寒椿の君   作:ばばすてやま

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今気づきましたが、ここすき機能というものが実装されていたようで、押していただいた方ありがとうございます。
煉獄さんは生き様が立派すぎて「煉獄さん」っていう概念みたいになってるので、かえって人並みの人生を楽しんでいてほしいという気持ちになります。



23.からから回る

 煉獄が風柱邸を訪れたのは真夏の昼べのことだ。快晴で、空気は生温く蒸し暑かった。

 出迎えに接した煉獄は、思わぬものを目の当たりにして両眼を見開いた。客人を迎えた風柱の弟の顔面は、ちょっと見られたものではないほどひどく腫れ上がっていた。

「どうしたんだ、その顔は」

「兄貴とちょっと喧嘩しただけです」

 煉獄の拝見するところでは、彼ら兄弟は実力に天と地ほどの差があると見え、ゆえに、殴り合いとなればそれは一方的なものとなったはずであったが、やられた方の玄弥はけろっとしていて、こたえた様子もない。

「君の兄に会いにきた。面会は叶いそうか」

「大丈夫だと思います。俺をぶん殴る気力があるし――あ、忘れてた」

 玄弥は座位のまま煉獄に向き直った。

「本当にありがとうございました。……椿さんを助けてくれて」

 そう言って頭を下げようとした少年を、煉獄はよしてくれと制した。

「俺は何もしていない」

 本当に何もしていないのである。煉獄はただ、花柱の救援要請を受けて最初に到着した柱というだけに過ぎない。現場に着いた時にはすでに夜明けで、すべてが終わった後だった。

 居間には風呂敷包みが置いてあった。どうやらもともと外出するつもりだったところに、煉獄がやってきたものらしい。

「俺は蝶屋敷に行ってます。いや、手当てしてもらおうってんじゃなくて、お見舞いに」

「一緒に行かないのか」

「兄貴は出禁になりました」

「なぜだ」

「今朝屋敷で、こう、やって騒ぎになったので」

 玄弥はこう、と言いながら、拳を作って上下に激しく振った。聞くところによると、今回の任務に追随していた隊士たちの不用意な会話に居合わせてしまったらしい。

 

 ――柱が殺された。上弦の鬼って、そんなに強いのか?

 ――頑張って戦ったって言ったって、倒せなかったんじゃ、なあ……

 

 彼らとしては上弦の鬼を恐れる動揺あまりの弱音であったろうが、聞いて気分が良いものではない。

 しかし、それを不死川が怒ったのは良かったのかもしれない。不死川はなんだかんだといって最後は理性で歯止めを効かすだろうが、胡蝶しのぶが聞いておれば怒るだけでは済まなかっただろう。

「御方の容態は如何か」

「良くないです。でも、医者は意識がなくても、声をかけてやると具合に良いんだって……だから、兄貴の代わりに俺が行きます」

 彼は見舞いに行った後は、しばらくはこの家にも帰らないつもりで、その間は悲鳴嶼のもとで修行に励むと言うことだ。良い気概である。

 入れ替わりに家を出て行く少年から、彼の兄が東側の部屋にいると聞き出し、渡り廊下を歩きながら、煉獄は椿と初めて出会った時のことを回想していた。

 

 

 それは先冬のことであった。北風に流された雪が、山里に生い茂る芒の草原や杉の梢枝の上に静かに降り注いでいた。

 その日は偶然、帰り路で不死川と一緒になったので、情報交換がてらたわいもない話に興じていた。新しく入った隊士たちに継子にならないかと勧誘して回ったけれども、ものの半日も経たないうちに全員逃げ出してしまった、と煉獄が口惜げに語ると、不死川は「よくやるぜェ」と半ば関心、半ば呆れ混じりで言った。

「後輩を導くのは先達の務めだ。柱ならなおのこと、その責務を疎かにするわけにはいくまい!」

「腑抜けた連中に稽古をつけてやるほど暇じゃねえだろォ」

 と、不死川はこのように下級の隊士の惰弱なことに毒づいていた。しかし煉獄は、今まで一緒に戦った経験からして、この男は誰かを背後に守って戦うときが一番力を発揮するのだと知っていた。つまり、これは彼なりの不器用で、彼らのことがどうでもいいわけではなく、むしろ弱い者が弱いままみすみす命を落としていくのがやりきれないのであった。

 自分たちは顔を突き合わせれば万事こうで、互いの私生活だとか身の上だとかを語り合ったことは無かった。不死川は煉獄に弟がいることも知らないに違いなく、煉獄も彼の家族のことは知らなかった。この時までは。

 杉林を通り抜けて会話が途切れたところで、前方を見つめていた不死川の息がはっと詰まった。煉獄は何事かあったのかと視線の先を追った。

 霜の深い野道の先に、道祖神の石碑がある。里に帰るときにはほとんど必ずこの道を通る。

 その石碑のそばに、すぐれて美しい女人が傘を差して立っていた。

「――椿」

 不死川はその姿を認めるや否や、隣にいた煉獄のことなどお構いなしで一目散に駆けて行った。

「なんでこんなところにいる」

「早朝お帰りになるときいたから、迎えに上がろうと思って」

「家で待ってりゃ良かったろ」

「でも、早く会いたかったの。――寂しかったのよ」

 その一言で、不死川の威勢は完全に削がれたようだった。彼は傘を受け取ると、妻の肩を抱いて身を翻した。そのときわずかに背後の煉獄に視線をやった。煉獄は心得て、軽く会釈を返した。

 一つの傘を分け合って睦まじく歩く二人の後ろ姿を、煉獄はわずかな感銘とともに見送った。夫婦が身を寄せ合う様子は、煉獄の胸に、どこか懐かしく暖かい感慨を呼び起こした。

 

 次に彼らとまみえる機会は、意外と早く訪れた。

 

 数日後、謡(能の声楽の部分)の稽古のために師の家まで弟を伴って足を運ぶと、そこに椿が来ていたのだ。椿はこちらが炎柱であることに気付くと、深々と頭を下げた。幾分か恐縮しているようである。

「俺はそこまで畏まられるようなことをしただろうか」

「先日の非礼のお詫びでございます」

 あの雪の日、煉獄が居合わせたのにまったく気付いていなかった、あとで夫に言われて初めて知ったのだと、椿はそう述べて挨拶もせずに去ったことの非礼を詫びた。

「気にする必要はないが、君たちはいつもあんな風なのか」

 そう聞くと、椿の頬にわずかに朱が差した。そして、互いに忙しく、ああやって出迎えることができるのは稀なことだから、つい張り切って周りが見えなくなったのだと呟くような小声で言った。

 そして己の振る舞いがいかにもはしたなく感じられたのか、謡の教本に目を転じて、「謡をおやりになるのですね」と話題を変えた。

「いや、ほんの嗜み程度だ」

「そうは言いましても、若様は物心つきましてよりこちらに通っておりますゆえ」

 といって、師は煉獄の力量を請け負った。

 煉獄は歌舞伎も能も見るのも好きだがやるのも好きだ。それらは先人が磨き抜いた智慧と技を昇華した型を身につけるという点で、呼吸法の習得に通じるところがある。型はすべての基本である。不器用なものにも特別な才能がないものにも、先に進むための道標を示すのが型である。

 謡の師は煉獄に、「御方に一調、披露なさってはどうか」と勧めた。彼はもののわかる人間に対して、己が育てた弟子を自慢したいのである。椿が「是非」と願ったので、煉獄も腹を括った。

「では千寿郎、鼓を持て!」

 千寿郎は兄に従って、鼓の緒を締め直した。まもなくこおんと澄んだ音が部屋いっぱいに響き、煉獄はそれに合わせて、『芦刈』の一節を謡った。

 一調が終わると、椿はまず千寿郎に向かって、

「強くて芯の太い、荘厳な良い音色でしたね」

 と微笑みかけた。他人から褒められることに慣れていない弟は、はにかみながら「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。謡一人と鼓一人でやる一調は、囃子方である鼓の方がよほど技巧を試されるのである。兄の贔屓目を除いても、千寿郎は立派にやってのけた。

「そして煉獄さまは――本当に見事な『笠之段』でございました。嗜みとはご謙遜が過ぎます、本職の役者でもこれほど良いお声には中々接しませんもの」

 師匠は椿に同調してそうでしょう、そうでしょうともと二度も三度も相槌を打った。千寿郎は兄が褒められているので嬉しそうだった。

「いや未熟な手前、お恥ずかしい限りだ」

 稽古にさほどの時間を割いていない煉獄のそれは趣味の領分を出ない。稽古の大事なことは剣でも謡でも同じだ。それでもなんとか様になっているのは、ひとえに生来見栄えがする体躯と聞き映えのする声を持っていたためである。

 会が終わり、師に暇を告げて外に出ると、表門のところに、着流しと羽織の出立の不死川が突っ立っていた。彼は妻を迎えに来たものとみえ、そのこと自体は意外ではなかった。

「奇遇だな不死川!」

「……おう」

 ただし、不死川が煉獄に向ける眼差しは非常に冷たく痛いほどだった。敵意さえ孕んでいると言ってよかった。千寿郎は「なぜこの人はこんなにも冷たく兄を睨みつけているのだろう」とおろおろしていた。

 胸中を察するところ、不死川は自分の妻が非常に魅力的であると確信しているのだろうから、へたに男に近づいて欲しくないのだろう、その気持ちは理解できる。しかし煉獄としては人妻に変な気を起こすつもりなど毛頭ないわけで、その懸念は完全に杞憂でなおかつあらぬ疑いだと言いたかった。

「煉獄さま、まだいらしたのですね――あら」

 椿が遅れて玄関から出てきた。

「先に戻っておいてって言ったでしょう」

 不死川は黙って、妻の肩に長羽織を被せた。

「買い出ししてから帰んだろ。荷物持ちくらいさせろ」

「気にしなくても良いのに……そうだ、あなた、今日の晩ご飯何が良い?」

 その時、たまたま腰に魚籠を下げた青年が門の外を通りがかった。不死川は反射的に「魚」と答えていた。

「……魚?適当に答えていない?まあいいわ。角のお魚屋に美味しそうな鯖が売っていたし。煮付けにする?塩焼きにする?」

「焼く以外に何ができんだ」

「この間千夜子に甘露煮の作り方を教えてもらったの、それにね……」

 二人はこんな調子で会話しながら、手を繋いで去っていった。

「仲がよろしいんですね」

 完全に二人の姿が見えなくなると、千寿郎が感心げに言った。

「良いことだ」

 不死川は妻に対して、信じがたいほど語勢が柔らかい。椿は夫に対して、常の佇まいをかなぐり捨てて童女のような甘え方をする。互いに夢中ですっかり惚れ込んでいるのである。独り者にはちょっと眩しいくらいである。

 煉獄はどことなく感じる懐かしさの原因を探った。

 そして、己の母と父とのことに思い至った。といって、両親とあの二人が似ていたというわけでもないのだが。

 

 ――そのようになさってはお身体に障ります

 ――しかし、瑠火、今はお前の……

 ――万一にも不覚を取るなどあっては柱にあるまじきこと、私も鬼狩りの妻として立つ瀬がありません。どうかお部屋に帰ってお休みください

 

 任務から帰って看病にあたろうとした父を、母はそう言って追い返したことがあった。

 賢夫人の誉高かった母は、常日頃から自他に厳しい人であった。

 夫が血まみれになって怪我を負って帰ってきても一筋の動揺も見せず、手際良く湯を沸かし医者を呼ばせていた。そうした女性だったから、夫が任務に出ている間も冷静にしていて、心乱れる様子などなかったけれども、帰りが平常より遅れた時は、まんじりともせずにいたのが記憶に蘇る。そしていざ夫が帰宅した時には、ほっと一息をついて、それから普段と同じように夫を出迎えていた。

 ――おかえりなさいませ、あなた……

 夫を見送る時は、必ず燧石を打ち鳴らして清めの火花を飛ばしていた母。留守の間、夫の無事を一心に祈り続けていた母。強き者の責務を説いた母……

 そして父だ。ある時から物事すべてに投げやりになってしまった父に対して怒りはなかった。ただ辛かった。もっともな正義感から父を無責任だと非難する言葉を聞いても同調する気になれず、兄弟を引き取ろうかと親身になってくれる親戚もいたが、そうなると父が一人きり残されてしまうと思って踏ん切りがつかなかった。煉獄はふだん周囲にどのように年不相応に頼りにされていたとしても、父の前では親を想う子にすぎなかった。

 そういえば、父の無気力は母の死後に始まったのだった。

 そのことに思い至ってから、ほんの少し調べただけで、実は母が亡くなった後、父の元にたくさんの縁談が持ち込まれていたことがわかった。まだ働き盛りの若い男が後妻を迎えるのはごく一般的なことで、まだ幼い子供のためにも新しい母を作ってやるのが良いだろうという風潮は強かった。

 しかし周囲の気遣いは、父がそれを強固に拒んだので成立しなかった。

 彼は妻だけを愛していた。後添えを持たぬのも、ひとえに亡き妻へ向ける愛の大きさゆえであった。

 煉獄はそれですっかり納得してしまった。

 母の愛は偉大であった。そして、そのような偉大な愛を失った男が、失意にさまようのは何ら不思議なことではなかった。

 このことがわかったのは、煉獄にとってわずかばかりにも慰めとなった。父子の関係には特段変化はなかったが――どう言い繕っても「お前に何がわかる」とか、そういった類の言葉が返ってくるのは容易に想像がついたので――今までどうしてとばかり思っていた事柄に答が与えられたので、晴々とした気持ちであった。

 こんなことを思い出したのは、つまり、唯一無二の番を失った男というものは、際限なく惨めで悲しい生き物になってしまえるのだ、という話である。

 

 

 東側の一室に人の気配があった。外から声をかけても返答がなかったので、止む無く断りを得ずに襖を開けると、物騒な一文字を背負った不死川が、その背をこちらに向けて座っていた。何をやっているのか、畳の上一面に布を広げている。

「失礼する」

「煉獄」

 部屋に踏み入ろうとした煉獄を、不死川が低く威圧した。

「この部屋の敷居際を跨いだらテメエを殺す」

 気の弱い者であればそれだけで竦み上がって逃げ出しそうな声だったが、相手は炎柱である。臆するはずもない。しかし一旦は牽制に従うことにして、その場に立ち止まり、部屋の中をぐるりと見渡した。

 桐箪笥に化粧台に文机。清潔で整頓されている。それに壁際の衣紋竹には、優美な色柄の単衣が掛かっている。女ものだ。

「ここは細君の居室か。すまない。配慮を欠いていた」

 煉獄は前がかりになった身を引いた。しかし、そのままその場から動く気配を見せなかったので、不死川は鬱陶しげに「何の用だァ」とさらなる不穏を立ち上らせた。

「不死川、そう殺気立っては誰も声をかけにくい!鴉が困っていたぞ!知らせがある。お館様からの指令だ、心して聞け」

 上弦の鬼の出没は、これの討伐を鬼殺隊の目下最大の優先事項とさせた。

 鬼はいくつかの痕跡を現場に残していた。その痕跡を追って、遊郭の付近と、鬼が去ったと思われる西の方角に、柱の半数を動員して捜索に当たることになった。

「君の具申は聞き届けられた。俺とともに、上弦の鬼を追う任に就けとの仰せつかりだ」

 行けるな、とは口に出すこと自体がこの男への侮辱のように思えたので言わなかった。

「聞き及んでいると思うが、君の細君と最後に接したのは俺だ」

「だから何だ」

「彼女は見事だったぞ。鬼殺隊の一員として立派に戦い、その務めを果たした」

「んなくだらねえことを言いにきやがったのかテメエは」

「最後まで言わせろ!彼女は俺に、自分が知り得たすべての情報を、つまり鬼の容貌や、能力や、そうした諸々の事柄を伝えてから力尽きたが、俺は最後、彼女に『他に言うべきことはないか』と聞いた」

 不死川は、それを聞いてようやくこちらを振り向いた。

「彼女は『玄弥くんと仲良くしてね』と」

 一瞬、煉獄は不死川が我構わず飛び出していくかと思った。

「それだけか」

「ああ」

 そうはならなかった。不死川は、胃の腑を炎で炙られる痛みに耐えようとするかのごとく身を強張らせ、額に手を当てて息を吐き出した。

「どいつもこいつも手前勝手を言いやがる……」

 廂に吊るした青銅の風鈴が揺られて涼しげな音を立てた。風が出てきたのだ。

「……それは何をしている?」

 よくよく目を落とせば、不死川が手元に広げているのは縫い物である。解いた衣を仕立て直しているようだ。

「……あいつがよそで貰ってきた袷の身幅が合わねえっつうからな」

 ――どうしましょう。こういうの、呉服屋さんにお願いしたらいいのかしら

 ――仕立て直してやるから、部屋に置いとけ

 ――直せるの?

 ――そんなに難しかねえよ。帰ってくるまでに仕上げといてやる

 ――急がなくてもいいのよ。どうせ着るのは夏が終わってからだもの……

「帰ってくるまでに仕上げてやるって、約束したからなァ……」

 不死川はもうそこにいる客人のことなどどうでもいいとばかりに針仕事に戻った。煉獄の方も、これ以上にかける言葉を何も持たなかった。

 

 

 床の後ろで蝉がひっきりなしに鳴いている。草叢に落ちて潰れた果実には蟻が群がっている。

 煉獄が出立の時刻だけ告げて帰った後も、不死川はしばらく黙々と針を動かしていた。地面に落ちる影が長くなりかけた頃にようやく手を止めて、飯だけ炊いて漬菜を食った。夏場だから、あまり長持ちしないだろう。早めに胃袋に入れて片付けてしまわなけばいけないと思うが、妻が慣れない手つきで葉物を樽に詰め込んでいたのが思い出されては胸が重たくなり、箸の進みは遅々とした。

 椿が不在の間、家のことは不思議と行き届かないというか、いる時と同じようにはいかないようだった。陶器に浮かぶ睡蓮と蘆は、毎日水を換えているはずなのに葉先が茶色くなってしまった。庭の樹木の世話に至っては、まるでやりようがないので玄弥に任せておこうとしたが、弟はよりによってこんな時分に底抜けのバカを発揮した。やはりどう反対されても俺は鬼狩りになりたいなどと言い抜かす。ふざけるなと言っても聞かない。二、三顔面に拳を入れたが折れない。そして今の不死川には、それ以上に言葉や行動を尽くす余力がなかった。

 柱の掛時計を見ると、まだ出立まで余裕があった。

 不死川は家を出た。とくに当てはない。しかし足は自然と流れるように蝶屋敷に向かっていた。

 本来ここに用は無かった。というか、今朝の一件で、自分ごと以外の用件で病棟を訪れるのは禁じられていたのだ。

 屋敷は普段の明るい軽やかな雰囲気が完全に消失してしまって、全体が悲しみに重く沈んでいる。胡蝶カナエは誰からもよく慕われた。その継子もけたたましく賑やかな女であった。羽虫さえ喪に服し、雨露に濡れた草木すらその死を悼んで涙に暮れているかのようだった。

 不死川は塀を身軽に飛び越えて、ひそかに屋敷の裏庭に回った。敷地に入ったことで気を緩めかけたその時、思いがけない一声が静寂の空気を破った。

「実弥」

 窓の内側から発せられた柔らかい声に、不死川は思わず顔を跳ね上げた。

「お館様、なぜここに」

 側に誰もついていないとは無用心であると言いかけたが、そもそもこの人が隊士を護衛につけたことはないのだし、むしろ自分と一緒にいるいまの状態が一番安全であることに思い至った。

「あまねはしのぶたちについているよ」

 産屋敷は不死川の疑問にそのように答えた。そして、「なぜそんなところにいるんだい、こちらにおいで」と手招きした。

 逆らえるわけもなかった。不死川は身を隠すようにして裏の戸口から屋敷に入った。幸い、誰にも会わずに済んだ。

 病室には産屋敷と椿しかいない。産屋敷は寝台のそばに立ち、不死川はその斜め後方に控えた。椿はここに運び込まれてからもう二日経つのに、ずっと意識が戻らない。すんなりとした真っ白な腕に、管をたくさんつけているのが痛々しい。上半身は衝立に遮られて見えなかった。

「情けない話をするのだけれど、私は身体が強くない。子供の頃からそうなんだ。今でもよく熱を出して妻の手を煩わせている」

 産屋敷の口調は常と変わらず穏やかだった。

「けれどね、熱で意識が朦朧としていても、あまねに手を握ってもらうととても安心する。安らかな心地になる……実弥、ここへ」

 産屋敷が不死川に向ける慈悲深い眼差しは、母のようであり、父のようである。同時に、今の言葉には、妻帯者という立場を同じくする者としての思いやりがあった。

 手を握ってあげなさいと促され、不死川は恐々寝台に近寄った。顔を見てやる勇気がないのが情けなかった。

「椿は大丈夫だよ」

 その通りだ。椿は大丈夫だ。不死川は何の憂いもなく普段通りにしておれば良いのだ。彼女が目を覚ました時、この醜態を知られれば何を言われるかわかったものではない。

 医者は、普通ならこれほどひどい怪我を負った者は生きてはいられないと言った。いつ息をするのをやめてもおかしくないと言った。だからなんだ。この女は今までだってさんざん死ぬような目にあってきたんだ。実弥はかつて死にかけた彼女の身体を抱えて山を下ったことがある。あの時だってどうにかなった。今回だってどうにかなる。

 そう考えて気を鎮めようとするが、かえって底のない奈落へ落ちていくような覚束なさがある。

 死ぬな、死ぬな、どうか死んでくれるな、これ以上、家族を失いたくない。勘弁してくれ、もうたくさんだ……

 恐る恐る握った手のひらがひんやりしていてやりきれない。楽しげに笑う声が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 


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