寒椿の君   作:ばばすてやま

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六章
28.芳心寂寞として寒枝に寄る


 この道をひたすらまっすぐに進んでいくと、鬱蒼とした竹藪が広がる場所に出る。竹藪を抜けた先の小径を行けば、最終選別の行われる藤襲山に辿り着く。

 悲鳴嶼のところに出入りする隠から漏れ聞いた話だ。

 玄弥は藤襲山に続く道に立った。すでに日はずいぶん傾いて、田圃の畦道が夕暮れに照らされている。こんな時間にこの道を通るのは自分くらいだろう――そう思って深く息を吸った時だった。

 

「待って、カナヲ!待ってったら!」

 

 ふいに後ろが騒々しくなったので振り向くと、ちょうど栗花落カナヲと神崎アオイが連れ立ってこちらに向かってやってくるのが見えた。

「玄弥さん?どうしてこんなところに」

「見りゃわかんだろ」

 玄弥が腰に引っ提げた借り物の日輪刀を見せるとアオイは黙り込んだ。

「アオイ。私、どうやって行けばいいかわかってるよ」

「うん、そうだけど……でも……途中まで送っていくわ。道に迷ったらいけないし」

 もちろんは口実で、アオイは、カナヲが心配でたまらず、彼女を気遣って、できるだけ一緒にいたいのだろう。もっともカナヲの様子は普段通り、たおやかで泰然自若そのものだ。肩に力が入ったまま抜けない玄弥とは対照的である。妬む気も失せる。

「本当に行くのね?」

「うん」カナヲは即答した。

 玄弥は「聞くか?ここまで来て今更」と呆れた。カナヲのことをそれほどよく知っているわけではないが、しかし、玄弥には彼女が選別に向かおうとする理由が、少しだけ分かる気がする。

 アオイは玄弥の物言いに鼻白んだ様子だったが、すぐに気を取り直してこう捲し立てた。

「いい?だめだと思ったら日の高いうちに山を下るのよ。強い鬼に遭遇したら、絶対に、深追いしちゃだめ。体力がなくなると冷静な判断ができなくなるから、休息は十分とること、それから……」

「おまえ、そういうとこほんとに胡蝶さんと似てるよな……」

 玄弥は関心と呆れるのが半々の調子で入った。再度茶々を入れられたアオイはもう不快な気持ちを隠そうともしなかったが、これから選別へと向かう玄弥への気遣いが勝って、やり返そうとはしなかった。

「……それに、できれば二人、一緒に行動した方がいい。生き残る確率は絶対に上がるから」

「やめろよそういうの。俺、ぜってー足手まといになるからそこまで迷惑かけらんねえよ」

「変な意地を張らないで」

 玄弥とアオイの言い合いに、カナヲはちょっともの言いたげにしたが、結局何も言わなかった。

「つーかお前、自分がビビったからって他人も同じだと思うなよ!俺はもう鬼とやりあったことあるんだからな!」

「またその作り話!?いい加減にして!ろくに訓練も受けてない素人が鬼を倒せるわけないでしょ!」

「嘘じゃねーーよ!」

 ついに言い合いをはじめた二人を横目に、カナヲはてくてくと先に進んだ。アオイは慌てて後を追いかけ、玄弥はそれに続いた。

「……死ぬかもしれないのよ。怖くないの」

 どうだろうか。アオイがかつて抱いたのは生命を脅かされることへの本能的な恐怖であろう。玄弥が恐れるのは鬼や死ぬことそのものではなくて、無為に死んでなんの役にも立てないことだ。恐れるものが違う。

「別に、なんてことねえよ」

 玄弥はそう言って拳を握った。そうしておかなければみっともなく震えだしかねなかった。

 最終選別に臨むことができるのは一度きり。二度はない。技量以上に覚悟と胆力を問う場である。この山に入るからには、七日を超えて鬼殺の隊士となるか、さもなくば死ぬか――選別に向かうとは、そういうことだ。

 

 

 

 

 東京から離れた地方の都市にも西洋文明の流入は著しく、往来には洗練された欧州様式の建造物が立ち並んでいる。路面電車がベルの音をたてて走行し、人と俥と荷馬車が目まぐるしく行き交う。それでも通りを一つ中に入ればそこにはまだ明治より前の古めかしい街並みが残っていて、椿たちが逗留したのも、そうした古い宿の一つであった。

 本拠を離れて二か月以上が経過していた。

 遠地の任務はしばしば長引いたが、今回も例に漏れず、こちらが終われば次はあちらと矢継ぎ早に任務が飛び込んでくる。

 その任務の合間に、椿が遠方と連絡をとるため宿の電話機の前に座り込んでから、かれこれ二十分が経とうとしていた。向かいの壁には、実弥が目を閉じて腕組みをした態勢でもたれている。

「そろそろ諦めろ」

 椿は実弥のわずかに苛立ちが混じった声を無視して受話器を握り締めた。受話器からは、交換手の不手際のためか、電話局の設備不調のためかはわからぬが、プツ、プツと雑音が切れ切れと聞こえてくるだけで、一向に先方に繋がる気配がない。

 とうとう椿が実弥の言葉に従い、一度かけ直そうかと思い始めた矢先、受話器の向こうから機械音以外の人の声が聞こえた。椿はいささか食い気味に「玄弥くん?」と呼びかけた。実弥の瞼が動いた。

「良かった、怪我はない?」

 椿は逐一、電話に向かってうんうんと頷きながら、雑音混じりの義弟の声を聞いた。

「もちろんよ、ええ……そう、そう……玄弥くんもこれから頑張ってね。おめでとう。……あなた」

 実弥は差し出された受話器を一瞥だけすると、一言も発さずに踵を返して階段を上っていった。

「……玄弥くん、彼、なんにも喋る気がないみたい……怒ってるのかって?そうねえ……」

 そうしていると電話の向こうでわたわたと慌てる声がした。電話の主が交代した。

「あら、岩柱さま?……どうぞ玄弥くんへのお叱りはほどほどに……え?もう説教は終わった?あらまあそれは……。こちらはなんとでもなりますので、お気になさらずに……ええ、では。失礼します」

 受話器を置いた椿に向かって、宿の女将が心配そうに勘定台の向こうから首を伸ばした。

「ご主人、随分と物々しいご様子でございますねえ」

「なんと言うこともありません。それに、お布団は下げたままで構いませんよ」

 椿が今日中に宿を引き上げると話をすると、女将はたいそう残念がってくれた。

「もう少しゆっくりなさっていけば良いのに!でもそうですわねえ、この辺りも近頃なにかと物騒で……聞きました?昨日の真夜中、中通りに日本刀を振り回す大男が出たんですって!幸い怪我人はいなかったようですけど……人の行き交いがばかに増えたせいでおかしな人も多くなって、ああ、昔は良かったわねえ……」

 椿は完璧なよそ向きの笑顔を繕って「まあ恐ろしいこと」と話を合わせ、女将からこの街がもとは城下町であったこと、お殿様が住んでいた頃の興味深い昔話などを聞いてから二階に上がった。

 不死川は、窓っぷちの少し高くなったところに片膝を曲げて腰掛け、外の光景を見下ろしていた。

 椿は部屋の隅の方の離れたところに座り、実弥の立てた膝あたりにぼんやりと眼をやっていた。実弥の膝の上では猫が丸くなってごろごろしている。この宿で鼠取りと愛玩を兼ねて飼われている猫だ。椿にはいっこうに打ち解けなかったが、実弥にはよく懐いた。滞在の間、魚の切り身だのなんだので餌付けした成果と思われる。

「私、二月前に玄弥くんに会った時に、次の選別には悲鳴嶼さんに反対されても必ず行くと聞かされて――もうこの子と生きて会うのは最後かもしれないって、そう思ったの。でも止めなかった。私の予備の刀を持たせて、頑張ってね、って、そう言って見送ったわ」

 彼の実力はどう見ても最終選別を生き残れる水準に達しておらず、よって止めずにいるのはほとんど見殺しにしたに等しい。だからそのことで罵られたり怒られたり、ことによると殴られたりするのも、ある程度甘んじて受け入れるつもりだった。

 しかし、実弥は「そうか」と返事をするだけで、一向に椿を責め立てる気配がない。

「怒らないの?」

「なんでお前を怒らなきゃならねえ。あいつは底なしの馬鹿だが、それでお前を責める道理がねえだろうよ」

 不死川の考えでは、どれほど努力を重ねたところで、弟が呼吸を使えるようになる見込みはゼロだった。放っておけばそのうち諦めるだろうという見通しは楽観的だったが、呼吸の使えない者が最終選別で生き残るのは現実的ではなく、従って弟が鬼殺隊に入ることも到底考えられなかった。

 そういう意味で、不死川は弟を完全に見誤っていた。侮っていたと言い換えても良い。

「玄弥くんのこと怒らないであげて」

「……」

「……お館様にお願いして、あなたの担当区域に近い場所の任務に配置してもらいましょうか?」

「やめろ」

 椿はため息をついた。自分が言うのもなんだが、頑固だ。

 彼も理性では弟の決断を妨げることはできないとわかっているのだ――感情は別にしても。

 実弥はちょっと足を揺らして、猫を膝の上から下した。猫はその意図を心得て、窓から下屋を通って外に出て行った。

「こっちこい」

「お膝に抱えておくなら猫の方が良かったと思うわよ。暖かいし柔らかいし」

「お前な、自分が懐かれなかったからって根に持つなよ」

 そう言って苦笑しながら「ほら」と手招きするので、椿は実弥のもとににじり寄り、畳の上にぺたんと座り込んで頭だけ夫の膝の上に乗せた。視線を合わせるのが怖くて、ずっと明後日の方を向いていた。実弥も無理矢理顔を突き合わせようとはしないで、優しい手つきで頭を撫でてくれた。

 

「……あいつは大馬鹿野郎だ、お前にそんな顔をさせやがって」

 

 ことさら哀れそうに、大きな手のひらで椿の頬を包む仕草に胸が詰まった。こんな時に、あんまり優しくしないで欲しいと思った。

 玄弥は最終選別で死ぬかもしれなかった。そして、間もなく迎える、最初の任務で死ぬかもしれない。しかし、そこに行きたいと思って到達して死ぬ人生は、なにも成し遂げずに無為に長らえる人生に勝る。だから、たとえ死ぬかもしれないとわかっていても、そこに向かって送り出してやるのが、先達のできる最大の優しさである。椿は自分がそうだったから、玄弥にもそうしたのだった。

 二人はそうして束の間の休息を過ごしていたが、窓から鴉が飛び込んでくると慌ただしく身支度を整えた。

 私事にばかりかまけて落ち込んでいる暇はなかった。

 宿を引き払い、路地を抜けるすれ違いざまに、子連れの若い母親と巡査にすれちがった。巡査は昨晩、不審な男が通りに出没したので、あまり遅くならないように、人の多い場所を通って家に帰りなさいと親子に注意しているところだった。二人はその横を堂々と歩いて大通りに抜けた。

 二人とも表面にはおくびにも出さなかったが、職務に忠実な警官の手を煩わせているのは若干、気が咎めた。可能な限り人目を避けて行動したつもりだが、鬼はそんな配慮はしてくれない。

 

 足早に街を離れると、都会の喧騒とは打って変わって、のんびりとした素朴な田圃の風景が広がっていた。

 手籠を携えた若い婦女子が流行りの歌を口ずさみながら砂道を歩いている。野菜を売った帰りであろう老人が空の荷車を引いてる。

 先行していた隊士たちとの集合場所に到着すると、すでに全員が集まっていた。三人いる。面子は悪くない。だが不死川は顔を合わすなり早速叱責を飛ばした。

「テメエらが雁首揃えて収穫なしたァ情けねえ」

「すまん」

「耳が痛い」

 三人のうち二人が代わる代わるにそういった。二人はそれぞれ相川と小谷といい、年齢も職歴も不死川より上で、相手が柱だろうが臆するような者たちではないから、自分よりも早く昇進して上司になった後輩に対する独特の気安さがある。相川は三十歳まで鬼狩りを務めあげることができたら引退して、故郷に帰って余生を悠々自適で暮らすと言っている。小谷は隠の女と結婚して子供が三人いる。こちらは子供に多くのものを残してやりたいので、身体が動かなくなるまでは働き続けるつもりらしい。

 不死川は二人に対してはそれで溜飲を下げて、その場にもう一人いた知らぬ顔を見据えた。

「名前はなんだァ」

「か、垣見です」

「階級は」

「みっ、壬です」

 垣見はつっかえながら答えた。

「引き続き手分けして行動しろ。先に鬼を見つけたら鴉を飛ばせ、俺が着くまで持ち堪えられなかったら承知しねェぞ――垣見、テメエは俺とこい」

 垣見は死刑宣告を食らったような顔をした。

「足手まといになるようなら殺す。ついてこれなくても殺す」

「はひっ」

 椿は恐怖に震える垣見に優しい声音で語りかけた。

「怖がらなくて大丈夫ですよ。柱と一緒ならこの任務で死ぬことはありません」

「そうそう、運いいぜお前!」

 一体全体そういう問題なんだろうか?と垣見は困惑したが、とりあえずはそれで納得した。

「では、私はこれでお暇します」

「えっ」垣見は驚いて声を上げた。小谷は「なぜだ?」と訝しげにした。

「私だけ先に東京に戻れと指示がありました。みなさん、ご武運を」

 垣見は目線だけで必死に「行かないでください」と訴えかけていたが、上からの指示では仕方がない。

 椿と実弥は先に別れを済ませていたから、実弥は椿の言葉を聞き終えるなりさっさと行ってしまった。そしてあっという間に姿が見えなくなり、垣見は全力で後を追った。

「マジで帰るのかよ。あの旦那をなんとかしてから帰れよ。こえーよ、目がよ」

「心にもないことをおっしゃらないでください。怖くなんかないでしょう」

「俺たちは構わないが下っ端は違うぞ。萎縮させてどうする」

 相川と小谷は口々に好き勝手を述べた。悲鳴嶼などの上位者を除いて唯一不死川を御しおおせることのできる人間が、その任を放棄するのは不誠実だと考えているらしい。

「あの人はこの程度で萎縮してるようでは、実戦で使い物にならないと考えています」

 もっとも不死川の不機嫌は私的な事柄に起因するのだが、そのことは伏せた。

「そりゃそうだけどよ。まあ、俺らもちょっと油断してたな。あいつお前と一緒になってから結構穏やかになってたからな」

 相川は首を振って、「しかしお前一人で呼び戻されるとは、どこもよっぽど手が足りていないんだなあ」と言った。

「さあ、内容については私もよく知らされていなくて、とにかく戻ってこいとしか……どんな仕事でも、最大限力を尽くすことに変わりはありませんけれど」

 

 

 

 

 炭治郎が藤襲山から帰ってきて、早くも十日が経過した。

 師は間も無く刀鍛冶が日輪刀を持ってやってくるだろうと言っている。そうしたら、すぐに鴉が最初の任務の指示を下してくれるはずだ。それまでの間、炭治郎は妹の世話をしたり家事を手伝ったりする以外の時間をすべて鍛錬に充てている。いつでも戦いに行けるように。

 山を駆け回り素振りをした帰りの道で、湿った土手にフキの花がたくさん咲いているのを見つけて嬉しくなった。そして妹が、かつて兄の好きな山菜を摘んで持ち帰ってきてくれた妹が、山菜はおろかおよそ人の食べる物を一切受け付けなくなってしまったことを思い出して悲しくなった。

 

 

 ――お兄ちゃん。今日はお兄ちゃんの好きなタラの芽、たくさん採れたよ。それに、つくしも、ぜんまいも、わらびも、うるいも……

 

 

 人間だったころの妹の言葉が、耳の中で悲しく木霊する。手際よく山菜を摘む妹の姿を、いまも瞼の裏に鮮やかに思い描ける。

 嬉しくても悲しくても暦は巡り、春がやってくる。家族が静かに眠る生家の墓所に積もった雪は溶けているだろうか。春の息吹は故郷の山に豊かな実りを齎してくれているだろうか。

 炭治郎は小屋に戻る前に、お地蔵に供えた花束の水を取り換えた。自分が最終選別に向かう少し前、いっぱいに束ねた早春の野の花を鴉が運んできたのだ。

「去年も同じように花が届いていましたね」

「毎年だ。この時期になると、参る暇がとれなくて申し訳ないと供えの花を届けてくれる」

 鱗滝の弟子たちは、誰も骨の一欠片も帰ってこなかったが、真菰だけは選別で一緒になった少女が亡骸を持ち帰ってきてくれたのだという。

 故人の人柄を思いやったような春の訪れを感じさせる花束を見て、炭治郎は、毎年欠かさず死んだ友人の墓所にこのような花を届ける人とはどんな人であるかを考えた。今も隊士を続けて鬼と戦っているその人の気持ちを思うと、枯らしてしまうのがしのびなく、手間でもこまめに水を替えていればまだ向こう数日は見苦しくなくて済むだろうと、誰に言われるまでもなくそうしている。

 

 そうこうしている内に日は落ちてしまった。急いで小屋に戻ると、戸口の前に人が立っているのが見えた。

 炭治郎の知る人ではない。ここを訪ねてくるのは行商とか猟師くらいのものだが、そこにいるのはそのいずれでもない。まったく別の、知らない匂い。刀鍛冶――でもなさそうだ。

 炭治郎が声をかけるより先に、その人はこちらに気付いて振り向いた。

「こんばんは、ぼうや」

 意匠がやや異なるが冨岡と同じ黒い隊服を纏い、腰に刀を差して、穏やかに笑っている。綺麗な女性だった。束ね合わせたたくさんの花を嗅いだ時のような、とても良い匂いがする。

 立ち上る甘い香りに惑わされ、炭治郎は一時、目の前の女性の感情の機微を拾い損ねた。

「鱗滝さまはご在宅?」

 鱗滝も外の人の気配に気付いて戸口から顔を出した。

「椿、なぜここに」

 女性はご無沙汰をしておりますと頭を下げた。

「お弟子様が最終選別に突破したと伺いました。育手として嬉しく誇らしいことでしょう、おめでとうございます。それで――その中にいるのは、一体()です?」

 炭治郎はようやく彼女から不穏な匂いを感じ取った。しかし、身体が反応しない。鱗滝ただ一人が、目の前の女性の殺意に反応し、上段に抜かれた剣を辛うじて受け止めた。

「待て!椿、これには事情が」

「師弟揃って鬼を庇いだてするとは、信じがたい耄碌ぶり。いえ、もう何も聞きますまい」

 鬼を殺すための日輪刀同士が、火花でも立ちそうなほどの強さで鍔迫り合う。

「一体誰から何を聞いた!」

「人を喰わぬ鬼がいる――まさかそのような妄言を信じるとでも?」

 攻撃を食い止めようとする側の鱗滝が押し込まれ、体勢が崩れる。

「炭治郎、禰豆子を連れて逃げろ!」

「でも!」

「お前では歯が立たん!」

 次の瞬間、女の放った足蹴りが鱗滝の腹部を直撃した。

 いかに元柱と言っても、現役で、しかも柱に次ぐ実力を持った上位の隊士とでは身体の動きに雲泥の差がある。鱗滝は濁った呻き声を上げて地面に倒れ伏し、そのまま動かなくなった。

「鱗滝さん!」

 炭治郎は反射的に、鱗滝の手から弾き飛ばされた刀を手に取った。

 その時、外が騒々しいのを怪訝に思ったのか、布団に包まっていたはずの禰豆子が小屋の戸口から姿を現した。

「来るな、禰豆子!!」

 女が禰豆子に向かって踏み込んだのを見て、炭治郎は咄嗟に妹に向かって思い切り体当たりすることで攻撃から守った――受け身は禰豆子が取ってくれた。

「それを渡しなさい」

 女は地面に転がった炭治郎と禰豆子に向かって、一度刀を鞘に収めて片手を差し出した。

「……()()なんて言わないでください。禰豆子はものじゃない。俺の妹です」

「ものではないけれど、人でもないわ。私は鬼殺隊の隊士。私は私の務めを果たすために、その鬼の頸を切ります」

 自然体から立ち上る殺気に背筋に震えが走る。匂いでわかる。この人を正攻法で打ち破ることは、少なくとも今の炭治郎にはできない。かつて無謀にも冨岡相手に斧一本で立ち向かった炭治郎は、二年の修練の成果として、自分と強者の実力差をある程度正確に測れるようになっていた。

 迷っている暇はなかった。炭治郎は禰豆子の腕を引いて立ち上がり、脇目も降らずに山の頂上に向かって走り出した。

 山の中なら、地形や遮蔽物を利用して撒けるかもしれない。炭治郎が彼女に唯一優っているものがあるとすれば、それは地の利だけだ。鱗滝のことだけが気がかりで申し訳なかった。

 彼女から逃げおおせることができなければ――いや、そんなことは考えるな。禰豆子は殺させない。そして自分も死ぬわけにはいかない。自分が死ねば禰豆子を守れるものはいなくなってしまう。

 妹は死なせない。絶対に。そのために炭治郎は鬼殺隊に入ったのだから。

 

 

 

 椿はその場に立ち留まり、走り去っていく少年と鬼の後ろ姿を眺めていた。

 背中を向けた二人の背中に刃を突き立てることは容易だった。いままでに何度も鬼になった身内を庇う人間を見てきたし、そのたびにすべきことをしてきたはずだった。手心を加える理由にはならない。

 なぜだろうと自分の心の動きを探ると、己が常よりもずいぶん感傷的になっていることに気付いた――真菰の眠る地を、血で汚さねばならないのは残念だ。

 椿は一抹の感慨とともに、彼らを追って、かつての友の眠る山の頂きに向かった。

 

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