めんへらねっとすとーかーのぼーいみーつがーる

2022追記:雰囲気は結構好きなダークファンタジー。当時致命的な矛盾があったので、そこだけ修正した。漫画と違って、ラノベで技名叫ぶのあんまかっこよくないよね。

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CAGE 鸚鵡の領分

 二千百十四年。

 乾きとともに死の匂いが立ち込める、東京。

 百年遅れで現れたアンゴル=モア、いわゆる「啓示」が起きてから、十五年が経った。

 

「......お嬢さん、どこに行くんだい?」

 

 杖をついた老爺が、道行く女に声をかける。

 高級そうな服を身に纏った女は、立ち止まるとにこっと屈託のない笑みを浮かべた。

 

「渋谷で人と会う約束をしているんです。お爺ちゃんは?」

「あぁ、そうか」

 

 老爺は深緑のベレー帽のつばを、空いている手でくいっと上げる。

 その奥から、紅い光を帯びた眼が現れた。

 

「それじゃ、ここで身ぐるみ全部置いて行ってもらおう」

 

 次の瞬間、地中から巨大な木の根が飛び出し、女の四方を取り囲む。

 

「お爺ちゃん......!」

「悪いが、こんな世の中だからな。自分から脱げば、それ以上の危害は加えんよ」

 

 出会ったのが儂で良かったな、と老爺は自嘲気味に笑う。

 そう言う彼の身体は痩せ細り、杖は朽ちかけている。

 

 くだらねぇ。

 俺はため息をついた。

 

「早く脱げ。さもないと、儂は君に狼藉を働かなきゃならん」

「......っ!」

 

 女は絶句する。

 そして、震える手で自身のセーターに手をかけた。

 

 ——っ。

 

 俺は一瞬逡巡し、そして、彼らの方に歩き出した。

 

 

「そこまでにしときな。若い娘にストリップさせるなんて、悪趣味だぜ」

 

 

 俺は老爺の眼前に立ち、訝しげに眉をひそめる老爺に、右の掌を突きつける。

 

「......焔の刻印。『パロット』か」

「悪いな。ここは退きな、爺さん」

 

 言いながら、これで退いてくれなかったら、と俺は思考を巡らせる。

 老爺の「神託」は木の根を出現させるもののようだ。幸い相性的にはこちらの方が有利だが、こっちは女を庇わなきゃならない。

 

 まったく、面倒なことに巻き込んでくれた。

 こっちはあまり目立つ訳にはいかないのだが。

 

 老爺は一瞬こちらを強く睨みつけたのち、ふっと力を抜いた。

 

「お前さん、こんなご時世に儂なんかの邪魔をする暇があるのかい。陵辱もしなければ殺戮もしない、良い爺だと思うがね」

 

 戦う意思はない、ということらしい。

 俺も少し力を抜きながら、敢えて仏頂面を保って言う。

 

「偽善だな。それこそこんなご時世に、若い女素っ裸で放り出したらどうなるか、簡単に想像できるだろ」

 

 それもそうだな、と老爺は笑った。

 

「嫌な時代だな。儂も、人生の最後の最後にこんな修羅に堕ちるとは、想像もしなかったのだが」

「......全く、くだらねぇ時代だよ」

 

 俺は彼の後ろ姿を見送りながら、吐き捨てるように呟く。

 それから、女の方に目を向けた。

 

 じっくり見てみると、彼女の顔立ちにはまだ幼さが残り、少女という方が適切に見えた。

 純白のセーターは今では滅多にお目にかかれないシルクのようで、スカートには淡い青の生地に煌びやかな銀の刺繍が施されている。後ろで束ねられた金髪は染めているようには見えず、瞳は琥珀のように澄んでいた。

 

「『外』から来たのか。ここがどういう状況か知らない訳でもなかろうに、護衛一人つけず」

「......聞いていたより、ずっと酷かった」

 

 少女は俯きながら、流暢な日本語で答える。

 

「ありがとう。助かったわ」

「そりゃ構わないが、どうするつもりだ?まだ渋谷までは結構な距離があるぜ」

 

 俺が言うと、少女は上目遣いでこちらをじっと見つめた。

 街で身体を売る女が見せるそれとは違う汚れのない視線に、俺は一瞬たじろぐ。

 

「......送っていってもいいぜ」

「本当?」

「勿論、タダじゃねえ。どうしてわざわざこんな地獄に飛び込んできたのか、全部聞かせろ。金になりそうな話なら、『パロット』も噛ませてもらうぜ」

 

 俺はかなり温情のある提案をしたはずだ。

 だが、少女はかなり迷う素振りを見せた。

 

「それは、できない。貴方は命の恩人だけれど、それと信用できるかは別」

 

 そして少し震えた声でそう言い放つと、一人でずんずん歩いて行ってしまう。

 

「......おいおい」

 

 そこまで言われて、ついていくほどお人好しではない。

 俺は肩をすくめ、当初の目的地へと向かった。

 

 荒廃して倒壊しそうなビル群。

 どこかから聞こえる悲鳴。あちこちで転がっている死体。餓死寸前の女を、数人の男が暴行している。

 

 ここは、地獄。

 あるいは、鳥籠。

 

 そして、二千百十四年、冬の東京。

 

 

 

 

 仕(・)事(・)を終えて渋谷に帰ってくると、市の方が何やら騒がしい。

 

「どうした?」

 

 群衆の中から顔馴染みを見つけ出し、尋ねる。

 

「“奴隷商人”が、面白いヤツを連れて来やがった。『外』からやって来た金髪少女だってよ」

「......そうか」

 

 俺の複雑な表情に、彼は怪訝な顔をして見物に戻る。

 俺は野次馬を掻き分けて、奴隷の顔を確認する。

 

「やっぱりか」

 

 ため息をつく。

 細い首には輪がつけられ、あちこちに擦り傷ができ服はボロ切れに変わっていたものの、そこにいたのは確かに先ほど助けた少女だった。

 

 彼女も驚愕の表情を見せた後で、決まりが悪そうにこちらを見る。

 

「......ざまぁねぇな。素直じゃないからだ」

「そうね。言い訳はしないわ」

 

 俺の姿を見て、野次馬たちが声をあげる。

「商品」と勝手に話された挙句、注目を取られた格好の“奴隷商人”は不機嫌そうに俺の肩を叩いた。

 

「三百万円だ。買うのか?」

「......だそうだ」

 

 俺は薄く笑う。

 

「下らない意地を張るな。『パロット』は人情派だからな、今からでも契約してやる」

 

 少女は諦めたようにため息をついた。

 

「既に当初のプランはめちゃくちゃ。お願いしてもいいかしら?」

「もちろん」

 

 俺は“奴隷商人”の手に数枚の紙幣を握らせると、首輪がついたままの彼女の手を握る。

 

「......おい、全然足りねぇぞ!」

「うるせぇな、そんくらいまけろ。『パロット』に逆らう気か?」

 

 俺は苛ついた声色を作り、少し早口に言う。

 彼はぐっ、とたじろいだものの、ここで退いたら面子が立たないと考えたか、拳を握りなおした。

 

「おお、やるのか」

 

 俺は左手で少女の手を握ったまま、右掌を前に突き出す。

 筋骨隆々な“奴隷商人”の巨腕が俺の顔面に向かって飛んできた。

 

「『神託』もねぇチンピラが、粋がんな」

 

 視神経に意識を集中させる。

 両眼が熱を帯び、焼けるような痛みに襲われる。

 

 

「『紅蓮炎鳥(スカーレット・フェニックス)』ッ!!」

 

 

 次の瞬間、翼を広げた鳥のような炎が“奴隷商人”の体を包み込む。

 炎はやがて幻のように消え、後には煙と共に倒れる彼の姿だけがあった。

 

「これで文句ねぇな」

 

 見物していた野次馬から歓声が上がる。

 俺はそれを無視して、少女を連れて歩き出す。

 

「......貴方、強いのね」

 

 少女が呆気にとられたような表情を見せる。

 俺は彼女を一瞥すると、それに答える代わりに基本的なことを尋ねた。

 

「お前、名前は?」

「私?私は、ルカ=ロータス。祖父はジョージ=ロータスって言えば、貴方でも分かるんじゃないかしら」

 

 分かるも何も、十五年より前から第一線で活動している有名な映画監督の名だ。

 本当かどうかは怪しいが、それなら危険地域をハイヒールで歩くような彼女のこの無鉄砲な性格も納得できる気がした。

 

「......俺は、ユウキだ。周りにはユウって呼ばれてる」

「苗字は?」

「ここじゃ、そんなものは役に立たない」

 

 しばらく沈黙が続く。この街の食べ物が腐ったような臭いに耐えかねたのか、ルカが鼻をつまんだ。

 やがてルカが、言い訳するつもりはないけど、と口を開く。

 

「渋谷までは自力で辿り着いたのよ。ただ、そこで合流するはずだった『サニー』と連絡がつかなくて」

「『サニー』?......ああ、“浮かれ屋”か。あいつなら、酔っ払った拍子に『俺はもうすぐここを出る』とか騒いで、他の客と喧嘩して死んだって聞いたぜ」

 

 何よそれ、とルカは天を仰いだ。

 

「ここじゃ日常茶飯事さ。どうやら、認識とズレがあるらしいな」

「まさかここまでとは、全く想像してなかった。......ところで、この首輪外してくれない?」

「あいにくその首輪は外れるようにはできていなくてね。俺じゃ無理だ」

 

 ルカが少し早足になってしまっているが、俺は歩みを止めない。

 路地裏のゴミや汚物で埋もれた先を通り抜けた人の寄り付かない場所に、目的地はあった。

 

「ほら、着いたぜ。ここが『パロット』のアジトだ」

 

 外からの見た目は、古びたプレハブ小屋に近いその建物。

 しかし中に入ると綺麗に整頓されていて、また意外と奥行きがあることに気付くだろう。地下に潜りながら、どんどん「領土」を広げていった結果だ。

 

「おかえり、兄貴......って、誰だいその女」

 

 眼鏡をかけた痩せぎすの少年が、ルカを見てぎょっと目を見開いた。

 

「見ての通り、『外』から来たガキだ。金になりそうなんでな」

「ガキって、あんたも大して変わらないじゃない」

「馬鹿言うな。五歳は違う」

 

 それくらい誤差よ、とふくれっ面をするルカを見て、相棒が唖然とした顔を二人に向ける。

 

「......紹介するぜ、ルカ。こいつは俺の相棒、ナオだ。ナオ、こっちはルカ。早速で悪いが、この首輪を外してやってくれねぇか」

 

 俺はそう言うと、ルカの背中をぽんと押す。

 何すんのよ、と不満を言うルカの首輪を見ながら、ナオは信じられない、と首を振った。

 

「いくら外から来たとはいえ、こんなガキを『パロット』のアジトに?もしこいつが裏切ったら、どうするつもり」

「どうするつもりも何も、その時はその時。今までだって、行き当たりばったりでやってきたろ」

「......そうやって無茶苦茶する兄貴の尻拭いを、何度してきたことか」

 

 椅子に座りながらため息をつくナオに、俺は一つ手を叩き、首輪を外すよう促す。

 

「結構時間かかるよ、これ」

「じゃあその間、俺はルカにここの正しい現状を教えてやらないとな。また無茶されても困る」

 

 そう言って、俺はルカに顔を向けた。

「外」の天国みたいな環境でぬくぬく過ごしてきたお嬢様がやって来たのがどんな場所か、教えてやる。

 

 それで怖気づいて「帰りたい」なんて言うようなガキなら、何かしらの手を打つだけだ。

 

 

 

 

「十五年前、『啓示』が起きたことは知ってるな?」

「もちろん」

 

 ルカは頷く。

 

「啓示」。その正体は、不戦の誓いを忘れ、再び軍事国家として台頭し始めた日本に突然堕ちた巨大隕石だ。

 それから放たれた未知の物質は、日本中に降り注いだ。そして、人々に異変が起きる。

 

 既存の学問では全く説明のつかない現象を起こせるようになった人間が現れたのだ。

 それは「神託」と呼ばれ、初めは隕石の衝突によって傾きかけた経済を復活させ、日本が世界の覇権を握るための道具として研究が進められた。

 

 だが、やがて「神託」を持つ者が、持たざる者をその力で征服し始める。

 戦車をあっという間に沈められるような能力を持った者たちの前では、数で劣る自衛隊も何の役にも立たなかった。

 

 ほんの数ヶ月で政府は崩壊、未知の物質が今も漂い続ける無法地帯と化した日本を、世界は見捨てた。

 富豪たちを海外に逃がした後、海岸線を封鎖し、人々をそこに閉じ込めた。日本全体が、巨大な鳥籠になったのだ。

 今ではここと「外」とを行き来する方法は、成田にある厳重に警備された米軍基地のヘリコプターしかない。外から中に行くのにも、中から外に行くのにも莫大な米ドルが必要で、中から外への移動は実質不可能だ。

 

 ここまでは、「外」でも教わっているであろう話だ。

 だがこの先、籠の中がどうなったかは、おそらく外の連中は知らない。世界のどの紛争地域よりも危険なこの国に来る記者などいないし、米軍も基地からは決して出ようとしないからだ。

 

「今、この国は戦国時代まで後退してる」

「戦国時代?」

「こんなに小さな島国を、何十人、何百人ものリーダーで分け合ってる。互いに領土を奪い合いながらな」

 

 ここ渋谷は、その中でも最も繁栄している「国」だ。

 逆らわなければ、縛らない。弱肉強食の世界で、綺麗事を言わない“首領”の元に、腕に自信のある奴らが押し寄せてきている。

 

「......はい、できたよ」

 

 しばらく工具をがちゃがちゃやっていたナオが、ふう、と汗を拭った。

 

「どこも似たようなもんだが、他の場所に行きゃ、もう少しましなところはある。ここは強盗強姦殺人、何でもありだ」

「......で、その何でもありの渋谷で一目置かれている『パロット』って、いったい何なの?」

 

 ルカの問いに、ナオが俺を冷たい目で見た。

 また「パロット」の名前で目立つような真似をしたのか、と言いたげだが、ここは無視を決め込む。

 

「目印は炎の刻印。何千人ものメンバーがいるが、そのほとんどは目撃もされていない。ここ渋谷を根城にする、超巨大組織だよ」

「凄いわ。あなた達、そのメンバーなの?」

「まぁ、実際は俺とナオだけだがな」

 

 ナオがまた渋い顔をした。

 そんな顔をされたって、隠せることでもないだろう。

 

「どういうこと?」

「ここじゃみんな、情報に飢えてる。せっかく手に入れた情報の裏を取ろうなんて考える奴はいない」

 

 後ろを顎でしゃくる。

 どれも十五年ものでボロボロであるが、五台のパソコンが並べられていた。

 

「何だ、大嘘つきじゃない」

「そうだ。大嘘ついて、どうにか細々と暮らしてんのさ」

 

 この籠の中で、どこにも属さず筋を通して生きるのは難しい。

 知恵と能力と奇跡的な偶然が噛み合って、俺たちは何とか今日を乗り越えている。

 

「......こっちはこんだけ曝け出したんだ、そろそろお前の目的を教えろよ」

 

 俺が促すと、ルカはまだ迷いの色を見せる。

 だが、やがて覚悟を決めたように話し出した。

 

「私の目的は......この渋谷を、獲ること」

「っ!?」

 

 がたっ、と椅子が倒れる音がした。ナオが転げ落ちたのだ。

 俺も動揺を隠せない。

 

「それはつまり......“首領”に喧嘩を売るってことか?」

「そう。そして私は、この渋谷を砂漠の中のオアシスにする」

 

 ルカの口調から、どうやら冗談で言っているわけではないらしいことが分かった。

 それにしても、彼女の言うことはあまりに荒唐無稽だ。

 

「お前、“首領”がどんな奴か知ってるのか?」

「もちろん。本名はフカハラ・タイガ、37歳。十五年前までは裏格闘技場のファイターとして生計を立てていて、成績は二十一勝無敗」

「そういうことじゃねぇよ。“首領”を一度だけ見たことがあるが......あいつは、マジでヤバい。俺もかなり強い方だと思ってるが、覇気がまるで違う」

 

 ビビってんの、とルカが眉をひそめる。

 だが格好をつけている余裕は、ここで生きている限り、ない。何を言われようと、無理なものは無理だ。

 

「......まぁ、私も何の武器もなしに乗り込んできたわけじゃない」

 

 彼女はため息をつくと、セーターの内ポケットから何かを取り出した。

 銀色のピルケース。その中に、透明な液体が入った瓶が収められている。

 

「グランパは映画監督だけど、うちは元々は製薬会社の創業者一族でね。パパが株をたくさん持ってるから、こんなものの研究ができる」

「何だ、それ」

「『神託』の力を飛躍的に高めるおクスリ。私の国じゃ、一セントにもならないけど」

 

 これが、と俺は訝しげに瓶を手に取る。

 十ミリリットルにも満たない液体で“首領”を倒せるくらい強くなれるのなら、それは逆にとてつもなく危険なものに思えた。

 

「そのクスリ、大丈夫なのか?」

「用法と用量を守れば害はないわ。もっとも、この一瓶しか作れなかったんだけどね」

 

 俺はへぇ、と瓶をしばし観察すると、おもむろにナオに投げて渡す。

 

「お前、やってみろよ」

「えぇっ!?」

「この国を獲れるぞ」

 

 露骨に嫌な顔をするナオから、俺は再び瓶を奪い取る。

 もちろん、ナオに使わせる気なんかなかった。ナオを信頼はしているが、過ぎた力は時に人を狂わす。

 

「どの道、今使っちゃダメよ。このクスリ、効き目が五分しかないから」

「五分!やけに短いな」

「元々は貴方みたいに強い人と出会えるかどうかなんて分からなかったから。どんなに弱い『神託』でも、“首領”を倒せるくらいの強い効き目が必要だったのよ」

 

 彼女は強い口調で言う。自分の会社の技術力を見くびられるのは愉快ではないらしい。

 俺は降参、と冗談っぽく両手を挙げた。

 

「とりあえず、今日はここに泊まってきな。俺とナオはその話に乗るかどうか、ちょっと外で話してくるわ」

 

 そう言うと、俺はナオの手を引っ張って外へと向かう。

 

 路地を出て辺りが騒がしくなったところで、ナオが口を開いた。

 

「まさか、乗る気?あんな話に」

「......そう決めた訳じゃない」

 

 俺の返事に、ナオは呆れたように天を見上げる。

 

「“首領”だよ!?これまでの相手とはわけが違うんだ。どうしてあの子の無謀な夢に付き合って、僕たちの立場を危うくする必要があるんだ!」

「メリットならある。あいつが本当に渋谷を獲ったとして、ガキ一人で支配し続けられると思うか?必ず、『パロット』の名前が必要になる。そうなれば、渋谷はほぼ俺たちのものだ」

 

 どうしちゃったんだ、とナオは声を荒らげる。

 

「僕たち二人、これまで何不自由なくやってきたじゃないか。今更何が欲しいっていうんだ!?」

「何不自由なく、か。俺は、そうは思わない」

 

 相棒が傷ついたような顔をしたので、俺は誤解するな、と言い添える。

 

「俺が言いたいのは、この鳥籠のことだ。俺は、ここから出たい。これを逃したら、この先二度と、俺たちはここから出られないぞ」

「ここから出て、どこに行くって?『外』にツテでも?あのガキがそこまで面倒見てくれるとでも思ってるの?」

「その時はその時だ。何とでもなる」

「......またそれだ」

 

 ナオは吐き捨てるように呟いた。

 

「それに、俺はそんなに無謀な計画だとも思わない。あいつは、安全で快適な『外』から、わざわざ自分でこんな危険な場所に来てる。あのクスリとやらに相当の自信がなきゃそんなこと出来ないだろ」

「ただの無鉄砲な馬鹿って可能性もある。現に、ここの状況をちっとも理解できていなかったじゃないか!」

 

 的確な指摘をするナオに、俺は黙り込むしかない。

 それでも実を言えば、一人でも俺は乗るつもりだった。ルカの琥珀色の眼を見た時から、理屈じゃない何かが俺を突き動かしていた。

 

「......わかった」

 

 しばらく時間をあけて、ナオが覚悟を決めたように言った。

 

「僕は、兄貴についていく」

 

 助かる、と俺は頭を下げた。

 思い詰めたような顔をしたナオがどんな想いでいるのかは、あえて考えないようにした。

 

 

 

 

 翌朝。

 昨晩遅くまでパソコンを弄っていたナオが、眠たそうに言う。

 

「本当にもっと計画を練らなくて大丈夫ですか?何も焦らなくても」

「小細工が通用する相手じゃねぇよ。それに、もたもたしてるうちに別の方向から危険が迫ってくるかもしれないだろ」

 

 思い立った瞬間に行動しなければ、思いもよらぬトラブルであっさり命を落としかねないのがこの国だ。

 それに、“首領”は彼の居城、マルキューから出ることはない。ビルには裏口や抜け道の類もなく、正面突破以外の道はなかった。

 

 いつもと同じように、あちこちで暴力が止まない街を歩く。

 一歩進むごとに、ルカの顔が険しくなるのがわかった。

 

「......嗅覚が、麻痺するんだ」

「えっ?」

「この街で、死体とか、血の臭いがしない日はない。毎日そういう臭いを嗅いで生きてるとな、そのうち何にも臭わなくなる」

「......」

「変われると思うか?」

 

 俺はルカの方を見ずに、独り言を言うように呟いた。

 

「お前が渋谷を獲ったとして、俺たちは、死に慣れちまった俺たちは......変われると思うか?」

 

 答えは、返ってこなかった。

 俺たちは、渋谷の中心部に着く。

 

 マルキューと呼ばれる“首領”の本拠は、かつては渋谷のシンボルとして親しまれてきたファッションビルだった。

 周りのビルの壁が崩れ落ち、ペンキは剥がれ、倒壊しかかっている中、このビルだけが十五年前からほとんど見た目に変化がない。

 

 入り口には黒服を着た二人の男が立っていた。

 こちらに向かってずんずん向かってくる奇妙な三人組を、警戒するような目で睨みつける。

 

「......何だ、お前ら」

 

 百九十センチを越える巨漢が、一歩前に出る。

 彼も当然、渋谷では名の知れた「神託」持ちだ。

 

「“殺人達磨”、懐かしい顔だな。今じゃ“首領”の門番か」

 

 俺はわざと挑発するように、唇を歪めてみせる。

 案の定、彼は露骨に苛立った顔をした。

 

「アポはあるのか」

「アポ、あぁ、それなら......」

 

 俺はズボンのポケットをがさがさとやりながら、眼に力を込める。

 だがその時、ルカがいきなりずいと前に出てきた。

 

「いいから、早く通しなさいよ。“首領”と一刻も早くお話がしたいの」

 

 少女に圧のこもった眼で睨みつけられて、男は思わず後ずさりする。

 俺ははらはらしながら、どこか感心していた。自分よりはるかに大きな相手に対して、あまりに堂々としている。彼女は、本気で渋谷を変えるかもしれないと、そう思った。

 

 すっかり気勢の削がれた巨漢は、すごすごと道を譲るそぶりを見せる。

 しかしその時、俺の顔をちらりと見て、眉がぴくりと動いた。

 

「ちょっと待て。お前の顔、どこかで見たことが......」

 

 次の瞬間、俺は燃え盛る拳を彼の顎に向けて突き上げる。

 

「があっ......!」

 

 反応する間も無く、一撃で白目を剥いて彼は倒れる。

 もう一人の長身でがっちりした体格の男が、慌てた様子で銃をこちらに向けた。

 

「その葬式みてぇな格好は制服なのか?......にしたって、“白衣のガンマン”が白衣脱いじゃ駄目だろ」

 

 炎を全身に纏い、左右に体重を移動させながら走る。

 何発か銃声が響くが、弾は一発が頬をわずかに掠めるだけだった。

 

「どけよ」

 

 右腕を彼の首元に叩きつける。

 喉が灼ける痛みが彼を襲ったはずだ。空気の通り道を潰された彼は呻きながら膝をつく。一分もすれば、死に至るだろう。

 

 唖然とするルカに、俺は言う。

 

「これでもう、俺は後戻りできねぇ。クスリだけ寄越して、てめぇは隠れてな」

「そんな、私も......!」

「ここから先は、ガキは足手まといなんだよ」

 

 俺が言うと、ルカは渋々といった様子で瓶を投げた。

 俺はそれを受け取ると、ナオと目で合図し、彼女に背を向けた。

 

 自動ドアががたがたと音を立てて開く。

 一階は広いエントランスになっていて、中央のカウンターの上に一人の男が座っていた。

 

 一目で、それが“首領”だとわかった。

 入口の門番と違い、彼が真っ赤なスーツを着ていたからだけではない。やけに血色のいい肌や、子供のように爛々と輝く瞳や、スーツ越しでもわかる引き締まった肉体が、彼の異常さを強く主張していた。

 

「いらっしゃい、『ダック』のお二人さん」

 

 彼の目尻に皺ができる。彼はとん、と軽やかにカウンターから降りると、一歩こちらに踏み出す。

 

「悪いが、名前を間違えてるぜ。俺たちは『パロット』。お前の首を貰いに来た」

 

 ふふ、と“首領”は口角を上げ、もう一歩こちらに近づく。こちらとの距離は、およそ三歩。

 もう二歩近づけば、拳が当たる間合いだ。

 

「......いや、全く問題ない」

 

 彼はそこで立ち止まり、腕をくるくる小さく回した。

 

「——『鴨(ダック)』で、合ってるよ」

 

 その瞬間、俺の身体に鎖が巻きついた。

 腕が動かない。この鎖を、俺はよく知っている。

 

 俺は、信じられない気分で後ろを振り返った。

 相棒が、嘘みたいに冷たい眼で鎖を握っていた。

 

「ナオ、てめぇ......!」

「ごめん、兄貴。今回ばかりは。付いていけない」

 

 がしゃん、がしゃんと身をよじるが、そんなことでこの鎖が解けないことは俺が一番よく知っている。

 彼の「神託」を殺しではなく捕縛の能力として見出し、育てたのは、俺だ。

 

「なんで......なんでだ!?お前は、この地獄から出たくないのか!?」

「僕は、兄貴とは違う」

 

 ナオが悲しそうな目をした。

 

「僕は、地獄の外を見たことがないんだ。僕の世界は、この鳥籠が全て」

「怖く、ないのか?明日にも殺されちまうんじゃないかって怯える生活を、止めたくないのか?」

「......僕にとっては、ここから出るほうがよっぽど怖いや」

 

 “首領”が三歩離れた距離のまま、こちらに手を伸ばした。

 その手は宙を掴む。そのはずなのに、俺の手の中に侵入しようとする彼の手を確かに感じる。

 

「ぐっ......!」

 

 力が入らない俺は、あっさり瓶から手を離す。

 ふぅ、と一息ついた“首領”の手には、いつの間にか瓶が握られていた。

 

「それを、返せっ......!」

 

 声が裏返る。“首領”は透明な瓶を光に透かし、満足そうな声をあげた。

 

「よくやった、少年。約束通り、君の身の安全はこの“首領”が保障しよう」

 

 ナオは顔を伏せ、黙り込んだままだ。

 “首領”は笑みを崩さないまま、彼に話しかける。

 

「どうした、少年。まさかこの時世に、そこの反逆者の命も助けてください、なんて言わないよな?」

「......いえ」

「それなら、もっと喜べ。君も今日から、『支配する側』の人間だ。こっちの飯は美味いぞ」

 

 くっくっ、と彼の口から笑いが漏れた。

 俺は呻きながら、ナオに声をかける。

 

「......なぁ、相棒」

「話を聞いてなかったの?もう僕とあなたは、相棒でもなんでもない」

「『神託』で造ったものだろうが、素材は何も変わりゃしない」

 

 首を傾げる彼の顔を見ながら、俺は続ける。

 

「鎖は、鉄で出来てる。そんで鉄は......」

 

 俺の身体が、紅い炎を纏う。

 

「熱を通すんだよ!」

 

 俺がそう叫んだ瞬間、ナオが悲鳴をあげ、鎖から手を離した。

 彼の右掌が焦げ、そこにあったはずの炎の刻印を黒く上塗りする。俺は鎖を解くと、自動ドアを炎で溶かして大穴を開け、外に飛び出した。

 

「追え、すぐにだ!」

 

 “首領”が声を荒らげるのが遠くで聞こえた。

 俺は躓きそうなくらい前のめりになりながら、とにかく逃げた。

 

 逃げて、逃げて、逃げて。

 建物の陰に隠れ、疲れて立ち止まったところで、ナオの言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 ——僕は、地獄の外を見たことがないんだ。

 

「......はは」

 

 ぽつぽつと、雨が降り出した。

 俺は膝から崩折れる。

 

 何もわかっていなかった。

 ナオの表情の意味も、気持ちも。

 それでも最後まで、俺と一緒にいようとしてくれたことも。

 

 額から首筋まで流れ落ちる雨粒に混ざって、俺の眼から一粒、熱い雫が落ちた。

 

 

 

 どれくらい経っただろうか。

 雨は止まない。俺はずぶ濡れのコートを着たまま、高架下に座り込んでいた。

 

「ざまぁないわね」

 

 顔を上げると、琥珀色の瞳がこちらを見下ろしていた。

 俺は彼女と目を合わせるのを拒む。

 

「その通りだな。一番信用してた奴に裏切られて、このザマだ」

「外じゃ、誰も彼もが貴方を探し回ってるわよ。何があったの?」

「......『パロット』と“首領”の連名で、俺に懸賞金がかかってる。報酬は百万ドル」

 

 ひゃくまんどる、とルカが繰り返す。

 

「それだけあれば、『外』にだって行けるわ」

「もちろん、そんな金ある訳ない。だが、何しろここの連中は......」

「情報に飢えてる。それと同じくらい、ここから抜け出すことにも」

 

 その通り、と俺は口角を僅かに上げた。

 

「残念だが、俺はここまでだ。お前が帰りの切符を持ってるなら、一人で帰んな」

「......生憎、そんなものはないわ。この作戦が成功したら、米軍と交渉するつもりだったけど」

「それなら、お前も地獄の住人の仲間入りだ。そんなに悪いところでもないぜ」

 

 冗談っぽく言ってから、俺は彼女に深く頭を下げた。

 

「すまん。俺はしくじった。お前の人生も、真っ暗にしちまった」

 

 ルカはしばらく押し黙ったまま、頭を地につける俺をじっと見ていた。

 やがて彼女が口を開く。

 

「.....諦めるの?」

「クスリはない。相棒もいない。俺一人で、“首領”には勝てない」

 

 彼女はうつむく俺の顔を両手で掴むと、ぐっと自分の顔に近づける。

 息が唇に触れるほどの距離で、ルカは強い口調で言った。

 

「目に見えるものだけが真実とは限らない。現に、絶対に裏切らないと思っていたあなたの相棒は裏切った」

「......そうだな」

「なら、絶対に勝てないと思っていた“首領”にだって、勝てるかもしれないわよ」

 

 その理屈はおかしい、と俺は彼女を押し戻す。

 

「あいつの言う通りだったんだ。『パロット』を始めた時は、俺たちは身の丈を知ってた。俺はいつの間にか、それを失っていたんだ」

「......『パロット』って、どういう意味なの?」

 

 彼女が一呼吸おいて言った。

 俺はその言葉で、三年前を思い出す。俺が今より二十センチも小さかったナオを拾ってきて、二人で「パロット」を結成した日。

 

「お前らの言葉で、『鸚鵡』って意味だよ。そっちでメジャーかは知らねぇが、こっちじゃペットとしてよく飼われてるんだ。自分の食い物も満足に手に入らないここでだって、わざわざ飼ってる物好きがいる」

 

 無邪気に笑うナオの姿が、克明に思い出される。

 

「あいつが付けたんだ。鸚鵡は鳥籠の外じゃ生きられない、だからたとえ鳥籠の鍵が開いていたとしても、必ず飼い主のところへ戻ってくるって。こんな腐った世の中じゃ、驕りは身を滅ぼす。だから俺たちは、自分の領分を忘れないで生きようって」

 

 それなのに。

 俺は、過ぎた夢を見た。

 ルカのせいじゃない。彼女の空想に乗って、現実に戦争を仕掛けたのは俺だ。

 

 自由に空を飛ぶことを夢見た鸚鵡は、鴉の群れに蹴落とされる。

 あの時は確かに、分かっていたはずなのに。

 

 ルカは俺の止めどなく流れる涙を、冷たい指先でそっと拭った。

 そして、ぽつりと呟く。

 

「私が、なんでこんな大それたことをしようと思ったのか。それをまだ、話してなかったわね」

 

 

 

 

「......私は、グランパの映画と共に育った」

 

 ドキュメンタリーを得意とするジョージ=ロータスの被写体は、主に日本、そして日本人だった。

 長きに渡る鎖国から解き放たれた後の大躍進、そして第二次世界大戦の惨敗。戦後百五十年を過ぎてもなお教科書に刻まれ続ける転落劇を演じ、しかし不死鳥のように蘇った日本に、彼は強く興味を持った。

 

 彼の映画は、時に戦争を引き起こした要因に鋭く迫り、時に日本の伝統と革新が混ざり合う文化を見事に描き、時に現代の日本人が忘れた気風を柔らかく指摘する。

 丹念な取材と深い愛情に基づいて作られたジョージの映画は、日本人の作る映画以上に、日本という国を映し出していた。

 

「私が生まれてすぐ、『掲示』が起きた。情報は少なかったけれど、グランパが愛した日本が、失われようとしていることはわかった」

 

 祖父と同じように、ルカもまた、祖父のカメラを通して見る日本という国が大好きだった。

 だから、このままぐちゃぐちゃに汚れ、変質するこの国を、黙って見ていることができなかった。

 

「だから、私はこの国に来たの。この国を、グランパが見た姿に戻すために」

「......そんな理由で、命まで懸けるのか?」

「この国には、そのれだけの価値がある」

 

 ルカは俺の目を見たまま、再び口を開く。

 

「どうして私が、そんなに日本を好きになったのかわかる?」

 

 俺は黙って首を振るしかない。

 

「......日本は戦後、米国の管理下に置かれた。国防だけでなく経済まで掌握されて、米国に乗っ取られてしまったかのようだった」

 

 百年以上前の出来事を、実際に見てきたかのようにルカは話す。

 

「けれど、日本は立ち直った。それどころか、あの米国を焦らせるほどの目覚ましい利益を上げ、世界有数の工業国へと成長した。......それでも、二十年前に憲法が改正されるまで百年以上もの間、不戦の誓いを守り抜いた」

 

 ルカは、俺の肩をぐっと掴む。

 

「驕り高ぶって理から外れることと、巨大な壁に挑戦することは違う」

 

 宝石のように煌めく瞳が、俺をまっすぐに見つめる。

 すっかり冷え切った身体が、再び熱を持つのを感じる。雨音が、徐々に小さく、聞こえなくなっていく。

 

「失敗した俺に、もう一度賭けるのか?」

「もちろん。だって、賭けはまだ終わってない」

 

 物好きな奴だ、と俺は笑う。

 笑ったついでに、足に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。

 

「......俺の領分を、決めるのは俺だ」

「その通り」

 

 満足そうに頷くルカににやっと笑いかけて、俺は高架下からだいぶ小雨になった外に出る。

 そして、厚い雲が覆う天空に拳を突き上げた。

 

「『天晴らす逆龍(ファイア・ドラグーン)』ッッ!!」

 

 龍の如き火炎弾が、上空に向かって一直線に昇っていく。

 それは黒雲に飲み込まれたかと思うと、次の瞬間、それらを円形に消し飛ばした。

 

「うわぁ......!」

「これで、俺たちの居場所はバレたな。もう後戻りできねぇ」

 

 夕暮れ時の太陽の黄金の光が、二人を照らす。

 その光が俺の魂に灯った小さな小さな火を、燃え盛る炎へと変えていくように感じた。

 

 

 

 夜が更ける。

 マルキューの看板は電飾が煌々と灯り、退廃した世界で唯一文明を感じさせる。だが、そこに人の気配はなく、門番もいない。

 

「大体の手下は、俺を探しに行っちまったみたいだな」

 

 あるいは、と俺は思う。“首領”は、俺が再びここに来ることも見据えていたのかもしれない。

 だからこそ、獲物が自ら巣穴に飛び込んでくるように、敢えて入り口を開けておいた。“首領”ならあり得そうな話でもあった。

 

「......まぁ、考えていても仕方ない」

 

 俺の指名手配で殺気立った夜の渋谷に、女を一人で残す方が危険だ。

 俺はルカの手を引くと、大穴の空いた自動ドアの前に立った。

 

 エントランスは、電灯の明かりで昼間のように明るかった。

 奥に、一つの人影が立っている。“首領”のものにしては、その影は小さかった。

 

「ナオか!?」

 

 俺は問いかける。

 その影はゆっくりと近づいてくるにつれて、その姿を露わにしていく。

 

 曲がった背筋、一歩進むごとに鳴り響く床を叩く音。

 そして、深緑のベレー帽。

 

「まさか君と、再び相見える羽目になるとはな」

「......全く、ここは俺を退屈させない」

 

 苦笑する俺の横で、ルカが悲鳴とも驚愕とも取れる嗚咽を漏らす。

 そこに居たのは、昨日ルカを襲った、あの老爺だった。

 

「そんな、どうして......!」

「あの時はすまなかったね、お嬢さん。とっくに悪魔に身を堕とした身とはいえ、あれは流石に心が痛んだ」

 

 老爺は微かな微笑をたたえ、ルカに軽く会釈する。

 

「どうして、あんたがここにいる?」

「君たちを諦めた後、なかなか標的が見つからなくてね。飲まず食わずで死にそうになったところを、“首領”に拾われたんだ」

 

 そう言われてみると、老爺はあの時に比べて幾分か血色がいい。

 痩せ細ってはいるが、ものを十分に食べられていないという訳ではなさそうだ。

 

「......ユウ君。君を殺めれば、彼は儂を正式に認めてくれると言った。これも偽善かもしれんがね、儂は細々と生きる女子供から身包みを奪うより、身の程知らずの若造の命を奪う方が、よほど心が痛まん」

 

 普通の反応だと思うぜ、と俺は返す。

 だが、間違った選択だ。一度そう割り切ってしまったら、彼は二度と、人を殺めることに罪悪感を抱かなくなってしまう。

 

 それが、人が本当に修羅に堕ちる瞬間だ。

 

「俺はもう負けられねぇからな。手加減はしないぜ」

「はっはっ。老いぼれだと思って、油断したまま逝ってくれると嬉しいんじゃが」

 

 床とその下のコンクリートを突き破り、地響きとともにフロア中に木の根が張り巡らされる。

 生き物のようにうねうねと動くそれらの先端は、アイスピックのように鋭く尖っている。

 

「——儂の『神託』はどうやら、儂が思っていたより強いらしいからの」

 

 老爺の両眼が、紅く光った。

 俺は自分の眼に熱が迸るのを感じながら、両腕に炎を纏う。

 

「はああああああっっっっ!!」

 

 老爺が力強く叫ぶと同時に、四方向から木の根が身体を貫こうと迫ってくる。

 俺は左右を見回して位置を確認すると、身体を回転させてそれらを焼き払った。

 

「木は燃える。生憎だが、この勝負は俺に分がある」

「ふん、それはどうかな」

 

 老爺が再び力を込めると、今度は六本の硬い根が俺めがけて襲いかかる。

 俺は再び両腕を回してそれらを焼こうとするが、目の端にこちらに向かってくる老爺の姿を捉え、咄嗟に動きを止める。

 

 ザシュッ、と音がして、二人の動きが止まる。

 俺の脇腹には一本の樹の根が深々と突き刺さっているが、一方で俺の燃え盛る手は老爺の萎びた腕をがっちり掴んでいる。根を処理した後の隙を突こうという老爺の特攻に、俺は肉を切らせることで対応せざるを得なかった。

 

「......火傷するぜ、ジジイ」

「そう思うのなら、その手を離してくれんかね」

 

 冷たい声とともに、さらに木の根が足元から生える。

 俺は脚にも炎を纏いそれを蹴り飛ばしながら、老爺の腕に熱が伝わるよう圧をかける。

 

 二人の首筋を汗が伝う。

 

「その腕消し炭にされたくなければ、諦めな」

「今更、腕の一本や二本」

 

 老爺の声は途中で苦悶に変わる。空いた脚で老爺の爪先を靴ごと燃やそうと、俺が炎の勢いを大きくしたからだ。

 

「確かに、悠長には構えてられんようだな」

 

 老爺の眼の赤光がまつます大きくなる。

 木の根たちが彼の体にまとわりつき、強く、太く絡みつく。それはさながら、中世の騎士が着た鎧のようだ。

 

「『大樹界鎧(セフィロト・モード)』。これが儂の、奥の手だ」

 

 その禍々しい姿に危険を感じ、俺が彼から手を離し後ろに退く。

 その一瞬後に、凄まじい速度で彼の胸から尖根が俺の心臓があった場所を貫いた。

 

「流石、稀代の『神託』使い。勝負勘はあるようだ」

 

 両腕と右の足先は焼け爛れているが、老爺は余裕がある様子で甲高い笑い声をあげる。

 俺はふぅ、と一つ長い息を吐き、体中から炎を吹き出す。

 

 老爺の全身から、幾つもの根が俺の胸めがけて飛んでくる。

 

「......結局、ワンパターンなんだよ」

 

 俺は呟くと、ぱちぱちと音を立てる火の粉ごと、空気を思いっきり吸い込んだ。

 

「『猛火の絶叫(イグナイテッド・スクリーム)』っっ!!」

 

 肺が神経を介して、焼けるような痛みを脳に訴える。

 俺はそれを無視して、巨大な炎を向かってくる根に吐き出した。

 

 視界が一面、赤く染まる。

 炎は向かってきた根を焼き尽くし、さらに老爺の身体を覆う根まで燃やした。

 

 深緑のベレー帽は、あちこちが黒く変色している。

 がはっ、と老爺は大きく咳き込むと、そのまま床に倒れ込んだ。

 

「......どこで、間違えたんだろうな」

 

 数十秒の沈黙の後、老爺が倒れたままか細い声で囁く。

 

「十五年前までは、儂は間違いなく幸せなはずだった。気立てのいい伴侶と、優しい娘と、何ものにも代えがたい初孫に囲まれて、穏やかでありふれた最期を遂げるはずだとばかり思っていた」

 

 喘鳴がフロアに反響する。

 隅で震えていたルカが、おもむろに口を開いた。

 

「......その人たちは、どうなったの?」

「みんな死んだよ。こ(・)う(・)な(・)っ(・)て(・)から、二ヶ月も経たないうちにな」

 

 老爺は、ルカに手を出そうと思えば出すことができた。

 だが戦いの中で、彼は一切彼女を傷つけることをしなかった。それは、長い時間をかけて彼の心に根を張った善良が、まだ枯れてはいなかった証だ。

 

「儂に生きる資格はもうないよ。若造、よかったら介錯してくれんか」

 

 俺は無言で老爺に近づき、じっと見下ろす。

 そして、そのまま通り過ぎ、その先のエレベーターへと向かった。

 

「悪い話じゃない」

「......何?」

 

 老爺が眉をひそめる。

 

「立てるようになったら、全速力で逃げろ。もし“首領”が勝てば逃げ切れないだろうが、万が一俺が勝てば、世界が変わる」

「万に一つもあり得んよ。それに、儂が今更どの面下げて幸せになれる?」

「......さぁな。それは、そこにいるガキが考えることだ」

 

 俺の後を追うルカの足が、一瞬止まった。

 

「俺の役目は、“首領”を倒すことなんでね。......それに、取り返さなきゃいけないものもできた」

 

 俺は相棒の顔を思い浮かべながら、エレベーターのボタンを押した。

 機械音声のアナウンスとともに、すぐに扉が開く。

 

「......ただ、せっかくその歳まで生きたんだ。ここで死ぬのは勿体無いって、俺が言いたいのはそういうことだ」

 

 俺はルカがエレベーターに乗り込んだのを確認してから、扉を閉めるボタンを押した。

 “首領”の計らいか、階数を選ぶボタンは最上階にのみ光が灯っている。

 

「......来い、ってことか」

 

 俺は迷わず、そのボタンを押した。

 二人を乗せて、籠は一度も止まることなく、昇っていく。

 

 

 

 最上階。

 ドアが開くと、そこは薄暗いフロアだった。

 照明は最低限しか点いておらず、辛うじて前が見える程度。俺は手のひらに小さな炎を灯しながら、ルカの手を取って進む。

 

 不意に、風音とともに何かが俺の頬を掠めた。

 

「っ!?」

 

 俺は炎を大きくし、前方を照らす。

 

 目つきがすっかり変わってしまった、ナオの姿がそこにあった。

 彼は俺たちに目線を合わせることなく、鎖を自分の手に回収する。

 

「ナオっ......!」

「落ち着いて。僕はただの伝言役(メッセンジャー)。戦うことを命じられてはいない」

 

 ナオは台本でも読んでいるかのように感情のこもっていない口調で話しながら、俺たちに背を向ける。

 

「そこをまっすぐ行くと、屋上へと続く階段がある。その先に、“首領”はいる」

 

 さぁどうぞ、と彼は片手を広げる。

 俺は一つぎゅっと目を閉じ、ナオに近づいていった。

 歩きながら、心の中に溜まった言葉を、時間をかけて紡いでいく。

 

「......ナオ、ごめんな。俺は、お前の気持ちなんて全然考えてやれなかった」

 

 ナオは無言のままだったが、眉が少しだけ動いた。

 俺の言葉はナオに届いている。そう確信して、再び彼に話しかける。

 

「俺は、一人で突っ走って。ナオにいつも迷惑かけて。それで相棒だって、仲間だって、勝手な自己満足に浸ってた」

 

 でも、俺はもうわかったから。

 俺は、ただこの鳥籠から出たかったんじゃない。

 ナオと一緒に、飛び立ちたかったんだ。

 

 例え外の世界がどんなものだったとしても。

 ここ以上の、地獄だったとしても。

 ナオと一緒なら、必ず乗り越えられると信じているから。

 

 それを、もっと早く言葉にすべきだった。

 今更こんなことを言っても、もう遅い。

 

 だから、俺は代わりに、彼の肩をぽんと叩いた。

 

「......“首領”は俺が倒す。それまでの間に、もう一回刻印を、『パロット』の証を入れとけ」

 

 ぴくりと、彼の方が小さく震えた。

 それでも最後まで彼は、無言のままだった。

 

「ルカは、ここに置いて行く。お前に預けるのが一番安全だろ?」

 

 俺はそう言って、ルカの手を離す。

 ルカは何か言いたそうにこちらを見つめたが、最後には力強く頷いた。

 

 その眼が、俺に何度でも力をくれる。

 俺は強く頷き返し、笑顔を見せながら、階段を一段、登った。

 

 

 

 小さな頃、マルキューの屋上のイベント会場に連れて行ってもらったことがある。

 少しずつ形を変えながら、伝統を守り続けてきたファッションビルの象徴とも言える、ホログラム映像によって五十年前の渋谷を映し出すとか、確かそんなイベントだったはずだ。

 

 そのときの記憶と、目の前に広がる光景はあまりにも乖離していた。

 たくさんあった椅子やステージはすべて撤去され、代わりに大量の電球が円形に並べられている。

 

 その中央に、“首領”がいた。

 白い光に照らされ、少しだけ眩しそうに目を細める彼は、心からの笑みを浮かべていた。

 

「よく来たね、『パロット』のユウ」

 

 良いリングだろう、と彼は両手を広げた。

 

「私は渋谷の......いや、この国の“首領”になる男だ。今この瞬間は、その前哨戦だな」

「そう言って無様に負けるチャンピオンを、何度も見てきたぜ」

 

 俺は光が容赦なく浴びせられる、リングの中へと足を踏み入れた。

 “首領”が場所を開けるように一歩退がり、二人は向かい合う。

 

「熱く、勢いに満ちていて、愚かなほど真っ直ぐな挑戦者。素晴らしい。ディフェンディングチャンピオンとして、心から歓迎するよ。ようこそ、そして、さようなら」

 

 そこで“首領”は、かぁん、と急に間の抜けた声をあげた。

 次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走る。

 

「があっ......!?」

 

 彼の拳は、俺の身体を捉えてはいない。

 それなのに、殴られたような衝撃が俺を襲った。

 

「悪いが、子供の喧嘩をするつもりはないんでね。容赦はしない」

 

 “首領”はうずくまる俺から数歩離れた位置で、再び殴る動作をする。

 すると同時に、俺の頬に再び強い衝撃が走る。

 

「......『神託』かっ!」

「他に何がある?」

 

 見えない拳が次々と全身を殴打する。

 一つ一つの打撃が、尋常じゃないほどに重い。たちまち口内からは真っ赤な血が噴き出し、身体にはいくつもの痣ができる。

 

 息もできないままにしばらく殴りつけられた後で、“首領”がその手を止めた。

 俺は喘ぐように息をしながら、その場に崩れ落ちる。

 

「これを忘れていた」

 

 彼が空に手を伸ばすと、ボクシンググローブがどこかから手の中に収まる。

 

「熱を通さないから、君が身体から火を噴いても熱くない。それに、これを着けると初心に帰れる」

 

 言いながら、彼はわざわざ向きを変えてシャドーボクシングを始める。

 しゅっしゅっ、と空を切る音がする。俺はどうにか体制を整えると、再び立ち上がった。

 

 その瞬間、再び鉛のような衝撃が身体に走る。

 先ほどよりも遥かに重く、強い強い衝撃。スポーツのためではなく、相手を痛めつけるためのグローブだとすぐに分かった。

 

 一方的な殴打に、力なく腕でガードするのが精一杯だ。

 徐々にダメージが累積していくのがわかる。骨がみしみしと鳴り、頭がぼんやりしてくる。

 

「......私は裏格闘技のリングに立ちながら、最強とは何かを常に考えていた」

 

 腕を振り続けたまま、“首領”が話し始める。

 

「私のキャリアは短いが、一つだけ分かったことがある。一対一で最も強いのは、筋力のある者でもスピードがある者でもない。眼が良いものでもなければ、炎を操るびっくり人間でもない。本当に強いのは、射程(リーチ)が長い者だ。相手の攻撃が届かない位置から一方的に攻撃できれば、必ず勝てる。そして私は、期せずしてその『神託』を得た」

 

 アッパーパンチが俺の顎にクリーンヒットする。

 俺の身体がリング外に弾き飛ばされる。鼻血が口元まで垂れ、視野も心なしか狭くなった気がする。身体中に痛みが走り、思うように動いてくれない。

 

「何が言いたいかわかるか?私こそが、最強だということだ。......それなのに、何故私に挑む。私が君に、一体何をした?」

 

 怪訝そうな顔で問う“首領”に、俺は血が混じった唾を吐きかける。

 

「......何も。俺はただ、相棒を、取り返しに来たのさ」

 

 足を震わせながら、俺は再び立ち上がる。

 身体から炎を出そうとするが、燻んだ黒煙が僅かに立ち上るだけ。

 

 俺は、相棒を取り返しに来た。

 だがここに来た理由はそれだけじゃない。

 

 ルカの眼の輝きに誘われて、俺はこの場所までやって来たんだ。

 色々なものを失って、傷つきボロボロになって、それでもここまで辿り着いた。

 

 彼女の物語の、続きを見たい。

 ほし、俺に翼があったなら。何度も見た夢が叶う瞬間を、この眼で見届けたい。

 

 そして、その世界をみんなで、生きたいんだ。

 

「あああああああああっっっっっ!!!」

 

 俺は絶叫しながら、“首領”に向かって走り出す。

 彼はにやりと笑うと、再び拳を空に突き出した。

 

 だが、先ほどのように見えない衝撃がやって来ることはない。

 俺の身体から発生する黒煙が、どんどん濃くなってきている。視界が遮られれば、いくら射程が長くても関係ない。

 

 拳からほんの小さな、弱い炎が生まれる。

 その炎は徐々に大きく、紅く燃え盛り、巨大な不死鳥へと成長する。

 

「......!」

「ちゃんと見ろよ、二人とも......!」

 

 不死鳥が耳をつんざく金切り声のような音を立て、火の粉が辺りに舞う。

 

「これが、俺の決めた答えだぁぁっっっっ!!」

 

 黒煙を払うかのように“首領”めがけて突進した不死鳥が、崩れ落ちるように“首領”を包み込んだ。

 赤々と燃える炎の中で、彼のもがき苦しむ声だけが聞こえる。

 

 炎の中からどうにか這い出した彼は、体中を黒く焦がし、息を荒くした状態で、それでも笑っていた。

 

「......いいねぇ、ユウ。認めよう、私がこれまで戦った相手の中で、間違いなく君が一番強い」

 

 人は皮膚からも呼吸している。その器官を焼き払われてしまった以上、何もしなければ死に至るだろう。

 その状況でなお、“首領”は嬉しそうな表情を見せる。

 

「あぁ、ユウ。私は、さらなる力を手に入れる。そして......君を、超える」

 

 “首領”は懐から小瓶を取り出し、蓋を開ける。

 そしてその中身を、一口で一気に飲み干した。

 

 次の瞬間、彼の身体が一瞬大きく膨張する。

 二度、三度と、膨張と収縮を繰り返し、そのたびに少しずつ、身体が大きくなっていく。

 

 高揚した様子で、“首領”は自らの身体の変化に喝采する。

 傍目でも、彼の表情に活力が満ち溢れていくのがわかった。

 

 だが、五度目の膨張時。

 膨張した身体は元に戻らず、さらに際限なく膨れていく。床がみしみし鳴り、ヒビが入る。

 

「な、何だこれは!?どういうことだ、このクスリは.......!」

 

 先ほどまでの余裕がなくなり、規格外の大きさになった身体をぺたぺたと触って愕然とする“首領”。

 

「......やっぱり、ナオは言ってなかったか」

「私は......私はいったい、どうなっているんだ!?」

 

 俺は再び階下に下りるドアの前までたどり着き、今や三メートルを越し、風船のようになってしまった“首領”に言う。

 

「欲をかき過ぎたな。......そのクスリは、塗(・)り(・)薬(・)なんだよ!」

 

 俺は叫ぶと、ドアをがちゃりと閉める。すぐに、ドアの前で様子を伺っていたルカと鉢合わせした。

 

「ナオは!?」

「私を置いて、どこかに行っちゃった。......ねぇ、どうなってるの?」

「説明は後だ。もうすぐここは崩れる」

 

 俺はルカの手を取り、痛む全身をどうにか動かして必死に走る。

 エレベーターは“首領”の重みに負け、既に天井が潰れ始めている。俺は階段の方に向かった。

 

 階段を二段飛ばしで駆け下りる。

 腕が引っ張られて関節が外れそうだし、脚の骨は粉々になりそうだ。それでも、ルカの手だけは、絶対に離す気はなかった。

 

 激しい振動の中、前に開けた穴から這い出すように出る。

 そしてよろよろ、と数歩離れた次の瞬間、ビルはがらがらと音を立てて崩れ落ちた。

 

 巨大風船と化した“首領”の身体が、少しずつ縮んでいく。

 人間の身体があそこまで変形して、耐えられるはずがない。建物が完全に崩れ落ちるのを待ち、俺は原形をとどめていない彼の亡骸を確認した。

 

「......綺麗」

 

 後ろで、ルカがぽつりと呟いた。

 視線の先を追うと、真白な満月から放たれた月光が、優しく渋谷の街を照らしている。

 

 これまで、月なんてものを意識したことはなかった。

 より明るいマルキューの巨大な電飾が、その美しさを覆い隠してしまっていたのだろう。

 

「これで、終わり?」

 

 いつの間にか俺のすぐ横まで来たルカが言う。

 俺は小さくかぶりを振って答えた。

 

「これからだ。俺も、お前もな」

 

 そうね、とルカは少し目を伏せる。

 これから彼女には、想像もつかない苦難が待ち受けているだろう。

 

 それでも、もう少しだけ。

 この月光を浴びていても罰は当たらないと、俺は思う。

 

 

 

 

「ちょっと、もう行くの!?」

 

 ルカの怒鳴り声が耳を打つ。

 俺は薄く笑った。

 

「もう大丈夫だって、あのジジイも言ってた。まさかあいつが元医者だったとはな」

「でも、あれからまだだったの一ヶ月よ。全身を骨折してたんでしょう!?」

 

 俺は脚がまだ痛むのを気取られぬように、口角をさらに上げる。

 ルカには悪いが、これ以上足踏みする訳にはいかない。

 

 米軍を通してルカの父親が送ってくれた物資によって、渋谷はかなり復興を遂げてきた。

 “首領”を破った「パロット」を後ろ盾に、ルカはこの街を地獄のオアシスとして、少しずつ変えようとしている。

 もちろんまだまだ街は安心して歩ける状況ではないものの、先行きは明るい。

 

「外」に出られる目処もついた。

 けれど、俺は一人じゃどこにも行けない。

 

「......いつでも戻ってきてね。こっちでも、彼のことは探してみるから」

「気にするな。お前には他にやらなくちゃいけない事が沢山あるだろ」

 

 少し喋ったら、胸のあたりがまたずきりと痛んだ。松葉杖が欲しいな、と俺は思う。

 だが口には出さず、代わりに小さく手を振る。ルカも渋々、といった様子で、手を振り返した。

 

 

 

「がっ......!」

 

 鳥籠。

 僕たちは、そこに閉じ込められたペットに過ぎない。

 

 それなのに、何故ペット同士で争うのだろう。

 分不相応だ、生意気だと、さらにお互いを縛りつけたがるのだろう。

 

 あの街から、少しでも遠くに離れたくて。

 たどり着いた新天地は、渋谷よりずっと劣悪な場所だった。上に立つ者さえいない、完全なる無法地帯。

 

 あの人無しで、僕がこの街で生きていけるはずがなかった。

 拳が腹に叩きつけられる。胃の中の貴重な栄養分が、びちゃびちゃと汚い音を立てて吐き出される。

 

 口の中に広がる血を、指につけて。

 薄れゆく意識の中で、僕は必死に掌に焔を描いた。

 

 虫のいい願いだ。

 分をわきまえない、祈りだ。

 それでも、乞わずにはいられなかった。

 

「......助けて」

 

 助けて。

 助けて。

 助けて、兄貴——!

 

 

「ざまぁねぇな」

 

 

 紅蓮の炎が、視界を真っ赤に染めた。

 

 

 

 

 fin.

 

 

 

 

 

 

 

 


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