寒椿の君   作:ばばすてやま

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誤字報告をいただきました。報告してくださった方、ありがとうございます。


24.ちりんと鳴る

 二階堂邸の食堂は、客人をもてなすためにも使われるから、その内装は贅を凝らしている。しかし、家族で食事を取る団欒の場所としてはいささか絢爛にすぎるのは否めない。マホガニーの重厚なダイニングテーブルを挟んで座る親子の距離は遠い。

 娘が座る向かい側で、父が仔牛のステーキをナイフで切り分けては口に運んでいる。

 椿は目の前の食事に手を付けず、肘掛けに腕を置いてじっとしていたが、ふと名前を呼ばれた気がして後ろを振り返った。

「どうしたんだい」

 父に問いかけられた娘は、振り返ったままの体勢で「お館様に呼ばれました」と答えた。燭台で揺らめく炎が、青白い横顔と、マントルピースの上に置かれた西洋絵画を照らしていていた。

「物々しいことだ。戦国時代のお大名じゃああるまいし」

「なんとでもおっしゃって。今はあの人が私の父ですもの」

「目の前に本物の父親がいるというのに、ひどいこと言う」

 父は声を張り、我が妻の名前を呼んだ。

 しかし、どこからも返事はない。

「来ないな。折角、久しぶりに家族みんなで食事を囲めると思ったのに」

「お見えになるはずがないわ。だって、母様は、()()()()()()()()()()()()()()()

 父は瞠目した。そしてすぐに神妙げになって二、三度と浅く頷いた。

「ああ……そうだ、そうだった」

 椿は黙るのをやめた。そうすると父を責める言葉が堰を切ったように溢れ出した。

「母様だけじゃありません。長年忠実に仕えてくれた家令と老女中、私が生まれる前から庭園の世話をしていた庭師、親を養うために田舎から奉公に上がった下女、他にもたくさんの罪のない人を殺しましたわね」

「そうだね」

「あなたは家を支える使用人は私たちの家族も同然で、敬意と礼儀をもって接しなければならないと教えてくださったわね。もう、主君が家臣を手打ちにしてお咎めなしに許された時代とは違うんだって……人の命の重みは身分の貴賤に関わらず平等なんだって」

「それもその通りだ、私の教えたことをきちんと聞いていたんだね。お前が誇らしいよ」

 父は肩をすくめた。

「なぜそのように憎々しげに私を睨むのだ。お前は鬼の血を注がれた人間がどうなるかわかっているだろう?私には抗いようがなかった」

「だから何?死んだ人にとって、あなたの事情など関係ないことでしょう?」

 娘は父を取り付く島もなく突き放した。

「お前、父親を憎んで、命を捨てるような真似をして、それで罪滅ぼしでもしているつもりかい」

「勝手なことを言わないで。そんなのじゃない」

「そうだな、お前のやっていることは罪滅ぼしというよりも八つ当たりだ。鬼狩りはお前のほかにも山ほどいる。お前が殺さなくても他の誰かが鬼を殺す。それでもお前は剣を手放さないというのか、神様がお前を生かしたのはそのためだなんて幻想にすがるのか?」

 椿は激しくなる感情を押さえ込もうとして、肘掛けに置いた手を握り締めた。木の枠組みが軋んだ音を立てた。

「……たった一人しか生き残ることができないなら、それは私以外の人でなければならなかったのに、どうして私を残したの」

 父は我が意を得たりという顔になった。

「なんだ、それが本音かい。つまり、お前は一人だけ生き残ってしまった罪悪感から逃れたいというわけか。なんと傲慢な、思い上がった利己主義(エゴイズム)だろうね。お前は誰かに悪いと思いながらもその実、自分のことしか考えていないではないか」

 言葉を失った椿に構わず、父の姿をした何かがまくし立てる。

「何を驚いている?わかっているはずだ!これはすべてお前の頭の中で起こっていること、お前が心の底で考えていたことだ。死んでいった者たちとその家族の誰一人として、お前の不幸を願った者がいるか?いなかっただろう。誰しもがお前に幸せに生きろと、そう望んだだろう。死者に答えを聞くことは叶わずとも、お前にはわかっているはずだ。お前はそう願われて生まれ、そう祈りを受けて育ったのだから」

 こんなことをこの人に言われる筋合いはない。視界が怒りのためにぐるぐると回って吐き気がする。――無意味だとわかっていても、叫んで問いただしたかった。あの夜に何があったのかと。

 もちろん、今となっては、本当のことは誰にも何もわからない。

 確かなことは、あの日家を襲った鬼は父であったこと。血を浴びて鬼に転じた父は、人格も理性も喪失し、周りにいた人という人を殺し尽くして、妻や娘が一目見てそうとわからないほど元の型を留めない異形に成り果てて、それでも家に帰ろうとしたのだろう。……愛する家族たちの待つ我が家へ。

 鬼になった父はもはや父ではない。そうわかっているのに、脳裏に醜悪な鬼の形相が焼き付いて離れない。纏わり付く嫌悪感が父を安らかに悼ませてくれない。鬼は父の魂と矜持を捻じ曲げただけではなくて、家族の暖かい、大切な思い出すら汚した。

 鬼は嫌いだ、大嫌いだ。

「私の決めたことに指図しないで。あっちに行って……」

 我らは死後、犯した悪業の様相に従って地獄にて裁きを受ける。殺生をしたものの堕ちる世界を大火の満ちる炎熱地獄という。いやさかに燃え盛る炎で焼かれる父の苦しみはいかほどか。

 かわいそうと思ってはいけない。当然に咎の報いを受けているだけだから。けれど、けれど、

「……かわいそうなお父様。せめて、あなたが誰も殺さないうちに、私が頸を落として差し上げたかった」

 苦しみとともに絞り出した言葉に応える声はもはや無かった。父の姿は見る見るうちに赤々燃え盛る炎に包まれた。一瞬きの後、もうそこには誰も座っていなかった。

 

 

 

 

 その日、任務が明けて蝶屋敷に戻ったばかりだったしのぶは、休む間もなく急患の治療に追われた。

 一命を取り留めた隊士は、何度もありがとうと言って、しのぶに感謝の意を伝えた。この青年は右手を失っていたので剣士としては引退せざるを得ないだろうが、落ち込んでいる暇も惜しいとばかりにすでに今後の身の振り方を考えている。しのぶが「頑張ってくださいね」と微笑みかけると、彼は顔を赤らめた。見慣れた表情だった。姉に看護される男たちと同じ顔をしていた。偶像を仰ぎ見るがごとき陶酔した目つき。

「もう夏が終わりますよ」

 一通りの仕事に区切りをつけると、しのぶは椿の病室を訪れた。カーテンを開けて、意識の戻らない友人に呼びかける。

 しのぶは忙しい合間にも、できるだけここを訪れるようにしていた。

 開け放した窓から、一陣の風とともに蝶が舞い込んできて、脇机の花瓶に生けた山百合に留まって蜜を吸ってた。

 しのぶは、しばし脱力してそれを眺めていた。

 ここに来ると、張りつめていた気が抜ける。今にもその扉の陰から姉が覗きこんでくるような気さえする。

 そんなことがあるはずがないのに。胡蝶カナエはしのぶの腕の中で息絶えた。亡骸を連れて帰り、死化粧を施し、母から受け継いだ花嫁装束を着せて荼毘に伏した。そして四十九日を迎えるのを待たずに、早々に両親の眠る墓に遺骨を納めた。僧には急がなくても良いと言われたが、時の流れは容赦なく、カナエの弔いを終えなければしのぶは一歩も前に進む力を得られなかっただろうから、それで良かったのだ。

 それでもいまだに、現在と過去のあわいに漂っているような、心もとない気持ちになることがよくあった。こんなことではいけない、甘えていてはいけないと思うのに。

「……みんなで天神様のお祭りに行こうって約束していたわよね。それに、秋になったら、無花果を採ってジャムを作りましょうって……それに……他には……何があったっけ」

 姉の死とともに、ほとんどの約束は果たされずに破棄されてしまった。しのぶはこの屋敷を、姉が生きているときと同じように運営しようと努めていたが、今のところ、この試みが成功しているかそうでないかは判別がつきかねた。いずれにせよ、しのぶには気にかけねばならないこと、やらければいけないことが多すぎ、心身の疲労は甚だしかった。

「任務に出る回数を増やして貰ったの。お館様は働きすぎでないかと気にかけてくださったけど、弱音なことは言っていられないわ。それに、私、筋力はないかも知れないけれど、体力はそれなりにあるのよ」

 しのぶは体重をかけないようにして、そっと自分の頭を、眠り続ける友人の胸元に押し当てた。心臓が確かに脈打っている。生きている。

 安堵の思いで息を吐く。

 しのぶはすでに最愛の姉を亡くした。髪飾りを分け与えた妹の一人を失い、さらに親しい友まで失うことは耐え難かった。

「……みんな姉さんと小萩がいなくなって寂しいのに、本当に立派にやってくれているの。私も頑張らないと」

 容態は小康を保っている。ほんとうに、ただ眠っているだけのように見える。しのぶも他の医者たちも、やれることはすべてやった。あとは目覚めを待つだけだったが、しかし、それがいつになるのか、明日か、一年後か、もっと先か、それとも目覚めず仕舞いか、確かなことは誰にも言えなかった。

「ねえ椿、私、姉さんみたいにできてるかな……」

 姉の仇を討つことはできなかった。上弦の鬼は辛くも鬼殺隊の追跡の手から逃れおおせた。

 だから、まだ休む時ではない。決して立ち止まってはいけない。

 しのぶは姉の志を継ぐと決めた。二人で誓い合った、幼い日の約束のために生きると決めたのだ。

「頑張らなきゃ」

 しのぶは繰り返した。そして、姉さんが、どうかこの女性(ひと)を冥府の門から追い戻してくれますように、と祈った。

 

 

 

 

 父が消えた後は、電灯が切れるように目の前のすべてが消えて真っ暗になった。そして、もう一度瞬きをすると、椿は茫漠と広がる河原敷に一人立っていた。

 薄ら寂しい石ころひしめく河原に、セルロイドの風車がひとりでに回っている。

 少女が一人、風車のそばにしゃがみこんでいる。椿が歩み寄っていくと、少女は垂れていた頭を上げた。

「つや、どうして泣いているの」

 ()()は父に仕える家扶の娘であった。遊び相手にと宛がわれたたくさんの女の子のうちの一人で、椿は明るくて利発な彼女のことが一番、好きだった。

「痛かった?苦しかった?……ごめんね、ごめんね、つや」

 つやは泣きはらした顔で、「もう痛くも、苦しくもございません」と首を振った。

「ただ、わたくしは、椿さまがいたわしくて、かわいそうで……」

 そういって再び涙に伏せた少女に、椿はたまらない気持ちになった。

 守るべき家名も親兄弟もない、そんな人間は、椿の考えるところでは、己の意志一つでどのように命を捨ててもよいのである。椿は決して不幸ではなかった。

 私は辛くなどないのよ、と慰めようとした手はしかし、むなしく空を切った。爪の先も触れないうちに、つやの姿は霞のように溶けて消えてしまった。

 ――何がかわいそうなものか。お前は仕える家の主人に殺されて、炎に甞められて、相貌の判別もままならぬ無残な屍を晒した。これからもずっと続いていくはずだったまだ見ぬ未来を断ち切られたお前の方が、余程にあわれではないか……

 この世の理不尽に逆上するような怒りがこみあげたその時、背後に人の気配を感じて、椿は後ろを振り向いた。

「お前の剣は憎しみに逸り過ぎているな」

「お師範さま」

 そこには椿を剣士へと育てた恩師が、木剣を構えて立っていた。老人は真正面からそれを振りかぶり、弟子に一撃を加えた。椿は打たれた刀を素手で受け止めて押し返した。

「一体何をするのか」とは問わなかった。これは何千何万と繰り返した稽古の、いつものやり方だったから。

 師は打ち込むのをやめずに滔々と続けた。

「確かに、憎しみも怒りも手足を動かすための薪となろう。だが、覚えておけ。復讐心は倦む。いつかそれだけでは戦えなくなる。長く戦いたいなら、今から私の言うことを決して忘れるな」

 ――人の命を守ること。誰も殺させないこと。

「この大義に背いては、天地神明に我らの戦いは正当であると誓うこともできはしまい。我らが唯人が持つには強すぎる力を行使するのを許されるのは、切れば血の吹き出る生身の人間を守ること、ただ一つに拠るのだから……」

 それだけ言い残して、師の姿は消え失せた。

 椿はそれで、これは過去に起きた出来事だ、と気付いた。言われたその時は、しっくりこなくて、ずっと忘れていたのだ。

 いつのまにか煮えるような怒りは胸の内から去っていた。

 あの夜からたくさんの出会いと別れとを繰り返し、この世を恨むよりも愛おしむ時間の方が長くなった。壊されたくないもの、美しいものがこの世には確かにあり、そういうものを守るために戦いたいと思う。師の言葉は、時を経てようやく椿の血肉になった。

 結局のところ、椿はどれほど世界に絶望しても、性根の部分で厭世的になる素質に欠けているのだ。

「あなたの言った通りでした、お師範さま。……不出来な弟子とお笑いになるでしょうね」

 

 

 

 

「あ、神崎」

「こんにちは、玄弥さん。こちらのお花はお預かりしますね」

 玄弥は椿の病室に向かうために廊下を歩いていてアオイに遭遇した。アオイはちょうど自分も彼女のところに行くのだと言って、玄弥が抱えていたひまわりを受け取った。

「これはお一人で?」

「いやさあ……」

 玄弥は最近、日を置かないで頻繁に蝶屋敷を訪れている。そして、玄弥が訪れるたびに、何度か見かけたが全然しゃべらない、よくわからない女の子――栗花落カナヲが、じいとこちらを見つめてくるのである。この日、ついにたまりかねた玄弥が「何か用か」と聞くと、カナヲはこちらに付いて来いとばかりにくるりと背を向けて歩き始めた。戸惑いながら彼女に従って歩いていくと、屋敷のすぐそばの垣まで来た。そこには遅咲きのひまわりが群れをなして咲いている。

「……」

「いや、なんだよ」

 玄弥をここまで案内すると、用を達成したとばかりに満足げにカナヲはどこかに去ってしまった。玄弥は狐に摘まれでもしたかのような気分だった。

「何だったんだ、マジで……」

 それにしても見事なひまわりである。いくらか頂いてしまっても良いであろうと、玄弥は通りがかったきよに許可をもらって花鋏を拝借し、一輪、二輪を切り取ってこちらにやってきたのだった。

 玄弥は「あいつわかんねえ……」と唸っていたが、アオイはカナヲが何をしたのかよく察した。

「カナヲが……そうですか」

 アオイは微笑みを浮かべて、新しい花瓶を出してきてひまわりをそこに生けた。

 一方、手持ち無沙汰の玄弥は、椅子に行儀悪く腰かけて、点滴袋を取り換える作業に掛ったアオイの姿を眺めていた。

「なにか?」

「いや。任務こなしながら怪我人の世話もするって、大変だな」

「お気遣いは不要です。しのぶ様の方がよっぽど大変ですから」

 アオイはしのぶに同伴して任務に赴くようになったが、しのぶはむしろアオイに、医学とか薬学とか看護学とか、そういう才能を期待しているようであった。実際、アオイは以前よりも不在がちになったしのぶに代わり、屋敷のことをよく采配している。

 それはちょうど、カナエとしのぶの関係に似ていた。しかし、似ていても、決して同一ではない。

 しのぶは、妹たちの前で笑みを絶やさないでいる。けれども、アオイにはそれがかえって痛々しいように感じられる。だがアオイが彼女に一体何を言えようか。自分は所詮、しのぶにとっては守るべき妹の一人でしかないのだ。悔しかった。多くのものを背負って立つしのぶの支えになるための力がない自分が惨めだった。誰にも死んだ人たちの代わりは務まらない。

 それでも、力足らずでも、なんとかしのぶの力になりたい、これはアオイのみならず蝶屋敷の少女たち全員の願いであった。アオイはそのために力を尽くしている。それが先に逝った姉弟子の願いにも適おう。彼女は決して、アオイに後ろ向きになることを望まなかった。

「不死川さんはお見えではないんですか」

「兄貴は東北に行った」

 玄弥はいくらか投げやりな調子でそう答えた。

「遠方ですね」

「手ごわいのが出たんだ」

 例によって兄は玄弥には何も申し付けずに行ったが、これは鴉に聞いたので確かな情報だ。

「もう少し近場の任務を割り振っていただいても良いのでは?だって、本当なら一番、傍についていてあげなきゃいけない人じゃないですか。しのぶ様も止め立てたりしませんよ。もう少し顔を出しても……」

 玄弥はやれやれ、とでも言う風に首を振った。

「椿さんは、物も言えない自分のところに来て落ち込んでるくらいなら、一つでも多く鬼の首を取ってこいって、そう言う人なんだよな。……そりゃ、兄貴だって、できるならずっとついててやりたいって思ってるだろうけどさあ」

 己の感情を押し殺して、愛する人の意に沿おうとするのは、むろん深い愛情の証左である。しかし、アオイにはそれがひどく過酷なことに思われ、どうしようもなく切ない気持ちになった。

「帰ってきたら、一番最初に会いに来いって手紙送っとく。それまで椿さんのこと頼む、神崎」

 アオイは「任せてください」と頷いた。玄弥もしばらくはここに来ないと決めていた。彼は彼なりにやることがあった。玄弥はもう、自分がいかに才能なしを理解しはじめていた。そういう人間が、他人と同じように戦いたいなら、人の何倍も時間をかけて努力を重ねなくてはいけない。椿もそれを望むだろう、そういう確信が玄弥にはあった。

 

 

 

 

 椿は、今度は櫟の木の下に立っていた。河原の風景とはうって変わって明るく爽涼とした春の野原を眺めれば、そこにはやはり少女が一人、佇んでいる。

 少女――真菰は楽しそうに白詰草の花冠を編んでいる。

 椿は隣に座って、十三歳のままの永久に歳をとらなくなった真菰を見つめた。

「私、死んだの?」椿の口が考えなしに動いた。

「さっきから死んだ人ばかりが私の前に現れるの。ここはあの世?」

「まだ死んでないよ。さっき聞いたでしょ、これは全部椿ちゃんの頭の中で起こってることだって」

 椿はそう、とだけ言った。これがぜんぶ自分の頭の中が見せている風景なのだと思うと妙な感じがした。

「残念そうだね」

「自分が情けなくて」

「どうして?」

「だって、鬼を二体も取り逃がしてしまったのよ」

「それ、ちょっと思い上がりすぎじゃない?椿ちゃんよりもずっと強い相手だったんでしょ。人間一人でできることってそんなに多くないよ。引き際を見極める方が大事!」

 真菰は手厳しい。椿は完全な正論の前に手も足もでない。

「椿ちゃんは昔っからそうだよね、一度こうと決めたら絶対、後に引かないんだから……」

 真菰は呆れながらも、編みあがった白詰草の冠を椿の頭に載せてくれた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 椿は冷静に、これは記憶ではなくて、自分の頭が作り出したまやかしだな、と考えた。真菰と過ごした時間に、こんな風に穏やかでいられる時間は少なかった。

「でも、引き際だなんて、私が言えたことじゃなかったね」

「真菰は見誤ってなんかない。私が足手まといだったのよ。……真菰一人だったら、逃げ切れたわ」

「ちょっと、それ以上言ったら私、怒るからね」

 真菰は腰に手を当てて頬を膨らませた。

「人が生きるとか死ぬとかを決めるのは、結局最後は巡り合わせとか、運とか、そう言うものでしかないでしょ。だから、運が良かったら、ああ運が良かったなあ、ってほっとすればいいし、運が悪かったらその時はがっかりすればいいんだよ」

 不条理に大きな力で押し潰されてしまった真菰はあっけらかんとして言った。

「そんな風に割り切れること?」

「うん。だって、あの時、もし死んだのが椿ちゃんで、生き残ったのが私だったら、椿ちゃんは私のことをどう思った?」

 決まっている。できるだけ長生きして、前だけ向いて生きて行ってほしい、と思っただろう。

 真菰は小首を傾げて微笑んだ。

「私も同じ気持ち」

 そう言い残して、真菰の姿も白詰草の冠も消えてしまった。

 目の前には立ち替わりに黒い隊服を着た青年が――粂野が立っていた。粂野は眉間に皺を寄せて、もの言いたげな顔をしている。

「まだ()()()に来るのは早いんじゃないか」

「大丈夫よ。私は敵わなかった、手強い鬼だったけれど、きっと他の誰かが始末をつけてくれるわ」

「そんなことを心配しているんじゃない。実弥はどうするんだ」

 椿は言葉に詰まった。ここに来た時から、考えないようにしていたことだ。

「……玄弥くんがいるもの。それに、あの人は、私が死んだくらいで戦うのをやめるような、そんなに弱い人じゃないし……大丈夫だって、信じてる……」

 椿の語勢は次第に弱くなっていく。粂野の姿も春の野原も消え去って、後には闇が残るばかりだ。

 そうだ、自分が死んだら、実弥はさすがに悲しむであろうが、弟の存在は大きな慰めになるだろう。彼にはもう、心を開いて語り合えるような友達もいないのだ。自分がいなくなった後、彼が一人ぼっちにならないで済むのは、ほっとした気分であった。それだけは、本当に気にかかっていたから。

 つくづく可哀想なことをしてしまった。

 椿は、実弥が自分を愛してくれていることを知っていた。そして、本当なら、その気持ちを墓まで持っていくつもりだったことも知っていた。

 明日知れぬ身なら、腕の中に抱え込んでおくものは少ない方がよい、と言う考えはそれはそれであり得るだろう。人の死の悲しみに遭いたくないのなら、死んで悲しいような人を作らないか、自分が先に死ぬしかやりようはない。椿はこんな考えには、まったく賛同しないが。

 けれど、こんなことになってしまった以上、彼の方が正しかったのかも知れない。

 自分が死んだら、彼はどうするだろう?自分のことは夫婦の縁が浅かったものと早く忘れてしまって、兄弟仲良く手を取り合って、もしも良い人がいれば後添えをもらって……

「…………は、」

 そこまで想像して、全身からどっと汗が吹き出た。

 彼が他の女に心を許し、他の女を愛する。考えただけで気が狂いそうになる。

 理性では、新しい出会いや時間が、傷ついた心を癒してくれるのがよいのだとわかっている。

 しかし、もし彼が、私のことを死ぬまで忘れないでいてくれて、誰にも心変わりせず、来世で私と再会できる日を心待ちにしてくれるなら、椿はそれが嬉しい。

「私、私――帰らないと」

 一刻も早く彼のもとに戻らなければならない、という強烈な衝動に突き動かされて、上も下も方角もわからずに椿は走った。

 嫌な女、ひどい女!好きな人の幸せを願えないなんて。

 もっと彼にとって都合の良い女、物分かり良い女になれたらどんなに良かっただろう。しかし、椿はもう、人を愛するとはどういうことか理解していた。

 椿は、彼を好きになったと気付いたとき、内心いたく動揺して、己の心の動きにどうにかして理由を付けようとした。だが、人に恋したり愛したりする心の動きとは理屈ではなくて情動であって、何か理由を並び立てて愛する、愛せない、というものではない。実弥は、よく気の利く優しい男だったけれど、もしそうした様々な美徳が欠けていたとしても、やはり椿は彼を好きになっただろう。きっと実弥も同じ気持ちなのだ。そうでなかったら、こんなに物分かりが悪くて、不器用で、子供の産めない女と添い遂げようとしてくれたりしない。

 

 椿は、輝くような白髪を頂く少年の頭を膝に乗せたあの日の、夜明けの空の色さえ鮮明に覚えている。

 

「父様と一緒に来てはくれないのかい」

 走った先で、再び父親が姿を現した。惑う心はなかった。

「まだそちらには行かないわ。やらなければいけないことがあるから」

 父は案外とあっさりと差し出した手を引っ込めた。

「本当に残念だ。私が生きていたら、あんな男と一緒になるのをやすやす許したりしなかったのに」

「あの人を悪く言わないで。それに、別にお許しなんて貰わなくたって構わないわ。人は誰でも自分の思うままに生きる権利があるって、そう教えてくれたのは父様じゃない」

 椿が冷たく一蹴した。

「しかし、拳の一つ二つ食らわせたってばちは当たらないだろう」

「実弥さんはとっても強いのよ。馬に振り落とされて足の骨を折ったりしてる父様にどうこうできるものですか」

 椿が頑強に自分が見初めた良夫の肩を持つので、父はすっかりしょげかえって肩を落としている。

「意外ね。父様は母様と違って、平民との結婚は罷りならないなんて、そんな世間並みなことをおっしゃらないと思っていたのに」

「野暮なことを言うね。男親というのは、娘が連れてきた男はどんな男でも、それがたとえ宮様であっても、とりあえずは気に食わないものなんだ……」

 父の姿は再び遠くなった。何か暖かい、大きなものに背中を押されている。馴染んだ気配に振り返ろうとする前に、椿の意識は浮上した。

 

 

 

 

 最初に感じたのは、異常な喉の渇きだった。

 耳の中で己の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。体が重い、光が眩しい。

 ――これは私の()()()ではない。現実だ。

 椿は、寝台の手すりに掴まってゆっくりと身を起こし、脇机に置かれていた水盆に口をつけた。張り付いた喉は水を嚥下するのにも一苦労であった。それでもしばらくすると徐々に落ち着いて、自分の置かれた状況を省みる余裕ができた。

 慣れ親しんだ蝶屋敷の天井、花瓶に満開の花、無機質に吊り下がった点滴袋。

 頭に締め付けられるような窮屈さを覚えたので触れてみると、頭から顔面の右半分を包帯が覆い尽くしている。無理矢理に顔面に巻いた包帯を外し、盆の中に残っていた水の面をのぞき込んだ。

 眼窩が落ち窪み、見るからに痛々しい傷痕がはっきりと残っている。もっとも、命を失うに比べればささいなことだ。筋肉は眠っている間にごっそり落ちてしまったようだが、これは訓練すれば元に戻るだろう。気がかりなのは心肺機能で、深く息を吸おうとすると、わずかにとげを刺したような不快な感覚を覚える。

 完全な回復は見込めない損傷かもしれない。

 身の回りのことを確認し終えて、外はどうなっているだろうかと、首を捻って視線を転じて――愕然とした。

 あれほど青々と繁っていた木々は、燃えるような赤やくすんだ黄色に色づいて、いまやあらかたの葉を地面に落としてしまっている。

 季節が変わっている。一体どれだけの間眠っていたのか。

 椿は大きく息を吐いた。

 生かされてしまった、という感触が強かった。

 椿は、上弦の弐とたった一人で対峙したカナエの命はないだろう、とわかっていた。そして、小萩が、手の施しようのない致命傷を負っていたこともわかっている。

 ――わかってるよ、鬼を皆殺しにするまでは死なない。

 一度そう決めてしまったから、道半ばで足を止めることは自分に対して受け入れられなかった。色んな人に呆れられてしまっても、この意地がなくては、椿は両足二本で立っていることもできやしないのだ。許してほしかった。

 それきり周囲への関心も失せて、再び頭を枕の上に投げ出し、目を閉じた。

 室内には柔らかい光が差している。もうすっかり秋が深いようで、わずかに空いた窓の隙間から風が吹き込んでひんやりと肌を撫でる。

 人を呼ぶ努力をするべきかと思ったが、太陽の傾き具合からして、今は朝、ちょうど夜間の当直が明けて一息ついたあたりの時間だろう。手を煩わせたくない。急ぎでもなし、巡回の時間までおとなしくしていよう。ただでさえ手間と心労をかけていただろうから。しかし、こういう時は、ごめんなさい、ではなくて、ありがとう、と感謝する方が喜ばれるものだ。いろんな人にお礼を言って回らないと。室内に甘い匂いが満ちて染み込むほどに咲いたたくさんの花の束で、いかに多くの人が自分に心を尽くしてくれたのか知ることができた。

 まだ思考がうまくまとまらない。椿はしばらく、現実と夢の狭間でうつらうつらとしていた。

 ふと、ざ、ざ、と土の地面を踏み締める足音が耳に届いた。

 誰だろうか。屋敷に用があるなら、わざわざ裏手に回ってくる必要はない。それに、心なし足音が疲れきっているように聞こえる。椿は不思議に思って、庭の手入れにやってきた園丁だろうかと、誰が来たのかを見ようとして瞼を開けた。

 窓の外に立ち止まった人影と目が合った。椿は驚いたが、向こうの方がもっと驚いていた。

 唖然として突っ立っているのは、見間違えようもない夫の姿である。驚愕のあまり声もでないと見える。

 実弥が声よりも先に腕を窓に伸ばしたのを見て、椿は咄嗟に唇の動きだけで、表玄関から上がって、と伝えた。実弥ははっと我に返って身をひるがえした。

 女の子たちの慌てふためく声――廊下を駆ける音――そういうものがして、まもなく扉を蹴破らんばかりの勢い、というか実際に金具がいやな音を立てて軋み、実弥が病室に押し入ってきた。ひどく顔色が悪かった。

「ごめんなさい」

 さっき言わないと決めたばかりだったのに、自然と謝罪の言葉が口をついて出た。

「もういい。もういい、椿、」

 実弥は、ほとんど自分も寝台に倒れこむような恰好になって、もういいんだ、良かった、本当に良かったと、そう繰り返しては、確かめるような動きで椿の輪郭を包んで指先でなぞった。

 そういえば、さっきは気にならなかったけれども、顔にひどい傷がついたのだ。嫌われたりはしないだろうけど、見栄えが良いのが自分の取り柄で、彼も気に入ってくれていたのに。

 表情に出したつもりはなかったが、実弥は椿の相好がわずかに沈んだのを見逃さなかった。

「い、痛むかァ?」

 実弥は慌てて手を引っ込めた。そして、まるで自分の方が目玉をえぐられたような悲痛な顔になった。

「痛み止めがいるか、いや、まずは医者を呼ばねぇとな、大丈夫だ、きっと大丈夫だからな、心配するな、俺がついててやるから……俺が何とかしてやるから……」

 彼は片目を失くした妻を励まそうとして必死なのだ。

 椿は大丈夫よ、と答えた。本当に痛みはなかったのだ。彼のうろたえる姿が愛おしかった。一瞬でもこの人の愛情が損なわれるのを想像した自分が愚かであった。

「目はもう一つ残っているから、悲しくないわ。平気よ」

 椿が「触って。そちらの方が嬉しいの」と言うと、実弥は震える手つきで痛ましげに顔の傷跡をなぞった。続けて「お顔の傷、お揃いね」と言うと、涙声で「バカ」と返ってくる。それでもう、椿も耐え切れなくなって、行き場を失った感情が涙になって溢れた。

 私のために、あなたはこんなにも取り乱して、心弱くなってしまった。椿はもう、自分はこの人のために、身勝手に死ぬことは許されなくなったのだと思った。

 

 

 

 


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