連戦連戦でそろそろ休まないことにはまずい、という自覚は不死川にもあった。しかし、一人で任務にあたっていたので歯止めがかからなかった。消耗していたところに鬼の攻撃を食らう。己の不甲斐なさに苛立ちながら敵の頸を落とす。
医者に見せると肋骨四本が見事に折れている。打撲による内臓の一部損傷と、深刻なのは右太腿に負った刺傷で、骨と動脈が傷ついており、よくぞ失血死せずに済んだ、と医師に感嘆される有様だった。
そういった経緯で、不本意にも本拠から遠く離れた藤の家紋の屋敷で療養を余儀なくされていたところに、鎹烏が指令を運んでくる。某山中で厄介な鬼を見つけたので急ぎ集われたし。ただし激しい戦闘に耐えうるもののみ。
近隣にいる他の隊員はみなそれぞれ任務についており、持ち場を離れることができない。要請に応えられるのは不死川一人だけだった。
それで手負いの身に鞭打って戦場に向かった。決して浮ついた考えはない。それが誰であっても、同じ選択をしただろう。不死川には、仲間の窮地を知りながらむざむざ見過ごすことはできなかった。
「おい、歩けるかァ」
「……大丈夫です」
椿は戦いが終わったばかりの時は、傷が痛むのかしかめ面をしながらも気丈だったが、どんどんと血の気が失せてゆき、山を下る足取りもおぼつかず、今は木の幹に手をついて荒い息を吐いていた。
「いや、大丈夫じゃねえだろォ。おぶってやっから、手ェ寄越せ」
「そこまでしていただくわけには……肩だけお貸しいただけますか」
それで、不死川の肩を借りてなんとか足を進めていたが、具合は悪くなるばかりで、とうとう「私が死んでもどうかお気に病まれませんように」と、とてつもなく不吉なことを言い残して完全に意識を失った。
不死川は内心半狂乱状態で、女の身体を抱えて山を下り、ここにくるまで拠点としていた藤の家紋の屋敷に駆け込んだ。屋敷の主人が出迎える。すでに医者が到着していた。
そしてもう一人見知った顔がいた。花柱の妹であった。
たまたま別の任務で近くを通りがかった彼女は、友人が重傷を負ったという報を受けて飛んできたのだった。
「遅効性の毒ね。腹部の傷だって浅くない」
胡蝶は意識のない椿に向かってしきりに名を呼びかけ、手際良く傷をみていた。
丸半日かかって処置を終えた花柱の妹に、容態はどうかと尋ねると「当座の危機は去りました。ところで、不死川さん。あなたも絶対安静なんですからね。部屋に戻ってください」と睨まれ、ぴしゃりと鼻先で襖を閉められた。そして日が暮れる頃には、言付けを守らなければもう一度骨を折ると言い放って、こちらに反論する暇も与えず去っていった。
椿は翌朝になって目を覚ました。
主人に案内されて座敷に向かうと、ぼんやりしながらも起き上がろうとしていたので、「おいやめろ、胡蝶に殺されんぞ」というと大人しくなった。
「しのぶが来ていたのですね」
「あの女、言うことを聞かねえと骨を折ると抜かしやがった」
「ふふ、あの子らしい」
椿は言いにくそうにもじもじしながら切り出した。
「何から何までありがとうございます。……その、思えば山中では色々と無礼を申しました。お詫び致します」
そう言って床に伏せながら詫びようとするので、不死川は「いや、俺が言い過ぎた」と止めた。それであの夜の諍いの蟠りも溶けて消えた。
二人の居室は当然別にされていたが、同じ庭に面していたので、縁側から呼びかける声がよく通る。「不死川くん、不死川くん」と呼ぶ声がしては行かぬわけにもいかなかった。
その日のうちに身体を起こせるようになった椿は、不死川を呼びつけて、とりとめもないことを喋りかける。不死川も、特にすることもないので付き合う。互いに鍛錬を禁じられていて、手持ち無沙汰だったのだ。
そうこうしていると、成り行きで、手習いをつけてもらうことになった。文を書くのが苦手だと不死川が零したので、じゃあ私が教えましょう、という話になったのである。
「じゃあ手始めに、論語から学んでみましょうか」
「論語」
「ご存知ないですか?」
不死川は家族を養うために早くから働いていて、学校にもろくに通っていない。生活するのに必要最低限の読み書きは身につけていたが、あくまで我流である。椿の諳んじる漢籍の内容の半分もわからず、不死川は己に学のないことを恥じた。
「悪いな、バカに付き合わせちまってよォ」
書いたものに赤を入れられながら、不死川が言った。
「何をおっしゃいますか。これだけ書ければ大したものです」
椿の声は優しかった。
「学問があっても、知性のないひとは世間に山ほどいます。不死川くんは愚かではない。こうやって勉学に励む向上心のある、立派な方です」
不死川は不覚にも胸が詰まった。家族以外の人間に、そんな尊いもののように褒められた試しはなかった。
することがない時には、椿は書を読んだり、楽器を弾じることを好んだ。日当たりのよい座敷の戸を開け放って、陽の光をいっぱいに浴びながら、屋敷の主人に言いつけて借り受けた三味線を爪弾き、朗々と詩を歌い上げる。
六月の灘声 猛雨の如し
香山の楼北 暢師の房
夜深け 起ちて闌干に凭りて立てば
耳に満つる潺湲 面に満つる涼……
女らしい、高く張りのある澄んだ声だ。
不死川には詩吟の機敏などわかりようもないが、美しいものを美しいと思う感性は持ち合わせている。
「見事なもんだ」
不死川が褒めると、椿は首を傾げて照れた。
「下手の横好きで。本調子でないのですが」
涼しげな白絣を纏って佇むその姿は到底、鬼を狩るとは思えぬ可憐な娘ぶりだった。この女はやはり詩でも吟じて楚々としているのが一番お似合いだ。
こうやって一緒にいると、育ちの違いというものを身に染みて痛感する。この世に鬼がなく、二人とも本来あるべき場所にあったならば、こうして道が交わることなど絶対なく、自分は女の屋敷に供する薪でも割っているのがせいぜいだと思った。
「なんで鬼殺隊にいる」
不死川は口を出す筋合いにないことは痛いほど理解していたが、それでも言わずにおれなかった。
「こんな無茶しなくても生きていけんだろうがよォ」
不死川にとって人の女とはか弱い、守ってやらねばならぬ生き物である。 かつて父に虐げられる母がそうであり、妹たちがそうであった。
男に守られ大切にされ、子供を産み育てるのが女の一等幸福な生き方というもの。良し悪しは別として、兎角そういった価値観に生きる男であった。
鬼殺隊にいる女というのはおしなべて鬼を殺すために己の命を捨てた連中である。不死川は彼女たちをことさらに手優しく遇したりはしなかった。彼女たちは同志であって、女ではない。そう扱うのが誠意であった。
椿のこともそのように思えれば良かったのだが、一度女として意識してしまうともうだめで、まっとうな生き方ではない、なぜこんなところで命をかけて戦っている、とそればかりが思い致された。
気を悪くするのではないかと思ったが、意外にも椿は鷹揚に微笑んでいた。
「それはね、不死川くん、こんな無茶をしないと生きていけないからですよ」
ぽろん、ぽろんと弦を爪弾きながら椿は答えた。
「あなた、鬼狩りなんてやめて、明日から田畑を耕して暮らしていけと言われたら、どんな気持ちになりますか」
椿は押し黙った不死川を穏やかに見つめた。
「私は人の不幸を哀れむのも、哀れまれるのも大嫌いです。ですからどうぞ、私の身の上を気の毒とは思わないでください」
私もあなたを気の毒とは思いません、と椿は続ける。
「……あなたの過去に何があったか、私は知りません。あなたも、私のことを知らないでしょう。ですが互いにいま、鬼殺の道を志してこうしてここにいる。相応の覚悟を持って。……それで十分ではありませんか」
それ以上語る言葉はないとばかりに、椿は再び三味線をかき鳴らして詩を吟じ始めた。
まとまった時間ともに過ごすと、上辺だけでない人となりも見えてこようものである。
椿がもとより美しいだけの女ではないことは承知していたが、それにしても腹の中に秘めた意志の強さ――すなわち鬼を殺すことへの執念を、あの山中での戦い以来、重ねて思い知らされることになった。
人のことを言えたものかよ、誰しも腹に一物二物抱えているものだ、こんな場所にいるならなおさら、と己を納得させようとするもうまく飲み込めない。
結局のところ、不死川は女の身の回りの卑近な現実から目を背けて、多少、実像を美化していたきらいがあったのだ。だから女の美しさの中に、節くれだっていびつになった剣士の手を並び立てるのを失念していた。
椿はいまだを床を離れて刀を握ることは許されなかったが、此度の戦いで日輪刀が毀損してしまったので、新しい刀が運ばれてくる手はずになっていた。
その日、不死川は身体の回復訓練に移っていた。庭に打ち込み台を用意させて、木刀で振りかかるのを何度も繰り返す。
「椿さんは、刀を打ち直すのは初めてですね」
若い男の声がする。刀鍛冶のこの男、明るい調子だが、どこか軽薄さを感じさせる声をしていた。雨戸を開け放していたので、居室からこちらまで会話が漏れ聞こえてくるのである。不死川は鬼と戦う中で研ぎ澄まされた己の耳の良さを呪った。
「里長様の打たれた刀、使いやすく、折れず、曲がらず、本当に良い剣でございました。今回も長様が?」
「はい。里長がお会いできず、残念がっていました。是非面識を得てみたいものだと」
あの男、とうに用件は済んだのになぜ出ていかない。刀を持ってくることだけがお前の仕事ではないのか。不死川は打ち込み台に散々に打撃を加えながらそう思った。
「お世話になりましたのに、こちらが出向けずに申し訳ない」
「いえ、怪我をされているのですから……しかし、里長がお会いしたいといったのも納得です。お話に聞いてきたよりもずっと美しい」
「まあ、お上手な方」
「お世辞ではありません。あなたのように美しい人にお会いするのは初めてだ」
不死川の強撃で、打ち込み台がばきん、と凄まじい音を立てて壊れた。
和気藹々としていた会話が、ぴたりと止んだ。
不死川は役立たずになった打ち込み台を捨て置いて、縁側を上がり障子を開ける。椿と刀鍛冶の男が、日輪刀を挟んで相対していた。距離が近い。知らず知らずのうちに、木刀を握った手に力が篭った。
ひょっとこ面で男の表情は伺えなかったが、全身から恐怖を発散して縮こまっていた。その怯えように、不死川が自分がいまどんな表情をしているのか察した。
「用は済んだろうが、とっとと帰れェ」
はい、と言ったのかは知らないが、蛙が潰れたような声を上げて刀鍛冶の男は退散した。
椿ははじめ少し驚いている風だったが、今は常の平静な眼差しで不死川を見つめていた。
「手前も浮ついてねェで、さっさと復帰の目処を立てろ」
「不死川くん」
不死川は椿に背を向け、鍛錬を再開するべくその場を離れた。
己が愚かなことをしている自覚はあった。
今思えば、一線を引いて、大勢の仲間の内の一人として遇されていたときが、どれだけ楽だったか知れない。
一緒にいると愛着が湧いてしまうし、好意を持たれているかのような錯覚まで抱いてしまう。椿はたいがい誰にでも親切な女だ。一体何を勘違いしているのだ。
己の心が思い通りにならない苦しさに心臓が痛む。肋骨すべてがことごとく折れたほうがましだと思った。
それからまた数日が過ぎ、ようやく不死川に現場復帰の許可が下りた。異様に長く感じられた十数日間であった。不死川はいまは戦いに行けることが嬉しかった。
出立に備えて、早めに灯りを暗くして布団に入る。
土砂降りの雨が屋根瓦を打ちつける音が聞こえる。ひどい天気だ。外は嵐で、時折、雨戸が風に煽られてがたがたと鳴った。
布団に入ってうとうととしていると、ふと人の気配を間近に感じて意識が一気に覚醒する。薄暗がりに目を凝らすと、薄襦袢を纏った椿がすぐそばに座っていた。風呂から上がって間もなくここにやってきたのか、髪がまだ湿っている。
「……おい、部屋、間違えてんぞォ」
「間違えてはおりません」
これほど近くに人がいるのに今の今まで気付かなかった体たらく。鬼狩りにあるまじき腑抜けぶり。しかし、不死川は己の至らなさを責めるよりも先に女の姿に目を奪われた。初めて彼女を目にした時の、天女のような美しさが思い返される出で立ちであった。
「帰れ」
不死川は断固とした声で言った。
「帰りません。今夜はここで休みます」
「ふざけんな」
「嬉しくないですか?」
嬉しいも何もあるか。不死川は狼狽えた。こんなことをされる覚えがなかった。
「あんな世辞に嫉妬するくらい、私のこと、好きなくせに」
その一言で、のぼせ上がった脳みそがすっと冷えた。
「匡近か」
「いえ、毎度、声をかけるたびに首まで真っ赤にされていたら、さすがにわかりますが……」
不死川は頭を抱えた。穴があったらそこに入って、舌を噛み切って死にたい。
「いいから戻れ、送ってやるから」
遠くで雷が落ちる音がした。椿は瞬き一つしない。
「女一人が恥を忍んで夜這って参りましたのに、つれないことをおっしゃる」
「意味わかってんのか」
「私、あなたが思うほど世間知らずではありません」
「世間知らずだ。武家華族の裔だろうが。女郎の真似事なんざしてんじゃねェ」
「女郎で結構。大体、きょうび旧い血など、大抵弱く病み細くなっているものです。世間で言われるほど大層なものではありません」
「育ちが違うつってんだよ」
「だから?私はあなたが好きです。それではいけませんか」
あまりに率直な物言いに、顔面を強かに叩かれたような衝撃を受ける。しばし硬直した後、不死川は「思い違いだ」と吐き捨てた。
「私を愛さない理由ばかり見つけるのがお上手ね」
椿は不死川の上に覆いかぶさってすうっと顔を近づけた。首元にほのかな吐息を感じる。気が狂いそうだ。
「いいから俺の前から消えろォ。そんで鬼狩りなんぞとっととやめて、鬼のいねえところで暮らしてくれ、後生だ」
「この期に及んでまだそんなことをおっしゃいますか」
今度は椿の眼差しが冷える番だった。
「惚れた女に目の前で死なれかけてそう思うのがおかしいかよ、ああクソッ」
最早取り繕いようもなかった。不死川は断末魔でも上げるようにして声を絞り出した。
「なんで俺なんだよ、もっとまともな男がいんだろうよ……」
悄然とした不死川の姿になにを思ったか、椿は帯を解き薄襦袢を脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ玉の肌をさらけ出した。
不死川はいよいよ気が遠くなった。
「ねえ、見てください。私の身体」
椿は両手でぐっと頭を挟んで、不死川が己から目を逸らすのを許さなかった。
先頃負ったばかりの腹の傷が目を引いた。傷口はすでに塞がっていたが、青黒く引きつった痕になっている。よくよく見れば、瀬戸物のような白い身体のいたるところに、うっすらと戦傷が残っていた。胸や尻は女人らしく柔らかい線を描いているものの、全身に過不足ない筋肉が乗ったその身体つきは、やはり常人の女のものではありえない。
「まともな男と一緒になどなれませんよ、今更」
ただの思い違いかもしれない。だが、椿はほんの少し、ほんの少しだけ悲しそうに見えた。
それが不死川の心を動かした。
不死川は恐る恐る女に触れた。傷口に障りがないよう、そっと腰に手を伸ばす。
「痛まねえか」
「はい、ほんの少しも」
「……後悔すんぞォ」
「しませんよ。可愛いお方」
椿は不死川の首に手を回して、顔面に走るいかにも恐ろしげな裂けた傷痕に愛おしげに唇を落とした。
その仕草にたまらなくなって、不死川は自分よりもずっと細い身体を大切にかき抱いた。