寒椿の君   作:ばばすてやま

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30.孤雲去って閑なり

 十六歳の少女が夜毎姿を消す北西の街の鬼は、竈門炭治郎によって討伐された。椿はいっさい手出しをせずに、鴉と一緒に、少し離れたところから彼らの戦いぶりを見守っていた。

『お見事でした。血鬼術を使う鬼は初めてでしょうに、落ち着いてよく対応できましたね。流石は元水柱のお弟子さんだ』

「……そうね」

『禰豆子さんもよく頑張っていましたね。動きは単調ですが、あの身体能力の高さと打たれ強さでは凡百の鬼では相手にならないでしょう』

「……」

『ところで今、どういうお気持ちですか?』

「……お前、ここで油を売っている暇があるなら早く上に報告を上げてきなさい」

『承知しました』

 鴉は邪険にされて気を害した風でもなく、粛々と椿の指示に従って飛んで行った。

 椿の炭治郎への評価は、鴉のそれとおおむね一致する。初任務で血鬼術を使う鬼と戦って、うまく対応できずに殺される隊士は少なくない。初見の奇術に惑わされず、冷静に、柔軟に対処できる思考力を備えた彼は、優秀な剣士になれるだろう。問題は禰豆子の方で、椿は自分が鬼狩りとしてはそれなりに経験を積んだ方だと思っているが、人を守るために鬼と戦う鬼など初めて見た。

 ……産屋敷が特別扱いするのも道理か。

 刀を鞘に納めた炭治郎は、少女を横抱きにしてへたりこんだ青年に「大丈夫ですか」と声をかけていた。

「さ、里子さんは……」

「気を失っているだけです。家で寝かせておいたら、直に目を覚ましますよ」

 鬼が蒐集していたかんざしの束を、殺された女の子の家族に返してあげてほしいと頼んだところで、椿が遠くでちょいちょいと手招きした。炭治郎は、青年に「さようなら」と別れを告げて手を振った。

 青年が我に返った時には、すでに炭治郎の姿は遠くにあった。青年は奇妙な夢に迷い込んでしまったような心地で、ただ腕の中の愛しい人が今ここに間違いなく存在していることを確かめるように、ひしと抱き締めるのみだった。

 夜明けの街道を並んで歩きながら、炭治郎は面持ちを神妙にして、椿の方を向いた。

「これで俺たちは認めてもらえましたか?」

 椿はざっと駆けだした。炭治郎が慌てて後を追った。

「椿さん!椿さん!どうして逃げるんですか!?」

「逃げてるんじゃない!ついてきなさい!」

 

 これは仕事だ。これは仕事だ。個人的な好悪の感情を挟んではならない。後輩を導くのは先達の務めだ。しっかりしろ。

 自分に何度もそう言い聞かせて、なんとか気持ちを切り替えた椿は、次の任務が入るまでの間、山際の村のはずれの、普段は使われていない小屋に滞在することに決めた。まだ鬼狩りたちの住む場所に連れて行くわけにはいかないが、当面の拠点は必要だ。

 右手に山の裾、左手に緩やかな斜面を流れる川を望むこの小屋は、昔は藤の花の家紋を掲げていたらしいが、家人が死んでからは継ぐ人もおらず、今は鬼殺隊の剣士や隠がこの近くで仕事があったとき仮寝をするだけの場所になっている。

 二人は、川の土手の少し高くなったところまでやってきた。眼下では、さざ波の立つ水面が日の光を受けて輝いている。炭治郎は椿に言われるがまま羽織を脱いだ。彼は、稽古をつけてもらえると言われただけで、具体的な内容はつゆも聞かされていない。

「君、鱗滝さまのところでは水練はやらなかったのね」

「はい。狭霧山には湖も川もないので……あの、椿さん、何を……?」

 椿は縄を取り出して、縄の先端の片方をそばに転がっていた岩石に、もう片方を炭治郎の足首に括り付けた。常識的な考えでは、このように人の身体に重りをつけて水中に放り込むと、水死体が完成する。

「今から水中に潜って息を止めなさい。一度潜ったら最低三十分は上がってこないこと。それで肺を鍛えるの」

「まっ――」

「行っておいで!」

 川の中に放り投げる直前、炭治郎が何かを叫んだような気がしたが、椿の耳はそれを都合よく聞き流した。

 水中の息止め訓練は、水の呼吸の育手が特によく用いる訓練手法で、蝶屋敷でも行われているが、普通は自重のみで行う。しのぶから継子の訓練手法について相談を受けたさい、このように重しを括りつけて容易に上がってこれないようにすると死ぬ気でやるから訓練効率が上がると誇らかに提案したところ、即断で却下された。解せない。指導者がちゃんとついていれば何の問題もないのに。蝶屋敷の教育方針は尊重するが、たまには厳しくすることも必要だと思う。

 溺死しない程度の頃合いを見計らって一旦引き上げると、炭治郎は若干放心状態で「俺は長男なので……耐えられます……長男なので……」とうわごとのように口走っていた。長男であることと忍耐力の因果関係は不明だが、そう自分に言い聞かせて心が折れないならまずまず結構なことだ。椿は再び少年を水中に突き落とし、訓練は夜になるまで続いた。

 

 稽古の合間に、二人は焚き火を囲みながら、色々な話をした。

 

 炭治郎は十五歳で、二年前に鱗滝のもとにやってくるまでは、故郷の山で炭焼きをしていた。父親が病で死んで以来、母親と五人いた妹と弟たちの食い扶持を稼ぐ役割は彼のものになった。

 椿は感心もし、痛ましくも思った。齢十三で一家を養うのは非常に立派な、偉いことで、誰にでもできることではない。しかしまだ子供だ。本当なら友達と遊びたい盛りだろう。骨身も固まらない子供が、重い炭俵を担ぎ、山を下って売りに行く。椿には想像もつかない重労働で、本来は、年端もいかない少年がやるべきではないことだ。

「大変だったでしょう」

 鬼狩りになろうとする苦労は、椿にも理解できる苦労だ。だが、炭焼きの苦労は、椿にはまったく理解の及ばない苦労だ。

 しかし、炭治郎はこちらの同情などまるで見当違いであるかのように、「俺はこの仕事が好きです」と言った。

「炭焼きは、利ざやのたくさんある仕事じゃありません。家族にもっと良いものを食べさせたり、着せてあげたいとは思いましたけど、仕事がつらくてやめてしまいたいとか、そんなことは一度も思いませんでした」

 父祖から伝わる知恵と経験を頼りに、良い木を伐り、薪を積んで、窯に火を入れる。手を黒く、顔を赤く染めて、肉体と五感を研ぎ澄まして、出来上りの頃合いを見て焼きあがった炭を外に出す。

 言うほど簡単なことではない。しかし、彼は自分の仕事に誇りを持っているし、それが楽しいのだ。稀有の気質である。

 炭治郎は、手近にあった枝を折って焚き火に加えた。

 鬼に身内を殺されて、鬼殺隊に入ろうと考えるものは、全体の数からするとごく少数だ。多くはやりきれない悲しみや怒りに折り合いをつけて日常に帰っていく。炭治郎も、妹がこういう状態でさえなければ、自発的に剣を取る道を選ぼうとはしなかっただろう。

 この子はそういう子だ。本来、戦うことに向いていない子だ。

 頭の上で木の葉が風に揺られる。夜露がぽつんと焚き火の中に落ちて、灰神楽が立った。紺青色の夜空に、星が砂金の様に散らばっていた。

 

 翌朝、椿が自分の稽古を終えて小屋に戻ると、炭治郎が土間のへっついに火を入れて朝飯の準備をしていた。

「まだ寝ていていいのよ。疲れているでしょう」

「平気です」

 炭治郎の赤みがかった瞳は生き生きとして輝いていた。

「俺にやらせてください」

 お世話になっている身だからこのくらいはやらせてほしいとまで言われては強いて引き留める理由もなく、まもなく炭治郎は、川で取れた鮎を塩で焼いたのと、味噌汁と白いご飯を炊き上げて立派な朝食をこしらえた。

 椿は膳の上に並んだそれらを、一口ずつ口に運んで、ふうと息を吐いて箸を置いた。

「口に合いませんでしたか?」

 心配そうにした炭治郎に、椿は、いえ、と首を振った。

 炭治郎の焼いた鮎は美味かった。味噌汁も美味かった。そして炊いた飯はもう一段、美味かった。米粒がふっくらしていて、つやからして普通とは違う。口に入れると衝撃的に甘い。なんだこれは。

 負けた。家事力で完全に負けた。相手が女の子ならともかく、年下の男の子に。

 腕前に天と地ほどの差がある……もはや比べることそのものが蛮勇……なぜ私とお前はこれほどまでに違う……相手の卓越した力量を認めがたい葛藤のすえ、椿は最大級の賛辞の言葉を絞り出した。

「炭治郎くんの作ったご飯……毎日食べたいくらい美味しい……」

「良かった!」

 おかわりありますよ、と屈託なく笑う炭治郎に釣られて、椿の口元にも我知らず微笑みがこぼれた。

 炭治郎は、まめまめしくよく働く少年だった。

 何も言われずとも毎食を用意したし、掃除も風呂焚きもなんでもやった。しかもそれぞれ、椿がまったく敵わない手際で先取りしてこなすのである。どちらが世話をしている側かわかったものではない。

 もちろん、訓練で容赦することはなかった。

 就寝中も気を抜くなと木刀で襲い掛かって、体中青あざまみれになるまで叩きつけた。次の日の朝になれば、石を詰め込んだ袋を背負わせて足の裏にできた血豆が潰れるまで走らせた。それでも炭治郎は弱音一つとはいかないものの、少なくとも「つらくてやめてしまいたい」とは言わなかった。心が折れそうな顔は何度かしていたが、とにかく、一通りを耐えてやり遂げた。

 炭治郎は、酷使した身体のそこかしこがひどく痛むらしく、薬を塗るのにも背中に手が回らず難儀そうにしていたので、椿は「貸しなさい」と軟膏を取り上げた。「自分でやります」と慌てふためくのを強引に膝の上に抱えて手当てをしてやる。

「他に痛むところはない?」

 炭治郎は、ないです、と蚊の鳴くような声で言った。頬に朱色が差している。思春期かな。

「訓練以外の時も、呼吸をするときは常に血の巡りや肺の動きを意識して」

「全集中の呼吸を常時行えるようにするためですか?」

「そう。この調子で鍛錬を続けていれば、数週間で常中に取り掛かれるようになるわ」

 全集中の呼吸の常中は、それ自体が身体能力を飛躍的に高めるから、別にいつ取り掛かっても構わないのだが、肺活量を可能な限り鍛えてから習得した方がその後の発達が良いのだ。身体が未成熟にも関わらず常中を使いこなしている時透は、普通の人間が真似してはいけない異次元の天才なので、考慮外とする。

「炭治郎くん、明日のことなんだけれど……」

 怪我の処置を終えて顔を覗き込むと、炭治郎は、抱えられた姿勢のままうつらうつらとしていた。

 椿は、気を抜くなと言ったはずだ――と打ちかかろうとして、木刀に伸ばしかけた手を引っ込めた。彼は毎日とても頑張っているし、今日はこのくらいにしておこう。休息することも大切だ。

 本格的に寝落ちた身体を抱きかかえて布団に運んでやりながら、椿は、こんなはずではなかった、という釈然としない気持ちでいっぱいになった。

 炭治郎は、度胸があるし、勘もいいし、なんと言っても素直だ。どうにも嫌いになる要素がない。

 これには困ったが、それよりも困ったことは、この少年が、椿に対して何らの悪感情も抱いている風ではないことだ。あれだけ脅かしたので、打ち解けるのは難しいだろうし、その方が都合がよいと思っていたのに、こうもあっさりと懐かれるとは思っていなかった。

 

 そうすると、引き続き残った唯一の問題が鬼の禰豆子である。

 

 これにはとにかく手を焼かされた。できればずっと箱の中で寝ていてほしかったという椿の願いもむなしく、禰豆子は昼と夜に切れ切れと起き出して、何をするかというと、膝の上に乗ってきたり、腰元に抱きついたりして、とにかく椿のそばから離れようとしないのだ。監視する手間が省けるといえばそうだが、嫌なものは嫌だ。鬼に懐かれて嬉しいわけがない。

 炭治郎は、腕にしがみつかれた椿が硬直していることに気付いて、妹をぺいっと引きはがした。

「禰豆子、あんまり椿さんに迷惑かけちゃだめだ」

 炭治郎がそう言い聞かせたが、禰豆子は不服そうにむうむうと唸るばかりだった。禰豆子は、その容姿と稚気もあいまって、可愛らしくみえないこともなかったが、椿の鬼への嫌悪感は生理的なもので、理性でなんとかなるような類のものではない。

「この子、昔からこんなだったの?」

 禰豆子は、情緒がほとんど赤子並みに退化していることを差し引いても、ひどく甘えたがりで、野放図で、人懐っこかった。これは生まれ持っての気性だろうか。

「いえ。むしろ俺よりしっかりしてるくらいで」

 炭治郎は、人間だった時の禰豆子が、いかに快活なしっかりものの少女だったかと、裁縫がとても得意なことや、忍耐強くて、我がままや弱気を吐いたりしない気丈な性格であったこと、町では評判の美少女であったことをひとしきり語った。

「でも、そうですね、椿さんは大人の女の人なので、その……母親……だと思っているのかもしれません」

 非常食ではなくてか……

 禰豆子は炭治郎に諌められてしばらく大人しくしていたが、真夜中ごろに再び箱から出てきて、書き物をしていた椿のそばにやってきたかと思うと、床にころんと横たわり、構ってほしそうに手足をじたばたさせた。その様は椿に、実弥に懐いているご近所の犬を思い出させた。……そういえば、彼は犬を手懐けると、顎の下を撫でていたっけ。真似をして顎を撫でてみると、禰豆子はこれをひどく嬉しがった。しかしそれを見ても、心がなごむどころか、ますますげんなりした気分になった。生まれてこの方、犬猫に好かれた試しがないのに、どうしてよりによって鬼に好かれるのか。この娘、ちょっと前に目の前の女に顎を砕かれそうになったことも忘れたのか。

「あなた、このお兄様に自分よりもしっかりしていただなんて言わせるなんて、一体どんな女の子だったんでしょうね……」

 

 そんな調子で五日ほど経った頃、ようやく炭治郎の刀が届いた。

 椿が、水の呼吸の適正がある剣士の日輪刀は青色になるのだと言うと、炭治郎は少し残念そうな顔をした。彼の日輪刀は、手に持つや黒色に染まったのだ。

「椿さんは黒い刀を持っている剣士を知っていますか?」

「ないわ。黒は珍しい色だから」

 日輪刀の色は、ほとんどの場合、これは類を見ない中途半端な色合いだなと思われても、それに近しい適正な呼吸を特定できるのだが、黒色はどんな呼吸にも馴染まない。

 そういうわけだから、黒色は出世できない色、もっとひどいと早死にする色、と評されていることは伏せた。

「俺に水の呼吸は向いてないんでしょうか……」

 炭治郎はしょんぼりとして俯いた。

「みんながみんな、はじめから適正のある呼吸を使っているのではないわ。最初に基本の呼吸を身につけて、後から派生の呼吸を学んだり、色んな型を組み合わせたり発展させて自分だけの呼吸の型を作る人もたくさんいるし、今は焦らず、水の呼吸を極めることに集中しなさい。大丈夫、決して無駄にならないから」

「はい!」

 炭治郎の顔色が晴れたので、椿は刀鍛冶である鋼鐵塚の方を向いた。鋼鐵塚は、刀の色が予想と違ったという割合どうしようもない理由で癇癪を起こしていたが、刀を渡すという任を果たし終えて、そこで初めて椿がいることに気付いたらしい。

「今日は白い奴はいないのか」

 そう言って、きょろきょろとあたりを見回した。

 鋼鐵塚と椿が顔を合わせたのは、これが初めてのことではない。数か月ほど前、非番の日に不死川と二人で散歩をしていたところ、恐ろしい形相で包丁を振り回す鋼鐵塚と、這う這うの体で逃げ惑う隊士に遭遇したのである。不死川は、まず公共の秩序を乱している鋼鐵塚に怒り、拳でぶん殴って気絶させたあと、非戦闘員の刀鍛冶ごときに追い回されて腰が抜けてる隊士に怒った。……思い返すもどうにかしてる話だ。

 鋼鐵塚は、腕は確かだが極めて偏屈な刀鍛冶であり、人の話をまったく聞かない上に自分の鍛えた刀を毀損するとひどく怒り狂うので評判だった。椿が知る限りでこの男とうまくやれているのは、年長者かつ人格者の鱗滝くらいのもので、彼がいま所有している日輪刀も確か鋼鐵塚が打ったはずだ。鋼鐵塚が炭治郎の担当になったのは、その縁あってのことだろう。

 それで、先ほどの話に戻ると、不死川にああいう目に合わされた人間はたいていこちらと関わり合うのを忌避するようになるものだが、鋼鐵塚はそんなやわな神経はしていなかった。

「あの時奪った俺の包丁を返せ」

 奪ったのではなく、人命救出のために取り上げたのであるが、いずれにせよここまで堂々言ってのけられるとは、刀鍛冶にしておくのは勿体無いほどの度胸である。

 没収した包丁は、殺人未遂犯に返すのもなんだし、捨てるのもなんだし、放置しても錆びるだけだし、と処分に困ったすえ、我が家の台所で本来の用途に用いられている。椿はその旨を伝えた。

「勝手に使わせていただいて申し訳ありません。必要ならお返しします」

 しかし包丁だって、口がないから聞くわけにもゆくまいが、人を追いかけ回すのに使われるよりも、肉や野菜を切っていた方が嬉しいはずだ。椿は切れ味がいいので料理が上手くなった気がするので大いに気に入っているし、不死川も肉や魚の骨を断つのが容易だと褒めていた。千夜子は、指を落としそうだと怖がって使わない。

 鋼鐵塚はそれを聞くと、そっけなく「いらん」と言い残して去っていった。心なし機嫌がよさそうだったのは気のせいだろうか。つくづくよくわからない男だ。

 

 時同じくして、鴉が指令を運んできた。

 

 近くの町の、北へと向かう山道で、人が失踪している。最低位の階級の鬼狩りを一人、送り込んだが消息が途絶えた。

 宵の口に山道のふもとまでやってきて、雑木林の彼方を見据えたとき、なるほど、これは()()なと直感した。椿は、炭治郎の肩を軽くぽんと叩いた。

「ここからは君一人で行きなさい。私がこれ以上近付くと、多分、気付かれて逃げてしまうでしょうから」

「逃げるんですか、鬼」

 これまで、どちらかというと、積極的に襲ってくる鬼ばかり見てきた炭治郎が言った。

 鬼は逃げる。強い鬼狩りほど鬼の気配に敏感なように、鬼も鬼狩りの気配を察知する。だが、これはあまり強くない鬼の場合だけだ。どうも彼らの天敵を識別する感覚はあくまで弱者ゆえの生存本能に基づくもので、それほど精度が高いものではない上に、強くなればなるほど、その感覚は失われるようであるらしい。というか、強い鬼がそれに比例して高い探索能力を備えていたら、鬼殺隊はとっくの昔に壊滅している。

 炭治郎は、鬼狩りとしては圧倒的に強いわけではないので、敵が警戒していても、網に引っかからず接近できるはずだ。

 説明を受けた炭治郎は納得して、肩から木箱を下ろした。そして、椿に向かって「妹をお願いします」と頼んだ。

「連れていかないの?」

 禰豆子が人のために戦えるのは理解したから、椿は強いて二人を引き離すつもりはなかったのだ。今回の敵は、隊士を一人屠った鬼である。

「一緒にいると禰豆子を頼ってしまう。俺はこれ以上、妹に血を流させたくありません」

「……妹と私を二人にして構わないの」

「え?」

「あなたが見張ってない間に、私が妹を殺すと思わない?」

 炭治郎は、意表を突かれた、考えてもいなかったという顔できょとんとした。

「椿さんは、禰豆子が人を襲わない限りは生かしておくと言いました。あなたは一度言ったことを軽々覆す人ではないです」

「……」

 炭治郎はそれだけ言い残して、木箱を椿に手渡すと、山道に向かって歩いて行った。

 椿はどうにもやりきれない気分で、片腕に木箱の肩紐を引っ掛けながら、町に戻り、三方を葦簀で囲ったおでん屋の車屋台に腰掛けた。

 炭治郎が、妹を、自分の命よりもずっと大切にしていることなど見ていればわかる。彼は自分の命よりも大切なものを椿に預けて行ったのだ。

 炭治郎の信頼は手に余る。

「姉さん、お酒いる?」

 店主に問われて、椿は豆腐と大根だけ頼んだ。酒は飲まない。仕事中である。

 近くの座敷から、義太夫を弾く三味線の音がする。賑やかな夜だ。

 ここの屋台はそれほど繁盛しているわけでなく、端っこの腰掛けに男が一人座っているだけだった。男は、中からカリカリとひっかくような音のする木箱を気味悪そうに眺めた。

「そいつはなんだ?」

「猫です。よくひっかきますし、かみつきますから、決して開けないようにしてください」

 男は常連客らしく、勝手知ったる様子で燗徳利で手酌していた。しかし、男の酒は、陽気な酒ではなかった。店主が明日も早いのだから家に帰って寝ろとすすめるのにも耳を貸さず、手に持った盃をぐいとあおった。

「女房に逃げられたって、もう半年にもなるだろう。いい加減やけを起こすのはやめなよ」

「あいつは死んだ」

 男の目がうつろに淀んだ。

「滅多なことをいうな。ひょっこり帰ってくるかもしれんじゃないか」

「身内もねえ、ここ以外に縁のある土地もねえ、あの女がどこに行く当てがあるってんだ。山に入って、崖から落ちたか、熊にでも喰われたか、どっちにしろ、ろくな死に方じゃなかったろうよ。俺にはわかる」

 男の盃を持つ手が激しく震えた。

「あいつは死んでよかった」

「旦那、そりゃないよ」

「死んでよかったんだ。生きてたってなんにもならねえ。世の中、辛い、苦しいばっかりだ」

 彼は見るからに生活に疲れ果てて、ひどくくたびれていた。自分は職人として手間賃をもらうし、上の子供は小学校を出してすぐ大工のところへ奉公に上げたが、どれだけ働いても生活が楽にならない。銭がないので、勘定日がくるまで三日も食わないで働き通したこともある。そんな有様でも税務署は空の米びつにさえ手を突っ込んで有り金を持っていく。

「お前みたいな娘さんにゃ逆立ちしたってわかりゃあしねえだろう。あいつはよう、五人もいるガキどもの世話をして、飯の煮炊きして、毎日牛馬のように働いて、気苦労を全部しょい込んで、極めつけに亭主は飲んだくれときた。お前なんか出ていけ、出て行ってやるなんて、いつもの口喧嘩だ。あの日、あいつはそう言って、真夜中に家を飛び出して、それで、それで……」

 男の頭ががくりと垂れた。男の表情からは、深い悲しみと、悔悟の念が見て取れた。

「お子さんはかわいいでしょう」

「ああ。ガキはかわいい。みんなかわいい、手の付けらねえ畜生どもだ」

 男の言うことによると、一番上の息子を除き、幼い子供たちはどうにも稼ぎが少ない上に酒や素行のだらしない父親を尊敬してはいないらしい。椿は、男の横顔を見据えて言った。

「女手なしにお子を養い育てるのは、並大抵のことではありません。お子方も、今はわからなくても、いつか自分で働いて、家族を養うようになれば、お父様の苦労も愛情もきっと理解なさいますよ。……それが奥方様の供養にもなりましょう」

 男は黙った。そして、しくしくと泣き出し、再び酒を飲み始めた。もう椿に絡んでこようとはしなかった。

「姉さん、ほんとにお酒いらない?」

「結構です」

 椿は無心で大根の切れ端を口に運んだ。人の心を慰めるのに、軽々しく産屋敷の真似事などするものではないと思った。

 炭治郎が帰ってきたとき、手元の懐中時計は明け方が近いことを示していた。

 店主は箸や皿を洗って、店じまいの支度にかかっていた。先刻話しかけてきた男はとっくに潰れて鼾をかいている。

「おかえり」

 暗いところから戻ってきた炭治郎は、明るい提灯に目がくらんで気後れしたようだった。店主は無言で残り物らしいこんにゃくと竹輪麩を乗せた椀を前に置いた。炭治郎は律儀に「いただきます」と手を合わせて箸を取った。

「何かあったの?」

 炭治郎には、どことなくいつものはつらつさがない。

「鬼に襲われて怪我をしていた兄弟を、山の向こうの家まで送り届けていました。遅くなってすみません」

「ぼうや、北の山道を通っていったのかい」

 店主は怖いもの知らずを見たとでも言いたげだった。

「あの山道は最近人がよく行方知れずになるってんで、この辺りのもんは近付くのも避けるってのにたいした度胸だ。そういや、そいつの女房が、一番最初の行方知れずだったかねえ……」

 その時、暖簾を分けて、年のころ十三ばかりの少年が現れた。まだ子供なのに、もう一人前の大人のように体中に労働の疲れを滲ませている。

「父ちゃん、帰ろう」

 男の息子であるらしい少年は、だらしなく机にもたれた父親の肩を揺すった。男は目が覚めたのか覚めていないのかはっきりしない様子だったが、店主に差し出された水を一気に飲み干してのろのろと腰を上げた。

「もう酒はやらねえ」

 男が独語した。父子は頷き合いながら夜明けの町に消えていった。彼らがああやって約束するのは初めてではないのだろう。そして男は、夜になれば再びここに座って、酔いに悲しみを紛らわしに訪れるのだろう。

「私たちも行きましょう」

 

 

 

 

「――俺が頸を切ったのは、女性の鬼でした」

 店を出てしばらくして、炭治郎がぽつりと語った。

「以前にも鬼狩りを殺して喰ったんだって自慢してました。消えていくとき、寂しい、悲しい匂いがした。……家族のところに、帰りたかったのかな」

「さあ、どうでしょうね」

 彼の妻は、鬼になったのかもしれない。鬼に喰い殺されたのかもしれない。だが、崖から足を滑らせて落ちて死んだのかもしれないし、あるいは誰も彼女のことを知らない遠い町で暮らしているかもしれない。

 真相をつまびらかにしようとするだけ詮無きことだ。

 北の山道に巣食った鬼は退治された。今後、鬼が出ることはない。それだけが事実である。

「炭治郎くん。あのね、私は君のことが好きよ」

「えっ?!あ、はっ、はいっ!ありがとうございます!」

 炭治郎の声が裏返った。椿は構わずに続けた。

「だから、君には強くなってほしいけど、死んでほしくもないのよ。……どうか、鬼に同情しすぎるのはほどほどにしてね」

 けぶった曇り空が、日の出の光を含んで明るくなっていく。

 二人の頭上に鴉が騒ぎ立ち、次に向かうべき場所が浅草であることを告げた。

 




竈門炭治郎とまったり悪鬼滅殺スローライフする話……
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