あなたに会いたい
遅咲きの桜が散り始めた頃だった。植え込みのつつじが一斉に薄紫と白色の花を咲かせて、これから盛りを迎えようとしていた。
素晴らしい陽気の昼下がりだ。父と妹は散歩に出ていて、母は庭の植栽の手入れをしていて、残された俺は一人、家内に残って数学の宿題を解いている。差し込む日差しに集中力が散漫になり始めたころ、玄関口から「ごめんください」と子供特有の甲高い声がした。妹の友達だろうか。俺は息抜きの口実ができたので内心喜びながら、来客を迎えるべく玄関先に向かった。
そこに立っていたのは、背格好からして俺より三つか四つは年下だろう少年だった。
「不死川さんのお家はこちらでしょうか?」
俺は、はいそうですが、と返事をするどころではなかった。少年の既視感のある顔立ちに、息が止まりそうなくらい驚いていたのだ。
「……冨岡さん?」
もちろん、そんなはずはなかった。父と母の旧知で、幼い俺によく目をかけてくれた青年であった冨岡義勇は、十年以上も前にこの世を去ったのだ。そもそも年齢が違う。
見当違いを口走ったことを謝ろうとするより先に、少年が「父をご存知なんですか?」と声を弾ませた。
「俺は冨岡義勇が長子、
俺が立て続けの衝撃に二の句を継げずにいると、後ろから来客に気が付いた母がやってきた。少年は恭しく頭を下げた。母が驚きにわずかに目を瞠ったことで、この少年が、我が家の誰にとっても思いがけない客人であることがわかった。
「よくいらっしゃったわ。どうぞ中に入って」
俺は母に指示されるがまま台所の戸棚から羊羹を出し、来客用の上等な茶を淹れた。
「どうしたの、そわそわして」
「いや、だって……冨岡さんに息子さんがいたとか、初耳なんだけど」
「そうだった?」
「そうだよ!」
小声で言い合いながら居間に戻ると、義人少年は座布団の上に行儀よく正座して待っていた。きちんと躾けられた行き届いた佇まいは、小柄(俺基準)でなよなよしい(俺基準)見た目を補ってあまりあるほど少年を利発そうに見せていた。俺は少年の、ぴんと伸びた背筋に、何か武道でもたしなんでいるのかもしれない、と思った。
「どうしてここがわかったの?」
「住所は誰にも教えてもらえませんでした。だから、鴉の行く方向から大体の当たりをつけて、後はこの辺りのお家を一軒一軒訪ねて回ったんです」
玄関にきちんと脱ぎそろえられた子供用の革靴のかかとが随分とすり減っていたことが、虚言でないことの証拠だった。俺は内心、なんて奴だと呆気に取られた。……鴉に聞くって何だ?
聞けば彼は今年十三で、進学のために母親の元を離れ、今は東京の寄宿舎で生活をしているのだという。
「お母さまは元気?」
「はい、とても。三日に一度は葉書が届くんですよ」
義人はそう言って、人懐っこい笑みを浮かべた。
俺は、母にこれが息子だと紹介されている間も落ち着かずそわそわしっぱなしだった。仲良くしていた叔父さんに隠し子がいることが突如として発覚した、ちょうどそんな気分だったので、義人が「生前は父がお世話になりました」というのにも、「むしろ俺が世話になった方というか」としどろもどろに答えるしかなかった。
「本日は、お願いがあって参りました」
一通りの歓談が済むと、義人は和やかな雰囲気から一転して神妙な顔つきになった。母は意外そうではなく、むしろこう切り出されることを予想していたかのようだった。俺は一人、話についていけず取り残されて、おろおろしている。なんだ、なんなんだ。
「産屋敷家の社に奉納される神楽、水の呼吸の型は、壱から拾までの十個の型を舞うものです。しかし、本来の水の呼吸には、十一個目の型があるのだと先生は仰いました」
義人は指を揃えて畳に手をつき、深々と頭を下げた。
「僕は貴女様から、失われた拾壱の型のご教示を賜るために、こちらにお伺いしたのです」
一体全体この少年は何を言っているのだろう。神楽だのなんだの、母に何の関係があるんだ。
水を打ったような静寂の中で母が口を開いた。
「『凪』はあなたのお父さまが編み出した、あなたのお父さまだけの技。私ではお力にはなれないわ」
「でも、父の継子だったんでしょう?父亡き今、貴女が拾壱の型の唯一の使い手であると、僕はそう伺いました」
「誰からそんなことを聞いたの?」
「村田のおじさんに」
「……村田さん……」
笑顔のままの母の額に青筋が浮いた。これは怒っている。かなり怒っている。
「あなたの志が無欠の型を受け継ぎたいことにあるなら、お父さまが遺した指南書に当たりなさい。それで絶えてしまうなら、それまでのこと」
「先人から受け継いだものを、正しい形で後世に伝えるという責任を放棄するんですか」
「そんな責任は君にも私にもないのよ」
義人の語勢は詰問するかのように激しくなった。一方、母は言っていることの中身はともかくとして声音は労わるように優しく、それでいて決して説得されないだろうと予感させるには十分なほどの頑なさを帯びていた。
加熱する応酬に、これは制止に入った方がいいのだろうかと思い始めた矢先、客間の戸が勢い良く開いた。
「舐めた口利いてんじゃねェぞこのクソガキ」
父である。いつの間に帰ってきていたのだろうか。廊下に仁王立ちする父からは気の弱い子供などは泣いて逃げ出しかねない威圧感が滲み出ていたが、腕に抱っこされた雪子に「父さま、お顔こわーい」と頬を突かれていたので、その迫力の大部分が損なわれていた。
父は散歩帰りでご機嫌の娘を降ろした。
「父ちゃんな、お客と話があるんだ。兄ちゃんとあっち行っててくれるか」
巻き添えで追い出された俺は、雪子を連れて隣の茶の間に戻った。机の上にはやりかけの宿題を放り出したままだったが、手を付ける気にはなれなかった。
「あの子だあれ?」
雪子はそう言いながら、茶の間と客間を隔てる土壁にもたれてぺたりと耳をくっつけた。興味津々である。無理もない。義人は、腕白小僧ぞろいの同級生の中には絶対にいないタイプの少年だ。
「冨岡さんの息子さんだって。なあ、煎餅食べるか」
「いらない。父さまがお団子を買ってくれたの」
俺は畳の上に引っくり返り、すべての責務を放りだした。雪子が煎餅で誤魔化されないのは、腹いっぱいになるまで買い食いさせた父のせいであって俺のせいじゃないし、この家の壁が薄くて、隣室の会話などちょっと耳を澄ましただけで筒抜けなのも俺のせいじゃない。
壁の向こうでは、母が懸命に少年を諭そうとしていた。
「どんな物事も必要とされなくなれば廃れていくのよ。平和な時代に、そんなものを受け継いでいくことになんの意味があるの?」
「そんな……そんなものじゃありません。なぜ、力を貸してくださらないんですか?お父さんの友達は、過去のことなんか恐れたりしない、勇敢な人たちだと思っていました」
「伝統だの継承だのとくだらねえ感傷に人を巻き込んだ挙句腰抜け扱いとは何様のつもりだテメエは」
「くだらなくなんかない」
義人の声は激情のあまり震えていた。俺は彼が激情に任せて父に飛びかかったりしないかとはらはらしながら耳をそばだてていた。そうなった場合、義人には万が一にも勝ち目はないからだ。
「誤魔化すな。てめえがこだわってんのは、そんなもっともらしい理由じゃねえだろ」
父が不愉快そうに鼻を鳴らして、荒々しく立ち上がる気配がした。
「父親が恋しけりゃ鏡でも見とけ。……あいつが化けて出たようなツラしてんだからよ」
「あなた」
「おい椿、取り合うなよ」
父はそう念押しして、もう話すことなどないとばかりに二階に上がってしまった。
どんなに失礼であったとしても、相手は子供だ。あんなに攻撃的に出なくたっていいだろうにと反発するよりも先に、あんまりにらしくない態度なので、父は何がそれほど気に入らないのだろうと、俺は首を捻らざるを得なかった。
それにしても義人は大した奴だ。あの父に凄まれて、真正面から言い返すとは。父の剣幕をものともしないのは、うちの家族と、宇髄の親父さんと往診の主治医と、通りの角の菓子屋のおばあちゃんと……結構いるな。
「出直します。また今度、改めてお話させてください」
母が返事もしない内に、少年が「お邪魔しました」と言って客間を出ていく音がした。俺はさっと廊下に出て義人の後を追った。
「送ってく」
義人は意外そうにしたものの、こちらの申し出を断らなかった。
門を出てからしばらくは無言で歩いていたが、俺の方が沈黙に耐え切れなくなった。
「悪かったな。普段はあんな理不尽に怒る人じゃないんだが」
「ううん。対等に扱ってもらえてるって気がするから、嬉しいよ」
少年はそう言ってはにかんだ。あれが嬉しいのか。変なやつだ。
停車場に着くまでの間、俺たちはとりとめのない雑談で盛り上がった。義人はやはり剣道をやっていて、身体を動かすのは得意だけれども、人と戦うと勝率は良くないということだった。
「先生は技術が足りないんじゃなくて、勝気が弱いからだって言うんだ。でも人を打ちつけたりするのって、気分がよくないし」
「向いてねえよそれ。さっさとやめろよ」
「でも必要なことだから」
何が必要なんだかはわからないが、義人の決意は固そうである。本当に変な奴だ。
「君も剣道やるんだ」
「ああ」
「どんな型を使うの?」
「どんなって、普通だよ」
俺たちは人の流れに押し出されるようにして停車場に続く橋梁を渡り切った。踏切の鐘の音がけたたましく響いていた。
「僕、風の呼吸の剣舞を見たことあるよ。かっこいいよね」
「何だよそれ。カゼ?」
「何って」
何を言っているのかわからず、茶化し気味に返すと、半分笑ったままの義人の顔に戸惑いに似た表情が浮かんだ。
「だって、君のお父さんは――」
その時、乗り場に列車が到着した。重たい鉄がこすれるその轟音のために、俺は義人の言葉を拾い損ねたのだった。
何を言ったのかと聞き返す暇もなく、義人は「さようなら、また来週」と手を振って乗降口に向かった。俺はどことなく釈然としない気分のまま、人混みにまぎれて消えていく小さな背中を見送った。
来た道を引き返して家に戻ったときには、すでに日が傾き始めていた。普段通りの夕方だ。雪子は家の前の道で近所の友達と一緒に手毬をついて遊んでいたし、父は茶の間で洗濯物を畳んでいた。俺は台所で夕飯の準備をしている母の背中に向かって、別れ際の義人の言葉を伝えた。
「あいつ、また来週来るって」
「そう」
母は包丁を動かす手を止めることもなく、なんとない調子で返事をした。
「何時ごろに来るか聞いた?ほら、今日よりも早く来てくれたらお昼ご飯を一緒にできるでしょう。どんなものが好きかしら。おやつも用意しないといけないわね。甘いものが嫌いじゃないといいんだけど」
「母さん」
俺は少し早口な母の言葉を遮った。
「母さんが嫌なら、俺、あいつのことぶん殴っても追い返すよ」
「そんなことはしなくていいのよ、仲良くしてあげてね。……優しい子、こっちにおいで」
義人は「また来週」の言葉通り、一週間後の休日に再びやってきた。次の週も、その次の週もだ。母にうんと言わせるまでは、時間が空き次第来ることにしたらしい。遊びたい盛りに貴重な休みを無為に浪費することもないだろうに、もしかして友達いないのか?
彼はたいがい午前のうちにやってきて、昼飯を囲み、世間話でもして、それで帰っていく。
母は小さな客人を決して無下にしたりせず、丁重にもてなした。もっとも義人の望みを叶える気はひとかけらもなさそうだった。
父は、天敵ができて張り合いが出たのか、近頃はすこぶる体調が良い。その代わりといってはなんだが機嫌は悪い。一昨日など、庭で何をしているのかと思えば野球のバットを振り回していた。義人の脳天をカチ割る練習をしてるんじゃないといいんだが。
義人はこちらの都合などお構いなしにやってくるので、父も母も仕事で不在なことがある。雪子さえいないときは、俺がこいつの相手をすることになる。義人は男のくせに喋るのが好きで口数が多いので、俺は適度に相槌を打っていさえすれば良く、相手をするのはそう難しくなかった。
「君は気にならないの?昔、自分のお父さんとお母さんがどんな人だったか、どんなことをしていたのか」
昼飯の後、五目並べに興じていると、義人がだしぬけにそう言った。
「いや、別に……」
「本当に?」
「しつこいぞ」
ぱちんと音を立てて盤上に白石を置くと、義人があっと声を上げた。白石が五つ一直線に並んだ。俺の勝ちだ。義人はばかじゃないんだが、恐ろしく勝負事に弱い。五目並べで黒石を持って負け続けられるのは、いっそ才能だと思う。
「お前の都合は知らねえけど、人には人の事情があるんだ。あんまり無遠慮につつき回すなよ」
そうは諫めたものの、本当に、本心から全然気にしていないのかと言うと、それは嘘だった。だが二人は、あんまり昔の、込み入ったことを話さない。話したがっていない。俺にもそれくらいはわかる。本人たちがあえて内緒にしたがっているのに、無理に暴いて何になるんだ。
大体、俺はいまだに神楽だの呼吸だの、義人が何を言ってるのかさえさっぱりわからないのである。
義人の口調からは俺が母をその気させてくれないかなあという下心が見え透いていたが、怒る気にはならなかった。というか、誰も義人のことが嫌いになれなかった。父でさえ、義人がいつもより来るのが遅くなった時は心配して、あいつはまだか、車に轢かれてないだろうななどと憎まれ口を叩いてそわそわする有様だった。
梅雨の季節がやってきた。もはや週末の来客は恒例になりつつあった。
その日はやや曇りがちなこの時期に貴重な晴れの日だった。俺は夜更かしをしたせいでいつもより遅く起きた。顔を洗って茶の間に入ると、父が母の膝枕で横寝していた。見るからに落ち込んだ雰囲気だ。
「なんかあったの?」
「雪子がね、義人くんたちとお出かけしちゃったの」
そういえば昨晩の妹は、友達たちと遊園地だか公園だかに行くのだと張り切って、てるてる坊主を吊るしていたな。父は大方、朝になって集まった顔ぶれを見て、子供たちだけで遠出するのはと渋ったに違いない。
「そんなに心配なら後ろからこっそりついていけばいいだろ」
「だめよ。ついてこなくていいって言われちゃったものね?」
母はくすくす笑いながら父の髪を撫でた。父は落ち込んでいたなりに母の膝の上で慰められていてまあまあ幸せそうなので、俺は黙って朝飯を掻き込むことに集中した。
俺は何も心配していない。あいつはしっかりしてるし、見た目の割りに肝が座っている。その上、年下に対しては面倒見が良いし、穏やかで優しいし、なんといってもあやとりとか人形遊びとか、女の子の遊びに嫌がりもせずに付き合ってくれる義人は、少女たちから「頼りになる年上のお兄さん」という、俺が絶対に獲得できない立ち位置で慕われてるのである。やっぱり義人は剣道、やめたほうがいいと思う。向いてない。
残った飯の上に茶を注いで茶漬けを作っている俺の脳裏に、不意に義人の言葉がよぎった。
気にならないの?
気にならないわけないだろ、と俺は心の中で反芻した。分別のつかない子供の頃なら不思議に思ったことは何でもお構いなしに口に出したろうし、実際そうしていたが、あいにくその時周りの人たちがどう答えてくれたか思い出せない。
呼吸って何?神楽って何?冨岡さんはどうして死んでしまったの?父さんが身体中傷だらけなのはなぜ?なぜ母さんの……母さんは……
…………
「どうしたの?」
「足りなかったか飯」
俺は首を振った。息子のほんのちょっとの感情の揺らぎに気付いて、心配を巡らす両親に、一体何を言えるだろうか。
「なんでもないよ。天気も良いし、久しぶりに釣りに出たいと思って」
「おっ、釣竿だな」
父の関心は物探しに移った。もともと切り替えの早い、いつまでも落ち込んでいるのが性に合わない人だ。父は物置に向かい、奥から釣り竿を取り出して渡してくれた。
「お友達と一緒に行くの?」
「ううん。親父、今日は仕事休み?」
だめ元で誘ってみると、父は二つ返事で乗ってきた。雪子に振られたので、暇を持て余していたらしい。
俺たちは母に見送られて、近所の川辺までやってきた。広い河岸は、朝釣りの時間をとうに過ぎていたので閑散としている。草の上に腰を下ろして釣り糸を垂らすと、まもなく鮒が二匹、三匹とかかった。しかし、それ以外に何か釣れる気配はなかった。
「不満そうなツラしてんな」
「だって鮒ってあんまり美味くないだろ。季節も悪いし」
俺が「鰻が釣りたかったんだよ」とぼやくと、父は「贅沢な奴だ」と笑った。
釣り竿を握ってじっとしている間、俺は学校であったこととか、世間で流行っていることとかのどうでも良い話をした。父はおかえしに、昔の話をしてくれた。昔の話というのは、義人が期待しているようなことではなくて、父がまだ少年だった頃の話だ。
俺はその話を聞くのが好きだ。
昔は食べるものがなかった。近所の料理屋から漂う匂いを嗅いでまでして空腹を紛らわせていた。そんなある日、溝の中に泥鰌が泳いでいたのを見つけた。思わず素手で掴み取って、家に持って帰って、どじょう汁にして弟たちに食わせた。そういう話だった。
「あの時はいいことをした気分だったが、よくよく考えりゃドブの中を泳いでた泥鰌なんざ、不味くて臭くて食えたもんじゃなかったかもしれねえなァ……」
父は遠い目をして水面を眺めている。
「不味けりゃそう言ってるよ。みんな美味そうに食べてたんだろ?」
父は黙って俺の頭を掴んでわしゃわしゃ撫でまわした。
それから俺たちは、夕飯にするには十分な分だけの鮒を手桶に入れて持ち帰り、母が不在にしていたのを良いことにすっかり夕食の準備を終えてしまった。俺は炊きあがった鮒飯を、仏壇に供えて手を合わせた。
そうこうしている内に長雨は明けて、季節は夏へと移っていった。厚手の布団は押し入れに仕舞われ、毎晩蚊帳を吊るして寝るようになった。
義人の方は相変わらず飽きもせずに通ってくる。筋金入りの頑固の母にここまで食い下がるとは、本当によく頑張る奴だ。
「一度だけでいいんだ。あと少し、あと少しなんだ。頭ではどうすればわかっている。たった一度でも正しい形を見せてもらえれば、それでいい」
「ふーん」
いつもの帰り道である。義人の言うこともいつもと変わりない。義人は俺の呑気にかちんときたのかややむくれた調子だ。
「お父さんのこと知りたいって思うの、変?」
「変とはいわねえけどよ、それなら型?とかより先に自分の母さんからどんな人だったか聞けばいいだろ」
俺がそう言うと、義人は「はあーっ」と、呆れたため息をついた。
「あのさ、もうちょっと考えてから発言してよ。女手一つで子供を育てるのはただでさえ大変なんだよ。それなのに、僕があんまりしつこくお父さんのことばかり聞き出したら、片親で寂しい思いをさせてるんじゃないかとか、自分の世話がいきたりないんじゃないかとか、お母さんに要らない心配をさせるじゃないか」
年下から真面目な説教を食らわされ、俺は沈黙した。母親に心労をかけたくないという義人の気持ちはとても立派だ。その代わり、俺の母親が非常に迷惑を被っているのであるが、それはどうなんだ。
義人は俺の前に飛び出て後ろ向きに歩を進めながら(こけるぞ)、眼差しをきらきらさせながら言った。
「君は僕のお父さんを知ってるんだよね。どんな人だった?」
「どんなって……優しくて良い人だったよ」
「抽象的過ぎるなあ。もっと具体的に」
「注文の多い奴だな!俺だって大したことは覚えちゃねえよ」
物心つくかつかないかの幼児の頃までしか世話になっていないのであるから、具体的な人柄など語れるわけがない。俺がのらりくらりとかわしていると、義人は役立たずとでもいいだけな視線をくれてよこした。注文が多い上に失礼な奴である。
「俺以外にもっと聞ける人が他にいるだろ、その人たちに聞けよ」
「聞いてるよ。でも、寡黙だったとか、お喋りだったとか、お葬式みたいに暗かったとか、いつもにこにこしてて明るかったとか、人によって言うことがまちまちだから結局よくわかんないんだよね……でも、鱗滝先生も、村田さんも、輝利哉さんも、みんな一つだけ口を揃えるのはね、お父さんはたくさんの人の命を守った、すごい剣士だったんだって、そういうんだよ」
義人の真剣さは痛いほどだったが、俺は頭が痛かった。これはあれだな、こいつがあんまりにもしつこいもんだから、みんなで結託して作り話を吹き込んだな。それにしたって、与太話にしてももう少し現実味を交えてほしいものだ。剣士ってなんだ。尊王志士か?新撰組なのか?どっちにしろ、こんな大法螺を本気で信じ込んでいる義人がかわいそうだ。
「はあ。で、誰と戦ってたんだよ。幕府軍?ロシア兵?」
「お父さんが戦ってたのは人間じゃない。人を食べる不死身の化物――鬼だよ」
やべえな。妄想が加速してる。みんなつくづく罪作りをしてくれたものだ。ひでえよ輝利哉くん。
俺も一瞬調子を合わせようとしてしまったが、妄想の負の連鎖はここで断ち切って置いた方がいい。俺はそれこそ心を鬼にしてキツめの言葉を投げた。
「何だよ鬼って。お前幽霊とか妖怪とか信じてんの?見たことあんのかよ」
「な、い、けど」
義人はぐっと詰まって立ち止まり、つられて歩みを止めた俺に「嘘じゃないよ」と威勢を張った。
「嘘とは言ってねえよ。けど、たとえ話にしてももうちょっと他にあんだろ」
「やっぱり嘘だと思ってるんだ」
義人は唇を噛みしめると、くるっと向きを反転させて、夕日の方角に向かって猛烈な勢いで走り去っていった。そちらが駅の方角だったわけで、何も気にするようなことはなかったのだが、取り残された俺は割り切れないようなもやもやした気持ちを抱えて帰路につかなければならなかった。
追いかけてやるべきだっただろうか。しかし、間違ったことを言ったとは思わない。俺は間違っていない。そう思うのだが、翌朝になってもどうにもすっきりとせず、授業中も教師の講釈など一つも耳に入ってこない。上の空で黒板の方に目線だけを向けるのが精一杯だ。
義人の主張は何も論理的じゃないし、筋も通ってない。しかし、これは理屈の問題ではない。感情の問題だ。
午前の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
席を立つと、隣で爆睡していた宇髄が目を覚まし、大あくびをしながら言った。
「おーい不死川、昼飯は?」
「野暮用。先生には体調不良で帰りますって伝えといてくれ」
宇髄が「言い訳にしても無理があるぞー」と追撃するのを無視して、学校を出た俺は真っ直ぐに駅を目指した。
謝りに行こう。悪いことをしたと思っていないのに謝るというのは、これはこれで失礼な気もするが、言い様に多少、配慮が欠けていたのは事実だ。
電車を乗り継ぎ、義人の通っている中学校に到着したのはちょうど休み時間の終わりごろだった。義人は校庭の端で、友達らしい同級生に囲まれて楽しそうに喋り合いながら校舎に向かっている。俺はほっとした気分になりつつ(なぜほっとしたのか自分でもわからないが)、「おい」と手を上げて声をかけた。こちらに気付いた義人は、昨日のゴタゴタを根に持っているらしく憮然とした表情だったが、友人たちが必死で止めようとするのを「知り合いなんだ」となだめてついてきてくれた。我ながら絵面が犯罪的だったと思うので、彼らの反応は理解する。なかなかいい友達を持ってるじゃないか。俺が完全に悪役なのはいいんだ。慣れてるからな。
近くの駄菓子屋の店先の腰掛けに座り、二本買ったラムネの瓶の一本を渡すと、つんとしていた義人の表情筋が緩んだ。
「昨日は言い過ぎた。悪かったな」
「それだけ言うためにわざわざ来たの?」
義人は、甘い炭酸水と俺の謝罪で満足そうである。
「謝りにきたってことは、僕の言ったこと信用してくれたんだよね」
「ああ、お前の中ではそういうことになってんなら俺に文句はねえよ」
「信じてないじゃん!!」
義人は両手を使ってバシバシと俺の背中を叩き抗議したが、威力も迫力もほとんどゼロだ。義人はまもなくお店の人の「子供は元気があっていいわね」的な視線にあてられて冷静さを取り戻し、腕を組んで大股に座りなおした。
「僕のことを信用しないのはもういいよ。でも、僕にあの話をしてくれた人たちを嘘つき呼ばわりするのは許せない」
義人はそう言って、今度先生のもとに来て、一緒に父の話を聞いてほしいとまくしたてた。話をしてくれた人の中で、その先生が一番年嵩だから、したがって説得力も高いだろうと言うのだ。俺は面倒なことになったなあと思ったが、これ以上臍を曲げられるともっと面倒なので、義人の提案に合意した。年上は年下のお願いを聞いてやるものだ。
当日は朝から曇っていた。俺たちは停車場で待ち合わせをして、朝一の人もまばらな列車に乗り込み、西を目指した。郊外に出れば田畑が広がる単調な風景が延々続くばかりである。
「暇だな」
「トランプ持ってきたよ」
用意のいい義人のおかげで、道中は退屈せずに済んだ。
目的の駅で下車して、さらに小一時間も歩くとそこが義人の先生の住む土地だった。のどかな土地で、近くに集落があり、鬱蒼とした杉林が山のすそを覆い隠していた。
義人が家の前で戸口を叩くが、中から応答がない。一反ほど離れた隣家に向かうと、中から中年の女性が出てきて「義人ちゃんお久しぶり」と挨拶をした。
「鱗滝先生は?」
「左近次さんなら、しばらく前から草津まで湯治に出てるよ」
うちに来たときもそうだが、こいつは人に会う気があるなら事前に手紙を送るなり電話するなりして、前もって連絡しておくべきだ。俺がそう言うと、義人は「今度からそうする」とがっかりした様子で言った。
いないものは仕方がない。俺たちは近くのお社の石段に座って、家で作ってきた握り飯を食べた。
今更ながら鱗滝さんとはどういう人なのかと聞くと、自分の剣道の先生で、親戚のおじいさんみたいなものだと言った。村田さんといい輝利哉くんといい、義人には親戚のおじさんやお兄さんのようなものがたくさんいる。
「この山の上に、お父さんの友達のお墓があるんだ。折角だからお参りしていっても良い?」
特に断る理由がない。せっかく遠方の土地まで来たのだ。山登りなんて家族で日光旅行に行った以来だとのんきに構えていた俺であるが、すぐに見通しの甘さを思い知らされる羽目になった。日頃から人の行き来はあるらしく、人間が通るのには十分な道が通っているが、なんせ勾配がきつい。そんなに高くないはずなのに異様に空気が薄い。昼間なのにやけに薄暗くて不気味だ。なんなんだこの山は。まず行楽目当てに登るような山じゃない。
厚い雲が流れて、じきに晴れ上がり、夏の太陽が顔を出した。日盛りの灼熱がじりじりと大地を焼く。
強烈な日差しに照らされながら、険しい山道を登っていくのはかなりの苦行だったが、弱音は吐いていられなかった。俺よりもよっぽど小柄な義人が、悠々と足を早めて登っていくのだ。こうなると意地である。
「無理しなくていいよ。先に降りる?」
「そうはいくか」
それからしばらく登ると、道沿いの小高くなったところに地蔵が十ばかりと石碑が並んでいた。義人は早速地蔵に線香を上げに行った。俺は日陰に入って水を浴びるように飲んだ。
「ここ、しょっちゅう登ってんのか」
「先生と一緒にね」
「よくやるよお前」
あたりに線香の匂いが漂った。義人が地蔵に手を合わせながら口を開いた。
「この山の峰には、死者の霊魂が棲んでいるんだって言い伝えがあるんだよ」
「誰が納涼怪談話を始めろつったよ」
「そういう話じゃないから」
「どういう話だよ」
「僕の友達にね」
義人は頭上に広がる鮮やかな青空を仰いだ。
「病気でお母さんを亡くした子がいてね、しょっちゅう夢にお母さんが出てくるんだって。羨ましいな。僕も、夢でも幽霊でもいいからお父さんに会いたいよ」
話繋がってねえよ、とは言わずにおいた。父親を知らずに育った子供の切実な願いをからかいで返すのは残酷すぎる。
「……幽霊がいるかは知らねえけど、自分の代わりにお前が友達の墓参りをしてくれるのは喜んでると思うぜ、多分」
「うん」
ちょっと踏み込みすぎたかと思ったが、義人は気を持ち直して、少し微笑んでこちらを振り返った。
やかましいほどの蝉の鳴き声が、一瞬、遠くなる。
目を見開いて俺の背後を凝視する義人の視線に釣られて後ろを振り返ると、藪に囲まれた木陰の目に痛い緑の中に、影がある。
人の影に見える。
「お父さんだ」
義人はそうこぼすや否や、脱兎のごとく走り出した。俺は荷物をその場に放り出して後を追った。
「ばかいえ!お前の父さんは死んだんだ!」
義人は止まらなかった。木陰の合間に見えた影は、確かに人影のように見えなくもなかったが、おおかた鹿か猪かの獣の類だろう。死者の霊が出ると評判の山中で、まさにその幻影に遭うなんてくだらない、ばかげた話だ。
どのくらい走っただろうか。森を抜けると、背の高い杉林に囲まれた空地に出た。正面には真っ二つに割れた巨大な岩が鎮座している。頭上の枝葉の隙間からは、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。
目の前を、たぬきの親子連れがすみかを荒らしに来た人間に恐れをなしてわさわさと走り去っていった。
義人は岩の前で、息を切らしてしゃがみこんでいた。俺は隣に膝をついて肩を叩いた。
「ほら見ろ。誰もいやしねえよ」
俺は口を閉じた。義人の目から大粒の涙が溢れ、汗とともに伝い落ちて、乾いた地面を濡らしていた。
「……みんながお父さんのこと、素晴らしい、立派な人だったって言うんだ。僕もそんな風になりたいのに、お父さんと同じようにできない。僕には才能がないんだ、きっと。お父さんと違って」
そう言うと、義人は立ち上がって、涙の流れる目元をこすった。
「ごめんね、こんなところまで連れてきちゃって。迷惑だったよね」
俺はかける言葉を持たなかった。俺には父無し子の孤独も辛さも真に理解してやることはできない。義人は父親と一緒に山登りすることもなければ釣りに行くこともできない。それが無性に悲しかった。
次の週末、義人は姿を見せなかった。雨が降っていた。どこにも遊びに行けないから、雪子はつまらなさそうに鶴を折っている。
「義人くん、こないねえ」
「そうだな」
蒸し暑く、家の中がいやに静かに感じられた。母が雨の中仕事に出て行ってしまったから余計だった。ここ数か月、義人が訪れるようになってからは、休日の昼時は賑やかなのが常だったのである。
俺は二階の六畳間まで上がって行った。父はそこで黙々と仕事道具の手入れをしていた。
俺は、意を決して、父の背に声をかけた。
「話があるんだけど、いい?」
冨岡さんの余生が気になります。無事に綺麗な奥さんもらって可愛い子供に恵まれたんでしょうか。