猗窩座は困惑していた。
「お前は上弦の――参だな」
見通しの良い草原にて、猗窩座の行く手に立ち塞がった鬼狩りは女だった。まだ幼さの残る顔立ちを、いかにも毒々しい憎悪に染めた女である。
いや、しかし、果たしてこれを女と呼んでよいものだろうか?矮小な肉体は、女どころか少女というにも及ばない。
猗窩座は幼児に殺意を向けられているに等しいちぐはぐな感覚を覚えた。
誰かから憎しみをぶつけられることには慣れている。しかし、この娘から立ち上る強烈な憎悪に関しては、なぜだか「見当違いだ」という思いがこみ上げてきた。
「上弦の弐はどこにいる?」
怒りに肩を振るわせながら峻烈に問いただす物言いに、猗窩座は思わず舌打ちしそうになった。
やはりそうではないか。同じく十二鬼月に配された上弦の弐、童磨。そもそも、猗窩座がこんなところに派遣されてやってきたのも、発端はあの男にある。
猗窩座は普段、日本中を駆け回って、"青い彼岸花"を探している。
無惨が猗窩座を含む上弦の鬼に下した使命は大きく二つある。一つは鬼狩りを首魁である産屋敷一族ともども皆殺しにすること。そしてもう一つは"青い彼岸花"を手に入れること。
他の上弦たちも、それぞれのやり方でこの使命を果たすべく努めている(はず)だが、やり方はおのおの異なる。
基本的な生態をのぞけば、鬼の在り方は多種多様である。縄張りを定めてそこで獲物を品定めする鬼もおれば、常に一所に留まらず流離っている鬼もおり、童磨はどちらかと言えば前者だし、猗窩座は後者の典型である。
もっとも無惨に許されたこと以上の情報を共有しあわないので、他の上弦がいかな手段を用いているのかは知らぬ。そして猗窩座のごとき無骨者には野山をかけずり回るのが関の山である。
そんな猗窩座に珍しい指令が下りてきた。
あれとは童磨のことであり、どうにかとはきちんと仕事をさせろと言うことだ。
無惨はごく一部の例外を除いては決して、鬼に鬼の面倒を見させたりしない。だからこういうことはとても稀なのだが、今回に関してはその理由は簡単なことだ。
無惨は、童磨と喋るのが嫌なのである。出来るだけ関わりたくないのである。
はじめは何十年かぶりに童磨のもとに訪れて仕事ぶりを直接詰ったようだが、やっぱり嫌なものは嫌だったらしい。それで猗窩座にお鉢が回ってきた。無惨は定期的に配下の鬼たちの仕事ぶりを巡視して回っていて、比較的自由にされている上弦の鬼だって例外ではない(すべての鬼の面倒を見るのは楽な仕事ではないはずだが、無惨はやってのけている)。もっとも、猗窩座に何か言われた程度で童磨が態度を改めるわけがないので、つまりこれは、童磨への制裁というよりも、猗窩座に対する憂さ晴らしなのである。猗窩座が童磨を嫌っているのを、無惨はよく承知している。
しかし、猗窩座にとって主人の命令は絶対である。やりませんという回答はありえない。
そう、それで、差し当たって喫緊の事態は、童磨に怨みを持っているらしい目の前の女をどうするかだ。
「退け娘子」
猗窩座は抑揚なくそう言った。
「俺は女とは戦わない。俺の拳を振るう価値もない――」
女の腰から刀が引き抜かれようとした。
嫌な予感が猗窩座の脳髄を貫いた。
目の前の少女そのものは、何一つとっても猗窩座の脅威ではない。この少女が全力でかかったところで、己の肉体に傷一つすらつけることは叶わないだろう。こんな子供、生まれたての赤子より容易く捻り潰せる。
だが本能が、この娘に剣を抜かせてはならないと警告している。
猗窩座は直感に従い、一瞬で間合いを詰めて手刀で女の身体を跳ね上げた。女の身体は軽々と地面に叩きつけられる。刹那の出来事であった。女の顔が何をされたのか驚愕に歪むより早く、猗窩座は女に背を向けて、反対方向へと走り始めた。
「逃げるな!」
女の絶叫が背後から追ってくる。
「私と――私と戦え!」
嫌だ。悲痛に響く女の叫び声をついとも顧みず、猗窩座はその場から離脱した。己が求めるのは強者との戦いである。弱者をいたぶるのはかれの本分ではなく、女はすべて強者となる資格を欠いた弱者である。少なくとも、猗窩座の考えるところではそうである。
弱者を忌み嫌いながら女を生かす矛盾に、猗窩座は気付いていない。
夜闇を疾走した先、断崖の頂上に、探していた男の姿が見えた。童磨は待ち構えていたという体で両腕を広げた。
「猗窩座殿!猗窩座殿じゃないか!嬉しいなあ、俺に会いに来てくれのかい?」
不快に不快を上塗りする心なくはしゃいだ声に、猗窩座は苛立ちで血管がはち切れそうになるのを感じた。
背後にはあの娘以外の、こちらに向かってくる鬼狩りの強者の気配がある。平生の己ならば嬉々として迎え撃っただろうが、猗窩座には、今はもう戦う気がなかった。
一言で言うと、興を削がれたのだ。
「連中はお前が相手をしろ。あの方は貴様に柱を殺せと命じたはずだ」
猗窩座は機械的に言った。
「言いつけ通りにしたよ。だからあれは猗窩座殿にお任せしたいな。俺は今、可愛い女の子たちとおしゃべりできて気分が良いんだ」
まあその子たち俺が殺しちゃったんだけどね、一人は柱だったんだよ、食べ損ねたのが残念だなあ、などと何が嬉しいのかべらべらと愉快げにまくし立てた。
だが嘘ではないらしい。
童磨は、鬼狩りを殺戮するのに長けた異能を持つが、獲物をいたぶってから殺す悪いくせがある。本人は真面目にやっていると嘯くがどこまで本気であるものだか。結局、鬼は目先の快を優先せずにおれぬ生き物なのだ。
「だからなんだ?あのお方が、その程度の働きでお前の怠慢をお許しになるとでも――」
「おいおいおいちょっと待ってくれよ、俺が怠慢なら猗窩座殿はどうなんだい。せっかく鬼狩りの女の子と出くわしておいて、殺すどころか戦いもせずに立ち去るなんてさ」
童磨は人差し指をち、ちと振った。
「ずっと前から言ってるだろ?若い女の子は栄養豊富なんだよ、喰わない手はないよ。強くなりたくないの?」
猗窩座は右拳を振るい、童磨の脳天を叩き砕いた。童磨は残った顔の下半分で声を立てて笑った。哄笑が神経に障る。今度は喉元に拳を加えて、勢いざまに断崖の下に突き落とした。童磨の口元は相変わらず楽しそうに弧の形に歪んでいる。
つくづく忌々しい、煮ても焼いても喰えぬ男だ。
とにもかくにも猗窩座は任を果たした。後のことは与り知ることではない。