を不審そうな目で見つめた。

「私の夫です」

 椿が不死川の手を握りしめて、うってかわってはっきりとした口調で言うと、男はなにやら一瞬のうちに頭の中で勝手に物語を組み立てたらしく、得心したような顔つきになり、「はあそうでしたか、失礼しました」とかしこまって禿頭を下げた。落ちぶれた先でやくざ者に拾われたとでも見たか。さほど的を外した妄想でもないが。

 椿は迷った末に男の提案を受け入れた。男に先導されるまま電車を降り、しばらく通りをいくと、木札に流麗な文字で古美術と堂々書きつけた商店がある。男は入り口の硝子戸を開けて二人を招き入れた。棚には骨董が物々しく並んでいる。地べたに近いところに置いてあるのは、美術品というよりも、むしろ徳川時代の遺物と思しきがらくたと思われた。

 不死川が手前に置いてあった壺を手に取ろうとすると、男が鋭く制した。

「触らんでください、そいつは値打ちもんです」

「こいつがかァ?」

 不死川が手を伸ばしたのは、気に入ったのではなくその逆で、なんとなく嫌な気配を感じたからだ。作り手の妄執が染み付いているような陰気である。こういうものが評価されるのは、好事家というのは本当にわからない。

「どうだ」と椿の意見を伺うと、彼女は「浜に打ち上がった死んだ魚のようで好きになれない」と言った。よくわからないたとえだが、褒めていないことは間違いなく、意見の一致を見ることが出来た不死川は満足した。

「どうぞ、こちらです」

 男は店の奥から桐箱を持ち出して、うやうやしい手つきで箱を開けた。中に入っていたのは、掛け軸仕立ての、花と番の鳥を描いた画であった。椿は目を見張った。

「これは曙山の……」

「はい、秋田蘭画の逸品です」

 男は、椿がすぐにその画の真価を理解したので満足そうだった。

「中々市場に流れてこないので難しいと申し上げたのですがね、娘が気に入りの画家だから、草の根を分けてでも探してこいとお求めになられたのですよ」

 椿は一言も口を利かない。まるで上の空に見えた。不死川にはかける言葉が到底見当たらなかった。

「良いお父君でしたね」

 男の声には心底からの温かみがあった。思えば注文主が死んだなら、誰にも知られず代金を着服して他に売り飛ばしても良かっただろうに、今の今まで手元に残しておくとは義理堅い男である。

「いいえ」

 椿は微笑んでいるのに、今にも泣き出しそうで、そのくせ瞳には涙一粒浮かんでいなかった。

「大嫌い」

 


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