椿としのぶは初冬の街角を早足で駆けていた。暗い路地には、鬼どころか人一人、猫一匹の気配さえない。
「邪魔をしないで、椿」
「邪魔なんかしないわ。あなたの発案について、お館様にそう乞われたから意見を申し上げただけ」
「それを邪魔していると言うの」
「勝算が低いと自分でも理解しているからそう思うのよ。ねえ、どうして私も一緒に――」
「そんなこと聞かないで!」
椿が言葉を重ねるのをやめてじっと見つめると、しのぶは大声を出したのが決まり悪いのか顔を背けてしまった。
「……ついてこないで。一人にして」
「そんなことを言ったって、行く方向が同じなんだからしょうがないでしょ」
もう夜明けだった。
しのぶは白みつつある東の空を見て、歩く足を止めて立ち止まった。椿は隣まで行って、しのぶの小さな手を包むように握った。
「一旦戻りましょう。ね、それでいいわよね」
しのぶは小さく頷き、椿の手を握り返してくれた。二人は連れだって本拠に戻った。
「……夕方には見廻りに戻るけど、どうする?」
「ついて行ってもいい?実弥さんひどいのよ。酸素の薄い高地の任務で、肺の具合に悪いからやめておけなんて言って、人を置いてきぼりにするんだもの」
しのぶは仕方ないわね、と言いながらも少し嬉しそうだった。二人で一緒に任務に当たるのは本当に久しぶりのことだ。
一度戻ってご飯にしましょうと話し合いながら蝶屋敷へ続く道を歩いていると、冬枯れて葉の落ち切った桜の木のそばに甘露寺が立っているのが目に入った。風呂敷に包んだ大きな重箱を手に下げて、いささかぼうっとした様子で虚空を眺めている。
「甘露寺さん?どうしたんですか、こんなところで」
「あっ、しのぶちゃん、椿ちゃん」
しのぶが声をかけると、甘露寺はこちらに気付いて「こんにちは」と小さく頭を下げた。どうしたことか、見るからに元気がない。異常事態だ。いつもならちぎれそうなほど手を振って満面の笑顔で挨拶してくれるのに。
「なんでもないことはないでしょう。……あら、この着物素敵ね。どこかにおでかけ?」
「おでかけはもう終わったの」
二人のもの言いたげな視線に囲まれて、甘露寺は、えっとね、と言って、いくらかためらいながら口を開いた。
「ご縁があって、ある殿方とお知り合いになって、それで今日、近くのお寺の紅葉がまだ綺麗に残っているから見に行きませんかってお誘いを受けたのね」
要するに逢引きか。椿は眉を寄せた。話し始めから、すでにこの話がめでたしとは終わらない不穏な気配がひしひしと伝わってきたのだ。
「私嬉しくて、お弁当、たくさん作ったの。喜んでもらおうと思って。そうね、初めは楽しかったわ。真っ赤な葉が綺麗で、湿った落ち葉の上を歩くのも面白くて。それで、色々お話している内に――結婚の話になったの」
しのぶも話の着地点が見えてきたらしく、顔だけ笑顔のまま、ぴしりと拳に血管を浮かせた。
「もし自分と一緒になったら、鬼殺隊はやめてほしい。家に入って、自分と両親の世話をしてほしいって。でも私は、鬼殺隊をやめることはできないって、そう言ったの。そうしたら、態度が急に変わって」
甘露寺は話続けている内に涙声になった。
「そんなのはそもそもが女のすることじゃないんだからやめなさいとか、それに、二人しかいないお出かけにお弁当を七段も重ねて作ってくるなんて、ひ、非常識だって……冬眠前の熊でももっと少食だって……」
「もういいです、甘露寺さん」
しのぶは懐からハンカチを取り出して、甘露寺の目元に滲んだ涙を拭った。
「どこの馬の骨がそんな事を言ったのか教えてください。簀巻きにして川に放り込んでやります」
「普通の人は死んじゃうわ。縄でくくって木に吊るすべきよ」
「いいわね、それ」
「ダっっダメダメダメ、二人ともダメだよ!」
椿としのぶの過激な提案に、甘露寺の涙が引っ込んだ。
「さあ、こんな寒いところに立ってないで。そんな狭量な男のために蜜璃さんが泣いたり悲しんだりする必要はないわよ。嫌なことは早く忘れましょう」
甘露寺はそう励まされて少し浮上したようだが、やはりどことなく浮かない顔つきでいる。喜怒哀楽の切り替えの早い彼女には珍しいことだ。
しのぶは少し思案して、人差し指を立てて甘露寺にこう提案した。
「元気が出ないなら、そうですね――私たちと楽しいことしません?」
「それでこれですか」
アオイは道場の壁に、椿とカナヲと三人で並んでもたれて、呆れたような、いっそ感心したような調子で言った。
「いいでしょう、すっきりして」
カナヲはあどけないつぶらな瞳で、しのぶと甘露寺が竹刀で打ち合う様子を見つめている。嫌なことを忘れるには、思い切り身体を動かすに限る――椿としのぶと、そして甘露寺にも異論のない意見だった。
「もしかして、しのぶが帰るのを待ってた?ごめんなさいね、横取りのような真似をしてしまって」
「いいんです。私だとしのぶ様に教えてもらうばかりになってしまいますから」
柱の女たちの勝負は拮抗している。しのぶの目にも止まらぬ神速の突きを、甘露寺は強く、しなやかな肢体をのびやかに動かして、ひらりひらりと紙一重でかわす。
しのぶの突き技は鬼殺隊随一の速さを誇る。斬るという動作を捨てて、刺突それ自体のみを極限まで鍛え上げたのは、少なくとも当世の隊士としては胡蝶しのぶが唯一であろう。刺突という動作は本来、生半可では鬼殺の決定打にはなりえないから、型の一つとして突き技を修めることはあっても、多くの剣士はそれほど力を入れて修練に励まない。
今でこそ取り沙汰するものもないが、しのぶが柱になった当時は、頸を切れない柱が許されるのかと、少なからぬ物議を醸したものであった。もしも毒が通用しない鬼に遭遇した場合、頸を切る手段を持たないしのぶにはなす術がない。柱は強者でなくてはならず、頸を切れない剣士は強者ではない。
それでもしのぶは、色々な困難を経て、誰の文句も寄せ付けない地位を築いている。立派なことだ。
「椿さんは参加しないんですか?」
「私では蜜璃さんに手加減させてしまうの」
椿はしのぶとは手の内を知り尽くしていることもあってそれなりに伯仲した勝負になるのだが、甘露寺相手だと力負けしてしまうのだ。
手合わせは一見すると、しのぶが優勢に進めているように見える。しかし、ここにきて甘露寺が上手に回り始めた。攻めているというよりも攻めさせられている。戦いが長引くほど、体力や継戦能力で上回る甘露寺の方が有利なのだ。
それはしのぶも十分に理解しているのだろう。主導権を握り返すべく、凄まじい速度の連撃を叩き込む。甘露寺はこれをどうにか堪えてしのぎ切ったが、無傷では済まず、右腕に強かな一撃を喰らった。それでも竹刀を取り落とさずに済んだのは見事と言えた。
「やりますね、甘露寺さん」
「しのぶちゃんこそ!」
二人が相手の健闘を湛え合い、互いに竹刀を構え直したその時、気の抜けたぐうという音が低く鳴り響いた。甘露寺の胃の唸る音だ。
「……」
「……」
緊張が緩む。椿は真っ赤になった甘露寺に向かって安心させるように微笑んで、乾いた音を立てて手を打った。
「そろそろお仕舞にしましょうか。二人ともお風呂に入って、着替えておいでなさい」
二人が風呂場で汗を流している間に、椿は火鉢を出して部屋を温めていた。アオイとカナヲは、柱同士の稽古に良い刺激を受けたようで、道場に残って稽古に励んでいる。
甘露寺が手付かずのまま持ち帰ってきたお弁当を机の上に広げると、七段重ねの重箱には佃煮、卵焼、焼鮭、葉菜、そのほか色々な彩り豊かなおかずが宝石のように詰まっていた。甘露寺は料理に関しては、食べるばかりでなく作る方にも才覚があるようだ。
そうしているとまもなく、葡萄色に染めた矢羽根絣の着物に召し替えたしのぶが襖を開いて入ってきた。
「蜜璃さんは?」
「もう少し湯に浸かりたいって」
「一人で大丈夫?湯舟に頭まで浸かったりしていなかった?」
「身体を動かして大分吹っ切れたようだから、大丈夫よ」
椿よりも甘露寺との付き合いが長いしのぶの言うことなので間違いはないだろう。椿は、座布団の上に座ったしのぶの後ろに膝を立てて、少し乱れてしまって後れ毛の目立つ髪を整えてあげた。
「今回の任務、随分長くかかったわね」
「一月くらいかしら。でも今は、ここは私がいなくてもアオイがいれば回るようにしてるから大丈夫」
「手伝いが必要ならいつでも呼ばれるわよ」
「いいのよ。手伝いなんかじゃなくて、今みたいにゆっくりするために来てくれたらいいの」
どこか懐かしいような、ゆったりとした空気が流れていた。火鉢の五徳にかけた鉄瓶が暖かくなって、中に張った水がぶくぶくと微かな音を立てて沸騰している。
椿は茶を煮出そうとして沸いた湯を急須に注いだ。手持ち無沙汰になったしのぶは、椿の髪を一房つまんで弄り始めた。
「香水変えた?」
「よく気付いたわね」
「わかるわよ。薔薇の香り、少し強くしたでしょう。いい匂い」
「ありがとう、嬉しい。彼は気付いてくれなかったの」
しのぶが得意満面の笑みを浮かべた。それから、銀座のどの店の調香師がいいだとか、舶来の香水は匂いが強すぎてだめだなどと言い合っていると、元気いっぱいの甘露寺がほかほかの湯気を纏って飛び込んできた。部屋の空気が一気に賑やかになり、しのぶは一瞬で妹分の顔からいつものしっかりものの顔に戻って、「どうぞこちらに」と席に着くように促した。
「良いお湯でしたぁ~!しのぶちゃん、ありがと!」
「あらあら蜜璃さん、胸元がはだけているわ」
「えへへ、椿ちゃんも、ありがとう」
「どういたしまして」
三人が揃ったところで、机の上に広げていたお弁当をいただくことにした。
甘露寺手製の料理は何を食べても美味しかった。かぶの葉の漬物は塩加減が丁度良いし、高野豆腐はしっかりだしの味がしみ込んでいる。彼女の手料理を毎食頂ける男は幸せだ。甘露寺はさぞ良い嫁になるだろう。
「どうしたらこんなに綺麗に焼けるのかしら」
椿は卵焼きを箸で摘んで、嘆息混じりで言った。
「難しくないよ!まずはフライパンをよく温めてね、たくさん油を引いて……」
「甘露寺さん、手加減してあげてください。この人は最近ようやく卵に殻の破片を混ぜないで焼けるようになったばかりなんですよ」
「しのぶったら!」
甘露寺は「じゃあ今度うちに来て!一緒に練習しよ!」とはつらつとした笑顔を向けた。本当に性根の優しい子だ。ちなみに、しのぶは決して椿に、蝶屋敷の台所の敷居を跨がせたりしない。こちらは優しくないが賢明ではある。
「そうだ、前から聞きたかったんだけど……」
お弁当があらかた片付いた頃、甘露寺がはにかみながら言った。
「椿ちゃんはどんな馴れ初めで結婚することになったの?宇髄さんはお見合い婚だったって言うの」
椿は箸を置いた。ついにこの質問が来たな、と思った。この際、宇髄のそれが見合い婚かどうかの真偽は置いておく。
「馴れ初めと言ってもね。別にこれといったきっかけなんかないわ。任務で知り合って、一緒にいるうちに好きになっただけ」
甘露寺は「素敵……」と頬を染めている。しのぶは苦々しげに茶を啜っている。
「お見合いじゃなくて、恋をして結婚したいなら、段階を踏むべきだと思うの」
「段階?」
「まずはお友達になるの。お友達になって、仲を深め合って、相性が良かったならしぜんと相手を慕う気持ちが芽生えてくるでしょう」
「……確かに!」
甘露寺は手を打って感心した。
「仕事に理解のある人がいいなら、絶対に鬼殺隊の中か近くで探すべきよ。どう?身近に素敵な人はいない?」
「えっ……だって……そんな……鬼殺隊にいる人はみんな素敵な人なんだもの」
みんなときたか。
「全員のことが好きって言うのはね、恋愛ごとにおいては全員好きじゃないのと同じよ」
「そうかなあ?」
「残酷だけど、恋をするってそういうことよ。大勢の人の中から、たった一人を特別にするとね、その人だけが飛びぬけて素敵に見えて、それ以外の男は大根か何かにしか見えなくなるの」
「大根……」
「甘露寺さん、椿の言うことは一般論だと思わないで、話半分に聞いてくださいね……」
話をよくよく聞いていると、彼女の結婚に対する感情は単なる娘らしい純真な憧れのみに留まらない、切迫した危機感を孕んでいることに気付く。
甘露寺は次の正月で十九になる。適齢期とはいえ、そこまで焦る必要もないと思うが、周りの同級生がみんな恋愛らしい恋愛もせず、あらかた在学中に縁談がまとまって退学して行ったり、卒業後すぐに家庭に入ってしまい、甘露寺一人が見合いにことごとく失敗して取り残されてしまったそうである。それは辛い。
「見る目の無い男がいたものですね」
お見合い話の下りでしのぶが放った容赦無い物言いに、甘露寺が弱々しく微笑み返した。心の傷は深いようである。
椿が思うに、結婚とは、本来的には家と家の結びつきであって、人間同士が結びつくためのものではない。だから、家風に合わなければどんなに優れた女性であっても破談に至るのは致し方のないことで、甘露寺個人の人格が否定されたのとは違う……のだが、こんな理屈を並べ立てたところで、傷ついた少女の心を癒すには役に立たないだろう。みんなあなたのことが好きよ、落ち込まないで、と慰めを試みたところで同じである。たった一人の伴侶から向けられる愛情、唯一の人に思い思われる経験以外に、彼女の傷が癒されるすべはないのだ。
椿が「じゃあね、こうしてみたらいいのよ」と年長者としてわずかに豊富な人生経験のおすそ分けをしようとすると、甘露寺は興味津々でうんうんと首を縦に振る。素直が過ぎてちょっと心配だ。
しのぶが同じように思って、「あんまり変なことを甘露寺さんに吹き込まないで」とたしなめた矢先、板戸の外で鴉が劈いた。――任務の報だ。
水気を含んだ北風が、侘しい長屋の連なりに吹き付ける。
この土地の人々は飢えるほど困窮しているわけではないけれども、日々の身上を稼ぐので精一杯の暮らしをしている。それでいて容易に困難を表に出さない気風があり、よそものには打ち解けにくい、付き合い難い住人が揃っているのだが、この日は見慣れぬ異邦人の周囲に子供たちが群がる珍しい光景が広がっていた。
「平吾がいなくなっちゃったんだ」
「絹のお母さんもだよ」
「向こうの長屋に住んでる源三郎おじさんも」
子供たちは椿の耳元にやってきては、内緒話をするように小声で囁く。
「平吾くんとお絹ちゃんのお母さま、いなくなる前になにか言っていなかった?」
「母ちゃん、川のすぐ近くで兄ちゃんを見たんだ、って言ってた」
絹はきゅっと引き結んでいた唇をわなつかせながら言った。
兄ちゃんというのは、何年も前に病気で死んだ絹の兄で、母親が一番可愛がっていた子のことだと、周りにいた子供が説明してくれた。
「平吾も、家出したおとっつぁんがあそこにいたんだ、間違いない、って」
二人とも、夜半遅くに帰ってきた長屋の人足が、川辺に向かうのを見かけてそれきりという。椿はもうこれ以上聞けることはないだろう、と思って裾に手を伸ばした。
「みんな、教えてくれてありがとう。お礼に鹿の子餅をあげましょうね」
懐紙に包んだ餅を手に与えると、子供たちはわあっと歓声を上げて受け取った。
「お絹ちゃんには二つ。お家に持って帰って、父様と一緒にお食べなさい」
子供たちは口々にありがとうと言いながら、「お姉ちゃん、また来てね!」と手を振って家に戻っていった。絹は一番最後に、「ちゃんと聞いてくれてありがとう」と感謝して、ようやく口の端に微笑を乗せて帰っていった。きっと、大人には話せないか、話しても信じてもらえなかったのだろう。
子供たちと立ち替わりに、他の長屋で聞き込みを終えたしのぶがやってきた。
「どうだった?」
「源三郎さんは半年前に奥さんに出ていかれて以来、酒浸りだったそうです」
番茶でもてなしてくれた家主は、どうせ酔ったはずみに川に落ちでもしたのだろう、家賃も滞りがちだったので厄介払いできて幸いだった、と薄情な様子だったという。
「伊黒さま、もちろん聞いていらっしゃいましたね」
「当然だ」
子供たちの前では完全に気配を消していた伊黒が、屋根の上から女たちを見下ろしながら不愉快そうに言った。
「お前たちには別件の指令が来ているだろう」
「はい、中々鬼の尻尾が掴めない上に住人たちの口が固くて難渋しているから、向かう前に一旦ここで情報収集を手伝えとの指令でございます。私もしのぶも、この辺りの事情には多少通じておりますので」
この一帯はかつて花柱の担当区域だった。かつてカナエが守っていた広大な領域は、三分の一を一般の隊士が分割して受け持ち、残りをしのぶが担当している。
「まあ、そんなことはどうでもいいとして……敵は親しい人の幻覚を撒餌に人を誘き寄せているようです。ただの幻影か精神に干渉してきているのかはわかりかねますけれども、立ち回りにはいささか注意を――いらぬお節介でしたね」
椿は伊黒の不機嫌を見て口を閉じた。
「何をしている。用が済んだのならさっさと行け」
「言われずとも退散しますが、その前に一つよろしいでしょうか。なぜこの期に及んで蜜璃さんに想いを告げないんですか?」
椿は有無を言わさず単刀直入に切り込んだ。
「前にも言ったはずだ。俺にそんな気はない。下衆の勘繰りはやめろ」
伊黒は不愉快の極みとでもいうような刺々しい口調だ。
椿はこれまでに見聞きした伊黒の奇行と、今の言葉を合わせて考えて頭を捻った。他人にちょっかいをかける暇はあるくせに、甘露寺には何もする気がない。――一体なんなんだろう、この男。
「では甘露寺さんと仲良くしている隊士や隠に凄んでみせたり、未練がましく付きまとうのをやめてください。あなたの振る舞いのせいで彼女が良縁を逃して一生結婚できなかったどうしてくれるんですか?責任とれるんですか?とらないんでしょう?」
しのぶが椿の思ったことを率直かつ無慈悲に代弁した。伊黒の首元の蛇が居心地悪げにもぞもぞと動いている。
「椿、あなたも何か言って」
「何かって言われてもねえ……」
椿は、これはちょっと自分には手がつけられないな、と思っていた。伊黒の拒絶的態度の理由が全然わからないのだ。
「もういっそ、蜜璃さんには私たちから良さそうな人を紹介してあげた方がいいんじゃないかと思うの。ほら例えば、冨岡さんとか」
しのぶは頭に鈍痛を覚えたように手を額に押し当てた。
「……その馬鹿みたいな話、どうしても今聞かないといけない?」
「何よ、しのぶだって冨岡さんのこと嫌いじゃないでしょう。優しい人だし、一本気だし、誠実だし、奥さんになった人のことは絶対、大切にしてくれるはずよ」
「まともに会話も成り立たないくらいの言葉足らずなのに、どうやって夫婦生活ができるの」
椿はしのぶの突っ込みを意に介さず続けた。
「確かにおしゃべりな方ではないけれど、見た目より簡単な思考の人だから、慣れれば何を考えているかはすぐにわかるようになるわ」
「擁護になってないわよ」
「……それに、なんと言っても熟練の柱だもの。『頼れる殿方に守ってもらいたい』ならうってつけよ」
椿がいっこうに諦めないので、しのぶは「襟が解れてるのも自分で直せないくらい生活能力ゼロだし」と別の切り口で責めだした。
「たいした欠点にはならないわ。その程度のことなら人に任すか女が甲斐性を見せればいいだけのことじゃない」
「冨岡さんの天然を甘く見過ぎ。あんな人と結婚したら最後、知らないうちにどこかで借金の連帯保証人になっていて、嵩んだ借財をそのまま押しつけられて、一人で途方にくれたりして、しまいには家庭にも飛び火して……とにかくそう、大変なことになるに決まってるわ」
「……」
あまりに具体的に提起された懸念に、さすがの椿も返す言葉を失った。
「とにかく、冨岡さんは無理。絶対に駄目」
「まったくだな。不良債権を押し付ける悪徳銀行員のような真似はよせ」
伊黒は最初「一体何を言い出すんだこの女は」とでも言いたげに二人の会話の行方を追っていたが、最後にはしのぶの意見に追随した。
「それじゃあ煉獄さまはどう?人間として非の打ち所のない方だと思うけれど」
しのぶは「どうして最初から煉獄さんにしなかったの?」と呆れながら言った。
伊黒は沈黙した。
「私もいいと思うわ。もともとあの二人は師弟だし、仲も良いし」
「いいわよね、煉獄さん」
「ええ。伊黒さんもそう思いませんか?」
突然水を向けられた伊黒は、ちょっとだけ言葉に詰った。
「……あの二人は、互いにそんな気はない」
「そんな気がないのは、そういう目で相手を見たことが無いからですよ。どこに出しても恥ずかしくないみごとな男ぶり、女ぶりのお二方ですもの、一度意識しえばあっという間ですわ」
伊黒は同意する気持ちと反対したいような気持ちの相反する感情がせめぎ合った複雑な表情をした。
「嬉しくないんですか?彼女の幸せを見てるだけで満足なんでしょう?」
「好きにしろ」
しのぶに煽られて、伊黒はそう吐き捨てた。
「俺には関係ない話だ」
そして、来た時と同じように、音も立てずに屋根から屋根に飛び移って去ってしまった。
「……ちょっといじめすぎたと思う?」
「まさか。あのくらいでちょうど良いわよ」
しのぶにとって、伊黒は冨岡以上に論外らしい。あの素敵な可愛らしい女性を、あんな意気地なしに任せることはできない――というのがそのわけだ。一理ある。
しかし、伊黒のすげない態度はかえって、椿の中ににわかに憐憫の情を引き起こした。
伊黒がああも頑ななわけは想像もつかないが、なんせ男の考えることだから、どうせ愚にもつかない理由があるにはあるのだろう。しかし、甘露寺の伴侶に他の男はどうかと問われて明確な答えもできずに去っていく伊黒の背中は、いじらしくけなげで、見る者の同情を誘った。まあ椿にとっては大根だが。
「伊黒さん、悪くないと思うけど」
「私は反対」
しのぶはにべもない。
「この期に及んで尻込みしているような男に、甘露寺さんを幸せにできると思うの?」
確かに、甘露寺ときたら、親しくなればなるほど、彼女の優しさや誠実さといった美徳を享受するに相応しい男が果たしてこの世に存在するものかと考えたくなるような女の子なのである。
「私の考えは少し違うわね。幸せは自分で掴み取るもので、誰かに与えてもらおうなんて甘い考え方でいたら、それこそ遠ざかっていくものじゃない?」
伊黒に何かするのを求めるのは不可能としても、甘露寺が何かする分には背中を押してやって差支えないのではないか。
機会だけでも与えてあげたら、と椿が微笑むと、しのぶが深いため息をついた。
「あなたがそこまで言うなら、仕方ないわね……」
自分よりも経験豊富な柱であるしのぶの、「こちらは私と椿で十分ですから、伊黒さんを手伝ってあげてください」という指示に従って、甘露寺は鬼を探すために橋を渡り、川沿いの土手を走ったりしながら、頭の片隅で考えていた。
本当に、この広い世界のどこかに、私を好きになってくれる人はいるんだろうか?
大好きな家族、大切な仲間、どれほど素晴らしい人たちに囲まれていても、心の中で拒絶されることを恐れる気持ちが拭えない。自分という人間を真正面から否定された経験は、甘露寺を臆病にしていた。
今回のことだって、男の口調はそれほど強く甘露寺を咎めるものではなかった。世間では彼の方こそまともなのだ。だが一度ああ言われてしまうと駄目だった。彼は甘露寺の奇抜な容姿は気に入ってくれたが、内面まで受け止める度量は持たなかった。自分のすべてを受け入れて、好きになってくれる男性――虫のいい期待なのはわかっていたが、甘露寺はそういう人を求めずにはいられなかった。
鬼狩りは、人の命を守り、己の身命を捧げる職務だ。甘露寺は命を落とすこともある危険な仕事であるのは承知の上でこの道に入った。婿探しという目的とはまた別に、わが身を顧みずに人の命を救おうとする隊士たちの志に感銘を受けたのである。決して生半可な気持ちではない。恥じることも何一つとしてない。甘露寺には己の職責に対する誇りがあり、その誇りごと、自分を受け入れてほしかった。
男の人任せではだめ。少しでもいいと思える素敵な人がいたら、自分から一歩踏み出さなくてはならない。
椿はそう助言してくれた。甘露寺は彼女の言葉に従って、鬼殺隊に入ってから出会ったたくさんの人たちの顔を順繰りに思い浮かべた。
煉獄は甘露寺を正しい方向に導いてくれた高潔にして優れた師である。悲鳴嶼とは猫好き同士で気も話も合う。時透はぼうっとしているようで優しい子だ。冨岡とは話したことはないけれど、絶対に悪い人ではないのはわかる。みんないいと思える素敵な人たちばかりだ。
伊黒。彼は他の人とはちょっと違う。何が違うんだろう?
そこまで考えて、甘露寺は乙女の思考を鬼殺隊の柱のそれへと切り替えた。
油断なく前を見据える。
辺りは淡く夜靄が立ち込めている。気配がする。人の形をした影もある。でも、人の姿をしているけれど、気配が人じゃない。
足を踏み込むより先に、靄の中から男の姿が現れた。
甘露寺は言葉を失った。
自分はこの男を知っている。知っていた。美男子であったような気がする。分からない。もうはっきりと思い出せない。甘露寺は彼と一緒に並んで歩いているとき、ずっと下を向いていたから。
『危うく騙されるところだったけれど、貴方との見合いが破談になってよかった。こんな髪の色の女と連れ立っているのを見られて、私まで気狂いと思われてはたまらないから』
甘露寺は、反射的に愛刀を抜いて手首を捻った。
日輪刀に絡め取られた影は水蒸気のように霧散して消えた。やはり実体ではない。物理的に人を害する能力はない幻影だ。精神的な動揺を誘うための血鬼術に違いない。
そうだ、幻だ。そうとわかって心をかき乱されているようでは、柱失格だ。
「しっかりしないと!」
甘露寺は両手でぱしんと音を立てて自分の頬を叩いた。
腑抜けている場合ではない。これは鬼の攻撃だ。ということは、先行している伊黒も現在進行で攻撃を受けていると考えた方がよいだろう。
甘露寺は鬼の気配を強く感じる方角に突き進んだ。
伊黒と鬼はまもなく見つかった。スゲやアシが茂る沼地のすぐそばで両者が戦っているのをみて、甘露寺はとっさに――
甘露寺が想起した妖怪に似て、鬼の頭部には目も鼻も口さえあるべきところに無かった。肌色は水死体じみていて男女の別さえ判別できない。それでも上半身はかろうじて人の形を保っていたが、下半身は完全に異形と化して、蛸を思わせる巨大な触手が伸びている。加勢しようと身を躍らせた甘露寺の隊服の裾を、先が鋭利なくちばしのようになった触手が切り裂く。くちばしがぱかりと開いたかと思えば、そこにそこにぎざぎざの歯がたくさん生えているのが見えた。これで獲物を仕留めて食うのだ。
「後ろから回り込めるか!」
「はい!」
伊黒に指示されて攻撃を加えるが、触手に阻まれて本体に刃が届かない。触手それそのものを断ち切るのは容易いが、凄まじい速度で再生するし、数が多くて多少の攻撃で手数を減らしても意味がない。厄介だ。
相対して理解した。幻影はこの鬼にとっては、獲物をおびき寄せるための小手先の撒き餌に過ぎず、相次いでこの地で隊士が殺されたのは単純に力で押し負けてしまったのであろう。
伊黒が補佐するように動いてくれるおかげで、甘露寺は無縫の剣捌きを十全に発揮することができる。何度か切り込んでいく内に、触手は根本から切断されると再生が遅いことに気付いた。
ここが活路だ。
恋の呼吸・伍ノ型、揺らめく恋情・乱れ爪
広範囲に放たれた斬撃が、触手の根本を抉るように切り取る。再生が遅れた隙に畳みかけるように次の型を放った甘露寺の剣が、ついに鬼の頸に届こうというその時、鬼の幻覚が、伊黒にまとわりつくようにぬるりと現れた。
顔は見えない。黒い、長い髪の――あの姿は女性のものだろうか?
『この人殺し』
甘露寺が聞き取れたのは、怨念の籠ったその一言だけであった。
伊黒の剣が幻影を叩き切ったのと、甘露寺の刃が鬼の頸を落としたのはほとんど同時だった。そして、次の瞬間、鬼の身体は崩れ、幻も跡形もなく消え去った。
「甘露寺、今のは――」
「いいいい伊黒さん、だ、大丈夫!!?」
甘露寺は鬼の身体が完全に崩れ去るのを待たずに、脱兎のごとく伊黒のもとに駆け寄った。
「大丈夫だが、その……甘露寺、きみの方こそ大丈夫か?足が震えているぞ」
「はっ……そうだわ、深呼吸、深呼吸……」
甘露寺は大きく息を吸ったり吐いたりして動揺を鎮めようとした。
「今の女の人、しのぶちゃんが朗読してくれた本の挿絵で見た皿屋敷のお菊さんにそっくりだったの!しのぶちゃんって怪談話がすっごく上手でね、臨場感があって、今にも後ろから幽霊が出てきそうで、私その日は天井の染みも怖くて寝付けなかったなあ」
「そうか……それは災難だったな」
「あっ、でも頭の中でウサギを数えてたら寝れたよ!」
あの女幽霊が伊黒にとってどういうものかはわからないが、絶対、嫌な怖い思いをしたに違いない。甘露寺だったら、あんなのが間近に現れたら恐怖のあまり絶叫せずにはいられなかっただろう。
「とにかく、ごめんなさい!私がもっと早く鬼の頸を切れていたらよかったわね」
「謝られるようなことじゃない。鬼にとどめを刺してくれたのは君だ」
伊黒の声は落ち着いていた。
「俺一人ではこれほど早く仕留められなかった。ありがとう。無事で良かった。……それにしても、皿屋敷のお菊さんか……」
――あ、今、伊黒さん、笑った。
甘露寺の胸がときめく。
やっぱり、伊黒は他の人と違う。目が違う。声も違う。
甘露寺は目元を真っ赤にして、もじもじとためらいがちに両手を組んだ。
「実は、伊黒さんに言いたいことがあって」
「俺に?」
伊黒は少し戸惑った様子で甘露寺の方を向いて立っている。高鳴る胸の鼓動が止まない。
勇気を出さなければ。自分から踏み出さなければいけないのだ。
そうして、ようやく甘露寺は、椿から「素敵だと思う人がいたら、まずはこう言ってお近づきになりなさい」と教えられたことを口にした。
「お、お友達から始めませんか……?」
「そういうわけで、あの二人はお友達から始めることになったわ」
夕食の席で、椿は任務から無事帰還した夫に留守の間に何があったかと問われて、置いて行かれた鬱憤を晴らすようにここ数日にあった出来事の始終を語り終えて満足そうにした。
「フーン」
玄弥は見ず知らずの他人の色恋沙汰という、恐ろしく興味を持てない話題をどうにか耳に流し込んで、せめて義姉が満足するようにと相槌を打って夕食に出されたうどんを啜った。たまたま山から下りてきていたのを椿に捕まって、ついでに食べていきなさいと強引に相伴に預かったのである。
「私は『お友達になりましょう』と言ってみたら、と提案したのだけど……『お友達から始めましょう』じゃあ意味がちょっと違うんだけど……まあ、うまくいくならどちらでもいいわよね。文通から始めるそうなの。出だしとしては上出来よ」
「兄貴と椿さんもそんな感じ?」
「私たちは文通する必要はなかったわ。だって会いに来てくれたんだもの。私の帰り道に通るのを待ち伏せて、たまたま一緒になりました、って顔してる実弥さん、すっごく可愛かったんだから」
玄弥は「へえーへえー」と言いながら兄の方を伺った。不死川は机の上に肘をつき、手を組んで下を向いたまま、微動だにせず沈黙している。話の途中からずっとこんな調子なのだ。
「ねえちょっと、どうして何にも言ってくれないの?褒めてくれると思ったのに」
「何を?」兄に代わって玄弥が答えた。
「だって、あの二人がくっついてしまえば何もかもが丸く収まるわけでしょ」
「まだうまくいってなくね?」
「お互いに脈があるんだから、あとはどうとでもなるわよ」
玄弥は椿の言葉を説得力ゼロだと感じているのが見るからに明らかだったが、それ以上は突っ込むのをやめて、器の底の方に残っていた具の切れ端を摘まむことに専念した。
不死川はなおも俯いたままだったが、椿が「もしかして夕食、お口に合わなかった?」と不安そうにしだしたので、とうとう「ちげえよ」と重たい口を開いた。
「……俺、は、匂いが変わったのには気付いてたぞ」
「そう」
「……」
「びくびくしないでよ。別に褒めてくれなかったからって、怒ったりしないわ」
「……」
「私、女の身だしなみの細々したことに口を挟んでくるような目端の利きすぎる男は好きじゃないの。あなたはそのままでいいのよ、堂々としていて」
不死川はそれでようやく「許された」といった感じで力を抜いた。
「……あの女、昔っから悪意しか感じねェんだよ……もっと上等な着物を着せてやれだの下座に座らせるなだの他の女に目移りしたら殺すだの、俺のやることなすことにいちいちケチつけやがってよォ。……小姑か?」
「目移りしたの」
「してねえよ!」
「兄貴、落ち着けって」
「テメエは黙ってろ!!」
「なんで俺殴られんの!?」
電灯が豊かな灯りを投げている居間が騒ぎ笑う声で満ちる。不死川邸の夕べはそのような調子で賑やかに過ぎていった。