寒椿の君   作:ばばすてやま

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31.砂に沈み未だ融けず

「小さくなりなさい」

 椿は、炭治郎いわく「これが妹の普通の背丈」の大きさの禰豆子を、どうにかして木箱に押し込めようと頑張っていた。禰豆子の兄はここにいない。炭治郎は突然、鬼がいると叫んで浅草の人混みの中に飛び出してしまった。彼の後を追うためには、禰豆子をこの木箱の中に入れなければならない。椿は炭治郎と違って、たくさん人間がいる場所を鬼の手を引いて歩くなど真っ平御免だし、放置など論外だ。

 しかし禰豆子はというと、椿に肩を揺すぶられるまま頭を左右にぐらぐらさせるだけで、まるでこちらの言うことを聞いてくれない。遊んでもらっていると勘違いしているらしい。

「小さく……小……小さ……小さくなりなさいと言っているでしょう……!」

 最後の方は半ば力ずくで押し込むような形になってしまったが、どうにか禰豆子を木箱に押し込むことに成功して、椿は炭治郎の後を追って足早に駆けだした。

 歩きながら周辺を探るが、人が多すぎるのと、血鬼術で攪乱されているのか、気配が微弱で探り辛い。炭治郎の嗅覚はすこぶる便利だ。普通の鬼狩りなら一筋縄ではいかなかっただろう。

 その時、自動車が警笛を鳴らして急停車した。

「待って、待って!止めて!」

 若い女性の甲高い叫び声に、周囲が何事かと注意を寄せる。椿は構わずそばを通り過ぎようとしたが、後ろから手を取られてやむを得ず振り返った。そして、そこにいた、息を乱した女性の姿を見てあっけにとられた。

「まあ――麗さま?」

 麗はある財閥に縁する一族の娘である。椿よりも三、四つ年上なので学年は違うものの、同じ学校で学んだ同窓生で、親同士の交流もあったから、小さいころから親しく付き合っていた。彼女は少女時代の清楚な佇まいをそのままに、立派な淑女へと成長していた。

「椿さんね?本当に椿さんなのね?」

 麗は涙ぐみながら、椿の両手を握りしめた。

「ご家族にあんなことがあった後、消息が絶えていたものだからてっきり……いままでどこにいらっしゃったの?」

 椿は、「親切な方にお世話をしていただいて、不自由なくやれています」と言葉を濁した。麗はあまり深入りされたくないのだという言外の意図を察してくれて、それ以上深く追及してはこなかった。彼女の優しさに付けいっているようで、わずかな心苦しさを覚えたが、やむを得ない。時間が惜しい。昔話もそこそこに切り上げねば。

 麗はこちらの事情を知らないが、椿は、彼女の身の上のことを多少知っている。麗が学校を卒業してまもなく、同じような家柄から夫を迎えたことと、その夫が強盗に殺害されたという風聞は、一時期新聞の三面記事を賑わせたものだ。

 麗は、自動車の後部座席に座っていた少女を、前夫との間に産まれた娘の清子であると紹介した。そして今は再婚をしていて、相手の名を月彦と言うのだと教えてくれた。

「椿さんもご存知のはずよ」

「私が?」

「ええ。お仕事の関係で、二階堂のお屋敷にはよく出入りしていらしたそうだから」

 確かに聞き覚えがある名前だった。しかし、どういう経緯で耳にしたのか、はっきりと思い出せない。

 椿は、もはや前世の記憶ほど遠い、十四歳以前の幸福な過去を追想した。

 若い男……月彦と名乗る男……確かにいた。訪れの先触れがあっただけで、女使用人たちを色めき立たせた貴公子のような男が。

 

 父の客人。……()()()()()()()()()()客人……

 

「あの人が亡くなったことは私たちにとって大きな悲しみだったわ。けれど、月彦さんが清子のことを血のつながった実の娘のように可愛がってくれて、感謝しているの……」

「それにしては――」

 こういう直感は大抵当たるものだ。椿は語尾がわずかに上擦りそうになるのを堪えた。

「情の薄い方のようにお見受けしますわ。夜更けにこんな小さな子を連れまわすだなんて」

「仕方がないのよ。忙しい人だから、毎日、日が昇る前にお仕事に行って、夜遅くにお帰りになるし……家族のお出かけは、いつも日が落ちきってからになってしまうの」

 旧友との再会の喜びが、麗をいつになく饒舌にしていた。これは月彦という男にとって計算外の事態だったに違いない。麗は聡明で、慎み深い女性だ。常ならば、家内の事情を詳らかに――とりわけ、日の光を眩しがる彼の安息の妨げにならぬよう、夫の寝室を、北側の日の当たらない部屋に配していることまで述べ立てたりはしなかったはずだ。

「昔のお友達の動静はずっと気がかりでした。ですから、麗さまが今、幸せにしているようで、本当に良かった……」

 椿がそう言って微笑みかけると、麗は感じ入った様子で眦に浮かんだ涙を拭った。そして、麹町に邸宅があるので、いつでも歓迎するし、困ったことがあればどんなことでも頼りにしてほしいと言い残して、自動車に乗り去っていった。

 椿は鴉を呼びつけ、彼女たちの住居に手空きの隊士を向かわせるよう指示を出した。

 ――麗は夫と別れたばかりだと言った。まだこの近くにいる。

 椿は、記憶の中から、懸命にその男の姿を探し出そうとした。だが、どのような容姿の男であったか、まったく思い出せない。

 大通りに、白熱ガスの華々しい明るさが満ちている。

 人波の間を縫うように進み、すれ違いに酔っ払いの男と肩をぶつけた。向こうは何やらわけのわからない繰り言を喚いていたが、連れの女に「その女、盲だよ」とたしなめられて、矛を収めていた。

 横に角を折れて細い道に入ったとき、反対から男がゆっくりと歩いてやってきた。

 洗練された出で立ちの、気品ある紳士だ。これといって不審なところはない。月光に照らされた青白い顔色が、いささか病人めいて人目を引くだけだ。

 椿はほんのわずかの既視感に足を止めて、その男を凝視した。

 

「私に何か?」

 

 男はこちらの視線に気付いて、人当たりよさそうに微笑んだ。

 椿は身じろぎもできずに立ち尽くした。

 男はまったくの自然体で、そこだけ空気が冷たいとか、怪しげな雰囲気だとか、そういった違和感を覚えさせるものはまるでない。極微の違和感の正体がなんなのか、突き止められないのに、本能だけが危険を訴える。――この男は何かがおかしい。

 それに、自分はこの顔を、どこかで見たことがあるはずだった。

「お前が、鬼舞辻無惨……?」

 何が起きているのかを理解したときにはすでに遅かった。男が刹那に振りかざした左手の切っ先は、刃物のように椿の胸部に深々突き刺さっていた。

「……急所を庇ったか?しかし、小手先の悪足掻きだったな。お前はここで死ぬ」

 死の予感に突き動かされて、咄嗟に取った回避行動がわずかに急所をそらしていた。

 男は、何の感慨もない調子で、椿の胸から手を引き抜いた。

 心臓が狂ったように脈打つ。傷口は火に焼かれているように熱い。前のめりに崩れかけた姿勢を保つのに精一杯で、とても反撃に転じる余裕などない。

「警官さん来てください!この人、体調が悪いようなんです!」

 男の呼び声で、通りを巡回していた警官が二人、どうしたどうしたと小走りでやってきた。椿が、一体なんのつもりだと顔を上げた時、すでに男の姿は目の前から忽然と消えていた。……逃げられてしまった。

 落胆している暇はなかった。負傷にも、後背に隠した刀にも、気付かれると面倒だ。

「お構いなく。少し、人に……酔ったようです……」

 椿は心配する警官の手を振り払うと、禰豆子を入れた箱を引き摺って、建物と建物の間の陰に入った。石壁にもたれて座り込み、ゆっくりと呼吸を整えようとする。

 傷はわずかに急所を逸れており、この程度の怪我でまるで身動きができないのはおかしい。だが、鬼化の兆候もない。毒だろうか?原因がわからない。

 うずくまって身体の変調に耐えていると、箱の扉が内側から開いた。中から禰豆子が顔を出す。彼女は、病身の家族を気遣うかのように、椿の汗ばんだ頬にぺたんと両手をくっつけた。

「……私を心配しているの?」

 思わず口元に弱々しい自嘲が浮かんだ。鬼舞辻を前にして何も出来ずに一蹴されたことも、あまつさえ鬼に心配などされていることも、すべてが腹立たしく惨めだった。

 しかし現実は現実だ。今は生き延びることを考えなければならない。

 椿はゆっくり瞼を落とした。炭治郎が近くに来ている。それなら大丈夫だ。後は任せられる。

 

 視界が閉ざされると同時に、思考が秩序を失う。記憶が現在と過去を行ったり来たりする。

 

 

 生まれ育った我が家。親しみ深い広大な庭。母のお気に入りだった薔薇の蔦が絡むアーチ。

 十三夜の月が洋館の外壁を明るく照らす。美しい夜。

 

 

 椿は、母の部屋で洋椅子に腰掛けて、窓枠に頬杖をつき、月明かりに照らされた夜の庭を眺めていた。

 部屋の戸をこんこんと叩く音が聞こえた。椿は「どうぞ」と入室を促した。扉を開けて現れたのは、若々しい見た目にそぐわない、落ち着きと気品を備えた女性である。母は決まって、娘にこんな女性になりなさいと言う。

「珠世」

「お嬢様、こんばんは。奥方様は?」

「所用が長引いているの。すぐに来るわ。そんなことよりも、私、あなたに言っておきたいことがあるの」

 珠世は、腕の良い女医者がいるという評判を聞きつけた父に招かれてこの屋敷に出入りするようになった。母の気虚の治療のためだった。若い男の助手を伴ってやってきた彼女は、前評判通りに仕事をこなして、母の体調はすぐに良くなり、近頃は経過が順調なので、母が話し相手が欲しくて呼ぶだけになっていた。

「あなたの助手のこと。彼はもう少しお行儀よくすることを覚えるべきね。あなたの前ではどうだか知らないけれど、彼、信じられないくらい人当たりが悪いの。あの人が大きな声を出すものだから、女中が怖がって泣いていたわ。その子はお茶はいかがですかって聞いただけなのよ。嫌なら結構と言えば良いだけで、怒鳴る必要はないと思うの」

 椿の言い草はもっともらしくも放縦極まりなかったが、珠世は殊勝に頭を下げた。

「申し訳ありません。後で叱っておきます」

「椿、先生とお呼びなさい」

 その時、母が所用を済ませて部屋に入ってきた。

「奥様、お加減はいかがですか」

「結構よ。ありがとう」

 母はそれから、娘の方を向いて眉を吊り上げた。

「またピアノの稽古をお休みしたの」

「先生の教え方が上手でないのだもの。本当に退屈なのよ、お母さまも一度お越しになると良いわ」

 母のお小言に、椿は悪びれずにそう返した。母は叱っているつもりだろうけれど、椿は少しも怖くない。

「仕方のないお転婆ね。先生を叱責できる身ではないでしょう」

「いいえ、奥様。お嬢様は私の至らなさをご指摘なさったのです」

 珠世に庇われるのはいささかばつが悪かった。確かに椿は、彼女の助手のことは好きではなかったけれど、珠世のことは嫌いではなかった。むしろ好きだった。彼女が来てから、母が明るい表情をすることが増えたからだ。

「……いいのよ。あの子が気にしないと言ったもの。私も気にしないわ」

 椿は、母に促される前にさっと踵を返して部屋を出て行った。後ろで母がため息をついているのが聞こえた。

「ごめんなさい。私たちが甘やかしすぎたの。どうかお気を悪くなさらないでね」

「気を悪くなどしません、お子が大事なのは当然のこと。……本当に、親にとって我が子とは、金銀珠玉にも勝る宝でございます……」

 

 初夏は過ぎ去り、母の愛した薔薇も散り果てた。

 

「素晴らしい博学だ。その若さでたいしたものだ」

「私のごとき若輩にはもったいないお言葉です」

 夜半、書斎で本を探していた椿は、隣の部屋の応接間から話し声が聞こえてくるのでおやと首を傾げた。父はこの応接間に、好事家仲間とか社会的地位のとても高い立派な人とか、ご自分のお眼鏡に適った人しか招かないのだ。なるほど、声の張りからして青年らしき客人は、若いのにたいしたものであるに違いない。

 椿は応接間への続く扉の鍵穴を通して二人の様子を窺った。お行儀が悪いことは承知していたが、尊敬する父にそこまで言わせる青年とは一体どのような人なのか興味が湧いたのだ。

「それで、月彦くん。君が聞きたいのは珠世くんのことだったな」

「はい。……珠世はかつて、私の婚約者だったのです」

 月彦は、沈痛そうに首を振った。

「ですが約束は果たされず、彼女は下男と駆け落ち同然に私の元から去っていきました。もはや過ぎ去ったこと、今更恨み言を申すつもりはありません。それでも、彼女が今、幸せに暮らしていることを自分の目で確かめたいのです」

 珠世とは、少し前までこの家に出入りしていたあの女医者のことであろうか。駆け落ちなんてことをするような不埒な女性には見えなかったが。それにしても、好きだった女性を横から奪われて、取り返そうという気概もないなんて、情けない男だ。

 しかし父はうんうんと頷いた。いたく同情を寄せた様子である。

「残念だが、私たちも彼女の行方は知らない。どうしてもやむをえない事情があると急に暇乞いを申し出て、すぐに発ったものだから……しかし、彼らの容貌を知っている屋敷の者たちには、彼女の姿を見かけたら、必ず私に伝えるように言っておこう」

「感謝します。ところで――ご息女に挨拶をさせていただいても?」

 鍵穴越しに目が合った気がして、椿は弾かれたように扉から飛びのいた。扉から彼が座っている場所までかなり距離があるのに、まさかこちらに気付いたのだろうか?

「是非にと言いたいところだが、あの子に君のご尊顔をお披露目する気はないな。私はまだ娘を嫁にやるつもりはないからね……」

 応接間に笑い声が響いた。別れ際の歓談をした後、月彦は去っていった。椿はその間、心臓がばくばくと脈打つのと、目が合ったと思った瞬間の不気味さの余韻で動けないでいた。

 見送りから戻った父のもとに、二階から降りてきた母が口早に言った。

「あの方をこちらに招くのはお止めになって」

 父は、突然の訴えに戸惑った様子だった。母が父の交友関係に口を挟んだためしは今までに一度もない。物事や人間につける好悪に、およそ不一致をみたことがない夫婦で、父が好きなものは母も好きだったし、母が好きなものは父も好きだった。

「君が言うなら、もちろんそうするが」

 父は不審がりながらも、母の希望を受け入れた。彼は自分の妻が、出産を控えていて、神経質になっているのだと思ったのだ。

「だが彼の一体何が気に入らないんだい。気持ちのいい青年じゃないか」

「わからないけれど、でも、あの方の目つき、なんだか値踏みをされているような、嫌な感じがするの……」

 

 

 

 

 

 二人の鬼の助けを得て事態を切り抜けた炭治郎が次に目の当たりにしたのは、壁にもたれて完全に意識を失っている椿と、一体いままでどこで何をしていたのかとでも言いたそうな禰豆子だった。慌てて椿に呼びかけるが、全然反応が返ってこない。濃い血の匂いがする。怪我をしている。早く医者に見てもらわなくてはいけない。

 しかし、助けてくれた青年は今度はすげなかった。彼は椿を見るなり「その女はだめだ」と言って、鼻を押さえて露骨に嫌そうな顔をした。

「鬼舞辻にやられたんだろう。長く持たないぞ」

「こ、困ります!この人は俺の大切な……仲間……なんです……」

 青年が胡乱気な顔でふんと鼻を鳴らした。

「お願いします。このまま放っておいたら本当に死んでしまう」

「しつこいぞお前。傷の具合が悪いから助からないと言ってるんじゃない、鬼舞辻の……いや、待て。その女……」

 青年は限界まで眉間に皺を寄せると、前言を棄却して「ついてこい」と身を翻した。

 彼は自分たちの根城に到着するや否や、女性のところまでずんずんと歩いていき、彼女の耳元で低く囁いた。

「珠世様、この女、二階堂の娘です」

 目配せしあった二人の間にただごとではない空気が漂う。炭治郎には、彼が何を言っているのかよくわからない。二階堂とは一体なんのことだろう。……そういえば、炭治郎は椿の氏を知らない。

「生きていたのですね。生きて……」

 炭治郎の背中から降ろされた椿を見る彼女の目がかすかに潤んだ。青年の首が沈鬱そうに垂れた。そしてすぐに治療に取り掛かってくれた。炭治郎は、両者の反応を不可解に思いつつも(椿に鬼の知り合いがいるわけがない)、二人が懸命に傷の手当てをしてくれていることに感謝した。

 二人の鬼は、それぞれ珠世と愈史郎と名乗った。

「助かりますか?」

「私たちに出来ることは多くありません。もともと自力で出血を止めているようですから」

 胸を刺されて自力で血を止められる理屈が今の炭治郎には皆目わからないが、椿は、「私にできることは君にもできるようになる」と言っていたから、呼吸を極めた人はそういうこともできるんだろう。炭治郎の胸に尊敬の念が湧いたが、同時に、よくわからな過ぎてちょっと怖いな、とも思った。

「あの薬を使いますか」愈史郎が珠世に聞いた。

「この方には必要ないでしょう」

「薬って何ですか?」

 これには珠世よりも愈史郎が口を出すのが早かった。

「気安く話しかけるな。珠世様は医術はもちろん、薬学でもこの国に並ぶものない優れたお方なんだ」

「それほどたいそうなものではありませんよ」

 珠世は謙遜したが、炭治郎は、彼女が鬼を人に戻す術について肯定的に語ってくれたとき、手探りで進み続けた暗闇に一筋の光明が差したように思えた。なんせ冨岡や、椿はもちろんのこと、進むべき道を示してくれた鱗滝さえ、禰豆子を人に戻せるのかどうか半信半疑であったのだ。

 炭治郎はもっと珠世から話を聞きたかったが、新手の鬼の襲来で、これ以上悠長に膝をつきあわせて話をしている暇は与えられなかった。新たに現れた二体の鬼は、聞いてもいないのにべらべらと喋ってくれたので、彼らが鬼舞辻直属の配下で、その命令を受けて自分たちを殺しにきたのだということはすぐにわかった。

 炭治郎は、むろんすぐに日輪刀を構えて立ち向かったが、二体同時に相手をするのは過酷であった。毬を使う少女の形をした鬼を禰豆子と珠世たちに任せて、炭治郎は手のひらに目玉のついた男の鬼と対峙した。

 珠世は、修羅場慣れしていると言えばおかしいが、突如の襲撃に微塵も動揺せず冷静である。愈史郎は自ら拵えた守りを突破されたことに苛立ちを隠せていなかったが、それでも炭治郎が苦戦しているのを見て力を貸してくれた。

 やはり、この二人は、普通の鬼とは違う。信頼に値する人たちだ。

 愈史郎の助けもあって、炭治郎はいくらかの苦闘の末に、男の方の鬼の頸を落とした。炭治郎はここに来るまでに相当鍛えられていた上、愈史郎の貸してくれた目のおかげで無傷とはいかないものの、いくらかの打撲のみで戦いを終えることができた。

 倒した鬼の身体の消滅を見届けて、半壊した建物の側にいる珠世たちのところに戻ると、毬の少女の鬼の頸はすでに地面に落ちていた。

 その鋭利な切断面は、この鬼を討ったのが、禰豆子でも珠世たちでもないことを示している。

 答えは明白であった。椿が鬼の頸のすぐそばに、刀を支えにして膝をついている。

 愈史郎と珠世は少し離れたところに座り込んでいた。着物のあちこちに血が飛び跳ねているのが、戦いの凄惨さを物語っていた。禰豆子も同様に、いくらか着崩れして裾が乱れていた。再度の襲来があればひとたまりもないが、月の傾き具合からして、あと半時間もすれば夜明けだ。これ以上の敵襲は考えられない。

 炭治郎はほっと息をついた。

「炭治郎くん、 そちらは片付いたの?」

 椿の声はずいぶん生気に欠けていたが、それでも炭治郎は、彼女が刀を持てるし、意識もはっきりしていることに安堵した。これほど強い鬼と戦って勝てるくらいなら、具合はそれほど悪くないのだろう。

「はい。あの、傷の具合はいいんですか?」

「ええ。手当てしてくれたのね。ありがとう」

 炭治郎がそれは珠世さんと愈史郎さんのおかげです、と返す前に、椿が続けた。

「――これほど鬼だらけの場所で眠り込んでいたなんて信じられない迂闊、我ながら不甲斐ない」

 殺気が閃く。次の瞬間、愈史郎の頸が飛んだ――ように見えた。実際には、椿の刀は一直線に愈史郎の頸を狙って、喉から項部を貫通するに留まっていた。

 勢いで横転した愈史郎の喉笛から突き出た青色の刃先が地面に食い込む。

 椿は、愈史郎を完全に無力化すると、次いで懐刀を逆手に握りしめて珠世の髪を掴んで引き倒した。珠世は抵抗しなかった。

「珠世さん!椿さん!!」

 炭治郎は愈史郎を救うべきか、珠世の方に向かうべきか迷った。しかし、愈史郎が顔面血まみれの凄まじい形相で、口だけをぱくぱく動かしながら、珠世を守れと必死に訴えているのを見てしまったので、炭治郎は身体を割りこませて珠世と椿を引き離しにかかった。しかし、椿の腕は、炭治郎が力を込めた程度ではびくともしなかった。

 珠世は、澄んだ眼差しで椿を見上げていた。

「……まさかこんな形で再びお目にかかることになるとは、思ってもいませんでした」

 椿は苦し気な吐息とともに、怨嗟の色濃く滲む声で「珠世」と名を呼んだ。

「お前、お前――私たちを騙していたのね」

「し、知り合いですか?」

 珠世も椿も、炭治郎の問いかけに答えなかった。二人とも、炭治郎のことなどまるで眼中にない。

「その目は何?何か釈明したいことでもある?」

「釈明とは」

 椿に問い詰められて、珠世はそっと目を伏せた。

「我が行いを弁明し、理解を求める、醜く浅ましい自己保身に他なりません。私がすべきことは、釈明ではなく、事実を申し上げ、あなたの――」

「事実?」

 珠世の細い頸に短刀の刃を差し当てられるのを見た愈史郎は、必死で拘束から逃れようとしていたが、自力で脱することは難しいようだった。

「お前たちは医者と偽って私たちの前に現れた。お前たちの出入りが途絶えたすぐ後から、屋敷にあの男が現れるようになって、それで、それで……」

 椿は、それ以上は息をするのが苦しそうに身を捩った。そして、炭治郎の持つ黒刀に目を止めた。

「それを貸しなさい」

「だめです」

 炭治郎は即答した。椿の胸に巻かれた包帯には、じわじわと明るい血の色が染み出している。

「中に入って休んでください。傷口が開きかけてるんです」

「君こそ怪我をしているじゃない。私の鍛え方が余程甘かったようね」

「す、すみません。でも本当に手ごわくて……十二鬼月って強いんですね……」

 辺りに場違いなほど気の抜けた空気が漂った。椿が呆れかえった調子で言った。

「……あのね、こんなに弱い連中が十二鬼月なわけがないでしょう……」

「そうなんですか?」

 炭治郎がぐるりと周囲を見渡した。珠世は黙って頷いた。愈史郎は串刺し状態のまま、目つきだけで「お前は信じられないほどのバカ」と訴えている。禰豆子だけが兄に味方するようにこてんと首をかしげた。

「とにかく、珠世さんは鬼ですけど、えーっと……その……良い鬼なので……その刀を納めてください」

 椿の刀を持つ手に血管が浮き出た。

「鬼に良いも悪いもない。情をかけるのもほどほどになさいと何度言わせるつもり」

「情じゃないです。珠世さんが椿さんの傷を手当てしたのは事実です。愈史郎さんも、俺が鬼舞辻の追手の鬼を倒すのに手を貸してくれました。……人間を害する鬼は、そんなことはしません」

 差し当てた刀の先が揺れて、玉のような血のしずくが珠世の首筋を滑り落ちる。

 椿は、炭治郎に対する反証を百も二百も頭の中で考えついたであろうが、彼女にはこの上らちの明かない問答を繰り返すために体力を浪費するつもりはないらしかった。

 椿は珠世に顔だけ向き直り、重い吐息をついた。

「私の問いに答えなさい。確かに、そうね、お前の頸を落とすのはそれからでも遅くない」

 そう言って、椿は包帯ごしに自分の胸の傷口を押さえつけた。

「あの男、私に何をした?この傷、ただの傷じゃない」

 珠世は命じられるままに諾々と口を開いた。

「攻撃に自分の血を混ぜたのでしょう。いいえ、あなたは鬼にはなりません」

 ただでさえ蒼白だった椿の顔色がさらに白くなったのを見て、珠世が重ねて言った。

「呼吸を使える剣士を鬼にするためには時間がかかります。あの男、鬼舞辻無惨は、その牙を我が身に向けられることを恐れるゆえに、呼吸の剣士をその意に反して鬼にしようとは決してしません。ただ攻撃に血を混ぜて、細胞を破壊するだけ。……本来、それほど大量の血を注がれた場合、即座に人の形を保てなくなり死に至るのですが……」

「でも椿さんは死んでません」

 炭治郎が言った。今の椿は、胸に風穴を開けられる寸前だった割りには元気だ。

「そうでしょうね。あのお母さまの血を受け継いでいらっしゃるのですから」

「私の母が何だというの?」

 椿が刀を持った反対の手で珠世の髪を掴んでギリギリと締め上げた。愈史郎が抗議のために何か言葉を発そうとして、代わりに口からごぼごぼと音を立てて血を溢れさせていた。

「鬼舞辻の血は大半の生命体に有害に作用しますが、人間の中にはごく稀に、鬼にならない体質の者や、細胞破壊を受け付けない体質の者がいます。あなたのお母さまと、その血を半分受け継いだあなたは、その後者に属します。生まれつきの体質なのです。……現に今、それが証明されました。わずかな拒絶反応はありましたが、鬼舞辻の血は結局、あなたの肉体を破壊することができなかった……」

 珠世の声色には複雑な感情が入り混じっていた。

「私はそうした特異な体質の人間を、長年探し求めていました。その血を分析して、鬼化を防ぐ薬や、細胞破壊を食い止める血清を作ることができれば、鬼舞辻を倒すための強力な武器になる、そう考えてのことです」

 椿は珠世の話にも、一向に腑に落ちた様子ではなかった。

「今の話だけでは、お前たちが突然私たちのもとから去ったことの説明がつかないわ。お前が鬼舞辻と結託していないという証明はどこにあるの?」

「……私は長く鬼舞辻と敵対し、命を狙われています。あの男の気配を察した時点で、居所を悟られないよう、姿を隠しましたが、詰めが甘かった。当時の私は、長年の悲願を目前にして夢中になるあまり、いくらか警戒を怠っていました。おそらく、あの男は……私のいた痕跡を辿って、あなた方に目をつけたのだと……」

 炭治郎は息を詰めて二人の問答の行く末を見守っていた。風の音さえなく、ただ時折、愈史郎がもがくうめき声だけが聞こえた。

「お前は自分と関わりを持った人間を守るための手だても講じずにのうのうと私たちに近付いたの?」

「はい」

「お前がいなくなったあと、私たちがどうなるか少しでも考えた?」

「はい」

「母も父も信頼する相手を間違えたわ」

「お返しする言葉もありません」

 炭治郎は、珠世から漂う強烈な自責の念にはらはらした。

「責めは甘んじて受け入れるつもりです。目玉をくりぬくなり、耳鼻を削ぐなり、あなたの気が済むまで痛めつけて構いません」

 椿の眼差しに軽蔑の色が満ちた。

「珠世、お前の発想はどれだけ取り繕っても鬼でしかないわね。そんな提案で私の気分が晴れると思った?私が鬼の肉を断ち切る感覚が楽しいから、鬼が苦しむ様を見るのが嬉しいから鬼狩りをしているとでも思っているの?」

 珠世が沈黙した。

「私はお前のいうことは聞かないし、お前の罪悪感の埋め合わせに手を貸すつもりもないわ」

 椿は珠世の拘束を解いた。そして、よろめきながら愈史郎のところまで歩いていき、彼の喉に突き刺さったままだった愛刀を引き抜いた。解放された愈史郎は、一目散に珠世のもとに這いずり走った。

 椿は、二人が日陰に逃れるのを止めなかった。

 禰豆子が屋内に戻るのを見届けて、日の差し始めた庭先に目をやると、とうに形を失くした毬の少女鬼の着物が風に煽られてはためいた。力なくうなだれた椿からは色濃い失望と疲弊の匂いがした。

 炭治郎は、視界に映るものすべてが哀れでならなかった。

「ごめんね、先輩なのに頼りにならなくて」

 しばらくの沈黙の後、椿が言った。

「そんな」

「いいの。骨は折れてない?」

「はい。打撲だけです」

「良かった」

 椿は、それだけ確認すると、珠世たちの後を追って地下に向かった。

 炭治郎が先ほどのような修羅場になりはしないかと気遣わし気に見つめると、椿は「大丈夫だから」と安心させるように微笑んだ。

 愈史郎が、珠世を庇うように立ち塞がった。

「そこを退きなさい」

「珠世様に何をする気だ」

「話をするだけよ。そもそも愈史郎、お前のことは昔から気に入らなかった。よくもうちの女中を泣かせてくれたわね」

「なんの話だ!」

 愈史郎が吠えた。後ろに立つ珠世が「愈史郎」と呼んで彼を沈黙させた。

「珠世。鬼舞辻無惨を抹殺したいというお前の本心に偽りがないのなら――」

 椿はためらいを振り切った、落ち着きを払った声で言った。

「――私とともに鬼殺隊の本拠に来なさい。あの方は、鬼舞辻無惨を倒すためであれば、人喰い鬼を身中に引き入れる愚を冒すことを躊躇わないでしょう」

 

 

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