午前七時。神楽堂の石段に腰を下ろして握り飯を喰いながら、不死川は昨晩から何度めかもわからぬため息を吐いた。
「あいつ、今日入って何回め?」
「知らん。十回過ぎてから数えてない」
ただでさえ気が重いのに、同僚にひそひそと後ろ指を差される始末。不死川は最後の一口を咀嚼して飲み込むと、立ち上がって同僚の方を睨み付けた。二人は不死川の眼力に恐れをなしてびくびくしだした。
「行くぞォ。赤鳥居で落ち合って、後の連中に引き継ぐ」
築地で夜な夜な人が消えるという。日夜情報収集のため虱潰しにあちこちに足を運んで探索するものの、これといった成果は上がらなかった。鬼の存在の確証も得られないまま時間だけが過ぎ、とうとう別の部隊と交代せよと指示が下った。歯痒い気分だった。ここは不死川の生まれ育った場所に近い。この手でカタを付けたい気持ちはいっそう強かった。
これは不死川の勘でしかなかったが、この界隈のどこかに鬼が巣食っていることには間違いがない。尻尾を掴ませないのは、鬼が強力で知恵が回る証拠だ。強い鬼ほど巧妙に人の社会に溶け込み、鬼狩りの目から隠れ人の血肉を啜っている。杳として所在のしれぬ鬼の首領や上弦の鬼共がその典型と言えよう。だからこそ、ここで一度退かされるのが余計に腹立たしかった。
だが、指令に背くことはできない。交代で来る部隊を指揮するのは柱である。すでに一般隊士としては最上位の身分に上り詰めていた不死川であっても逆らうことのできない相手だった。
早く柱になりたい、と思った。今より出来ることが増える。もっと多くの鬼を殺せる。ゆえに不死川は柱になりたかった。
このような次第で、任務が終わることとなると、忙しさにかまけて目を背け続けていた目下最大の難事が不死川の肩に降りてきた。それは他愛のない、ありふれた男と女のあだ事にまつわる話だったが、これが大問題だった。なんせ当事者である。逃れようがなかった。
不死川の俗識によると、一時の情に流されて嫁入り前の娘に手を出すなぞ畜生の沙汰である。ことの発端が発端なので、尋常の男ならとんだあばずれ、淫売に捕まったと全部女のせいにしてさっさと吹っ切れたかもしれないが、生憎、不死川には妙に昔気質というか律儀なところがあった。女に手を上げる父親の姿を見て育ち、ああはなるまい、と決め込んでいたからかもしれない。そもそもが、椿は不死川にとって、とてもそんな風に割り切ることのできない相手だった。
彼女の人生に入り込んではいけないと思って、一線を引き続けていたのに、何もかも台なしにしてしまった。言い逃れはしない。全部自分が悪い。
こうなれば責任を取るしかやりようがないが、責任と言ったって、貞操に値段は付けられない。そんなものに値段が付くのは商売女だけである。となれば、腹を括って夫と婦になるしかあるまい。無論、自分など到底、彼女に相応しい男とは思わなかったが、どうにか努力してみせる。
不死川は椿が自分の家で、飯を炊いて、風呂を沸かして、自分が帰ってくるのを待っているのを想像しようとした。しかし、想像するだけで心臓が跳ね上がる。どうにもならない。しかしやらねばならぬ。
そう決心したのに、夜が明けた椿はあっけらかんとして冷淡だった。互いに好きだと確認しあって事に及んだのだから、まさか拒まれないだろうと思っていたのに、椿は手をぴしゃりと払うがごとく不死川の申し出を退けたのだった。
女が何を考えているのかさっぱりわからない。つれない女の態度とどう向き合えば良いのか答えも出ず、それきり二人の間に音信はない。ため息も多くなろうものである。
引き継ぎを終えて本拠に帰還すると、不死川は真っ先に鬼殺隊所有の道場に向かった。そこにいる誰かを捕まえて、木刀でも振るえば、多少なりともこの不完全燃焼も発散できるだろう。
道場では、隅の方で見知った顔の隊士たちがわらわらと集まっていた。彼らは不死川が入ってくるや否や、一斉にこちらに顔を向けた。何事かと思う間もなく、隊士たちがこちらに寄ってきて、不死川を囲んだ。全員なんだか、妙に生優しい眼差しをしていたのが気持ち悪かった。
「不死川、おめでとう」
「ああ?何がだァ」
祝福されるのに心当たりがなく、不死川は首を捻った。
「鎹烏が噂していたぞ。君と椿、藤の家紋の家で共寝したんだろ」
この辺りを飛んでる烏どもは残らずとっ捕まえて焼き鳥にしてやらねばならぬ。不死川は決心した。
「良かったな。前から好きだったんだろ、彼女のこと」
「不死川も普通の男なんだな。安心した」
「いまいち絡み辛かったからな、お前」
「もうちょっと嬉しそうにしろよ」
とりあえずこいつらは殺す。私闘厳禁も何もあるものか。
「てめえら黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがってよォ……」
不死川がゆらりと木刀を構える。木刀は力いっぱい握られてみしみしと音を立てた。
「えっ嘘、やんの?」
「恥ずかしがり屋かよ」
不死川をおもちゃに出来て楽しそうだった隊士たちだが、憤怒の形相の不死川にまるでかなわず、ものの見事に木刀でのされることになった。全員を床に這いつくばらせて、不死川は多少、気が晴れた。悪い連中ではないことは知っていたが、揃いも揃って男所帯の無神経が身に染みついていた。
たんこぶだらけになった隊士の一人が「そんなに怒ることないじゃん」と不服そうに言い募った。懲りない奴だ。
「うるせえ。女の不名誉を言いまわってんじゃねえ」
すると、床でのびていた隊士たちが復活して、聞いてもないのに口々に喚いた。
「不死川はアタマ硬いな」
「俺らいつ死ぬかもわからんのだぜ」
「そうそう、やれることはやっとくべきだ。向こうもそう思ってるって」
「羨ましいな」
「羨ましい。頼む爆発してくれ不死川」
「おう、もう一度はっ倒すぞ」
ドスの効いた声で凄むと、隊士たちは言いたいことは言ったとばかりに立ち上がって、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。最早追う気力もなかった。だが、烏は焼く。
外に出ると、灰色の雲が空を覆い地平の向こうに落ちている。悪天候のせいか、まさか不死川の殺気を感知したわけでもあるまいが、普段うるさく飛び回っている鎹烏は一羽も見当たらなかった。むしゃくしゃした気持ちを抱えて不死川は住まいに帰った。
帰ると、粂野が板の間に正座して不死川を待っていた。ただならぬ様子に背筋が張り詰める。粂野は静かな口調で言った。
「何があったんだ?俺は噂ではなく、お前から話が聞きたい」
清い瞳で見据えられると、とても口を閉ざしておくことはできなかった。どの道、黙っておくという選択肢はない。不死川は洗いざらいを打ち明けた。
「殴れよ、妹分に手ェ出したんだぜ」
不死川が言った。粂野の方が椿とはずっと付き合いが長い。
「言っておくけど、このことでお前を糾弾するような、そんな資格は俺にはないよ」
粂野は苦笑した。
「いいか、俺は椿を知っている。椿は嫌なものは嫌、好きなものは好きではっきりした性格だし、一度こうと決めればなんとしてでもやり遂げようとする、そういう女性だ」
まったく粂野の言う通りだった。山中の戦いで、鬼の前に躊躇もせず身を投げ出した女は、一度鬼を殺すと決めれば己の命を引き換えにしてでもそれを達成しようとする、骨の髄まで鬼殺に染まった剣士だった。自分や他の隊士たちと同じに。
「だから、椿がお前に好き、と言ったんなら、それは疑っちゃいけないと思うよ」
粂野は真っ直ぐに不死川を見つめた。
「なあ、彼女を娶りたいのは、責任を取りたいだけか?」
「違う」
不死川は簡潔に即答した。一線を引いていられる時期はとうに過ぎてしまった。彼女の幸福を祈るだけで満ちて足りていた自分はどこへやら、今は女のすべてを我がものとして囲ってしまいたいという醜い我欲と向き合わねばならなかった。誰ぞ知らぬ男と一緒になるなどと思うと、そいつを叩っ斬ってしまいたい。
粂野はようやく表情を緩めた。
「良かった。この期に及んで腰が引けているようなら、その時はお前を殴らなければいけなかった」
「だがよォ匡近、俺はもう見限られた身だぜ」
「一度振られたくらいで諦めてはだめだ。その昔、深草少将という貴族の男が、愛情の証として、好いた女のもとに百夜続けて欠かさずに通おうとしたんだ。嵐の日も雪の日もだ。そのくらいしなければ、男の愛情なんて女に響かないということだな」
「そんで、その男はどうなった」
「九十九日目の夜、疲れと寒さが祟って死んでしまった……」
「……」
不死川は胡乱な眼差しで粂野を見つめた。
「大丈夫大丈夫!実弥は疲労で死ぬほどヤワじゃないから!」
お前ならなんとかなる!と肩をばしばし叩かれて、不死川は、そういえばこの友人はそもそも楽天的な気質だったことを思い出した。
椿は花柱のところに世話になっているらしいぞ、と粂野に勢い良く送り出された。今から話に行けとは急な話だが、このまま放置して解決する問題でもない。むしろ任務が明けて、丁度良い頃合いだった。
蝶屋敷を訪ねていくと、庭で看護師姿の少女が二人、忙しなく洗濯物を取り入れている。少女たちに声をかけようとすると、彼女らは不死川の風体を目にするや否や、怖気付いて固まったまま、貝のように口を閉じた。
これはだめだと思ったが、こんなところで挫けている場合ではない。身をかがめ、片膝を着いて少女たちに目線を合わせてやり「おい、椿がどこにいるか知らねえか」と聞いた。かつて妹たちにしていたほど優しい振る舞いではなかったかもしれないが、その片鱗が今の不死川の態度には残っていた。それで少女たちは、見た目は怖いけれども、そんなに悪い人ではないのかもしれない、と思った。なので、聞かれたことに答えることにした。
「少し前に、冨岡さんのところに行くって出て行きましたから、訓練場にいると思います」
いつも竹林の近くにある訓練場で手合わせしているので、ともう一人の少女が続けた。
「冨岡」
聞き覚えがある。隊士たちとの会話の中で耳にしたことのある名だ。滅法強くて、次代の柱は間違いないと目されるが、近寄り難くとっつきにくい男であるという話だった。ただ、不死川も人のことを言えた身ではないので、その時は深くは思い致さなかった。ちなみに、当人らは預かり知らぬことだったが、この二人の評判はよく似通っていた。
竹林の方へと向かうと、少女たちに言われた通り二人を見つけることができた。
向かい合う二人は木刀を携え、椿に至っては片手に血まみれの手拭などを持っている。到底、男女の逢瀬のごとき甘い雰囲気ではない。隊士同士の手合わせでしかないことは明白だが、だからと言って面白いわけではなかった。冨岡は女に好かれそうな、整った顔立ちの若い男だった。なおさらである。
「椿、いいかァ」
不死川に声をかけられて、おや、と意外そうに椿の眉が動いた。
「何ぞご用でしょうか」
柔らかい物言いの中に、これまでに感じたことのないよそよそしさが滲み出ていた。胸が軋むような心地だったが、自業自得だったので、不死川は甘んじて受け入れた。
「先日のことでしたら、犬に噛まれたとでも思って、どうかお忘れください」
「犬に噛まれたのか……」
なぜか冨岡が口を挟んできた。かわいそうな男だとでも言いたげな同情を含んだ眼差しを向けられる。見当違いの同情に、不死川の短気が爆発しそうになった。
「なんだァ?てめェは」
「お前こそなんだ。見ての通り、彼女は今俺と手合わせをしている。用があるなら、終わった後にしろ」
冨岡の言は火に油を注ぐがごとしで、見るからに業腹の男に向かって言うことではない。しかし、怒れる不死川にまったく怯まないあたり、冨岡はなるほど強者であった。
「不死川くん、そういうことですから――」と椿が言いかけると、冨岡が「不死川?」と目を瞬かせた。
「そうか。お前が椿の背の君か」
「は?」
「え?」
椿も不死川も揃って、冨岡の突拍子もない台詞に、口の中で短く声を上げた。背の君とはやたらと奥ゆかしい古風な言い回しであるが、ようは夫とか旦那とかを指す言葉である。共寝話からかけ離れているわけではないが、明らかに話題が飛躍している。
「冨岡さん、一体どこでそんな話を仕入れてきたんですか」
椿が呆れた風に言った。
「俺の烏がそう言っていたが。違うのか」
どこかで噂がねじ曲がっているが、この男の鎹烏は大丈夫か。そしてそれを間に受けているこの男も大丈夫なのか。
「まだ亭主にゃなってねえよ」
「まだ、ということは予定はあるのか」
「てめえにゃ関係ねえだろォ。引っ込んでろ」
「椿は不服はそうだ」
「だからこれから口説くんだろうが。邪魔すんな」
怒りのために普段の調子を取り戻していたせいで、舌先の回りが良かった。そのせいでなにやらとんでもないことを口走った気がする。
「椿、どうする」
冨岡は椿に向かって聞いた。椿は二人の言い合いに耳を傾けて、しばらくじいと黙っていたが、冨岡に問われて口を開いた。
「……口説いてくださるんですね?」
椿が不死川に連れていかれるのを了承したので、冨岡は物分かりよく去っていった。別れ際に何か言われると思ったが、視線一つこちらに寄越さ無いので拍子抜けだった。これ以上会話を交わしたいとは思わなかった不死川としてはありがたいことだった。物言いのいちいちが癪に触る男だった。
冨岡の姿が見えなくなると、竹林の向こうから烏が一羽飛んできて、椿の肩に止まった。鎹烏は女主人の頬に擦り寄って甘えたが、不死川の捕食者の視線を受けて震え出した。
「睨んでも仕方ないでしょう」
「このクソガラス共、人のことを散々面白おかしく噂にしやがって」
「みんな楽しい話題に飢えているんですよ。罪のない巷談くらい、許して差し上げたら」
確かに、普段大抵不吉な話題を運んでくる鎹烏のことだから、たまの明るい話題にみなが飛び付きたがる気持ちはわからないでもない。だが噂の的にされた方が面白いわけがない。それでも椿の手前、不死川はなんとか怒気を引っ込めた。
二人でそのような話をしながら、脇に民家が並ぶ、人気のない街路を連れ立って歩いていると、どす黒くなった雲からとうとう雨が降り出した。二人は近くの小屋の軒先の下で雨が弱まるのを待つことにした。二人とも口を開かず、沈黙が続いた。
雨がしとしとと降り注ぐ中の静寂は苦にならず、不思議と心地よかった。気を張って、浮ついていた気持ちがすっと地面に降りてきたような心持ちだった。
「雨、止まないですね」
椿が先に沈黙を破った。あの朝のような取りつく島もない冷たさはすでに解けていた。
「ああ」
「私、少し怒っていたんですよ」
「悪い」
不死川は反射的に謝った。
「謝らないでください。私のせいですから。私の無分別であなたを苦しめて、重荷を背負わせてしまったと思いました」
「重荷とは思ってねえよ」
不死川の言葉で、椿の唇がわずかに綻んだ。
「そんなことをおっしゃるのに、文一つ寄越してくださらないのね」
「悪かった……」
「ほら、また謝る」
椿は項垂れた不死川の顔を覗き込んだ。
「前にも言いましたけれど、私はあなたが好きですよ」
囁くような声で椿が言った。
「だから、責任を取るとか、堅苦しいことはお考えにならないで。私が惨めになるだけ」
惨めという言葉が不死川にずしんと響いた。女と一緒になりたい、という気持ちは、いまや何も罪悪感から出たものだけではなかった。
「俺はどうすりゃいい。お前の元に百夜通うとでも言えば信じられんのか」
椿は意表を突かれたのか、小さな口を開けてぽかんとしたが、やがてその顔にじわじわと笑みが広がった。
「……粂野くんですね?」
「……おう……」
受け売りを見透かされた情けなさのあまり片手で顔を覆った。慣れない言葉は使うものではなかった。
「ねえ、そんな恥ずかしがらないでくださいな。あなたが言ってくださったこと、嬉しいの」
事実、椿は至極心嬉しそうに顔をほんのりと上気させた。だが、瞳だけがわずかに陰った。
「不死川くん、私はあなたが思うほど優しくないし、気も長くない。あなたが見てるのは幻想ですよ。……私は悪い女ですよ」
「だからなんだ」
椿がどう己を卑下しても、不死川にとっては自分が見て感じ取ってきたものがすべてだ。他に何が必要なのか。
周囲は静かな霧雨に変わりつつある。二人以外に音のない世界で、視線が絡み、不死川は椿の腕を取った。椿は不死川の胸の中にゆっくりと潜り込む。不死川は無心に己に比べてずっと華奢な女を擁して頭を抱いた。直に雨が止むのが惜しいと思った。