木立をかき分け急な斜面を踏みしめながら、炭治郎と禰豆子は走った。
汗と霧で着衣が湿って肌に張り付くのが不快だった。夜で暗いのと、あまりに霧が深いのと、そもそも後ろを振り向く余裕などなかったので、姿はわからなかったが、気配で距離を離せず追われているのがわかった。
「禰豆子! もう少し早く走れるか? 禰豆子……禰豆子?」
突然、手を引いて走っていた妹の足が鈍くなった。逃げるだけで必死になっていた炭治郎は、そこで初めて妹の顔を覗きこみ、瞼が落ち切っていることに気付いた。
禰豆子はそれでも、なんとか進もうとして一歩を踏み込んだが、とうとう前に倒れて眠り込んでしまった。炭治郎は意識を失った妹の体を抱き止めて、これ以上逃げることはできないと悟った。こんなときに、とは思わなかった。禰豆子は人の血肉の代わりに眠ることで体力を回復していて、だからいつもどこか眠たげだし、何かということもないのにぱたりと寝込んでしまう。だから、これは仕方のないことだ。
禰豆子がどんな状態であっても関係がない。自分が守り通さなければいけない。
霧の中から女の姿が現れた。
優雅な足取りで岩根を跨いだ女の姿に、炭治郎は臨戦態勢を取るべきなのか判断を迷った。彼女は刀に手をかけていない。無防備な女性に向かってためらいなしに刃を向けるのは炭治郎の良心に反した。
「何をぼうっとしているの? 剣を構えなさい」
そう叱咤され、炭治郎は妹を木の根元に寝かせて向き直った。
「あなたは椿さんですよね。真菰の友達だった……」
「それが何? 気安く真菰の名前を呼ばないで。面識なんてないでしょう」
炭治郎は素直に口を閉じた。取り付く島もなかった。彼女の魂に教えを受けたのだと口にしたら、この人の耳にはいかにも愚かしげに聞こえるだろう。
「鬼殺隊は鬼を滅するが使命の組織。こうなると予想できなかったわけでもないでしょう」
炭治郎は歯を噛みしめた。ことここに至ると、自分の考えが甘かったと認めざるをえなかった。藤の山で見たあれらを鬼本来の姿とするなら、確かに、彼女が禰豆子を殺そうとするのは無分別な行為とは言えないだろう。
炭治郎は、人を喰わない鬼がいるのを知っている。それは他ならぬ自分の妹である。しかしこの人は、人を喰う鬼しか知らないのだ。
炭治郎は、どうにかしてこの女性を説き伏せられないかと口を開いた。
「妹は鬼になってから一度も、人を喰ったことはありません」
「証拠は? 君が夜な夜な近くの村から人を攫ってきて人肉を喰わせていないという保証がどこに? どうやって妹が無害であることを証明できる?」
炭治郎の訴えに、椿は反論のいとまを与えない鋭さで返した。
「君が鬼殺の剣士ならやるべきことはただ一つ――その鬼の頸を切り落としなさい。藤の花の山で、君はもう鬼を殺したはずよ。同じことでしょう?」
背筋に冷たいものが走った。
この人は本気だ。それが正しいと信じきっているから、悪意がない。兄に妹を殺させることに、一切、ためらいがない。
冷たさの後に、身体の内に燃えるような熱さを感じた。
「……もし、禰豆子が人を殺めたというなら話は別です。でも、妹にはなんの罪もありません」
炭治郎はついに躊躇うことをやめた。彼女は禰豆子を疑っている。それは当然である。しかし、貧しい人は他人からものを盗むかもしれない、だから先に腕を切り落としておく、そんな道理はない。
「俺は妹を守ります。必ず、人間に戻してみせます。だから退くことはできません」
そう言って、炭治郎は藤襲山で使ったのと同じ師の剣を構えた。
「禰豆子が人を襲おうとしたら、俺が止めます。決して、人を殺めさせたりしません」
椿は特段、炭治郎の揺るぎない決意に心を動かされた様子もなく、その眼差しは冷ややかなままだった。
「なら証明してみせなさい。君の言葉が信用するに足りるかどうか――」
椿が言い終わるが早く、炭治郎の顔面に拳が飛んだ。反応する間もなかった。殴られた顔面は痛いというよりも熱く、すぐに鼻腔が鉄の匂いでいっぱいになったので、これは間違いなく鼻の骨が折れたと思った。
「刀は使わないわ。鬼を滅するための刀を人の血で汚すのは嫌だもの」
炭治郎は椿がそう言っている間に、なんとか刀を構えなおした。
隙の糸が見えない。ただ立っているだけなのに、切り込んでいける隙が見当たらない。
再度横殴りに吹き飛ばされ、岩に真正面から頭を打ち付ける。割れた額が血に染まる。
続け様に腹部にしたたかに膝蹴りを食らって胃のなかのものを吐き出しながら、炭治郎は必死で思考を巡らした。
隙がないなら作れば良い。彼女ははるかに格下の炭治郎相手に刀を抜かない。今の攻撃も、最初のにくらべて少しだけ遅いし、威力も低い。炭治郎の実力を見切って、この程度で十分だと侮っているからだ。そこにつけ入る余地がある。
大きく息を吸って吐く。
臆するな。命をかける覚悟で踏み込まねば勝機はない。
手刀が頭をかすめた。浅い。
「!」
初めて椿の顔に驚きが浮かんだ。攻撃を掻い潜って間合いに潜り込んだ炭治郎は、肩をしならせて刃を振りぬいた。殺さない。峰打ちで気絶させるだけだ。
血潮が溢れて大地に落ちる。視界が暗転した。
時を遡ること半日前。
寒空に雁が渡る昼下がりの産屋敷邸の座敷に、椿は端然と座していた。上座には、鬼殺隊の領袖が居住いを正している。
人を喰わぬ鬼の娘がいる。鬼の娘とその兄の監視および報告、それが呼び戻された椿に下された任務だった。
絶句したまま身じろぎもしない椿に、産屋敷は病に鎖された眼を向けて穏やかな口調で語りかけた。
「君には先に知っておいてほしかった。皆すぐには受け入れられないだろうから」
「私も受け入れてはおりません」
何か悪い冗談を言われたようだというのが、竈門兄妹の身の上に起こった話を、一から十まで聞かされたあとの率直な感想で、冨岡の判断も、それを諾々と受け入れた鱗滝も、報告を受け取っておきながら二年間も放置した産屋敷も産屋敷で、とにかく関わった人間全員、頭がどうにかしているとしか思えなかった。
「鬼を引き入れるなど前代未聞、隊の規律をいかにお考えか。士気にも関わります。ご再考をお願いします」
椿は全身で不服を訴えた。鬼を連れた鬼殺の剣士など認められるはずがない。
だが産屋敷の微笑みに影が差す兆しはない。椿の反発など予想の範疇内なのだろう。
「そもそもその兄とやらが信用できませんね。身内は鬼を庇おうとするものです」
「義勇と左近次の判断を信頼できないかい」
産屋敷の指摘は、勢いづきかけた椿を制するには十分だった。相手は現水柱と元水柱、つまり、椿にとっては序列的にも実質的にも、他のどの柱よりも尊重すべき存在だ。彼らの判断に異議を申し立てるなら当然、それなりの根拠がなくてはならない。しかし――根拠など必要だろうか。これは単なる意見の相違とはわけがちがうのだ。
「彼らの保証があっても不足と言うものがいるだろう。私自身、裏付けがほしい。だから、真実、炭治郎と禰豆子が信頼に足るかどうか、私の目となって確かめてきてくれ。そしてできるなら、導いてあげてほしい。君が今まで下の子たちにそうしてきたように」
「私のような若輩にはとても……務まりますかどうか」
「謙遜が過ぎるよ。君が公正に物事を見定めてくれると期待しているんだよ」
歯の浮くようなお世辞とは思わなかった。産屋敷の言葉は確かに深い信頼を伝えてくれてはいる。しかし、椿にはいまいち響かなかった。椿にとって、目の前の人は、十分敬意を寄せるに値したけれども、もはや以前ほど盲目的な崇拝を寄せる気にはならなかったのだ。かつて掴みかけた上弦の鬼の足跡を捉え損ねて仕留められなかったことへの失望はそれほど深かった。
「その鬼のために犠牲を払う事態となったら、どう責任を取られますか。冨岡さまと鱗滝さまの命では収まりが利きませんよ。彼らの行状を認め、許したあなた様の責任はいかに問われます」
産屋敷は部下にこのように責められても気を悪そうにするでもなく、むしろ嬉しそうだった。
「その時は君の思うように処断してくれて構わない。禰豆子のことも――私のことも」
言外に、己が道を誤れば誅しても差し支えないと唆されては、いよいよ黙さざるをえなかった。
この人は本気である。
産屋敷はあまり体調が良くないのだろう、普段さえ良いとは言えない顔色がさらに悪い。脇息の使用を勧めたが、首を横に振られてしまった。
「……危険を冒してまで鬼を引き入れようとすることの目的を教えてください」
「すべての鬼は、潜在的に鬼舞辻の支配から逃れ、脅威となりえる能力を備えていると考えている」
椿は色々と言いたいことを飲み込んで続きを促した。
「だから、鬼を完全に支配下に置きながらもなお反逆を恐れている。彼らが集団で行動しないことがその裏付けだ。支配から逃れ、理性を保ち、人のために戦える鬼を引き入れることができれば、我々にとって大きな戦力になる」
産屋敷の言うことは、たしかに、とても正気とは思えなくても、それなりに理屈が通っている。
「鬼が人の血肉を欲するのは――」
産屋敷が濁った咳をした。椿が声を張って人を呼ぶと、隣の間に控えていたあまねが老医師を伴って入室してきた。その間にも、産屋敷は切れ切れに椿に向かって喋りかけた。
「細胞の欠陥を……他者の遺伝子情報を体内に取り込むことで……絶えず……補完しようとしている……」
「それ以上はお控えなされ。お命を縮めますぞ」
あまねが崩れそうになった夫の身体を支えた。老医師は手厳しい調子で注射を打ちながら、先先代が亡くなる半年前もこのような容体であったと忌憚なく述べた。
「すべては鬼舞辻を倒すためだ。……頼むよ、椿」
この人の命数は尽きつつある。
産屋敷は自分の寿命を聞かされても毫も動揺した素振りも見せない。いや、そもそもこの人が泣いて悲しんだり、怒ったりしているところなど、誰も見たことがない。
産屋敷を見ていると、自分の血筋に対して責任を負う、負わざるを得ない生き方とはこうも過酷かと思わされる。
自分たちは由緒のある家柄の出自という点で共通していたが、椿が自分の血筋になんの責任も持たなかったのに対し、産屋敷は生まれながらに短命と鬼殺隊当主としての生き方を義務付けられている。古来から続く家柄など、遡ればみな遠い親戚である。自分たちは系図を紐解けば、必ずどこかで血筋が繋がるはずだった。もっとも、束の間の殷盛を享受したに過ぎぬ武家の出の己と、もとは朝廷の位の高い貴種であったという産屋敷一族を同列に並べるのはいささか烏滸がましい話であったが。
そんな人に、これ以上益体もない手前勝手な不服を申し立てて何になろう。
確かに、尋常に依らざる方法をもってせねば現状を打破できまい。こうしている間にも、刻一刻と人は死に、隊士らは血を流し命を散らしているのだ。
「……御意」
椿は頭を垂れて拝命の意思を示した。退室すべく腰を上げると、産屋敷が妻に支えられながら「最後に一つ」と声をかけた。
「頼んでいた、あの件はどうなっている?」
後ろを向いたままの椿の肩がかすかに震えた。
「――依然、確かな情報は得られず、存在も確認できません。上弦の弐の行方は知れぬままです」
産屋敷は、あまり落胆した様子もなく、そうかとだけ返事をした。それでこの話は終わりだった。椿も、言うべきことは他に持たなかった。
本来、彼らの身柄に責任を負うべき冨岡は多忙を極めている。他の柱や上位の隊士も同じだ。その辺の隊士や隠においそれ任せられる事案でもなし、この件に誰か一人、人員を割かねばならぬとしたら、自分が適任であろうという産屋敷の意図は理解する。しかし――理解はしても、納得するのとは別の話だ。椿は医者から、肺に負った怪我の後遺症で、剣士としてそう長くやれないだろうと宣告されている身である。剣を振れるうちはできるだけそうしたかった。前に出て戦いたいのだ。後進の指導なんて腰を据えてやるには早すぎる。それなのにこんなのはひどい。あんまりだ。嫌がらせ人事だ。どうしてこんなことに。助けて真菰。
そうして考え抜いたすえ、椿は一つの結論に達した。
ようは、ここで鬼を始末さえしてしまえれば、それですべて済むのだ。
産屋敷の目である鎹鴉を追い払って戻ってこない内に、なんとかしてことを済まそう。鬼を殺したら、この一件は自分の胸の内に収めておく。冨岡も鱗滝は責任を取らずに済むし、産屋敷の求心力も翳らない。
椿は産屋敷と違って、はなから人を食わずに理性を保つ鬼、まして人に与する鬼の実在などありえないと考えているので、軽くつついて追い詰めればすぐに本性を現すだろうと高をくくった。そう、どんな理由があっても、人を喰う鬼を処断してなんの後めたいことがあるのか。
残念だが、産屋敷には信頼する人間を間違えた。そう思って、諦めていただくことにしよう。
そう心に決めて狭霧山に向かった椿に、誤算があったとするなら、実際に相対した竈門炭治郎が事実として、心映えの優れた見事な少年であったことだ。
まっすぐな赤みがかった瞳に見つめられながら、椿はこの子の言うことにこれ以上、耳を貸してはいけないと思った。ほんの少しのやり取りで、椿はもう彼のことが好きになり始めていた。
何度か叩きのめした末の少年の渾身の一閃は、想定を超えた正確な太刀筋で椿を驚かせはしたが、それだけだった。手のひらで刀を受けて押しとめ、そのまま顎を下から上に蹴り上げた。少年の身体が宙に舞い、ゆうに数メートルも吹き飛んで沈黙した。気を失ったようだ。
椿は刀を受けた手を何度か握ったり開いたりした。傷はごく浅く、出血は間も無く止まるだろうが、不覚は不覚だ。見たところやや決断力に欠けるきらいがあると思っていたので、こう真っ直ぐ大胆にこられるのは想定していなかった。少し見くびり過ぎていたなと、椿は少年への評価を改めた。
地面に倒れた少年を一瞥してからついと目を見やると、木の根元に寝かされていた少女が目を開いていた。
暗闇に、鬼の眼光が輝いている。
「心配せずとも、お前の兄にこれ以上手出しはしない」
こちらに来いと言うまでもなく、少女は気を失った兄に駆け寄って覆い被さった。椿を見る目つきに「一体何をするのか」と非難がましげな色が滲んでいる。
少年の真っ直ぐな瞳は椿に、これまでの人生の歩みで出会ってきた、素晴らしい、善良な人々のことを思い出させずにはいられなかった。認めよう。この少年を信頼した冨岡と鱗滝の眼に曇りはない。
だが鬼は別だ。
「立ちなさい」
椿は少女を強引に立たせると、口枷をほどき、顎を掴んでぐいと上を向かせた。少女は反抗する素振りを見せない。手のひらに薄く溜まった血にも反応しない。酩酊とは少し違う、眠たげな眼で茫としているだけだ。
椿は下顎を砕くつもりで手に力を入れた。みしっと音を立てて骨が軋んだ。
「あ、あ、う」
娘がもの言いたげに声を発した。
鋭利な牙が覗く口から、涎がたらたらと溢れている。嫌悪感で怖気が立った。
「お、お、にい、おに、ちゃ……」
「……」
間違いなくこの少女は鬼だ。しかし、彼女はまだ誰も殺していない。彼女の魂は今だ殺戮の罪に汚されていない。清らかな少女のままである。
「安心しなさい。私が殺すのは鬼だけ。……お前の兄は殺さない」
なるほど冨岡の証言は事実であろう、鱗滝の報告も然りであろう、しかし、そんなことは理由にならない。鬼は殺されなければならない。
しかし、しかし……
殺さずにおけという命令と、相反する義務感が混然となって椿の中で衝突を繰り返した。
このままこの娘を殺すことは短絡的な行いであろうか? それとも生かすことこそが情に血迷った過ちか?
鬼とは他者への労りや慈悲からもっとも遠い生き物だ。かつて誰かを愛し愛されたはずの人間が、不可逆に変質した成れの果ての存在でしかない。であれば今の少女の挙動がなんであるのか。椿には判断がつかなかった。
身近な者が鬼になったら、人を殺める前に頸を落として殺す。鬼殺隊の者であれば必ずそうする。そういう覚悟ができない人間は、そもそも鬼殺隊に入るべきではない。この少女の兄に、果たして決断できるだろうか。
いや、これ以上の酷を求めるべきではない。やはりこの娘は、自分がここで殺してやらなくてはならない。今死ねば、彼女は憐れな被害者で終われる。地獄の炎に焼かれずに済む。
でも、自分は、鬼を人へ戻す可能性など考えたこともなかった……
『もう十分でしょう』
その時、夜空を裂いて飛んできた鴉が、肩に止まって耳元で囁いた。
『人である兄を身を挺して庇おうとしている。貴女の血にあてられて攻撃してこようとしない。彼女の潔白は証明された』
「これから人を殺す可能性は皆無ではない」
『お館様のご命令は――』
「もういい」
椿は鎹鴉の言葉を遮り、疲れたように首を振った。少女を掴んでいた手を解く。殺気が霧散して消えていく。
「起きなさい、竈門炭治郎」
割合早いうちからこの少年が意識を取り戻していたのには気付いていた。こちらが妹を殺そうとする素振りを見せたら、その瞬間に切りかかれるように気絶したふりを装って機会を窺っていたのだろう。とても敵いそうにない敵が、他の獲物に集中した瞬間を狙うのは合理的な所作だ。
いいな。叩けば叩くほど伸びそうだ。椿は良い鉄を前にした刀鍛冶のような感想を持った。
少年はおそるおそる瞼を開けた。
「改めて挨拶をしましょう。私は椿。お館様の命で君たちの目付役として派遣された」
「お館様?」
「鬼殺隊のご当主よ。いずれお目にかかることになるわ」
椿が割れた額を手当てしようとして繃帯を取り出して近づくと、少年は身構えて手元に刀を引き寄せた。無理もないというか、当然の防衛行動だ。
「君の実力を試すために手荒な真似をしたことをは認めるけれど、過度に警戒されると今後の任務に差し支えるからほどほどにして」
「いや、でも……さっきまで、
「何を本気と呼ぶのかわからないけれど、出方次第で殺す気だったのは本当」
少年の顔がひきつった。背後から息を切らした鱗滝がやって来るのが見えた。禰豆子は幼子じみた足取りでかけてゆく。鱗滝はひしと少女を抱き留めた。
椿は苦々しい気持ちを抑えられなかった。いずれ殺さねばならぬものに情が移り過ぎだと思った。
「この子の刀鍛冶は私のもとへ寄越すよう伝えてください。二人とも、このまま連れて行きます」
「椿、わかっていると思うが」
「殺しません。お館様の……ご命令ですから」
鎹鴉の視線が痛かったが無視した。鱗滝はどれだけ事情を把握したものか、こちらの無礼を根に持つふうもない。謝る気はなかったが、かといって嫌味の一つ二つもないのではかえって居心地が悪かった。
「先に言っておくが、炭治郎の刀鍛冶は鋼鐵塚だ」
「鱗滝さま……よくあの方とのお付き合いを続けられますね」
「根は悪い男ではない」
兄妹と鱗滝が別れの挨拶をしている間、椿は少し離れたところで待っていた。
育手と弟子の関係は、時に親子のそれにも匹敵するものだ。炭治郎は、呼吸の使い手としては未熟極まりないものの、剣術の基礎はしっかり土台固めされている。呼吸という技術に使いこなすために肉体そのものの練度は欠かせないが、これは近道のない地味な訓練を積み上げるほかない。本人も根気強くなければならないが、教える方にもそれなりの忍耐が要求される。鱗滝が彼をどれだけ大切に育て上げたのかがよくわかるというものだった。
月はまだ東の空にあり、夜明けは遠い。
本来の出立を早めて隊服に着替えた炭治郎は、一応、いや間違いなく先輩ではある椿の歩く後を粛々ついてきた。当然ながら警戒心は緩んでいない。それでいい。自分は産屋敷の名代として、客観的な立場を保たねばならないのだ。
霧の立ち込める山腹を過ぎて尾根を越えた頃、炭治郎が口を開いた。
「あの、俺たちは一体どこに……」
「北西の街に鬼がいるとの情報が入りましたので、討伐に向かいます。君の初任務よ、しゃんとしなさい」
自分の刀がまだ出来上がっていないとか顔面の骨が折れているとか、そんなことを言い訳にして嫌がるようであればもう一度張り倒すつもりだったが、少年は「頑張ります!」といささか緊張した面持ちで応えた。椿はそれに満足して、更に先に先にと進んだ。その後を、妹を詰め込んだ箱の肩紐を引き締めた少年が慌てて追う。
「さっきの戦い方、すごかったです。鬼殺隊の人はみんな椿さんみたいに強いんですか?」
「私が強いんじゃなくて、君が弱すぎるの」
椿がぴしゃりと言い放った。
「全集中の呼吸をほんの少し使っただけで息切れをしてる。そんな力量で妹を止めるだなんて大言壮語も甚だしい。もっと訓練の強度を上げなさい」
炭治郎は椿に厳しい言葉を雨のように降らされて言い返しもせずにしゅんとした。自分が未熟者である自覚はあるようだ。炭治郎は、見込みはあるが、見込みだけで、今はまだ異能持ちの鬼にあっけなく殺される程度の実力しかない。
「そ、そうですか……そうですよね……」
「……だから使い物になるまで私が鍛えます」
時間を無駄にする気はなかった。産屋敷の意図がどこにあるにせよ、もともと、新入の隊士があまりに早々と死にすぎるので、入ってしばらくの間は上位の先輩隊士をつけて面倒をみさせてはいかがかと進言していたのは椿だ。
「言っておきますけれど、私はまだ君たちのことを認めたつもりはないし、やるからには厳しくするわよ」
椿は断られたり、嫌がられたりする反応を期待して、こう言ったのである。
なんせ炭治郎少年はまだまだ、こちらに心を許していないのだし、そんな人間に教えを受けるのは、誰だって嫌に違いない。だいたいからして、この少年に導き手となる師が必要なら、それは自分でなく、冨岡であるべきでないのか。それが筋というものだ。よし、断られたら有無を言わさず冨岡の屋敷に放り込んでおこう!
しかし、予想に反して、炭治郎の表情はじわじわと明るんでいく。椿は想像していたのと違う反応に戸惑った。嫌がるところではないのか、そこは。
「はい! お願いします!」
快活に頭を下げる炭治郎に、「やっぱり今の話は無しで」などと言えるはずもない。つくづく面倒なことになってしまったとうなだれる椿の耳に、春の少女の笑う声が聞こえた気がした。