他人の心などわかろうと思ってわかるものではない。
明くる未明の不死川の様子を見て、ああ失敗した、と椿は思った。
己の貞操など、もとよりちり紙一枚の価値も見出していなかったから、その点についてはひとかけらの後悔もなかった。
椿は純粋に己の心に従ったのであるし、本当に、こうすれば不死川は嬉しいだろう、と思っただけなのだ。実に小娘らしい無邪気さ、浅はかさだった。
強いて言うなら、不死川がまるで貴重な真珠か玻璃のごとく己を扱うので、それが癪に触った、というのはあった。自分が肉の器を持った、色も欲もあるただの女であると見せつけてやりたかった。しかし、不死川は思った以上に頑なな男だった。
「責任は取る」
ことが終わって真先に不死川の口から出たのがそれだった。一時の情に流されて椿に手を出してしまったのを悔いているのがよく伝わる。椿は彼があまりにも気負いすぎていたので、かえって不憫になった。
「どうか何もお気に悩まないでください」
出来る限り平静に、優しく聞こえるように椿は言った。
「私が好きでしたことですから。責任など取っていただかなくても結構です」
しかし、自分の声が存外冷たく響いたので、それでまた失敗したと思った。
椿は枕元に用意してあった隊服と羽織を着るのを手伝ってやった。不死川はされるがままで、一言も口を利かない。
嵐の夜は明けた。早朝の澄んだ空気を静寂が満たしている。次に来る夜のために、彼はもう行かなくてはならない。
「武運長久をお祈りします」
椿は、不死川を恐ろしいと感じたことは一度もなかった。みなが恐ろしがる見目も椿の眼にはむしろ可愛げに映る。これは嘘でも虚勢でもなく、本当に可愛いのである。
何より彼には、抗い難いこの世の不条理そのものに対して怒っているようなところがあって、それもまた好ましかった。目に見えないものへの怒りを保ち続けるというのは、それだけで結構なエネルギーを必要とすることで、容易いことのように思われても、実際には並大抵で出来ることではないのだ。
不死川の出立を見送った後、椿は襦袢を引っ掛けただけの裸同然の格好で、布団の上に寝転がりだらんと手足を放り出した。
彼に己と同じ孤独さを見出していた。
でも、少なくとも彼には家族がいるのだ。彼には守りたい大切な人がいるんだ。彼の孤独を癒せる人は別にいる。
自分とは違う。私たちは違う。
私では彼を幸せにできない。
そのことに気付いてしまうと、椿はもう涙を押し留めることができなくなった。布団に顔を押し付けて涙を吸い込ませながら、椿はひとり声を殺して泣いた。自分がどうしてこんなにも悲しいのかわかりもしないのに、いっこうに涙が止まらないのは滑稽だとさえ思った。
日は過ぎて、椿も間も無く戦線に復帰した。川沿いの町で、三人がかりで鬼に苦戦しているので、急ぎ向えという。
椿が到着すると、仲間が足を掴まれて宙吊りにされている。椿はやすやすと仲間を掴んでいた鬼の腕を切り落とした。「この女、よくも俺の腕を」と吠える鬼に取り合わず、椿は流れるような動きで水の呼吸の肆ノ型で敵を仕留めた。この間やりあった鬼に比べれればいかにもとろとろとしていて鈍かった。
椿は己の刃が鈍っていなくてほっとした。新しい日輪刀は前のものと寸分違わぬどころかそれを上回る出来栄えで、どうやら椿の癖を折込んだ調整が加えられているらしい。やはり里長には一度礼に伺わねばならぬと改めて思った。
「あのさ、椿ちゃん」
「はい」
恐る恐るという風で、村田が話しかけた。鬼に捕まっていた隊員は村田で、椿は地面にのびていた彼を助け起こして傷を診てやっていた。
「怒ってる?なんか怖いよ」
椿は包帯を巻く手元から目を離さずにそれを聞いた。村田は普段と様子の違う妹弟子を心配して言ったのだ。そうか自分はいま怒っているように見えるのかと、椿は人ごとのように思った。
「お前助けてもらったのに、なんだその言い草は」
「村田さん、椿さんが来なかったら死んでましたよ」
二人の隊員が呆れたように言った。
「そこは感謝してるよ!」
村田が言い返したので、椿もふっと笑った。
「そうですね。あんな雑魚鬼に苦戦するなんて、とは思わないでもありません」
「や、やっぱりそうだよな、俺兄弟子なのに不甲斐なくてごめんな……」
しゅんと落ち込んだその様子に、椿の胸が痛んだ。何もそこまで真剣に言ったわけではなかった。
村田の傷の状態は深刻ではなかったが、自力で歩けるほどのものではないし、他の二人も余力があるわけではない。自分が運んだ方が隠に任せるよりも早いと椿は判断した。
「医者のところまで送りましょう。村田さん、どうぞこちらに」
村田は椿に背負われると、ごめんごめんと肩身狭そうに謝るのを繰り返した。
「お二人共、疲れておいででしょう。後からゆっくりいらっしゃい」
それだけ言い残して、椿はさっさと医者のところに走って行った。二人ともついて行こうとしたが追いつけず、人一人背負って自分たちより速いとはどういうことだと目を白黒した。
椿は村田を背負って走りながら、男と女の仲間同士の適切な心の距離間とはこういうものだと思った。現に村田とこうやって密着していても、別になんとも思わないし、村田もなんとも思っていない。
とすれば、不死川とのそれはとっくに仲間同士のそれを逸脱している。何も身体的なことを言っているのでなく、心理的な距離のことである。
なおも村田が申し訳なさそうにしているので、椿は口を開いた。
「あの、村田さんに対して怒ってるわけではないんです。ごめんなさい、気を使わせてしまって」
すべては個人的な事柄に心を乱されている自分に問題がある。村田が居心地悪気にする道理はなかった。
「そうなのか。いや、俺はてっきり……」
村田はそれ以上は口を噤んで、何も言わなかった。
「……でも、ご無事でなによりでした、本当に」
とはいえ、肝が冷えたのは真実だ。椿の脳裏に、かつて最終選別で助けられなかった友人の姿が思い浮かんだ。あの時の自分のままなら、きっと村田を救うことはできなかった。まだ未熟だが、自分は強くなっているのだ。
「落ち着いたら先生のお墓参りに行こうよ」
「そうですね」
二人の恩師は今春に病を得てこの世を去った。もう大分高齢で、穏やかな最期を迎えたと聞くから、悲しくはなかった。それでも、今まで季節の変わり目に時折届いていた弟子を気遣う手紙が来なくなってしまったのは、やはり寂しかった。
村田を医者に送り届けて、人心地着こうと半日かけて家に帰ってみると、気の滅入るような光景が待ち構えていた。良くないことは続くものである。
住まいにしていた庵は鎮守の森に近くて、侘しい趣だったが、それがかえって風情に感じられて椿は気に入っていた。なにより訓練場が森の中にあって、すぐに行けるのがいい。
ところが、先日の台風の仕業で、藁屋根が半分吹き飛んで、家の中は風雨に晒されてめちゃくちゃになっていた。最近、帰る機会がなかったから、女中に暇を出していたのが仇だった。すぐに人を呼んで修復できれば良かったのだが、すでに日にちが過ぎて、床も壁もやりかえなければとても人の住める状態にならないだろう。
椿は心情的に疲れ果てていたが、それでも何もしないわけにはいかない。紙と筆を取り出して、カナエに宛てて、こういう事情だから、しばらく間借りさせてくれと書いた。文を烏に託して送ると、すぐに歓迎すると返事が返ってきた。それで、最低限の身の回りの家財道具だけ持ち出して蝶屋敷に向かった。
「いらっしゃい。大変だったわねえ」
屋敷に着くと、カナエが笑顔で出迎えてくれた。椿はようやく張り詰めていた肩の力が抜けた。
「突然ごめんなさい、忙しいのに」
「いいのよ。そんなことよりも」
畳の上で荷解きを手伝いながら、カナエは顔を近付けて、椿の耳元で囁くように言った。初めからこれが言いたくてたまらなかったらしい。
「不死川くんとはうまくいったの?」
まずどこまで知っている、というのと、相手の名前まで教えていないがどこで聞いた、というのとで、椿の思考はぐるぐる回った。
椿が二の句を継げずにいると、どたどたと廊下を走る音が聞こえてきた。二人で何事かと顔を上げるのと同時に襖が開く。そこに息を切らしたしのぶが立っていた。任務が終わった後、そのままやってきたのか、日輪刀を手に携えたままで、その迫力たるや、気の弱い鬼などはそれだけで逃げ出してしまいそうだった。
「私がいなくなった後、何があったの」
「何って……何が?」
しのぶの剣幕に押されて、椿がたじろいで答えた。
「どうか知らないふりはしないでね。あなたと不死川さんが……」
しのぶは死ぬほど歯切れが悪く、これ以上のことは言いたくも信じたくもなさそうだった。
椿は遠くに烏の鳴き声を聞いて、ああなるほど、鎹烏の噂話かと思い当たった。彼らは噂話が大好きで、しかもこれがまた正確なのだ。そうでなければ彼らの仕事は務まらないのである。
「本当に他人の色恋沙汰ほど世間の関心を引くものはないのねえ」
椿はしみじみとそう思って言った。
「そんな、他人事みたいに言わないで!あなたのことなのよ!」
しのぶが「やはり一度骨を折っておくべきだった」などと物騒を言い出したので、椿はこれは真実を伝えておく必要があると思った。しかし、友人の噂事でこの有様なのだから、これはカナエが嫁に行く時は大変だなあと思った。よっぽど強い男に娶ってもらわないと、しのぶが人殺しになってしまう。
「ね、やめてちょうだい。だって、私が悪いのよ。私が彼の寝込みを襲ったんだから」
椿の衝撃発言で、さしものカナエも笑顔のまま黙り込んだ。しのぶの手からは日輪刀がすべり落ちた。
「ど、どうしてそんなことに?」
「なんだかあの方が可愛くなってしまって」
「可愛い」
しのぶが力なく繰り返した。不死川と可愛いという単語がどうやっても結びつかない。
「好きな人ができるとね、どんなことでも愛おしくなるのよ」
カナエがどうどうとしのぶを諫めた。
「原因がどうであれ、当然、責任は取ってもらわないと――つまり、結婚という話だけど」
意図的に考えないようにしていた言葉を口に出されて、椿は気が重くなった。
「……私がいいと思ったからいいのよ」
大体ことの原因は椿にあるのだから、被害者面をして、責任をとって結婚してください、などというのはおかしい。
「でも男女が一夜を共にしたんでしょ。本来順番があべこべだと思うけど」
「あの日から会ってもないもの」
「文のやりとりもなし?」
椿が頷くと、カナエが口を挟んだ。
「だめよ、それは。直に会えないのなら、ちゃんと思いを伝え合わないと」
カナエは彼女らしい純真さでそう言った。椿は生憎あなたが想像しているような関係ではないのだ、と言うべきか考えあぐねた。
「彼にはかわいそうなことをしてしまったわ」
「どうして?」
「だって、本当に、責任なんて感じる必要ないのに」
椿は折りたたんだ膝の上でぎゅっと拳を握った。
「私、彼のことを好きだと思ったの。でも今は、あの人のことを考えると、なんだか苦しい……」
もはや椿は、不死川は自分の中の幻を好きになっているとさえ思った。身分だとかなんだか面倒なことばかり気にしているし。
「椿、あなた、本当に恋をしているのね」
カナエの声にはいっそ感嘆の響きすらあったが、果たしてそうなんだろうか。椿は途方にくれた。ありがたいことに、カナエもしのぶもそれ以上、椿にもの言うことはなかった。
椿は、かつては年頃になれば、父の連れてきた男と結婚するのだと漠然と信じていた。椿にとって本来、結婚というのは、個人のものではなく、家と家が結びつくためのものに他ならない。しかしその父は今は亡く、椿は家を捨てた身だ。父母の身内とはとうに縁を切っていた。だから、椿が誰と結婚しようが自由は自由である。庶民と同じように、恋をして二人だけで一緒になると決めて、咎め立てするものはいない。
鬼殺隊に身を置くものは、おそらくその職分のためであろうが、色恋に対して率直な者が多い。椿も、もはや己は型通りの結婚など望みようのない身だと見なしていたから、貞操を守ることに価値を見出さなかったし、人を好きになることにも躊躇いはなかった。今まで求められて人と関係を持ったことがなかったのは、ただ良いと思える人がいなかっただけだ。
しかし、結婚となると話が違ってくる。不死川だって、いくら椿のことが好きでも、嫁にもらうとなれば話は別だろう。彼の申し出を撥ねた身でこんなことを望むのは理不尽であるとわかっていたが、あの後何一つ音沙汰ないのがその証ではないのか。
椿はつとめてそう考えるようにして、不死川のことは終わったことと割り切ろうとした。
しばらく任務も入らず、蝶屋敷で怪我人を診るのを手伝ったり、花柱の継子やカナヲに稽古をつけてやったりで、数日のうちはそんな調子で平穏にしていた。
しかし、どうも気が晴れない。椿は冨岡が任務から帰ってきたことを知って、これ幸いとそちらに向かった。冨岡はちょうど馴染みの定食屋から出てくるところだった。
「冨岡さん、いまお時間よろしいですか」
冨岡は「ああ」と頷いて、互いに用件を言うこともなく、共に竹林に面した訓練場に向かった。冨岡を訪ねる椿の用事は一つしかない。すなわち鍛錬である。
椿は冨岡と知り合ってそこそこの年月が経つが、未だに彼の考えることはよくわからない。
椿が訪ねていくと、任務が入っていない限りはまず間違いなく稽古に付き合ってくれる。かといって正式な師弟というわけでもない。冨岡が承知していないからだ。
しかし冨岡にとってどうであれ、椿にとって彼は良い師だった。彼の指南は常に簡潔で、いちいち的を得ている。ただあまりにも言葉を飾らないし、挑発的に聞こえるので、へたな相手では諍いの種になると思っている。
冨岡は無口で、その雰囲気もあいまって近寄り難いので、隊の中に特に親しく付き合うものがいるとも聞かない。こんなふうに定期的に彼を訪れるのはその剣の強さに惚れた椿くらいだったが、その椿も冨岡の個人的な生活ぶりにはとんと興味が湧かなかった。冨岡は良く言えば朴訥とした男、悪く言えば唐変木で、一緒にいて楽しいとはとても言えなかった。
稽古が始まると、たちまち他のことを考える余裕がなくなった。気を抜けば速攻で意識を落とされる。椿は二度も続けて足に強打を食らって、思わず膝をついた。
「非力のくせに力に頼りすぎるな」
鋭い叱責が飛ぶ。椿は素早く体勢を立て直して、冨岡に向き直った。
椿の力の強さは中途半端で、女としては相当だったが、男の強いのと比べるとさほどでもない。筋力に任せることを覚えてしまうと、そちらの方が楽なのでつい頼りがちになってしまう。これではいけない。いたずらに力を振るうことは水の呼吸の真髄に反している。
浅く踏み込んだ撹乱を繰り返す。そこで生まれたほんの一瞬の隙を狙った一突きが冨岡の左腕を掠める。立て続けに放った剣撃に対応するために振り抜かれた冨岡の木刀が、椿の顔をまともに殴打した。椿の鼻先から、たらたらと血が流れた。
椿はこんな程度で稽古をやめる気はなかったが、冨岡がおろおろとしていたので、一旦木刀を構えるのを中断して「何か拭くものを」と頼んだ。冨岡は慌てて手拭を持ってきて渡してくれた。
「大丈夫か」
「はい」
血はすぐに止まった。椿はむしろ一瞬でも冨岡に本気を出させたのが嬉しかった。冨岡は普段、椿の顔を狙わない。
「お前は自分が柱になると、考えたことがあるか」
冨岡が珍しく自分から話を振るので、椿は少し戸惑いながら答えた。
「柱に?いいえ……」
「考えておけ」
突然柱などと言い出すので、もしやお館様から声がかかったのだろうか、と椿は思った。冨岡もいい加減、柱になるのも時間の問題だ。それだけの実積を積んでいる。気安く稽古に付き合ってもらえるのも残り僅かかもしれない。
「いま九人いる柱に、水柱は不在だ。……誰かが継がねばならない。お前なら、いずれその任に耐えられる日がくる」
水の呼吸一派として、誰かが水の柱を継がねばならぬという、その気持ちはよく理解できる。しかし冨岡がそのような考えでいるとは知らなかった。普段あれほど人と交わらない冨岡がと、椿は少々胸に来るものがあった。
「冨岡さんにそのように評価していただけるのは光栄ですが、私より適任な方が先にいらっしゃると思います」
それである。椿が柱の控えとなるにしても、それは冨岡の後だ。十二鬼月でもない相手に死にかけているいまの時点では、椿は柱を語るにほど遠い。柱ならば、あの程度の敵は一閃のもとに討ちとらねばならぬ。
だが、冨岡は椿の言に首を傾げた。
「……そんな者がいたか?」
「……」
なぜ自分を勘定に入れていない。一体どこから説明すべきか迷ったあげく、椿は考えるのをやめた。
椿は冨岡のことが仲間として好きで、尊敬もしていたが、時折この人はちょっと変なんじゃないか、と思うことがあった。今がちょうどその時だった。
そんなことを話していると、冨岡が椿の肩越しにじっと何かを見ているのに気づいた。椿はつられて、視線を追って後ろを振り向いた。
冨岡の視線の先、竹林のすぐそばに、不死川実弥が立っていた。
この作品は人命救済モノではないので、原作中で死ぬ人はみんな死にます。