僕は喫茶店で人を待っている。入り口の見えるカウンター席で淹れてもらったばかりのコーヒーを嗜みながら、妙に落ち着いた気分でいた。
ボランダストリートにある喫茶店の名はクレル ドゥ リュヌ。月明かりと言う意味らしい。艶消しのされた黒色の木材を基調に組まれた店内は、光量を抑えたランプが照らしていて、なるほど昼日中でも月夜のようだった。
カウンターには穏やかな雰囲気の若い女性が立っている。この店の店主だ。ここは彼女一人で切り盛りしているらしく、相応に店内もこじんまりとしていた。
ケイのおススメだというこの店で、僕は待ち合わせをしている。待ち人はもちろんミクのことだ。
つい数日前、僕は彼女の通う学校に赴き、週末にちょっと付き合って欲しいと言った。当然のごとくミクは驚いていたけど、最終的にはOKを貰い、今こうして待ち合わせているわけである。
今のところ、ケイからの指令は二つ。ギター・ピアノ・キーボード・ドラム計四つの楽譜を書くこと。ミクをデートに誘い、ケイの主催するパーティーで歌ってもらう約束を取り付けること。
後者のためのアイテムとして、僕はケイから映画のチケットを二枚渡された。『王道だろ?』と不敵に笑うケイの、面白がるような瞳を思い出す。どんな映画を選んだのかは調べてはいけないと言われた。見てのお楽しみ、というか一緒に楽しめということらしい。
時計を確認すると、午後一時少し前。そろそろ待ち合わせの時間だ。
来てくれるだろうかと少しばかり不安に思い、扉を見やれば、やや時代がかった喫茶店のドアが押し開けられ、ミクが姿を現した。
胸元にレースの付いたワンピースの上に茜色のカーディガンを羽織った彼女は、小ぶりなバッグを両手で持っていた。
軽く手を振る。こういう店に慣れていないのか、若干戸惑いがちに彼女は店内に足を踏み入れ、きょろきょろと周りを見回している。
「すみません。お待たせしました?」
「ううん、大丈夫。座って座って」
僕の隣の丸椅子を示すと、ミクはふかふかしたクッションに包まれたそれに腰掛けた。
「ご注文は何になさいますか?」
すかさず女店主が寄ってきてオーダーを確認する。
「ええっと、カフェオレをひとつ」
不慣れながらも迷わず注文をしたミクは、かしこまりましたとにっこり笑う女性に釣られて、ぎこちないながらも笑みを返した。その横顔を眺めつつ、僕は飲み頃の温度になったコーヒーを口に含む。
「来てくれてありがとう。お昼はもう食べた?」
「はい。ついさっき」
そわそわと所在無さげに答えるミク。そうして彼女が緊張しているのを見ると、不思議なことに、僕は逆に落ち着いてくるのだった。
「そう。じゃあ昼食はいらないね」
念のため、おススメのメニューを聞いておいたのだけど、無駄に終わったらしい。ちょっと苦笑いだ。
時間を持て余しているのか、ミクは膝の上でもじもじと指を絡めている。そわそわしている感じから、こういうデートの経験はあまりなのかなと思った。そうは言ったって、僕もそうそう経験豊富という訳ではない。それでも、この土地の開放的な風土に影響されて故郷にいるときよりも気持ちがオープンになっているせいか、はたまたミクの歌を聴いて覚悟が決まったせいか、平静に近い心持ちでいることが出来ていた。
「お待たせしました」
言葉とは裏腹に、店主の女性は思いのほか早い対応を見せ、ミクの前に温かそうなカフェオレがそっと差し出される。にこやかに笑って、女店主はごゆっくりどうぞと一言残していった。
力を入れれば簡単に折れてしまいそうなほどほっそりした取っ手をつまみ、ミクはカップを口に運ぶ。こくりと喉がなった。
「美味しい……」
「そりゃ良かった。実はここ、友達のおススメの店なんだ」
顔を綻ばすミクを見て満足した僕は、ケイのセンスの良さに心の内で感謝した。ことお洒落に関して、ケイはあの二枚目に違わない感性を持ち合わせている。僕の落ち着きの一端は、もしかしたらケイへの信頼が関係しているのかもしれなかった。
「そういえば、足の調子はどう?」
「あ、はい大丈夫です。もう全然痛くなくなりました」
カフェオレを堪能していたミクが、すっかり忘れていたといった風に言って足をとんとんと軽く踏んでみせる。
良かった。この前聞きそびれていたから、気になっていたんだ。
「そっか。安心したよ」
僕はちょっと冷めてしまったコーヒーに口をつけた。うん、美味しい。
「それで、これからの予定なんだけど」
「はい?」
カップをソーサラーに戻して、僕は切り出した。カフェオレをふうふうやっていたミクは、半分ほどに減らした中身から僕へ視線を向ける。その表情は来た直後と違い、緊張が取れていっそ無防備ともいえるものだった。
僕は鞄からチケットを二枚取り出して、顔の横でひらひらさせる。
「映画、見に行かない?」
ミクはきょとんとして目を瞬かせていたが、
「いいですね。行きましょう」
と言ってにっこり笑った。
口に出しては言えないけれど、この娘には哀しい顔よりもこういう笑顔がよく似合う。そんなことを僕は思った。