「っつぅ……!」
右手の指に走る痛みではっと目が覚めた。じんじんと中指が痛む。どうやら、振り上げた手が机の裏だか足だかにぶつかったみたいだった。何か、幻想的な、不思議な夢を見た気がするけど、いまいち思い出せない。現状を把握するまでに、僕の寝ぼけた頭は五分を必要とした。
明るい。昼だ。間違いなく寝過ごした。眠りに落ちたのは明け方だろうか。またも僕は、机に突っ伏して眠っていたらしい。体を起こすと、頬の下敷きになっていた五線譜がほっぺたに引っ付いてきた。
それを引き剥がして時計を確認する。午後一時半。今日のバイトのシフトが五時からだから、図らずも体内時計の調節が出来たわけだ。
もう一度布団に潜り込んで二度寝といきたいところだけど、なにか腹に詰めた方が後々のためだろう。と思って冷蔵庫を確認しても、すぐに食べられそうなものは残っていなかった。
とりあえずと台所で顔を洗い、振り返れば、机どころか床にまで散乱した楽譜がある。丁度いいや。あれを売るついでに昼食も食べてこよう。
昨日と打って変わってすっきりしない気分を引きずって、僕はシャワーを浴びた。落ち込みに似た心境で着替えて鞄を掴み、外に出る。
ストリートに出て、う~んと伸びをした。
「ふぅ」
そういえば、今日は昨日より通りを歩く人がちょっと少ない。けれど、人の流れは一方向に向かっている。と、そこで思い出した。そうか、今日は休日だっけ。
ボランダストリートに流れる人々に混じって、僕はお腹に優しい料理を出してくれる店を探す。
昨日見かけたホットドッグのフードワゴンは見当たらなかった。もっと売り上げが出る場所に移動したに違いない。休日で稼げる所といえば、ボランダストリートに決まっているからだ。
「っと……」
喫茶店を通り過ぎた僕は、思い直してそこへ入ることにした。寝ぼけた頭をすっきりさせる意味で、珈琲をいただくのも悪くない。
モダンな雰囲気漂う喫茶店で珈琲セットを頼み、ぺろりとそれを平らげて、僕は店を後にした。
そんなこんなで辿り着いたボランダストリートは、相変わらずカーニバルの様相を呈していた。
昨日と違うのは、人の数だ。休日になると各種イベントが催されるから、人混みも三割増しくらいになる。元の数が多いので、三割でも十分過ぎるボリュームだった。
交通規制がかけられ、歩行者天国になったボランダストリートは、腕を振るえば人に当たるほどの賑わいを見せている。その上を小躍りして音符が入り乱れるのだから、音の波、人の波が絶えず揺れる海原といった表現がぴったりだ。波にさらわれてとんでもない所に流されないように、気を付けなくてはいけない。
さて、今日はどんなイベントがあるのかな?
ストリートの入り口に立てられた看板を覗き込む。有名アーティストのライブ、新参バンドのデビューライブ、著名人のチャリティーコンサート、音楽関連のイベントが目白押しだ。
人の集まりを狙って、飲食店の出張もある。本格レストランからシェフが出張ってきたり、チェーン店が限定メニューを販売していたり。ビアガーデンやワインの試飲会なんてのもあった。
午前のイベントは当然もう終わってしまっている。見るなら午後の部。今やっているのは素人参加のベストシンガーコンテスト。『飛び入り参加大歓迎! 新たな逸材にお目にかかれるかも!』なんて書かれている。それが終わればコンテストは歌唱の部から演奏の部に入るらしい。
ちょっと興味あるな。気分転換にもいいかもしれない。
僕は看板に描かれた地図を確認し、人の海に紛れ込んだ。開催場所はそんなに離れていないけれど、この状況だ。ちょこっと移動するにも大変に苦労する。だけど僕は大丈夫。なんたってもう二年近くこの街に住んでいるのだから、雑踏を移動するコツならちゃんと掴んでいた。ポリヴォラに来て一番上達したのは、人混みの泳ぎ方だと思う。
「本当は作曲の腕って言いたいんだよなぁ」
自信を持ってそう言えない自分が悲しい。努力も勉強もしているつもりだけど、まだまだアマチュア。僕は二流どころか三流にも届かない凡人だ。悔しいが、それは認めざるを得ない。
人の流れに上手く乗って、溜め息を付く暇もなく僕はコンテスト会場に辿り着いた。人だかりに前には、成人男性の身長ほどの高さのステージがあって、黄色い髪の双子がデュエットをしていた。
見たところ、二人ともまだローティーンだろう。元気一杯の少女の声と、控えめにそれをフォローする少年の声がぴったりと重なって、年齢の割には充分に上手い粋に入っていた。
黄色髪の少女の楽しそうな歌い方に、へぇと感心して聞き入る。ステージに群がる観客たちも、微笑ましいものを見る目で二人の歌を聴いていた。
もう少し近くに寄って聞きたい。そう思った僕は、早速移動を開始した。無理なく入れるスペースを縫ってステージに近付く。そうしたところで、僕の視界に見覚えのある、特徴的なものが飛び込んできた。
青緑髪のツインテール。昨晩の記憶がフラッシュバックする。赤茶のニットカーディガンに膝丈のプリーツスカート、そして黒いニーハイブーツと服装は違っても、記憶に新しい後ろ姿はおそらくあの娘に違いない。
だけど、彼女がこんな平凡な風景の中にいることが、僕にはどうにも信じられなかった。
本当に彼女なのか? 人違いじゃないだろうか?
僕に衝撃を与えた少女かどうか確かめるため、僕は彼女の顔が見える位置まで進んでいった。