「Ah――――――」
澄んだ伸びのある声。ブレのない正確な音程。
ああ、この娘は本物だ。
彼女の一声を聴いた僕は、それだけでこの少女の実力が並大抵でないことを理解した。
「Ah――――――」
今度はさっきより高い声。徐々に音階を上げていく。ファルセットも綺麗だ。この時点で既に、僕の意識は彼女の歌声に引き込まれてしまった。
「La――La、La――La」
淡く、確かめるように少女は繰り返し声を発する。素直に美しいと思った。優しく甘やかな音が、静謐な空間に溶けていく。
「La――La、La――La」
しっとりと沁みるように。彼女の声は周囲に広がって、羽毛のような柔らかさでもって僕の身体を撫でていった。
「La――La、La――La」
冷たく気難しい暗闇が、瞬く間に温かく親しみ易いものに変貌を遂げる。
『眠れない寒い夜』
『独り空を見上げてる』
『数多星が煌き』
『夢の中のよう』
『願う気持ち儚く』
『星の雨に飲まれてく』
『沈む私の心』
『月の影のよう』
安らかな少女の歌声が温もりを保って浸透していく。雲の切れ間から星が覗き、月のこ漏れ日がいく筋か降りてくる。まるでスポットライトのように彼女を照らし、薄っすらと彼女の背後に影を作った。
『後ろ向きの太陽』
『闇に染められた世界』
『澄んだ瞳に映る』
『偽りの姿』
『そっと目を閉じてみる』
『静かに鳴る風の音』
『孤独を紛らわせて』
『願い続ける夜』
言葉も無い。先ほどまでの寒々とした大気を忘れてしまうほど、温もりに満ち溢れた少女の歌声が黒い空気を伝い、楽譜たちに届いたとき、ある変化が起こった。楽譜の端々にぽぅっと火が灯り、ひとつ、またひとつと焔が闇に浮かぶ。
ぽつぽつと点在する小さな灯はじわじわと勢力を増していく。やがて全ての楽譜に火が宿り、大炎となってまとまった。
燃え広がる紅の火の手は勢いを増し、火の粉を振り巻いて空まで伸びる。歌声で誘い、火をくべ、荼毘に付す。僕は彼女の行為の意味を、理屈など抜きにして理解した。否が応でも理解せざるを得なかった。
曲に秘められた喜びも悲しみも、壊れていく。尽き果て、消えていく。作曲者の想い全てが焔に巻かれて灰になる。なんて、残酷な。けれど、闇に映える音景は、この上なく美しい。
僕は、目の前に広がる幻想的な光景に圧倒されていた。
……圧倒? いや、違う。酔いしれているんだ。この、純粋な空間に。酩酊に眩んだ視界がじわりと滲む。
「……ぁ……」
単純な感想ひとつ言えず、僕は立ち尽くしていた。滂沱として流れ落ちる涙。震える手で頬に触れると、ぬるい涙が指先を濡らす。力尽きて垂れた腕は、弛緩して動かすことも出来ない。
『面白いものが見れるぜ』
ケイの言葉がふっと頭を過ぎった。面白い? 面白いだって? 君はこれを面白いと感じたのか?
無理だよ。僕は、これを楽しいと思えるほど大きな器なんて、持ち合わせちゃいない。
月の光を掬うように、少女は両手を掲げた。幼子をあやす母親みたいな、慈愛に満ちた声音。眠りなさい、安らかに。楽譜たちにそう語りかけるがごとく。
僕の胸が悲しみに支配される。……いいや、それも違う。そんな単純な単語で表せる感情じゃなかった。哀しみ、切なさ、狂おしさ、果ては喜びさえも含んだ複雑な感情がぐるぐるぐるぐるぐるぐると、僕の腹の底で渦を巻く。
気持ちは昂ぶっているのに、頭の中は妙に静かで沈んでいた。
雲が晴れ、満天の夜空から月光が降り注ぐ。そして、少女の歌は余韻を残して遠くに消えていった。
あれほど燃え盛っていた焔も、歌声が離れた途端に陽炎のように揺らめいて消えた。残ったのは萎んだ燃え滓の灰だけだ。
少女はふと振り返り、棒立ちの僕を見て驚いた顔をした。動揺を隠すためなのか、彼女は瞳を逸らし、足早にその場を立ち去った。ケンジロウさんはといえば、淡々と灰の処理をしたあと、僕の肩にそっと手を置いて、何も言わずに帰っていった。
その配慮が有難かった。僕はもう呆然として立ち尽くすしか出来なかったし、しばらくそうして自分を心の奥底に沈ませていたかった。
それから、涙が全て地面に吸い込まれて頬が乾くまで、上も下も分からなくなるような広い空を見上げていた。
ふらふらと酔っ払いのように街を歩き、いつの間にか部屋の前にいた。ドアノブを回して何の変哲も無い普通の部屋に入っても、まだほろ酔い気分だった。
とりあえずシャワーを浴びて、冷蔵庫に入っていた残り物を腹に収めて、のろくさと着替えてベッドに潜り込んだ。
見慣れた天井をぼっと眺めていても、浮かんでくるのはあの光景。今何時だろう、目を凝らして時計を見、時刻を読み取る。
もう夜中の十二時だった。そりゃそうだ。街の端からここまで歩いて戻ってきたんだから。
「La――La、La――La」
少女の歌声を思い出す。耳に焼き付いて離れない音。歩き通しだったにも関わらず、何故か疲れを感じなかった。眠気もまったくない。
ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。時計の秒針がやけに耳に付く。ずっと目を閉じていても、睡魔は一向に訪れてくれなかった。
「ダメだ。無理だ」
布団をばさっと剥ぎ取った僕は、電気を付けて机に向かった。高揚感に任せて五線譜に記号を書きなぐる。腕を止めては考え、頭を掻いては机に突っ伏し、子犬みたいな唸り声を上げては楽譜を睨みつけ。
結局、僕はその夜、夜通しかけて一つの曲を書き上げた。