寒椿の君   作:ばばすてやま

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22.水滴岩を穿たず

 厳しいな、というのが、女鬼と対峙した小萩の率直な手応えである。

 小萩は、師とともに下弦の鬼と戦ったことがあった。そしてその鬼よりも、この帯を操る女鬼は格段に強い。小萩は最初に水の呼吸を学び、胡蝶カナエに師事して、より己の身体に適合した花の呼吸を会得した。それなりの場数も踏んできた。己の強さに対する自負は多少なり持ち合わせている。その自分をして、戦いの主導権を握らせず、常に上手を行く上弦の女鬼。

 結果で言えば、ここに来るのに小萩だけを伴った師の判断は正解だった。下位の隊士が何人雁首を揃えても、この鬼の前には返り討ちにあうことが見えている。

「さっきまでの威勢はどうしたの!?もう息が上がってるわよ!」

 鬼は嘲笑とともに、融通無碍に張り巡らした帯を小萩に向かって飛ばす。右足の脛がざっくり切れる。最初の頃はなんとかついて行けていたのに、ここにきてだんだんと圧されはじめた。

「るっさいわね!なんて格好してんのよ、この痴女!」

「だっっれが痴女だ、阿婆擦れ!」

「お前以外の誰がいるっての!?」

 小萩の罵倒に、女鬼は面白いほど素直に反応を示した。強いことは強いが万事感情的で、頭はあまり良くないようである。

 小萩は怒りのために単調となった攻撃を躱し、空中で身体を捻り上げて鬼の急所を狙った。

 

 

 花の呼吸・陸ノ型、渦桃

 

 

 攻撃は帯の防御に阻まれて頸に届かなかった。地力で負けている。

 まばたきさえはばかられる緊張感の中で、ふと脳裏に、懐かしい光景がよぎった。

 

 豊かな緑の庭。かんかんに照る夏の日盛り。蝉が煩いほど鳴いている。

 

 これが走馬灯かと、苦笑をもらしたいような気分になった。そう、そんなこともあったなと、小萩は初めて蝶屋敷を訪れた日のことを思い出していた。

 

 

 

「鬼殺隊をやめさせてください」

 この屋敷の女主人、胡蝶カナエを前にして、小萩は開口一番にそう言った。

 これは小萩のことではない。アオイのことである。かつて同じ育手のもとで研鑽に励んだ少女が蝶屋敷で働いていることを知って、小萩は苛立ちのままに庇護者である花柱に詰め寄った。鬼殺隊の組織の序列など知ったことではなかった。

「彼女が望むなら、もちろんそうするわ。けれど、アオイはここで大きな力になってくれているし、隊をやめるかやめないかは、あなたが決めることではないわね」

 平隊士の無礼千万を花柱は諫めなかった。その代わり、こちらの要求を容れることは決してないだろうことも、その態度からありありと察せられた。

「あの子は最終選別を突破していない。たまたま生き延びただけの人間に、命をかけて戦ってる私たちと肩を並べる資格があるとでも言うんですか?」

「相応しくないと自分を戒めながらここに身を置き続けることは、逃げ出してしまうよりもずっと辛くて苦しいことよ」

 小萩は他の柱相手ならとっくに処罰ものだと理解していたが、それでも威圧的な態度を崩すことはできなかった。小萩の言っていることは、間違いではないはずだ。正しい人間が卑屈になる必要はない。

 しかし、カナエの瞳は激しい非難に晒されても揺らがずに澄んだままだった。かえって小萩がひどい居心地にさせられた。自分が正しいことをしているのだという確信が揺らぎそうになる。

「あなたはどうしてアオイをここから追い出したりしたいと思うの?」

「どうしてって、妹弟子の不始末をつけるのは姉弟子としてのけじめってものじゃありませんか」

「それだけ?」

「それだけって……何ですか」

「……そう、そう、そうなの」

 花柱は一人合点してしきりに頷いていた。一体なんなんだと小萩が詰め寄ろうとしたその時、彼女の口から、完全に慮外の一言が飛び出した。

「ねえあなた。私の継子にならない?」

「…………はあ?」

 

 今思い返せばなるほど、実に胡蝶カナエらしい話ではある。

 カナエは小萩が知るどんな鬼狩りよりも苛烈な女であった。悲劇の因果を断ち切るために鬼の頸を落とすくせに、その鬼に対する慈悲を説くカナエのことを、小萩ははじめ気が狂っていると思った。猟師が畑を荒らす猪に、都度、ああ、あの猪にも巣に帰れば家族があるのだなあと心を寄せていてはやってられまい。しかしカナエはそれをやる。彼女には鋼鉄の信念があり、それは火で炙られようと穴に吊られようと決して曲がることはないのだろう。大したものである。そう理解すると、彼女に対する純粋な敬意と親愛の念が湧き上がった。憧れはしなかったけれども。

 小萩が思うに、師が誰からも好感を持たれるのは、彼女自身が誰に対しても好感を持つからだ。彼女が何かを悪様に言っているのを、小萩は聞いたことがない。とはいえ、こんな恐ろしい女を相手に、よくもまあ男たちは鼻の下を伸ばせるものだと思った。この女性に比べれば、鬼に対する憎しみを隠そうともしないしのぶとか他の女隊士とかの方がよほど理解の範疇にある。

「どうしたんですか?小萩さん」

「んー?なんでもないよ。これ洗濯しといてくれる、きよちゃん」

 蝶屋敷に迎え入れられた小萩は、そこにいるのを楽しんでいたが、髪飾りを与えられてなお、やはり自分だけがどこか違う、という異物感を拭うことはできなかった。

 ここにいる可憐な少女たちは、当たり前に他人の幸せを願える人たち。彼女たちは美しいところからここに降ってきた。小萩は溝沼の中から這いあがってきた。物の見方は自ずと異なる。

 小萩は孤児だった。人から物を盗み、ごみを漁って暮らしてきた。

 それでも家族と一緒にいた時よりもずっとましだった。毎日毎日畑仕事と柴刈りと駄馬のようにこき使われて、いつか女郎部屋に売り飛ばしてやるのだといい聞かされれて育った小萩は、家族が死んだことでやっと自由を得たのだ。線路伝いに歩いて田舎から都会に出てきて、おんなじような境遇の孤児たちとつるみ、物乞も泥棒も、なんでもやった。

 小萩は器用で要領が良かった。だから、立派なコートを佩用した紳士の衣嚢や、綺麗な身なりの婦人の懐から、丸々肥え太った財布を掏るのも容易にやってのけた。良心の呵責はなかった。彼らは恵まれた身分とそれに見合う財貨の所有者なのだ。財布を失くしたくらいで明日の朝飯に事欠くわけではない。ならば自分たちみたいな憐れな子供に、ちょっとしたお裾分けをくれてやっても良いではないか?小萩は自らの行いをそのように正当化した。

 浮浪児たちの群れを率いる頭領は痩せた老婆で、浮浪児たちが掠め取ってきた上りを懐に入れていた。仕事のできないのろまは哀れで、稼ぎがないとひどく打たれた。

 小萩は最底辺の暮らしの中ではうまくやれている方だったが、だんだん嫌気がさすようになった。昔馴染みの仲間が、警吏に頭をしたたかに棒で叩かれて帰ってきて、夜のうちは大丈夫と笑っていたけども、朝起きてみれば隣で冷たくなって死んでいたのもこたえた。仲が良かったからと言うよりも、明日は我が身と思ったのだ。

 そんな折に、ある孤児仲間が「ここを出て行って鬼狩りにならないか」と持ちかけてきた。

 仲間によると『鬼狩り』というものになれば、常に化け物と命をかけて戦わねばならないけれども、その代わりに自由に使えるお金がたくさんもらえて、上質な衣食住を保証してくれるんだという。

 ちょっと話がうますぎるのではないかと思ったが、今だって一日一日を生きるのが命がけ、明日もしれぬ身。化け物と戦うくらいどうということはない。

 小萩は誘いに乗って、剣士を育てる育手のもとに向かった。

 育手は他人を傷つけたり、ものを盗んだりするのはいけないことだと諭してくれた最初の大人であった。小萩は生まれて初めて綿の布団で眠りにつき、物を食べすぎて満腹になるというのがどういう状態であるかを知った。なるほどここは良いところだ。腹を満たすに十分な食糧があり、雨露を凌げる快適な寝床があり、清潔な着物を季節ごとに取り替えて着ることができる。人間にとって生きるために必要十分なすべてがある。

 訓練はキツかったが、どんなに辛くても、昔の暮らしにだけは絶対に戻りたくない。ここ以上に安寧な暮らしは望めない。そう思えば耐えられた。

 

 アオイがやって来たのは、若葉から玉雫が滴り落ちる梅雨の頃のことであった。

 

 自分のように家族を失って不幸になる人を増やしたくない、と言って修行に励むアオイに、小萩は、へえ、としか返しようがなかった。アオイには養ってくれる親族もいたのに、わざわざこんなところまでやってくるなんて、どうかしてる。自分みたいな、何にも持たない孤児ならともかく、食うに困らない人間が強いられもしないのに他人のために命をかけて戦うなんて正気の沙汰ではない、という感覚があったのだ。

 アオイは小萩と違って真面目な気質で、鍛錬に手を抜かなかったから、二人はしばしば衝突した。小萩はアオイのことは嫌いではなかったが、この四角四面な性格だけはどうにかならないかなあと思っていた。どうにも今まで身近にいなかった類の人間だった。

「小萩!先生を困らせないで!」

 修行を半ばで切り上げて街遊びから戻ってきた小萩を、アオイは腰に手を当てて待ち構えていた。

「困ってないでしょ」

 実際、育手は小萩の奔放を強く諫めなかった。小萩はもう十分強くなっていて、まだここにいるのは次の選別までの猶予期間に過ぎなかった。

 アオイは小萩が悪びれないのでぷりぷりと怒っていたが、もうこれ以上は言っても無駄だと悟ったのか、「これ、あなたの分だから」と言って、布で包んだ何かを押し渡した。布は桑の実を一盛り包んでいた。

 小萩はびっくりして、思わず「なんでこんなのくれるの?」と聞いた。

「先生が持ってきてくれたの。私はもう貰ったから、これはあなたの分」

 アオイの言ったことを聞いても小萩の釈然としなささは解消しなかった。小萩は桑の実を舌に乗せて再び問いかけた。

「なんでわざわざ取っておいてくれたわけ?私が知らないうちに独り占めしておけば良かったのに。言っとくけど、あたし貧乏人だから。あんたにあげられるものなんか何にもないから」

「べ、別にいらないけど……」

 アオイは小萩の喧嘩腰の態度の理由がわからず困惑していた。アオイにとって、得たものを自分だけのものにしないで他人と分かち合うのは、ごく当たり前のことで、何らの見返りを求めるような行為ではないのだ。

 何よう正義漢ぶって!小萩は道端の小石を蹴り上げてふて腐れた。彼女が他人に親切できるのは、たまたま富んだ家に生まれて、優しい人たちに囲まれて育ったためではないか。自分みたいに、泥水を啜って残飯を漁る身分に生まれたならあんな綺麗事だけで生きていけなかったはずだ。私だって、人から奪ったり盗んだりせずにいたかった。まともに生きていけるならそうしたかった。

 しかし、そう考えること自体が己の惨めさを増すだけだった。

 小萩はアオイの善意の礼に、彼女が中々勘所をつかめないでいる技のコツを教えてやった。アオイは姉弟子の言うことをよく聞いてくれて、間も無く彼女は水の呼吸の型を一通り身につけた。満面笑顔のアオイに「ありがとう!」と抱きつかれて、小萩はぎこちない微笑みでそれに応えた。

 季節は巡った。最終選別を間近に控えたある日のことだ。

 就寝時刻に寝床にアオイの姿が見えないので探しに行くと、彼女はお地蔵様の前にしゃがみ込み、そこで手を合わせて、声も上げずに涙を流していた。

 小萩は、やはり気強くしていても家族が恋しいのだなあ、と思って、アオイの隣に並んで座った。そして、鬼がこの世にあろうがなかろうが、人間なんて何でもない理不尽なことで死ぬのだし、親ならなおさら子よりも先に死ぬのだから、いつまでも気に病んでいたって仕方がないと励ました。しかし、アオイはそれを聞いて更に激しく泣いた。小萩は弱り切った。

「泣き止んでよ。あたしがいじめたみたいじゃない」

「うん……ごめん……」

 アオイは小萩が差し出した手布で涙を拭った。

「小萩には家族はいないの?」

「いない。あんな奴ら、死んでくれてせいせいした」

 その言い草を聞いてアオイがぎょっとしたので、小萩は自分の家族がどんなに悪党だったかを説明した。気まぐれに人を殴る父親、飯をくれない継母、腹違いの姉を小突き回す憎たらしい異母弟たち。その家族が流行病で死んで、どぶさらいまでして生き延びていたことまで。しかし、さすがに盗みを働いていた過去を告白する勇気はなかった。

 小萩の身の上話を聞かされたアオイの眼は、哀れみとも悲しみともつかぬ不思議な色に染まっていた。

 今ならわかるが、あの時の彼女は、小萩が感じてきたこの世の理不尽の悲しみを分かち合おうとしてくれていたのだ。

 その日二人は、同じ布団で枕を並べて眠りについた。

 認めざるを得なかった。

 小萩は、アオイの誰かの命が奪われて悲しいと感じる心や、見ず知らずの他人を守るために戦おうとする志を美しいと感じたのだ。素直にそう受け入れた時、初めて誰かのために命がけで戦ってみるのも悪くないかも知れない、彼女のように美しい人間には永劫なれはしないだろうが、しかし、きっと悪い気分にはならないだろう――そう思った。

 こんな心もちで最終選別に臨んでしまったものだから、アオイの心が挫けた時の失望は大きかった。

 アオイが蝶屋敷に居処を見出したことを知っても、小萩の苛立ちは募るばかりだった。あの真面目の心が、そんなことで救われるものか!確かにアオイは、蝶屋敷で誰からも頼りにされ、よく働いていたけれども、ふとした瞬間に、なんとも言えぬ暗い後めたさを漂わせていることがあった。隊士であるにも関わらず、戦いに行くことのできない己を恥じていることは明白だった。

 戦えない自分を後めたく思うのは、どっちつかずの中途半端を続けているからだ。それならきちんとけじめをつけて隊士を辞めるべきだ。こんなところさっさと出ていけば良い。命をかけて戦うことは間違いなく恐ろしいのだから、恐ろしいと感じる心そのものを責めるものは誰もいない。守られる側の人間に戻れば良い。普通の娘の幸せを手に入れて暮らして行けばいい。

 お前がやれないなら私がやる。私がお前の代わりに人を守ってやる。だから、そんな顔をしないでほしい。自分のことを価値のないもののように思わないでほしい。

 ……すべて小萩の身勝手だった。

 

 

 

「これで終わりよ!さっさと死ね!」

 思考の渦から抜け出した小萩の目の前に攻撃が迫る。囲まれている。逃げる場所がない。

 終わった、と力が抜けた瞬間だった。

 

 

 水の呼吸・陸ノ型、ねじれ渦

 

 

 不意打ちだった。小萩も女鬼も全神経を互いに集中していたので、接近する気配に気付かなかったのだ。

「……アオイ?」

 アオイは日輪刀を正眼に構えていたが、小萩の目には洗練されているとは言い難い。実戦経験がほとんど皆無なのだから当たり前だ。

「……何、お前。塵屑にも劣る雑魚の分際でアタシの邪魔をしようっての」

 そして、女鬼はアオイの実力を正しく把握していた。今の攻撃は完全に不意打ちだったから通用したのだ。その証拠にアオイはちょっと睨まれただけで威圧されて膝ががくがく震えている。

 だめだ。太刀打ちできない。アオイが日々の多忙の合間を縫って、剣の鍛錬を続けていたことを、小萩は知っている。だが足りない。

「……逃げなさいよ、死ぬわよ」

 小萩にそう言われても、アオイは動じなかった。それどころか、

「退かない。私も戦う」

 そう言って震えを抑えて、決然と鬼を見据えていた。

 なんでよりにもよってこんな勝ち目のない戦いにやる気を出してるんだと舌打ちした時だ。空気が変わった。

 女鬼の背後から、水色の日輪刀を携えた、血塗れの女がゆらりと姿を現したのだ。上弦の弐にしたたかにやられて、相当の深手を負っていた椿の、血の気の失せた顔にはほとんど表情らしい表情がない。

 女鬼は椿の方に振り返ってあざ笑った。

「なんだ、まだ生きてたの?次から次へと塵虫が――」

 女鬼の言葉がそこで途切れた。音もなく振り抜かれた一閃に反応できず、驚愕に歪んだ女鬼の首が切断面からずるりと落ちる。

 続け様に椿が懐から投げ放った球状の物体を見て、小萩は咄嗟にアオイを庇いながら地面に伏せた。

 鬼の真上に飛んだそれが、一拍の間を置いて炸裂した。

 轟然とした爆音が響き、辺りに黒煙が立ち込める。頑強な鬼の身体さえも傷つける、音柱の特製の火薬玉である。

「報告」

 椿は爆心から立ち上る煙から目を逸らさず、端的に小萩を促した。

「えーっと……鬼の異能はあの帯です。切れ味が鋭くて、蛇みたいにうねって飛んでくる……あの、大丈夫です?目とか、その、色々」

「ありがとう、大丈夫よ」

 小萩が満身創痍の体を気遣うと、椿はそこでようやく二人を安心させるように微笑んだ。

「二人とも、油断しないで」

 アオイが怪訝そうに椿と小萩の両方に交互に視線をやった。小萩は肩を竦めた。女鬼の頸は間違いなく落ちていた。その上、あの爆発で木っ端微塵にされては生きているわけがない。

 しかし、二人の予想は外れた。爆煙が晴れたそこには、頸の傷と火傷を再生した女鬼が口汚く喚いて健在でいた。

「お前!!お前!!!よくもやってくれたわね!この死に損ない!」

 アオイが容赦ない怒声に身体を強張らせた。ありえない。首を切り落として焼いたのに生きている。

 一方の椿は動揺した素振りもない。片方だけ残った青眼の瞳の奥はひんやりと冷たい。

「生き汚いのはどちらかしら。おまけによく口が回ること。上弦の鬼とはみなそうなの?」

 女鬼はそれには答えずに、呪詛のように死ね、死ね、と繰り返す。

「何よお前、見ればわかるわよ。綺麗に生まれて、人に傅かれて、金にも食べるものにも困ったことなんか一度もないんでしょう。そのくせ自分が何かを損なうのは絶対に許せない、そんな連中、掃いて捨てるくらい見てきたんだから」

「何が言いたいの?私にはお前の腐った根性を満足させるために、美しく才能豊かに生まれて申し訳ありませんでしたと頭を垂れる気はないわ」

「このっ……減らず口ばかりっ……やっぱりブス!性格ブス!」

 小萩は女鬼の言い草が面白くて、なんだか笑えてきた。彼女の言っていることは、昔の自分とほとんど同じだった。

「なに笑ってんのよ、アンタは」女鬼は鼻尻に皺を寄せて小萩に言い捨てた。

「別に?気が合うと思っただけ。そうよね、豊かな人間から奪い取るのって気分がいいわよね、楽しいわよね」

「?」

 椿が動いた。手負いにも関わらず小萩とは段違いの速さだ。

「焦っているわね、お前」

 椿が女鬼の攻撃をかいくぐりながらそう言った。

「夜明けが近いもの。そうでしょう」

 女鬼の口からきりきりと歯を食いしばる音が聞こえてきそうである。そうだ。もう日の出が近いのだ。

 小萩が援護に回ろうとした時、女鬼はまるで見えないものを見ようとするかのようにかっと目を見開いた。

「だめ!!」

 女鬼は突如として空に向かって叫び出した。鬼狩りの女たちの視線が、一体何事かと女鬼に注がれた。

「お兄ちゃんは手を出さないで!こいつらはアタシが殺す!」

 女鬼はそう叫びがら、帯を張り巡らしアオイを狙った。対複数人の戦いにおいて、一番弱い者から狙うのは定石だ。女鬼はアオイを死にかけの椿や手負いの小萩よりも弱いと判断した。

 帯がアオイの頬をかすめる。小萩の心臓が嫌な脈打ち方をした。

「私のことは放っておいて!」

「弱いくせに何言ってんのこの愚図!」

 アオイは小萩に庇われながらも機敏に動いた。複雑な軌道を描いて飛んでくる帯も、的がわかっていれば対処もいくらか容易だ。

「大っ体、なんであんたこんなとこに来てんのよ!大人しくしてれば良かったじゃない!」

「だって、私も鬼殺隊の一員なのよ!みんなが命がけで戦ってるのにいつまでも逃げてられない!」

「ハァ!?……あんたってばバカ!ほんとにバカ!」

 今更なんだ、今更なんなんだ。小萩はアオイの身勝手に頭が無茶苦茶になってしまいそうだった。いや、身勝手なのはお互い様だったか。

 防戦を強いられる二人とは反対に、椿は異様な速さで敵を追い詰めている。水色の刃が一度ならず二度までも鬼の脳天を叩き割った。しかし、もともと戦えるような身体ではないのだ。動きの精度は確実に、そして急速に落ちていっている。

 女鬼の動きはいよいよなりふり構わなくなり、通りの家屋が一軒、二軒、巻き添えを食らって崩落した。

 椿は無辜の人間に向かう攻撃を押し留めようとしているが、もはや一呼吸ごとに血を吐いている有様である。気は確かに保てているようだが、いい加減限界だろう。

 人間の体力が切れるのが先か、太陽が昇るのが先かと思われはじめた矢先、緊迫の空気を突き破るものがあった。

 赤ん坊の泣く声だ。

 アオイが弾かれたように泣き声のする方に目を向けた。小萩が遅れてそちらに視線をやると、戦いの余波で倒壊した家屋から、みすぼらしい痩せた女が、赤子を抱いていて震えて這い出てきた。

「二人とも、右!」

 椿が注意を促した時にはもう遅かった。帯が地に這いずっている女性と赤子に向かう。その直線上の手前に小萩はいる。アオイは自分の身を守るだけで精一杯だ。椿は間に合わない。

 攻撃は、あくまで直線で向かってくるから、小萩は身を翻すだけで避けられる。だが、避ければ背後の二人が死ぬ。

 選択の余地はなかった。小萩は刀で攻撃をいなそうと振り切ったが勢いを殺しきれず、鋭利の帯は小萩の腹部をまともに切り裂いた。

「小萩!」

 女鬼は確実に小萩を仕留めようと追い討ちを放ったが、椿の剣撃で軌道を逸らされると、悔しそうに顔を歪めた。もう間も無く夜が明ける。

「覚えてなさいよ!」

 女鬼はそう吐き捨て、そして――脱兎のごとく身を翻し、逃走に転じた。

 死ぬほど情けない後ろ姿に考えつく限りの罵倒を投げつけてやりたい気持ちは山々だったが、生憎、大声を出す余力がない。地に倒れ伏して、は、は、と短く呼吸を続けるのが精一杯だった。

「アオイ、そちらの方々と小萩を診てあげなさい」

 椿はそう言い残して、逃げ出した女鬼の追跡に駆け出した。

 明るんだ往来には人々が一体何事かと飛び出してきて、その内の何人かが倒壊した家屋から女性と赤子を引っ張り出していた。二人とも命に別状はなさそうだ。

 小萩は横たわったまま、視線だけ動かして自分の下半身を眺めた。腹の傷の赤い裂け目から、内臓がはみ出ていた。胸から下は痛みを通り越して感覚がなく、もはや自分の身体とは思えなかった。

 女性と赤子を診終えたアオイがこちらに駆け寄ってきた。そして、小萩を手当てしようとして、あまりの凄惨な傷の具合に息を飲んだ。

「なにぼさっとしてんの。あんたもさっさと追っかけなさい」

 小萩は努めて平常通りに声を発そうとしたが、力が入らないのはどうしようもなかった。

「でも、」

「椿さんのことなら聞く必要ないわ。もう死ぬわよ、私」

 小萩は静かに言った。アオイの息が詰まった。

「見たらわかるでしょ。この傷じゃ助かりっこない。あんた、看護婦やってるくせにそんなこともわかんないの?」

 アオイはこれだけ言われても、小萩から離れようとしなかった。そして、背骨だけ辛うじて繋がっている胴体を、どうにかして縫合しようとする無駄な足掻きを始めた。

「……足手まといでごめんね、弱くてごめんね。いつも小萩の足を引っ張ってるわよね、私」

 アオイは声を震わせたが、小萩はなんで謝るんだとそれがまた癪に触った。矛盾しているようだが、小萩の苛立ちの種は、本質的にはアオイが戦うとか戦わないとか、そう言ったところにはないのだ。

「ちょっとやめてよ、そういう卑屈なのは……刀なんか持てなくたって、あんたはよくやってるし、十分みんなの役に立ってるし……ああ、何が言いたいかって、つまり……」

 小萩は、もう声を出すのも辛かったが、なんとか言いたいことを口にしようと最後の力を振り絞った。言っておかなければ後悔する予感があった。

「戦いに行けなくても弱くても、自分を責める必要はないってこと……」

 結局、小萩は、アオイの気弱な姿を見たくなかったのだ。下ではなく前を向き、その正しさに胸を張って、堂々としていてほしかった。弱くても戦おうとした自分を誇りに思っていてほしかった。

小萩は昔から、人間として正しくあろうとするアオイの振る舞いを尊敬していたのだ。

 アオイは瞳を見開いて、唇を震わせた。

「小萩、私、頑張るから……頑張るから、だから、」

「無理しない」

 小萩が冗談めかして口角を上げると、アオイは同じようにして笑おうとしたが失敗して、顔をくしゃくしゃにした。涙が一筋二筋と頬を伝っていた。

 鬼狩りの死は、惨めなだけの橋の下の死とは違う。先に死んで行った身寄りのない仲間たちと同じに、ねんごろに経を上げて弔ってもらえる。だからもう、死への恐怖はなかった。

 しかし、自分は果たして人に涙を流して見送ってもらえるくらいに価値ある人間になれただろうか。それがわからない。もう理解する機会も訪れない。小萩はここで死ぬから。

「ゆっくりおいで」

 小萩のあるかなきかの微かとなってしまった声は、幸いなことにアオイの耳に届いていた。

「いつ来たっていいけど……待っててあげるから、ずっと」

 極楽にも地獄にも会いたい人はいない小萩にとって、あの世の入り口に座り込んで、アオイがやってくるのを待つのは困難なことではない。百年だって待っていてあげられる。

 アオイはそれを聞いて再び瞳を潤ませたが、もうこれ以上涙は溢れなかった。そして、うん、うん、と繰り返し頷いた。気分が良かった。

 小萩は最後に、みっともなく崩れてよれよれになった、それでも瞳だけは深青に澄んだアオイの面差しだけを網膜に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 森の中に聞こえる鴉の声と、南無阿弥陀仏と唱える低い声、それらを耳にしながら、玄弥は巨岩の上に疲れきった体を横たえて、頭上に広がる夜明け空を眺めている。

 藤の花の季節が終わると、兄も椿も玄弥にばかりかまけていられる時間もなくなり、しょっちゅう屋敷を留守にしている。

 そして玄弥は、二人が家を空けている間、ずっと悲鳴嶼のところで厄介になっている。

 悲鳴嶼に教えを乞うことについて、椿は「自分で説得しなさい」といって口添えなどはしてくれなかった。しかし、彼の住いである侘しい寓居の前に二晩続けて居座って弟子入りを頼み込むと、悲鳴嶼は割とあっさりと根を上げた。玄弥が飯も食わずにその場に座しているのが気の毒になったらしい。悲鳴嶼は暇ということはありえないし、しかも弟子取りにちっとも乗り気でなかった割には、よく玄弥の修行の世話をしてくれている。「この岩を押して動かしてみなさい」と指示されたときはこれは頓知の一種だろうかと面をくらったが、とりあえず今のところは、文字通り石にかじりついてでもやり遂げるべく力を絞っている。今のところこの巨岩、一寸と動きそうな気配はないが、しかしこのくらいのことは兄にだってできるはずだ。自分は兄の弟である。できないはずはない。そう自分を励ましている。

 悲鳴嶼とは一緒に過ごして長くないが、口のうまくない不器用な人だと知れるまでそう時間はかからなかった。悲鳴嶼は鬼殺隊で一番強いのに、ちっとも偉ぶったところがなくて、住居で彼の身の回りの世話をしている隠の人は「あんなにできた人はいない」と大絶賛している。玄弥にはそういったことよりも、夕飯の魚を縁側に寄ってきた猫にためらいなくくれてやるような素朴な優しさが印象に強い。

「御房は息災でおられるか」

「元気ですよ。ほっといたら半日でも平気で説法するからガキ共に煙たがられるくらい」

 これは玄弥がそもそもここにくるきっかけになった僧の話である。昔から面倒見の良い人で、悲鳴嶼も大層世話になったらしい。恩人なのだ、とも言っていた。なんの恩人なのかは聞いていない。

 不死川家の生き別れの兄弟が再会してもう数か月も経つが、大きく変わるものもあれば変わらないものもあり、兄に対する玄弥の感情は単純ではなかった。

 多少は昔のように、兄弟らしく振る舞うことを思い出したとはいえ、兄に対する玄弥の罪悪感は、おそらく一生胸の中にこびりついて取れないだろう。それでいいのだと思う。もともと謝って許されるようなことを言ったつもりもない。

 しかし、自分を守ってくれた兄の気持ちに報いたいと思うのなら、玄弥がやるべきことは、自分だけが楽になりたい自責の念で己を苛むことではないはずだ。

 失われた命が戻ることはなくても、今ここにある命を守りたいと思うから、兄は鬼狩りになったんだろう。兄みたいになりたい。幸せに生きている人たちの平穏を守りたい。

 玄弥のやっていることを、兄は任務に出ていて何にも知らない。しかし、いつまでも隠し通せるわけがないから、近いうちには伝えなくてはならない。知られたら怒りを買うことはもう重々すぎるほど承知していたが、もはや兄の怒りで揺らぐほど脆い決意でもなかった。

 それに、椿は背を押してくれるはずだ。彼女のことを姉などとは気恥ずかしくて口にできそうにもないが、玄弥はもう彼女のことを家族だと思っていた。はじめ反発心で頑なになった玄弥の心は、兄が椿と一緒にいて微笑み合っていたり、労り合っていたりしているのを見ているうちに柔らかくなってしまった。今はただ、兄が幸せそうなのが嬉しかった。玄弥が守りたい幸せの真ん中には兄がいた。椿もそうだった。

「……早く帰ってこないかな」

 大切な人たちの帰りを待ちこがれる玄弥の独り言は、早朝の静寂の中に溶けて消えていった。

 




小萩の当初のキャラコンセプトは「綺麗な獪岳」でした。
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