ポリヴォラは夜もにぎやかだ。
日が長いわけではないが、気温は安定していて夜でも長袖なら寒くはない。街の中心、ボランダストリートはナイトライブで盛り上がっているし、町中そこかしこでストリートミュージシャンが演奏している。
さすがに住民に配慮してか、バラードやボサノヴァ、ジャズなどの大人しめの曲が多かった。それがまた無数の街灯(普通の街灯より光は若干控えめ)とマッチして、昼とはまた違った趣きを見せるのだ。俗っぽい言い方をすれば、大人の夜(というには少々早いかもしれないが)って感じだ。
時刻は七時四十分。月、もしくは太陽より音符を見ない時間の方が少ない、と言われるポリヴォラは、この時間帯でも公共交通機関の本数が多いし間隔も短い。
僕は落ち着いた色合いの音符が揺れる様を眺めながら、自身もまたバスの座席で揺られていた。
歩いても良かったのだけど、何時になるか分からない帰りのことを考えると、往きの道程で体力ゲージを減らすのもどうかと思ったのだ。なにしろ、指定された場所が街の西端だ。往復でかなりの距離を歩かねばならない。
自転車買おうかな。それとも、しばらく貯金してスクーターにしようか。
そんなことをつらつら考えて、僕は時間を潰した。目前に迫った楽譜(スコア)の焼き場の謎についても考えたけれど、結局情報が少なすぎて憶測にしかならない。行けば分かるのだ。なら別に頭を悩ませることもない。
細かく振動する車内に相反して、僕の心はほとんど揺れていなかった。
やがて目的地に着いたバスから降り、ひっそりとした無人のバス停からまた少し歩く。地図を見れば、街の外れ、というか、もうほとんど街の外でそれは行われるらしい。
一年と九ヶ月、ポリヴォラには住んでいるが、さすがにこんなところまで足を運んだことはなかった。少し歩けば街から抜け出るから、当然のごとく音楽のおの字も見当たらない。
道路の両側に聳え立つ石造りのマンションの壁が途切れ、緩やかな傾斜の草原地帯に入る。細長い道に沿って歩いていくと、辿り着いたのは墓地だった。鎮座する石の群れの前に人影が見える。
ケンジロウさんだ。昼間と違い、ベストを羽織っている。しゃんと背筋を伸ばして人を待つ姿は、老紳士と形容するに相応しいものだった。
「こんばんは。お待ちしていましたよ」
「お待たせしました」
柔和な笑顔で言われると、こちらも思わず微笑んでしまう。少しばかり涼しく感じた夜気も、心なしか和らぐ気がした。
「どうぞこちらへ」
先導するように歩き出したケンジロウさんに、僕は一も二もなく付いていった。ぐるりと墓地を迂回して、ケンジロウさんはもはや草しかない所まで僕を連れて行く。
果たして到着したその場所は、周囲一帯を根こそぎ掘り起こしたように土が剥き出しだった。月明かりを遮るものは何も無く、ある程度は効く夜目で確認できるのは広がる闇と一人の人間のシルエット。
近付いて分かったが、シルエットの正体は女の子だった。
腰よりも長い青緑色のツインテール。ノースリーブの襟付きシャツに髪と同じ色のネクタイを締め、淵に青緑色のアクセントのある黒いミニスカートを身に着けている。黒いアームカバーを腕に嵌め、これまた黒いニーハイブーツを履いた彼女は、僕に軽く会釈をした。
僕も会釈を返し、そこで少女の向こうにあるものに気付く。
石のステージのような台座に、楽譜の山が載っていた。かなりのボリュームだ。天辺ならざっと見て1m弱はある。
これらの全てが、火葬されるために持ち主の手を離れた楽譜……。こんなにも沢山の曲が、陽の目を見ることなく打ち棄てられているのか。
僕は物悲しくなった。よくよく見れば、くしゃくしゃになったのを伸ばしたものや、千切れたのをテープで継ぎはぎしたもの、水に濡れた跡があるものなど、作者の苦心や苦悩が如実に表れた楽譜が山ほどある。
一部の栄光の陰に隠れた、数多の報われぬ曲たち。華やかな表舞台に登ることを許されなかった歌たち。人知れずひっそりと弔われることは、それらにとって、ひいてはそれらの作曲者にとって、救いとなるのだろうか?
「そろそろ始まりますよ。少し離れてください」
「あ、はい」
ケンジロウさんが僕に告げる。一時の感傷から解き放たれた僕は、楽譜の山に相対する少女の斜め後ろに移動した。
それにしてもこの楽譜の枚数はすごい。インターネットという便利な物があるにしても、どこから聞きつけてくるのだろう? それだけ、音楽に人生を捧げる人間が多い、ということだろうか。
風がさっと通り抜ける。曲ごとにだろう、束ねられた楽譜の端がぱさぱさと揺れた。少女の髪が風に靡く。静かだ。慎ましく鳴く虫の声以外、何も聞こえない。少女は鳩尾辺りに両手を重ねて添え、長く細く深呼吸した。
波打つ髪の隙間から見えた彼女の虚ろな瞳に、僕の背筋がぞくりと震える。
何故だろう。多分、いや、間違いなく。このあと、この場所で、僕の瞳が映す光景を僕は一生忘れない。そんな確信に似た予感が僕の中に生まれた。
月が雲に隠れる。深い深い闇の中で、静かに、そして厳かに“それ”は始まった。