寒椿の君   作:ばばすてやま

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鬼殺隊にはOJTという概念が存在しないだって大正時代だもの


25.ネバー・レット・ミー・ゴー

 春告げ鳥のさえずる朝、椿は夫の腕の中で目を覚ました。

 昨晩は一人で眠りについた。不死川は明け方に帰宅して、いつものように布団に潜り込んできたのだろう。

 椿は夫を起こさないようにそっと腕の中から抜け出した。身支度を整え、竹刀を持って野外に設けた訓練所に出る。

 辺り一面は朝靄に沈んでいる。敷石のくぼみに溜まった水の表面には薄い氷が張っているものの、遠くの山の峰々に積もった雪は溶け始めていて、残雪の間にところどころ岩肌を晒している。いよいよ春は暦の上だけのものではなくなりつつある。

 風情を楽しむのもそこそこに、椿は日課の定常訓練を始めた。

 椿はもともと剣士として鍛えた強健な肉体を持っていたから、一度目覚めてしまえば回復は早くて、すぐに日常生活に戻ることができた。しかし、いまだ任務の復帰はかなっていない。肺機能が著しく低下していたので、これを取り戻すための訓練を積まなければならなかったのだ。

「あのですね、普通、人は肺に穴が空いたら息ができなくなって死ぬんですよ」

 機能回復訓練に付き合ってくれたアオイは、このような言い回しで本当なら命のない身だったことを自覚しろと言った。

「穴なんか空いてないわ。ただちょっと……()()()が……ずだずたに切れてしまっただけで……」

「同じようなものです。じれったいのはわかりますが、焦らないでください」

 アオイの口調はにべもなく、まったく正論なのである。だが鬼狩りにとって、肺が思うように動かないのでは、ほとんど剣士生命を絶たれるに等しい。せっかく手足が四本揃って生き延びたのに、これでは生殺しではないか。

 復帰を焦る椿に、実弥は辛抱強く付き合ってくれた。

 訓練の相手となっては手を抜かず、具合を悪くすれば背中を擦って労わってくれ、作り方を覚えて薬を煎じ、滋養によさそうなものがあればすぐに手に入れて食べさせたりしてくれた。

 傷身の妻の世話は決して楽なことではなかったはずである。まして柱としての職責に一切手抜きはない。彼がそのことにひとつの迷惑も感じていなくても、だからこそ余計に心苦しいのだ。

 その日は異様な天候で、猛烈な風と雪が一帯を吹き荒れた。厚い雲が完全に太陽を覆ってしまったので、真昼間なのに薄暗かった。

 戸を締めきっていても、隙間から凍えるような冷たさが忍び込んでくる。実弥は椿の手先の冷たさを憐れんで、懐炉を握らせるだけでは足らず、しきりに握ったり、摩ったりして温めようとしてくれている。まだ身体が戻りきらないので、体温が上がりにくいのだ。

 椿は戸ががたがたと揺れる音を聞きながら、嵐が早く止むように祈った。この人はあと二、三時間もすれば、こんな悪天候の中を任務のために出ていかなければならない。自分の役立たずが悲しく、手間をかけて申し訳ないと謝ると、

「俺のことは気にすんな」

 そう言って、椿を後ろから抱きしめて、子供をあやすように優しく揺すってくれた。

「……任務に戻れるくらい元気になったら、私、もうあなたから離れないわ」

 椿は、自分をかき抱く両腕に刻まれた真新しい傷跡をなぞりながら言った。

「そうよ、どうしてもっと早くそうしなかったのかしら……柱の任務は部下や継子が補佐するものよ、やることが多すぎるんだから。……あなたが継子をとらないなら代わりをする人が必要よ」

 これまで二人は、決して一緒に任務に出ることはなかった。それはけじめと言うよりも、互いに私情を切り離す自信が到底なかった。情けない話だが、愛する人と名も知らぬ無辜の人と、どちらか一方しか助けることを選べないなら、必ず後者を選ばねばならぬ――しかしその決断に耐えない。そして迷えばその一瞬が命取りになる、それは二人とも本意ではなかった。

「私を連れて行って」

 椿は振り向いて、夫の身体に両手を絡ませて力いっぱいにしがみついた。

「こんな無様では説得力は無いかもしれないけれど、足手まといにはならないわ」

 実弥は黙って妻の乱れた髪を指で梳いて直した。

「しょうがねえ奴……」

「ふ、ふ……」

 椿は笑みをこぼしながら、「絶対に、私を連れて行ってね。絶対よ」と繰り返した。実弥はどう受け止めたのか、苦笑しながら「わかった」と頷いた。

 

 

 長い冬の終わりは存外あっけなくやってきた。

 

 

 椿の身体は七、八割方の回復をみせた。毎日欠かさずに行う二時間余りの稽古にも耐えきれるようになった。技の冴えなども、ほとんど以前と遜色ない水準に戻っている。

 椿を一の型から十の型まで三度繰り返し型をなぞったのを朝の稽古を仕舞いとして、竹刀を置き、再度着替えて、今度は台所に向かった。食事の準備のためである。

 釜に米をしかけて、御用聞きから買い付けた笠子の干物に、副菜に青菜のお浸しをと思いつき用意にかかる。菜葉がさくさくと軽く切れる感触が手に楽しい。この包丁は刀鍛冶の里の職工が打った逸品なのだ。

 しばらくすると飯の炊ける匂いを嗅ぎつけたのか、実弥の鎹鴉が黒い翼を羽ばたかせて窓枠に留まった。物欲しげに光るつぶらな瞳に負けて、椿はゆでたまごを剥いてやった。卵は鴉たちのたいへんな好物だ。たいてい一つやっただけでは飽き足らずおかわりを要求する。

「お前は食いしん坊ね。あんまり急ぐと喉につまるわよ」

 椿の呆れた言い草に、鴉はガアと鳴いて返事を寄越した。

 食事の準備が一通り済むと、主人のための着替えを用意して、玄関に脱ぎ捨てられたままだった脚絆についていた乾いた泥を落とした。それでもまだまだ時間に余裕があったので、家の外回りを掃き清めることにした。春嵐に乗って飛んできた枯葉が方々に吹き溜まっていた。

「おはよう、玄弥くん」

 廂の下を箒で掃いていた椿が後ろに向かって声をかけると、不死川玄弥が、庭石の陰からおっかなびっくりな様子で顔を出した。

「き、気付いてたのかよ」

「気配を殺し方がなってない。精進なさい」

 椿は笑いながら玄弥の頭にぽんと手を置いた。玄弥は、驚かそうと思ったのにと悔しそうにしたが、気を取り直して重たげに膨らんだ風呂敷包みを差し出した。

「柿。こないだの草餅のお礼に、悲鳴嶼さんがもってけってさ」

「悪いわ。あれだって、こちらがお世話になっているお礼なのに」

「余るくらい吊るしてる奴を取ってきただけだから、気にするなって」

 玄弥はすっかり悲鳴嶼の弟子が板についた。山中にある悲鳴嶼の住居に腰を落ちつけて久しく経つが、月に数回は、こうして顔を出しに帰ってきてくれる。椿としては、玄弥が腐らずに努力している姿を見るのは嬉しかったが、とはいえ、なにくれ義弟の世話をするのが楽しかった身としてはほんの少し寂しい気持ちもあった。

 居間に上がらせると、玄弥は周囲をきょろきょろと見回した。

「あれ、兄貴いねえの」

「奥でお休み中よ。こんな時間にやってきたのだもの、朝ご飯、食べていくでしょう?」

 味噌汁を作るのを手伝ってもらって、食卓に並べると立派な朝食の用意ができた。二人は差し向かいに座って「いただきます」と言って手を付けた。玄弥はうまいうまいとよく食べてくれた。

「千夜子さん休み?」

「ええ、月末まで暇を出しているの。下の子が質の悪い風邪にかかってしまって」

 椿の料理の腕前は以前に比べるとかなりの進歩を見せていた。そもそも要領が悪いわけでもなくただ手際に不慣れなだけの料理下手だったから、家にいて集中して家政に取り組むと、めきめき腕を上げた。

 玄弥の方はと言うと、少し背が伸びたし、面構えがやや精悍になったようである。悲鳴嶼から聞いたことでは、うまく物事が運ばないと癇癪を起こすくせはあるようだが、よく師匠の言い付けを聞く子であると褒めていた。少なくとも、初めて出会ったときの、あの余裕のかけらもない痩せた子供の時とは見違えて逞しくなったと言える。

「そう、千夜子から聞いたのよ。喧嘩したんですって、私がいない間」

 玄弥は言い逃れを試みてひとしきりあーだとかうーんだとか意味のない声をあげた。

「別に、今更責めようというのではないのよ。でも、二人で仲良くしてって言ったのに……」

 椿は苦笑した。玄弥はげっそりした顔つきになった。

「椿さんがいない間、みんな大変だったんだからな」

「みんなって」

「みんなだよ……みんな兄貴にびびってさ、俺がどうこうできる空気じゃなかったんだからな……」

 そう言って玄弥は机に突っ伏した。「もうあんな心臓に悪いのはたくさんだ」と続ける玄弥があまりに萎れ切った様子だったので、椿はお行儀が悪いと指摘するのを忘れてしまった。

「……でも、私は玄弥くんがいたから、あんまり心配せずにいられたのよ。私がいなくなっても、玄弥くんがいるから、大丈夫だって……」

「それマジで言ってんのかよ」

「玄弥くん、怒ってる?」

「当たり前だろ」

 物言いにぴりぴりしたものを感じたので、確かに自分が軽率だったと思ってこれ以上この話題を続けるのはやめにした。

 不死川の兄弟は、顔を合わせる回数は減ったが、お互いにこのくらいの距離がちょうどよいと思っているらしい。実弥が自ら繕った半纏を、自分からだと言わずに弟に渡せと言った時には椿は心底呆れたものだったが、玄弥には黙っていてもそれが兄からの贈り物だとわかったらしく(兄嫁がこんな立派な繕い物をやり遂げることができるはずがないので)、はにかみながら受け取っていた。

「お兄様に会っていかない?」

「疲れてるんだろ、遠慮しとく。それに俺、これから走り込みがあるから。高山の麓からてっぺんを三往復するまで帰ってくるなって言われちまった」

 それは玄弥の足では一日仕事だろう。椿は手早く握飯を拵えてやり、水筒と一緒に持たせた。玄弥は「また来る!」と言って、小走りに門を駆け抜けて行った。

 

 

 それから、庭で花草の手入れをして、その内のいくつかを摘んで盛花を生けるなどしていたが、昼に近くなっても実弥が姿を見せない。寝過ぎは身体の毒だし、お天気なので布団も干したい、これは起こしに行かねばならないと椿は腰を上げた。

 部屋に入ったとき、廊下を歩く足音を聞きつけて目を覚ましたのだろう、実弥は寝起き特有の気だるい感じで半眼を開けてこちらを見ていた。

「……どこにいってた」

「どこにも何も、もうお昼前よ」

 外に面した雨戸と障子を引いて部屋に明かりを入れてやると、実弥は眩そうに腕で顔を覆った。

「ほら、起きて!今日は久しぶりの晴れ間なの、お布団を干させて」

 椿は強引に布団を引っぺがそうとしたが、実弥は端をつかんでそうはさせまいとする。不毛な攻防はばかばかしくなった椿が諦めたので決着がついた。意趣返しに勢いよく寄りかかってみるものの、頑丈な肉体はびくともしないで妻の柔い身体を受け止めた。

「ずいぶんお疲れね。何かあったの?」

 椿は夫の胸の上に両手を置いて、顔を覗き込みながら聞いた。

「……蛇……」

「へび?」

「ネチネチとしつけえんだよ……あの野郎……」

「……??」

 まだ半分夢見心地らしく、酔っ払いの言うことのようにいまいち要領を得ない。しかも、椿の知るところでは、彼は蛇は嫌いではなく、むしろ縁起が良いというので好きだったはずだが。謎だ。

 実弥はいつものぎらついた空気はどこへいったのやらというほどのへろへろぶりでぐったりしている。しかし椿は、寝癖のついた髪も、寝起きの緩んだ表情も可愛いと思うばかりだ。普段からこのくらいの可愛げを少しでも見せていたら、目下の者たちからももっと懐かれたり慕われたりしそうなものだが――もっとも本人は、余人にこのような姿を晒すくらいならむしろ死んだほうがましだろう。

「……お前、今日は蝶屋敷で定期健診あんだろ……」

「あなたが起きないなら私も行かない」

 上に寄り掛かったまま頭を優しく撫でてくれる妻の言うことがどこまで本気か図りかねたのか、実弥はようやく観念して起き上がった。椿はにこりと笑って、「お顔を洗ってきてね」と洗面台に行くように促した。

 庭で一番陽当りが良いところに布団を干すと、これで午前中にやるべき家事はすべて終わった。居間に戻ると、ちょうど頭から冷水を被ってきた実弥が戻ってきたところだった。

「何かやっとくことあっか」

「今日は夕食に鴨鍋をするの。お野菜の下拵えをしておいてくれると助かるわ」

 実弥はわかったと返事をして、椿の肩に袷を羽織らせると、気をつけていけ、と言って見送ってくれた。

 

 

 定期健診は本当のことだったが、椿にはもう一つ別の目的があった。

 蝶屋敷の書庫に収められている資料を閲覧する許可が下りたのだ。それは一時代前、上弦の参と戦った当時の記録と敗れた隊士の検視書の写しとである。

 過去の交戦記録は主に文書、時に口伝で後世に伝えられたが、失われてしまったものも多い。代々炎柱の書を継承してきた一族の裔である煉獄曰く、鬼殺隊の組織が何度も壊滅の危機に瀕するその度に資料を持ち出す暇もなく本拠を捨てざるをえなかったりしたので、相当数が散逸してしまったのだと言う。

「ここの文書、基本お館様の許可がない限り持ち出し禁止なんですよ」

 椿は隠の青年が持ってきてくれた一綴りになった書類を受け取り、礼を述べて土蔵を出た。

「お館様は、椿さんの気のすむまで読ませてやりなさいと」

「ありがとうございます。終わったら如何しましょう?」

「栗花落先生に渡しておいてください。私は別件に出ますので」

 椿はいったん屋敷に戻り、無人の医務室の椅子に腰掛けて書類を広げた。

 上弦の鬼は下弦の鬼と異なり両眼に文字が刻まれている……全身に刺青のような文様のある鬼……徒手空拳によって戦う……桁外れた攻撃の速度と威力……ざっと読み取れたのはその程度だった。

 もっと他に参考になるような情報がないかと紙をめくっていると、戸が開き、この屋敷で医療に携わって長い老医師が訪れた。後ろにアオイを従えていて、彼女は椿に「どうぞ」と茶を淹れて出してくれた。本当に気の利く子だ。

「上弦の参について調べているんだって?」

「しのぶが遭遇したと聞きました」

 老医師は厳しい顔つきで頷いた。

「しのぶさんは本当に運がよかった。どういうわけで見逃されたのかはわからないが、上弦の鬼と戦ってたいした怪我も負わずに帰ってこれたんだからね。奇跡だ」

 しのぶがそれに出くわしたのは上弦の弐の探索途上のことだったという。しかし、上弦の参はしのぶに一打をくわえただけで殺さずに立ち去った。理由は皆目わからない。太陽を恐れるにはまだ夜の闇は濃かった。

「期待をしているのなら悪いが、見ても参考になるようなものではないよ。気が滅入るだけだ」

「敵の戦力分析の役に立つものは、何であれ目を通す価値があると思います。それに、気が滅入るようなものはこれまでにもたくさん見てきておりますから、今更……」

 椿は再び書面に視線を戻した。後ろでは老医師とアオイが喋っている。

「先生は上弦の参のことをご存知なんですか?」

「ご存知も何も、そこにある検視書を書いたのは私だ……あれは安政の最後の年だったかな」

 アオイはわずかに眉を寄せた。椿は無表情のままそれを聞いていた。

 老医師は湿り気を帯びた口調で昔語を始めた。

 今から五十年近くも前、老医師はまだ医術を修めたばかりの駆け出しの医師で、上弦の参と相対したのは当時の水柱とその継子だった。彼は当代最強と目された柱の一角で、多くの継子を抱えて育てていた。その教えを受けた者の中には、後に水柱の地位を継いだ冨岡の師もいるという。

「時の水柱さまは武運つたなく敗れてしまったが、隠が到着した時にはまだ辛うじて息があって、戦いの一部始終を我々に伝えてくれたんだよ」

 多くの人の死を見送ってきたに違いない老人の皺の刻まれた顔には、ある種の諦念が見え隠れしている。

「若い命が散るのはいつの時代も悲しいことだ。……とりわけカナエさんたちが身罷った時には、もうこの屋敷の喪が開けることはないんじゃないかと思われたものだが」

 窓の外では小鳥たちの鳴き声がする。里の至る所の梅の花は見頃を迎えつつある。

「全部しのぶさんのおかげだ。彼女がしっかりしてみんなをまとめなければここまでは……」

 老医師の物言いに、アオイは感じ入るところがあったようだが、椿はかえって苛々した。感傷的に浸って何になる。

「私が疑問に思うのは、文書の閲覧自体が制限されていることです。こんなものが保管されているのも今回のことで初めて知りました。なぜもっと広く情報を共有しないのです?」

「隊士たちに半端な知識を与えて、先入観でことにあたらせるとかえって足を掬われる」

「それは隊士たちをあまりに見くびっているのは?育手が教えたきり、実戦に投入してろくに上の者から教練を受ける機会も与えられない。であれば隊士の質が上がらないのも必然でしょう」

「そのための人的余裕がないのが今の鬼殺隊だろう?」

「それはお館様のご意見ですか。それともあなたの私見でしょうか」

 椿は平素の物言いを心がけようとしたが、言葉尻に棘を含んでしまうのはどうしようもなかった。老医師はあくまで旧来のやり方を支持するが、椿はそうは思っていない。何かやり方を変えなければ、上弦の鬼に一方的に殺戮されるままの現状だって変わりはしないだろう。

 不穏な空気にアオイが「つ、椿さん、先生に失礼ですよ」とおろおろしはじめた。

「そうですね、やめましょう。私たちがこんなところで言い争って何が変わるわけでもありませんし――」

 その時、戸をこんこんと叩く間の抜けた音が室内に満ちた緊張を破った。

「さァーせん、誰かいますかー」

 老医師が入りなさいと返事をすると、機能回復訓練のために蝶屋敷の道場を使用している隊士が引き戸を開けて入ってきた。後ろにカナヲを連れている。

 椿はカナヲのむき出しの膝を見て顔をしかめた。

「どこでこんな痣をこさえてきたの」

「乱取りの稽古に付き合ってくれてる時に転んじまって。あ、無理に誘ったわけじゃねえっすよ、この子がやりたいって言うもんだから」

「そうなの?」

 椿が聞いた。カナヲはアオイに湿布を張ってもらいながら、無垢な表情で頷いた。

「この子、筋がいいっすねえ。下っ端の隊士なら、もう互角以上にやりあえるでしょうよ」

 隊士はそう言って、カナヲをこちらに引き渡すと訓練に戻っていった。

「自分で決めたんだな。えらいな、カナヲはえらい子だ」

 老医師には子がなく、したがって孫もない。だから余計に、カナヲが氏を決めるときに自分のそれを選んだのが非常に嬉しかったのだろう、孫がおればこうであってろうというふうに可愛がっている。

 それにしても、カナヲが、戦うための訓練を受けたいと自ら意思を表示したのだという。

「アオイ、あなた知っていたわね」

 アオイの肩がびくっと跳ねた。

「わ、私はカナヲがそうしたいと言うなら、その意思を尊重します」

「そうね、それはいいことね。それで、しのぶは承知しているの?」

 アオイは沈黙を返答として寄越した。

 椿はどうしたものかなあと考えあぐねた。実際のところ、カナエがいなくなった後の蝶屋敷のことは、今のいままで自分のことだけで精一杯だったので、把握しきれているわけではないのだ。

 しのぶは人が変わったと、みんなが言っている。

 ――しのぶさん、前は怪我して来ると怒りながら手当てしてくれたんだぜ。それが今では、なあ?

 ――言ってることがさ、カナエさんみたいなんだよな

 入院しているときに、見舞いに訪れてくれた隊士たちから聞いた話である。

 姉の死はしのぶに致命的な変化をもたらした。笑顔の下に喜怒哀楽のあらゆる感情を覆い隠して、いっそ不気味なほど死んだ姉の言動や行動をなぞっている。

 それでもしのぶはしのぶである。椿は、彼女は自分の前では、心打ちとけて以前の彼女に戻ってくれているのではないか、と感じることがある。

「傷は薄くなると思うけれど、目だけは元通りにはならないわ」

 しのぶはずっと椿の身体ことを気にかけてくれた。立ち振る舞いがどう変わろうと、厳しくも優しい、しのぶの根っこの部分はいささかも変わっていはしない。

「……本当にごめんなさい」

 しのぶは何に謝っているのか、しきりに謝罪を繰り返した。何を謝ることがあるのかと言っても聞かない。彼女は最愛の姉の命さえ失ったのに、この上必要以上に他人の心配などをして、心を痛める必要はない。

「ねえ、しのぶ、自分を責めたりしないで。あなたがいなければ私、ここまで持ち直せなかったと思うの。本当にありがとう」

 退院のとき、椿がそう伝えると、しのぶは目を見開いた。そしてとうとう耐え切れなくなったように、わっと椿の首元に抱きついた。

 椿は目を伏せた。彼女の無念な気持ちが痛いほど察せられた。しのぶには戦う機会も与えられなかった。姉が切り伏せられるのに間に合わなかった己のふがいなさ、上弦の参に相手にすらしてもらえなかった己のみじめさ、そういうものを彼女がどれほど憎んだか知れない。

 つくづく自分がこんこんと眠っていたのが悔やまれた。己ごときに何ができたわけでもないが、それでも一番辛いときに共に悲しみを分かち合いたかった。……もっともこんなことは、あの場で唯一生き残った自分が願うのはいかにもおこがましく、椿には一人で突き進むしのぶを止める手だても権利もない。

 カナエたちの死から半年以上になる。

 時の流れに置き去りにされていたためか、死に顔も見なかったためか、仏前に香を薫じても墓に参っても実感が湧かず、まだカナエも小萩もどこか遠い場所にいるだけで、その内ひょっこり帰ってくるような感じがした。

 廊下を歩いていると、ある部屋の引き戸が薄開きになっていたのに気付いた。椿は何気なしに気になって中を覗いた。

「しのぶ?」

 はっと顔を上げた。

「今日は出払っていると思っていたわ。何を――」

 しているの、と続けようとしながら一歩足を踏み入れて、椿は目の前が立ち眩むような感覚に襲われた。

 なぜ気付かなかったのだろう。ここはカナエの私室だ。

「部屋の整理をしようと思って」

 しのぶは困ったように微笑んだ。

「少しづつ手をつけているのだけど、なかなか進まなくて。でも、いつまでもこのままにしておくわけにはいかないでしょう?」

 部屋の様子から、しのぶが何度も遺品の整理を試みては断念しているのが見て取れた。無理はない。主が戻らなくなってもう半年以上にもなろうというのに、この部屋には、まだ、カナエの香りや、気配や、温もりさえ残っている。

 カナエの部屋は、彼女の趣味を反映して洋風の意匠に統一されている。机も椅子も本棚も箪笥も、すべて舶来の上等なのを使っていた。早々に処分するわけではないにせよ、このまま死蔵させておくには惜しい品ばかりだ。

「この部屋、カナヲに使わせてあげたら?」

「カナヲに?」

「あの子の部屋、物が増えてきて手狭になってきていたでしょう。この部屋は広いし収納もたくさんだし、家具も調度類も、きっと気に入る思うわ。もちろん、あの子がいいと言えばだけど……」

「そうね……どうして今まで思いつかなかったのかしら」

 しのぶはカナヲに聞いてみると言って、それから二人は一緒に縷々としたものの整理にかかった。すべきことが定まったためか、まるで見えない手に助けられているかのように、とんとん拍子に作業は進んだ。

 しのぶが荷物を箱に入れて運び出している間に、椿は本棚の文学雑誌を手に取ろうとした。これは椿の持ち物だったが、カナエが好きな作家の短編が載っているというので、貸してそのままになっていたのだ。手に取ると本の間からひらりと一枚の写真が落ちた。

「あ……」

 椿は慌てて床に落ちた写真を拾い上げた。

 それは蝶屋敷の庭で撮られた集合写真だった。カナエは手先が器用で、最近は写真機に凝り始めていたのだった。

 カナエは中央に立ち、看護師の少女たちに囲まれ微笑を浮かべている。しのぶはカナヲの目線までしゃがみこんで肩を抱き、小萩はいたずらな表情を浮かべていて、アオイはまさか魂を奪われるなどという迷信を信じているわけでもないだろうが、写真機が珍しくて緊張しているのか、少し頑なな表情ではあった。しかし全体としては、撮影の時の和やかな空気がそのまま伝わってくるような良い写真だった。

 これはしのぶに渡さなくてはいけないだろう。そう思い立って、扉の方に向かった瞬間、椿の耳に聞き馴染んだ優しい声が届いた。

 

「しのぶのこと、お願いね」

 

 椿は弾かれた様に振り返った。しかし、背後では、少女らしいレースのカーテンが風に吹かれて揺れているばかりであった。

 椿はその時、やっと理解した。もう二度と、一緒に本を読んだり、花を摘んだり、お茶を飲んだりして笑いあったりした、あの穏やかな日々は帰って来ないことを。

 彼女は柱の責務を全うした。夜明けまで戦い、無辜の人の誰も死なせなかった。

 カナエは本当に逝ってしまったのだ。

「……ばかね。私なんかのところに来る前に、しのぶに顔を見せてあげなさい」

 

 

 整頓に一区切りが付き、時間も時間だったので、今日はここまでにしましょうということになった。椿はしのぶに、顔色が良くないので休んだ方が良いと勧めたが、しのぶは任務があると言い張って、早々に屋敷を出て行ってしまった。

 椿はすぐには帰らず、少し足を伸ばして、家の反対方向にある刃物屋に向かった。外の風に当たりたかった。それに預けていた品も受け取りたかったからちょうど良かったのだ。

「鴉を飛ばしていただければこちらから伺いましたのに」

「どうぞお構いなく。少し歩きたい気分でしたの」

 刃物屋には、刀鍛冶の里から研ぎを専門にする職人がやってきて交代で常駐している。わざわざその刀を打った刀鍛冶に頼むほどではない簡単な研ぎはここでやってもらえるようになっているのだ。

 預けていた刀を受け取り、職人とよもやまな世間話をしていると、戸口に新しい客が現れた。職人はその男の姿が見えるなり低頭して畏まった。

「冨岡さま、何がご入用のものでも」

 敬うのもむべなるかな、そこに立っていたのは当代の水柱であった。冨岡は、「研ぎを任せたい」と言って、腰に帯びた日輪刀を差し出した。

 職人は富岡の手から刀を受け取ると、早速研ぎ台に向かって行った。柱の時間とは貴重であり、刀鍛冶は最大限の速度で仕事を完遂しようと試みている。

 冨岡は平常と変わらない涼しげな風体である。冨岡は椿が挨拶をしたので、ようやくそこにいるのが見知った顔であることに気付いた。

「具合はどうだ」

「おかげさまで、すっかり良くなりました」

 冨岡は見舞いに訪れなどはしなかったが、この筆不精の男には珍しいことに、こちらの身体を気遣う手紙を寄越してくれた。彼は一応はこの里に居を構えているものの、出払っていることが多く、今日はたまたま色々な所用を済ませるために立ち寄ったのだと言う。

「先ほどお前の家にも寄ったが、これから客人が来ると追い出されてしまった」

「客人?」

 そんなものがあるとは、彼からは一言も聞いていない。

 

 椿は冨岡と刀鍛冶に別れを告げて、刃物屋を出ると、心なし足早に家路を急いだ。

 

 近づくと邸の裏手からかすかに剣戟の音がする。椿は塀に沿ってその音のする方に向かった。朝方、自分も使った、屋敷の敷地内に設けた訓練場だ。

 そこで行われていたのは、組太刀の稽古であった。

 二人の剣士が、土埃を巻き上げながら技を繰り出しあって戦っている。一方は不死川だが、他方は縞柄の上着を羽織った見知らぬ剣士だ。まっすぐな木刀が変則的にうねる太刀筋――椿はその呼吸の型に見覚えがなかったが、ほんの少し見ただけでも、相当な手練れであることは窺い知れた。

 戦いはまもなく、木刀に亀裂が入り、使い物にならなくなったので中断した。もともと腕慣らしの手合わせ程度のものだったようで、それをもって稽古は終わった。

「あなた、こちらの方は?」

 椿は二人に近づいた。

 よくよく眺めてみると目の前の剣士は色の違う瞳といい、口元に包帯を巻いているのといい、なかなか尋常の風体であるとは言い難い。

「こいつは新任の柱だ。名前は伊黒小芭内」

 目の前にいるのが柱であることに驚きはなかったが、その小柄なことには驚嘆の念を禁じえなかった。

「お初お目にかかります。私のことは椿と――不死川の嫁でございます」

 伊黒は黙って会釈した。椿はその仕草に、なんとなく敵意めいたものを感じて戸惑った。初対面でそのような扱いをされる理由がわからない。

 気が重くなるような沈黙のあと、伊黒は顔をしかめて口を開いた。

「ここで女と二人暮らしか。ご大層な身分だな不死川」

「非難される謂れはねえぞォ、文句なら宇髄にでも……椿、どうした?」

 椿はぽかんと口を開けた。

 長い黒髪、小柄な体格、中世的な風貌――それらすべてが椿に目の前の剣士のことを、女性(おんな)であると誤解させていたのだ。

「伊黒さまは……殿方なのですね……?」

「まさか俺が女に見えるとでも?」

 色違いの双眼が鋭い怒りを帯びた。伊黒の形相に、椿は身を縮めて低頭した。

「失礼を申しました。お詫びします」

「本当に失礼だ、不愉快だ。貴様の眼は節穴か?」

「おっしゃる通りです……申し訳ございません……」

 申し訳なさで小さくなる椿に不死川が助け船を出した。

「テメェ、くどくどと言い抜かすのも大概にしろよォ。謝ってんだろうがァ」

 伊黒はふんと鼻を鳴らして一応は矛先を収めた。

「お、お詫びにご夕食を食べてゆかれませんか?今日は鴨鍋なんですよ」

「いらん」

 伊黒は取り付く島もない。

「わかってるんだろうな。次は俺の邸の道場に集合だ。女に現を抜かして遅れるようなことがあれば承知せんぞ」

 伊黒は最後に不死川の方に向き直り、こう言い捨てて去っていった。

 

「はぁ……」

 鍋を火から下ろしながら、椿は重苦しいため息をついた。

 男が女と取り違えられたら、自尊心を傷つけられて怒るのは当然である。もうこれは、自分が全面的に悪いので、いくら不死川に「気にすんな」と言われたところで、そうそう気にしないでいられるものではない。

 夕食時になっても暗い顔をしている椿に向かって、実弥は煮えた鴨肉を口に放り込みながら

「あんな奴はどうでもいい、ほっとけ」

 とばっさりと言い切った。

「でも……」

「あいつァ誰にでもああなんだよ」

 伊黒の口調のきついのはいつものことで、他人に対してはたいてい木で鼻をくくったような態度を取るし、そもそもが大の女嫌いで名が知れてるんだと言う。それに、人前で飯を食わないので、食事に誘われて乗ってくるはずがないということも教えてくれた。

 散々な評価を聞かされたが、不死川は伊黒を口で言うほど嫌っているわけではなさそうだ。彼は嫌いな人間のことをこんなに長々喋ったりしない。

 

 月の明るい夕べで、実弥は食後の机に儒学の教本を広げて読み入っている。椿は時折、問われたところを指南しながら、白っぽくなった炭を火箸で掻いた。

「今日で定期健診はおしまいなの。もう任務に復帰してもよろしいでしょうって」

 椿は何気なく切り出した。空気がわずかにぴんと張った。

「次からの任務、私もついていっていいでしょう?」

 すでに産屋敷の許可は取っていたので、あとは本人の意向だけだった。

 実弥は顔を上げずに「ああ」と短く返事をした。そして続けざまに大きく息を吐いた。

「わかってる、椿。俺ァわかってんだ。お前がこの数か月間、不本意だったことはな。だが、不謹慎だが俺は嬉しかった。お前が安全な場所で俺の帰りを待ってることが、こんなに嬉しいたぁ思わなかった……」

 芯からの愛情のこもった言葉に、椿は胸を突かれるような思いだった。この人は受け入れ難いながらも懸命に椿の意思に沿おうとしてくれている、それが嬉しかった。

「私、役に立つように頑張るわ」

 自分の力量にそれなりの自負はあったが、肺が少し弱くなってしまったし、片目は無くなってしまったしで、なにもかもが以前のようとはいかないだろう。

 実弥は気負った言葉を聞かされてふっと笑った。

「心配すんな。……お前を死なせやしねえよ」

 それは、椿が本当にほしい言葉とは少し違っていたけれど、十分だと思った。

 三日後の早朝、二人は連れだって任地に発って行った。椿は実弥をよく補佐したし、周囲の者たちはそれを大いに歓迎した。

 春が来て夏が来て、一年が経ち二年が経ち、相変わらず風柱は継子を取らなかったが、血も涙もなさそうと評される男が嫁を従えているのは余人に親しみやすさを感じさせたらしい。幾人かの若い隊士が二人を慕って門戸を叩き、過酷な指導で鍛えられて、立派な剣士になって戦地に赴いて行った。

 そうやって歳月は巡っていった。

 


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