21.ダンス・ウィズ・ミー
息をするたびに、肺に鋭い刃を突き立てられたように苦しい。
足を動かすたびに、身体中が巨岩を叩きつけられたかのように痛む。
二方から鉄の弾ける音がする。毀ち壊される音がする。
仲間が戦っているのだ。
椿は穿たれた太腿の傷を、紐できつく縛り上げて止血をすると、音の鳴る方へ向かった。
立ち上がって刀を振るう力が残されているなら、最後まで戦わなくてはならない。みんなそうしてきた。自分もそうしなければならなかった。
立て続けに女が殺される市中の巡廻態勢を強化して十日目になる。手頃な病院を間借りして、犠牲者の検分に当たったが、いずれの遺体も激しく損傷していて、大した手がかりは得られない。しかし、柱を動員して、その上に多くの人手を割いているからには、そろそろ何かしら収穫が欲しいところである。
「こうも若い女ばかりとはなあ」
「珍しくもないだろ?子供ばかり好んで喰う鬼だっている」
平の隊士が二人、病院の廊下を歩きながら話をしている。
「しかし、一緒にいた情夫も殺されてるのに、こっちは喰われた形跡がない。となれば、これはよっぽどの女好きだろう」
「まあ、綺麗どころが所望ってなら、今回は俺らにお鉢は回ってこないかもな」
隊士の一人が皮肉げに言った。
「胡蝶様たちのことか」
「そうそう、あんな細腕でよく柱になれたもんだ──あっ」
噂をすれば影が射すとはまさにこのことである。角を曲がった先でカナエと椿の二人と出会した隊士たちは決まり悪げに俯き、「お疲れ様です」と蚊の泣くような声で言った。
椿は無言で会釈するだけに留めたが、カナエは「お勤めご苦労さま!」と愛想よく挨拶をした。それで隊士たちはおっかなびっくりの挙動であたふたと立ち去っていた。
椿はため息をついた。
「あなたときたら、ああも侮られて怒ろうともしないんだから」
「頼りなく見えてしまうのは事実だから、仕方ないわねえ」
呑気に笑うカナエは、不愉快を建前で繕っているのではなくて、本当に、心の芯から寛大に受け止めているのである。椿にしてみれば、彼女のそうした優しさは時に物足りなく、無防備が過ぎるのではないかと思うこともままある。しかし、妹のしのぶの方は謗りを受けて黙っていないし、人を疑うことを知っているから、この姉妹は二人が揃って釣り合いがとれて丁度良くなり、完全な形になるのだ。
二人は共に、普段は応接室として使われているらしい上等な部屋に入った。厚手のカーテンを開き窓を開け放つと、日の光が室内を照らし、机の天板のガラス面についたひっかき傷を一筋浮かび上がらせる。その上に市内の地図を広げて、隠が用意してくれた紅茶と菓子を摘みながら、次はどこに鬼が出没するだろうか、どんな能力を持つ鬼であろうか、人員の配置はどうしようかと話し合った。
いよいよ議論が白熱しようという頃、音を立てて扉が開いた。二人が振り返ると、そこには大剣幕のしのぶが立っていた。
「姉さん!」
「どうしたの、そんなに慌てて」
勢いよく詰め寄る妹を、カナエは平生通りの微笑みを湛えて迎え入れた。
「また、私は待機?」
しのぶの語勢は強い。
カナエは何を言われているのかわからない様子できょとんとしていたが、椿は瞬時に彼女が何を言わんとしているか察した。今回の任務でも、カナエはしのぶに、前面に出ることを許さなかったのだろう。
薬学と医学とに精通したしのぶは、もはや鬼殺隊にとり替えの利かない人材であるから、おいそれ無闇に前線に出すわけにはいかない。それがカナエの言い分である。その言葉が虚実でない証拠に、カナエは妹の適性を見込んで、蝶屋敷の女主人の地位と権限をあらかた譲り渡してしまった。
しかしまあ、しのぶがそんな理由で納得するわけがなかった。
「んん〜〜……」
大きな瞳をまん丸にして近寄ってくるカナエに、しのぶがたじろぐ。そして彼女はあろうことか、「えいっ」と真正面からいもうとに抱きついたのであった。
「ちょっと、姉さん!誤魔化さないで……あっ、だめだって、だめだって、ば……」
「よしよし、可愛い子、可愛い子」
腕の中に閉じ込められて、よしよしと頭を撫でられてはどうにもかなわず、しのぶの怒気はみるみるうちに萎んでいく。なんと言ったって相手は大好きな姉である。椿は、くっつきあう姉妹を眺めながら、京焼の小さな湯呑みに注がれた紅茶に口をつけた。そして、用意できなかったから贅沢は言わないけれども、紅茶はやはり急須と湯呑みではなく、白磁のティーカップで楽しむのが風情に相応しいと思った。
しのぶは「またくるから……」と、どことなく幸福な空気を発散しながらよろよろと部屋を出て行った。不満が解消したわけではないだろうが、「とりあえず今日はこの辺で勘弁してあげよう」ということらしい。
「ごめんね、話の腰を折ってしまって。そうそう、人員配置の件だけれど……」
それからの議論はとんとん拍子に進み、今晩、カナエはここに残って全体の指揮を執り、椿は巡回要員に組み込まれて市中を虱潰しに調べまわることで決まった。
「仲直りしないの?」
「?」
カナエは鉄瓶で湯を沸かしてきて、紅茶を注ぎ直してくれた。椿はありがとうと言って、湯気とともにほのかに漂う芳醇な香りを楽しんだ。
「しのぶは誤魔化されてくれたのよ。優しい妹を持って幸せね、カナエ?」
「でも、私は本当に、」
「あなたが柱として、適切な判断を下していることに異論はないわ。でも、私には、あなたがしのぶを安全なところに仕舞い込もうとしてるようにみえるし、あの子もそう感じているから怒っているんでしょう」
カナエは椿の言葉への反駁を見つけられないようだったが、そう指摘した椿の方も、カナエが自分の振る舞いに無自覚だったのには驚いた。
「……そう見える?」
「最近はね、特にそう」
カナエは「そっか、そっかあ……」と呟きながら、差し入れのビスケットをひと齧りした。
それにしても、この姉妹の様子を見るにつけては、家に残してきた兄弟のことを思い起こさずにはいられなかった。
「俺、ここ出て行った方がいいのかなあ」
ある時、庭の植栽の傷んだ葉先を鋏で切って整えながら、玄弥がそう言った。
「兄貴が元気にやってるってわかって安心したんだ。だからここを出てって、悲鳴嶼さんに頼んで、鬼殺隊に入れるように鍛えてもらおうと思って」
悲鳴嶼に教えを乞いたいとは中々贅沢な発想だが、椿はここは玄弥の自立心を評価することにして「悪くない考えだと思うわ」と言った。
「でも出ていくなんて言わずに、いつでも帰って来てくれたらいいのよ。彼、あなたと一緒にいるととても楽しそうだもの」
「邪魔じゃねえ?俺」
「邪魔ではないわ」
椿が断言すると、玄弥はふーん、と気の抜けた相槌を打って、今度は移植ごてで土を掘り返すのを手伝い始めた。
「でも兄貴さあ、俺が椿さんと一緒にいるとすっげえ目つきで睨んでくんだけど」
「あれはねえ、私たちが仲良くしてるのが嬉しいのよ」
彼は相変わらず、鬼殺隊に入りたいという弟の望みを頑なに拒んでいて、もし玄弥がこのことで何か言おうものなら「兄貴」のあの字も言わないうちに鉄拳を飛ばすだろう。ただし、驚くことが一つあって、それは実弥が、自分の弟は鬼と戦える見込みがあって、十分な訓練を積めば、最終選別もわけなくこなして見せるだろう、と考えていることだった。
つまり、実弥は
事実を述べるなら、玄弥には兄ほどの剣術の才能はない。まるで兄弟らに平等に割り振るために用意されていた才能が、兄の方に一身に授けられてしまったかのように、玄弥には呼吸の適性というものがまるきり欠けている。天の差配とは、ことほど左様に不公正で過酷である。
剣術の才や呼吸の適性は、必ずしも燕雀鳳を生まずということはないし、堯の子堯ならずということもまま起こりうる。見かけよりもずっと思慮の深い男が、こんな初歩的な可能性に思い至らないのは驚くべきことであるが、椿はそこに、弟への無意識の信頼を感じて、微笑ましく思ったものだ。
「いつまで土いじりしてやがる!さっさと手ェ洗ってこい!」
昼飯できてんぞと、丼鉢を三つ、うまいこと腕に抱えて縁側から声を張り上げる兄の姿を見て、玄弥は移植ごてを大急ぎで籠の中に突っ込んだ。椿は「すぐに行くわ!」と返事をして、一緒にいきましょうと背後から玄弥に抱き寄せた。玄弥は蛙が潰れたような声を上げたが、自分たちを眼差す実弥の目元がわずかに和んだのを、椿は見逃していなかった。
そんなことを思い返しながら窓の外を見ると、日はすでに大分傾いていて、西日が目に痛かった。椿は椅子から立ち上がった。
「私が帰ってくるまでにちゃんと話し合って、仲直りしておきなさい。簡単でしょう?」
カナエは腕を組んで難しい顔をした。妹の頑固は筋金入りだ。
「許してもらえなかったらどうするの」
「そうねえ、仲直りするまでの間、しのぶと一緒に銀座にシュークリームを食べに行くお役目は私に譲ってもらおうかしら」
「だめ!それはだめよ!仲間外れにしないで!」
二人は戯れに言い合い、少女の顔をしてくすくすと笑い合った。そして、この任務が終わったら、近頃評判の洋食屋にみんなで揃って食べに行こうと約束してから別れ、椿は生温い夕風の立つ街を歩き出した。
月の明るい夜である。
板塀の続く陰鬱な往路を行くと、まもなく吉原遊郭に突き当たる。郭をぐるりと囲むお堀を指してお歯黒溝といい、手前の路地には娼妓相手に化粧品や日用品を売ってる小間物屋だとか荒物屋だとかが並んでいる。
その道半ばに、偵察に出していた椿の鎹鴉が、両翼を広げて飛び立つ格好のまま地面に落ちていた。
椿は近寄って、暖かさが残る躰を胸に抱きあげた。首から胴体にかけてを、鋭く切り裂かれて死んでいる。
「誰にやられたの」
鬼殺隊に入って以来ずっと付き従ってくれた、よく主人を慕ってくれた雌鴉から、返答が戻ってくることはなかった。
何かがいる。
深夜十二時をとうに越した娼窟街はひっそりと沈まる。住人たちの宵寝は深いと見える。
堀の水は不潔に濁り、人家の格子窓に絡まる朝顔の蔦はからからに萎れている。
蒸し暑いほどの夏だのに、風だけが凍えるように冷たい。
「あれぇ、柱じゃないんだ?」
仰々しい被り物、しっかりした体躯、和とも洋ともつかぬ装束を纏った若い男の姿をした鬼は、椿の隊服を見て、そこに金色の釦がついていなかったために、やや落胆した面持ちだった。しかし、すぐに取り直して屈託なく笑い、不吉に輝く虹色の両眼をこちらに向けた。
そこに刻まれた、墨で書いたような文字。眼球に数字が刻まれているのは、十二鬼月の証。
上弦の弐。
剣の柄にかけた手が、奇妙な震え方をする。背筋を汗が伝ったのは、暑さのためだけではない。
上弦の鬼と交戦して生きて帰ってきた者を、存命の鬼狩りの中に見出すことはできない。柱ですら、上弦の鬼を前にしては、勝利するどころか生き延びることさえ困難なのだ。しかし、だからこそ情報の確保のために、戦いを見届ける隊士があともう二人、せめて一人はこの場に欲しかった。
だがここに至って撤退を選ぶことはできない。時間はない。選択肢もない。
このまま戦うしかない。
「せっかく手間をかけて鬼狩りを呼び寄せたんだから、せっかくなら柱がよかったなあ。でも大丈夫だよ。来てくれたのが可愛い女の子で嬉しいな。それに──すごくいい匂いがする」
椿はこの鬼の言動を聞き続けることの愚を悟り、刀を抜いた。もう手先は震えなかった。
水の呼吸・壱ノ型、水面斬り
鬼は椿の先制攻撃を易々と回避した。近づけばより一層強烈に匂う腐った死臭に、嫌悪感が込み上げる。
「俺の名前は童磨。ねえ、君の名前を教えておくれよ」
鬼は鉄扇を振い、氷の鞭を繰り出した。回避する椿に答える余裕はない。
椿はこの一瞬の攻防で、己と鬼との間に横たわる圧倒的な力量の差を、極めて正確に認識した。鬼狩りとしての豊富な戦闘経験が、それを可能にさせた。
何十年何百年に渡り生き長らえた上弦の鬼。数多の人間を喰らい尽くし、おそらく柱さえも容易く葬り去ってきた。対する椿が単独で討伐した鬼の数は四十三体、平隊士としては上出来だろうが、この敵と戦うには何もかもが不十分だ。
今ここで、この強力な敵を相手に、私は何をするべき?
なすべきことは、この鬼の頸を切ること。できないなら、ほかの人間に危害が及ばないように、時間を稼ぐこと。この夜に誰も死なせないこと。
業腹だが、時間稼ぎになることは一つでもやるべきだ。
「なぜ女ばかり狙う?」
椿が硬い声遣で問いかけると、鬼は存外素直に答えを返した。
「だって、どうせ喰べるなら干からびた硬い肉よりは柔らかい肉のほうがいいだろう?それに、女の方が男よりもたくさん栄養があるから、強くなるには効率がいいんだよ」
「……そう。よく喋ってくれるのね」
「君はここで死んで俺の一部になるんだから、この世で聞き残したことがないように物事の理を教えてあげるのも俺の務めだからね。……ああ、怖がらなくていいんだよ!これは幸せな、名誉なことなんだから」
聞いているだけで耳が腐り落ちそうだ。頭が痛い。
椿の放った刺突が、敵の眉間から顎までを浅く切り割るが、すぐさま跡形もなく傷が塞がる。驚異的な速さだ。治癒速度が、これまで戦った鬼とは比較にならぬほど早い。
「若い女の子はみんな美味しいけど、特に鬼狩りの女の子は格別だよ。みんな鍛えてて豊かな肉体を持ってる。まるで俺の一部になるために頑張って美味しくなってくれてるみたい。なんだか家畜場の豚みたいで滑稽だよね」
その上頭も舌もよく回る。こちらが何を言われて不愉快に感じるのか、理解して言葉を紡いでいる。
「お前ほどお喋りな鬼は初めてよ」
「褒めてくれるんだ。嬉しいな、頭を撫でてあげようか」
「なぜ初対面の男に触れられて嬉しがる女がいると思えるの?人との接し方を学んでこなかったようね」
「失礼だなあ!今まで俺に頭を撫でられて喜ばない女の子はいなかったのに!」
血鬼術・冬ざれ氷柱
四方から無数の氷柱が襲いかかる。手数が多すぎる。回避できない。
であれば、すべて叩き落せばよい。
突如張り詰めていた力を抜いた椿の姿は、鬼の目には戦いを諦めたようにすら映ったかもしれない。だが、椿は考えなしになって緊張を解いたのでない。ぎりぎりの際を見定めて、不要不純なものを削ぎ落としたのだった。
椿の日輪刀は、刃渡り二尺ばかりのごくごく一般的な打刀だ。特段の仕掛けなどもない。なんの変哲もないのが一番使い勝手が良く、臨機応変に対応できる。水の呼吸の真髄は、変幻自在であること。柔よく剛を制し、あらゆるものに形を変えて対処する、というのが育手の教えである。
そして、冨岡の戦いぶりを長く間近で見てきた人間としての実感でもある。
水の呼吸・拾壱ノ型、凪
自然体から放たれた、当代の水柱が編み出した水の呼吸の極致の技が、鬼の攻撃を完全に無力化した。鬼はそれを気にするでもなく、むしろ虹色の瞳は、ますます輝きを増したようである。
「これまでたくさんの水の呼吸の使い手を見てきたけれど、その技は初めて見るなあ!」
初見の技に興を催した鬼は、興味津々の様子で、優雅な仕草で扇を振るった。
「くうっ……!」
「やるねえ!もう少し早くしようか!」
敵は今し方いなされた技を再度放つ。宣言通り、先ほどよりも速度と威力が上がっている。
初めから最高速で叩くのでなく、徐々に速度を上げることで、こちらの技の限界がどこにあるのかを見極めようとしているのだ。これを可能にする力量がまず脅威である。
この鬼の強さには、底が見えない。
柱が複数でかからねば、勝ち目がないと見て良い。最低でも三人、いや四人、命を擦り潰す覚悟でかかってようやく仕留められるかどうか。
椿が今の今まで悠長に戦えているのは、実力差が拮抗しているからではなく、手加減されているからだ。この鬼にとってこちらの攻撃は児戯に等しく、真剣な回避行動を取るほどの脅威でない。
水色の刃の鋒が鬼の頭蓋を深々と割る。
これは鬼に取っては不覚であったようだ。ここにきて椿の速度が、鬼の想定を初めて上回った。
鬼はぞっとするような笑顔を浮かべた。
「お返し」
後方に引く暇さえ与えられず、鬼は一瞬のうちに距離を詰めて椿の頬に手を当てた。間近に迫ったこの鬼のすべてが椿に身の毛がよだつような嫌悪感を抱かせた。
「綺麗な目をしてるね、このまま食べちゃいたいくらい」
そして、鬼の親指が、嫌な音を立てて椿の右の眼孔に食い込んだ。
「……ぐ、っつ……!」
強烈な痛みが精神を萎えさせるよりも強く、戦士の本能が手足を突き動かした。
可も不可も知ったことか、一刻も早くこの鬼を誅殺せねばならない。
左足を軸にして、渾身の力で振り上げた右足が、鬼の胴にまともに命中する。強靭な体幹はその程度ではびくともしない。鬼は笑みを絶やさない。
しかし、足を絞り身体ごと絡めとって引き寄せようとすると、意図を掴みかねたのか表情が変わった。
この距離なら、頸に届く。
下から刃を跳ね上げようと構えた所作が何を目的とするのか瞬時に悟った鬼は、すぐさま椿から離れて後方に飛び退いたが、代償として両腕を切り落とされた。
人間同士の決闘なら決定打になっただろうそれも、疲労せず、あらゆる傷が瞬く間に治癒する鬼相手には無意味と帰する。
鬼はあっという間に再生した両腕で、再び武器の扇を手に握った。
「俺の頸を取ろうとしたんだね。あの状態から中々決断できることじゃないよ」
一聞では賞賛なのか嘲笑なのかは判別しかねたが、鬼が人間を賞賛することなどあり得ぬのだから、後者が真意に決まっていた。
眼孔から抉り取られた目玉が、切り落ちた鬼の手のひらから地面にごろんと転がる。
椿は足元に転がってきたそれを、ためらいなく足で踏み付けにした。
柔らかい不気味な感触が靴の裏皮越しに伝わる。それで、椿の視覚を半分担ってきた器官はあっけなく潰れて、透明の液体が辺りに飛び散った。
「自分の目玉なのによくやるね」
「お前の一部になるくらいなら、潰してしまったほうがまし」
椿は剣を構え直した。
「這いつくばって地に伏して啜る無様を晒すなら、止めはしないけれど」
血管を収縮して出血を抑えても、夜明けまではまだ一時間以上ある。
あと自分がどれだけ持つか、見当もつかない。だが出来るだけ長く、ここに足止めをする。どれほど強くとも鬼が鬼である以上は、陽光が近くなれば撤退せざるを得ない。そこにしか活路を見出せないのは情けない限りだが、それで一人でも多くの命が救われるなら、自分がここまでやってきた甲斐もあるだろう。
鬼の速度が更に上がる。だが、椿の方もまた、戦いの中で己の能力が加速度的に引き上げられているのがわかる。
水の呼吸・拾ノ型、生生流転
死角から飛んできた攻撃が頬を切り裂く。すでに喪失した感覚器官に頼ろうとするな。よく見、よく聞くだけでは足りない。悲鳴嶼がなんと言っていたか思い出せ。
立て続けの鬼の波状攻撃によって、周囲の門行燈、家屋までが凍りつき、細切れに分断されては崩壊して地面に落ちる。
住人たちは何か恐ろしいことが起きているのを本能で察知しているのだろう。騒ぎが大きくなっているというのに、誰一人家内から出てこようとしない。賢明だ。ありがたい。一般人が戦いに巻き込まれて、命を失うようなことだけは避けねばならない。
「君は不幸な子だね」
鬼は心からそう思って、可哀想がっているような声音である。
「初めから生きて帰る気がないんだろう?」
放って置け。何が私の幸せかは、私が決められる。
不毛な問答であると理解しつつも、不愉快を跳ね除けるために声を上げようとしたその時、言いようのない違和感を感じた。
呼吸が続かなくなってきた。技の精度が落ちている。
疲労が募ったためだけではない。むしろ感覚そのものは、これまでにないほど研ぎ澄まされている。
原因はなんだ?
思考は目まぐるしく回転し、知覚を総動員して周囲を探る。
氷の粉。
扇の動く軌道に沿って、微細な粉氷の粒子。あの扇を煽いで空気中に散布している。それが己の肺の動きを低下させている。
これもこの鬼の能力としたら、一体どうやって倒せる。最高の剣士であっても、呼吸をしないで戦うことはできない。
椿のほんのわずかの思考の隙を、鬼は見逃さなかった。
血鬼術・枯園垂り
躱し切れなかった氷の刃に背と足とを貫かれ、耐え切れずに膝を突く。血を吐いてしゃがみこむ椿の姿を、鬼は何の驚きもなさそうに見下ろした。きっとこの調子で、数え切れないほど多くの鬼狩りを葬ってきたのだろう。
「頑丈なのが仇になったね。苦しくても意識を失えないんだ、かわいそうに、今楽にしてあげるから──」
かわいそうと言いながら、こちらの首を落とそうとする動作が、途中でぴたりと止まった。
鬼が視線を投げる方角。斜後方の屋根の上に、別の鬼の気配を感じる。
椿は自由にならない首を動かして何とか新手の姿を捉えようとした。童磨は扇の代わりに、片方の手を気さくに振った。
「堕姫じゃないか!元気だったかい?」
「ここはアタシ
同胞の到来を歓迎する童磨に引き換え、堕姫と呼ばれた女鬼ははっきりと不機嫌そうだ。
「ごめんごめん。でも、娼婦たちには手を出してないんだから、許しておくれよ」
「悪いと思うならそこの女を頂戴」
「人の物を取ろうとするのはお行儀が悪いぜ」
「柱を探しにいけばいいじゃない。アタシ知ってるんだから。山奥でだらだらしてる暇があったら柱の一人二人殺してこいってご勘気を被ったから、わざわざ目立つ真似をして鬼狩りをおびき寄せていたんでしょう。それなのにこんな雑魚を嬲って遊んでいたのがバレたら、あの方はなんていうかしらね?」
女鬼は己の縄張りに飛び込んできた素晴らしい獲物を、なんとか横取りできないかと口を尽くしている。そして、彼女の態度はあくまで高慢だが、これはむしろ相手に気を許しているためだろうし、童磨の方にしても、その馴れ馴れしさを鷹揚に受け止めているようである。
こいつらは知り合いなのか?鬼同士なのに?
鬼は群れない。群れることができない。だが、上弦の弐と上弦の──数まではわからなかったが、とにかく、上弦の鬼同士はその原則の例外なのかもしれない。確かに、鬼同士が鬼狩りの情報を共有することが出来るなら、計り知れない優位を得られる。
しかし椿は、もはや上弦鬼の生態に気を取られるどころでない。立ち上がろうと試みても、身体に力が入らない。肺がまずい。呼吸ができない。
二鬼の視線がこちらに注がれているのを感じる。相手を出し抜いて、瀕死の鼠に最後の一撃を喰らわせる機会を虎視眈々と狙っている。
ただで殺されてなるものか。
苦しみにもがきながら、柄を握る手に力を込めようとした瞬間だった。
花の呼吸・参ノ型、雲居の桜
よく見知った剣筋だった。もう何年も、竹刀を交えて互いを高め合ってきたのだから、見間違えるはずがなかった。
鬼の背後から一思いに振るわれたカナエの一撃は、鬼の喉笛を突き切ったものの、返す刀に反撃を受けたことで頸を落とすには至らない。続け様に小萩が女鬼の方に切り掛かった。
「……!どっから湧いて出てきたこのクソ女共!」
女鬼は突然の闖入者に怒り唸った。
「小萩!」カナエが鋭く叫んだ。
「引けと言われても聞きませんよ!いくらなんでも二体相手は無理でしょう?あっという間にやられちゃいますよ」
小萩は低く笑い、そして「最後までお師範様と一緒に戦います」と決然として言った。
「……アオイと仲良くするのよ!」
「それはちょっと!約束できません!」
小萩はそう答えると、逆上して反撃に出た女鬼とともに、屋根の向こうに消えていった。
椿は相変わらず動けないでままで、口からは血と苦しげな吐息が漏れるばかりである。
仲間が来てくれただけで、安心して、張り詰めていた糸が切れてしまうなんて、なんと情けないことだろう。
カナエは、椿を庇うように鬼の前に立ちはだかった。やめてほしいと思った。後は死ぬだけの自分のことなど何も気にしないで戦ってほしかった。
そして今となっては、戦いで得た情報の何もかもを伝えられない己の不甲斐なさだけが思い致されて辛かった。
「仲間思いだねえ、素敵だねえ」
場違いに明るい拍手が辺りに響く。
「どうしてこんな酷いことをするの?」
カナエの牡丹のように可憐な唇から発された思いがけない言葉に、鬼は意表を突かれて首を傾けた。
「……それ、今聞く?仲間がそこで死にかけてるのに。頭までお花畑なのかな」
「あなたがどうしてこんな風に人を傷付けて平気でいられるのか、私は知りたい」
カナエの語調はあくまで穏やかだったが、それにそぐわぬ不動の強さを孕んでいた。
こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそ、その態度がひどく彼女らしくて、なんだかおかしかった。椿はカナエの、そういうところが好きだった。
「さあ、あなたの相手は私よ」
誰しもがこの世に望んで生まれ落ちるのではなく、誰しもが望んで罪を犯すわけではない。
かつて椿は、胡蝶カナエの性質を指して、根本的にものを憎む心の働きを欠いていると言った。それが的を得ているかはともかくして、少なくとも、カナエが鬼との戦いに身を投じたのは、誰かを守りたいからであって、鬼が憎かったからでないことは間違いない。
もちろん、親を亡くした悲しみは強かったが、それからの日々に恩人を得、師を得、妹たちを得、友人を得ることができた。そして常に、しのぶがそばにいてくれた。比類なき幸運と幸福であったと思う。
「『我が心の良くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともある』と、そう言いたいわけね」
椿とはよく話をした。
「人を喰った鬼を許すことはできない」
「許すと言っているわけではないのよ」
「もちろん。罪を許すのは人の業ではなく、神仏のみ
鬼の罪を濯ぐのは神仏の役であると彼女はいう。
では、人が鬼に向ける憐みは無意味であろうか。そうは思わない。
カナエは悲しくも鬼に転じた者たちが、愛しい家族を傷つけたくないと、時に涙すら流して人喰いの本能に抵抗する姿を見てきたのだ。彼らは結局は食人衝動に負けて、頸を落とされたが、もし本能に抗いきり、人の肉を頂こうとしない鬼がいたなら、カナエは決して見捨てはしないだろう。力を貸してあげよう。寄り添ってあげよう。
己の生き方にも死に方にも悔いはなかった。今際に己の命を奪おうとする鬼に対してすら怒りはなく、人の善意も悪意もまともに受け止められぬ定めを背負った虚無の男を哀れと感じるのみである。
けれども、一つだけ、どうしてもたった一つの未練だけが消えずに心の底に沈んでいる。
かつて一心同体のようだった、カナエの半身。誰よりも幸せになってほしいと願った愛する妹。
……一緒に戦うって、約束したのに!
弱くて愚かな私は、大切なものを失うことを恐れるあまりに愛する妹の切なき叫びに耳を塞いだ。しのぶには、身勝手な願いのままに死んでいく姉のことを、許してほしいと思わなかった。
「我々には待機命令が出ています」
「わかってる。でも、柱の応援は間に合わない」
しのぶは苛立ちを抑えきれないまま、隠に車を手配させようとした。
椿の鎹鴉から、定時の報告が途絶えた。
カナエは異常を察知するや否や、ここから一番近くにいる柱に応援を要請すると、すぐさま小萩だけを連れて現場に向かった。しのぶをを置き去りにして。
「花柱様は、己と継子の二人でことに当たるとご判断をされたのです。しのぶ様……!」
しのぶのこめかみが、不安と焦燥とで焼き切れるように痛んだ。
「……車を用意して」
そう繰り返すと、隠の女性はぎゅっと目を瞑り、懊悩の末に「手配して参ります」と答えた。
「しのぶ様」
しんと冷えた声を受けてしのぶが振り返る。
そこには、白い長衣を脱ぎ捨てたアオイが、日輪刀を抱えて立っていた。少女の顔は月光の中で青ざめていた。
「私も行きます」