裏話難しスギィ!
入学式の翌日、2日目の放課後。この日は部活動説明会が行われる。部活に入る予定の愛はもちろん行くつもりにしているのだが、一人だと寂しい。
そこで目をつけたのが堀北鈴音だった。堀北は今後必要不可欠な人だし、ある程度関係を深めておくのもいい。
そう思って、ホームルームが終わってすぐ堀北のもとへ向かい、抱きついた。特に深い意味は無いが。
「堀北ちゃん、部活動説明会行かない?」
「行かないわよ。部活なんて入るつもりないもの。それに離れてくれないかしら」
愛は堀北が部活動説明会に行かないことも、部活に入らないことも知っていた。正確には
それでも、愛は堀北と友達になるべく折れるまで誘い続けるつもりでいた。
「堀北ちゃんが一緒に行ってくれるって言うなら考えてあげる」
「綾小路くんが一緒に行きたいらしいから、二人で行ってきたらどうかしら」
「じゃあ綾小路くんも参加決定。あとは堀北ちゃんが頷くだけなんだけど。綾小路くんからも何とか言ってあげてよ」
愛がそう言うと、綾小路は自分に振られたことに少し驚きながらも、堀北を勧誘すべく口を開く。
「堀北、行って損はないと思うぞ」
「それは得もないってことよね?」
「それは……」
綾小路が言葉に詰まらせていると、堀北は大きなため息を吐いた。
「……分かったわ。少しだけなら行ってあげるわ。だから離れてくれないかしら」
「ありがとう、堀北ちゃん!」
「はぁ……」
堀北も仲間に加えた愛は3人で体育館へ向かう。
部活は何にしようか。出来れば個人種目がいい。団体種目は向いていないと知っているから。
そんなことを考えながら体育館へ向かう。
「綾小路くんは部活入るの?」
「いや、オレは入らない予定だ。少しでも友達ができたらなぁ、って思ったんだ」
「なるほどなるほど」
綾小路は昨日の自己紹介で失敗していた。事なかれ主義としては、ほどほどに友達がほしい。可もなく不可もなく、そんな学生生活を目指している。
「あ、じゃあ連絡先交換する?」
「いいのか?」
僅かに綾小路の口調が弾んだ。何せ彼が初めて手に入れることになった連絡先が愛のものだからだ。
堀北はそんな二人を一度見て、視線を前に戻した。体育館はもう目の前だ。
「よかったじゃない、綾小路くん。友達ができて」
「……そうだな」
体育館には既にかなりの一年生が集まっていた。その中には、須藤健や池寛治、山内春樹の姿もあった。
「おい綾小路、お前もう抜け駆けか!?」
「違うって」
「俺より先に彼女作るとか許さねえからな!」
確かに側から見ればそう見えるかも知れない。しかし、綾小路にとっては片方は未だ友達認定されてもらっていない堀北、もう片方はさっき連絡先を交換してもらったばかりの愛。
自己紹介で失敗した綾小路が2日目にして彼女を作るなど、普通に考えればあり得ない話である。
「違うって。私たちは友達ってだけ」
「ならいいけどよ」
愛が助け舟を出すと、須藤以外の二人は急に安心した表情になり、絶対に先に彼女つくんじゃねえぞと言い残して何処かへ行ってしまった。
「須藤くん……だっけ。君は部活入るの?」
「ああ。俺は子供ン時からバスケ一筋だ」
「へぇ、団体競技かぁ。私が苦手な分野だなぁ」
「俺も団体競技は苦手だと思ってたんだけどな。バスケだけはしっくり来たんだ」
そんなことはないだろう、愛は内心思った。
団体競技は一対一ではない以上、自分自身の能力を最大限発揮するだけではどうしようもないところがある。その点、個人競技は自分のことだけに集中できる。愛にとっては、後者の方がしっくり来ていた。
「そっか。私は個人競技の方が好きだからねー」
「静かにしてください」
そんな他愛無い会話をしていると、物腰の柔らかい声が体育館中を包み込んだ。
「これから部活動説明会を始めます。司会は生徒会書記の橘です」
私語は止み、それぞれが部活を知るべく壇上に注目する。
サッカー部や野球部などメジャーなものから、滅多に聞かないようなマイナーな部活まで様々だった。しかし、どれにも共通して言えることがあった。
「やっぱり施設は充実してるんだね」
「国立だからだろうな」
多くの部活に──特に、部員の多い部活に専用の建物がある。部員が多いほど部費も増えるので、当然のことと言えるだろう。
「──っ」
突如、先ほどまで綾小路に空手を勧めるほど軽口を叩いていた堀北の動きが硬直した。
「この部活は──って堀北?」
「……」
綾小路の声にも全く反応せず、その視線は壇上に向けられたままだった。
そんな堀北を見た愛は、あろうことか頬を突きだした。
「おお、柔らかいしすべすべだ……。毎日手入れしてるね、これは」
「……やめなさい」
「あはは、ごめんね? ちょっと面白くって」
堀北が愛を睨みつけるが、当の本人はそんなものは全く気にしていなかった。
そして最後の紹介、生徒会。壇上には生徒会長の堀北学──堀北鈴音の兄が立っていた。
堀北はさっきと同じように全く動かない。愛はまた頬を突くが、今度はそれにも反応しない。
「返事がない、ただの屍のようだ……」
「いや死んでないだろ」
「そりゃそうだよ。例えだからね」
学は一向に話そうとしない。そのせいか、会場は笑い声や私語で溢れかえる。このままでは埒が開かない、そう思って橘が注意を呼びかけようとしたところで──会場が静まり返った。
無駄な話はしてはいけない、そんな謎の張り詰めた空気に包まれていた。
「すごっ……」
壇上で淀みなく生徒会の説明を行う学に、愛は感嘆の言葉を漏らす。
学が話を終えて、解散になってもしばらくその空気は留まり続けた。
帰っていく生徒の中にも、萎縮しきった様子の人が何人か見受けられた。
「おーい、堀北ちゃん、終わったよー」
「……分かってるわよ」
一番影響を受けていたのは、彼に一番近い少女だった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
──何だあの変人は。
4月も半分が過ぎ、Dクラスの誰もが八遠愛に抱いた感想がそれだった。
櫛田桔梗や軽井沢恵をはじめとした活発な生徒と関わりを避け、堀北や綾小路、極め付けには高円寺六助と言った目立たない生徒や変わり者とばかり仲良くしようとしているからだ。その上、ポイントはいくらでもあるはずなのに、食堂では何食わぬ顔で山菜定食を頬張っている。0円モノを買っている様子しか見たことがないので、実は0円生活をしているのではないかという噂さえ流れる始末。
決して性格の悪い人間ではないのだろうが、そういった謎めいた行動のせいで近寄りがたい人だというイメージが定着しつつあった。
「おはよう、堀北ちゃん!」
「抱きつくのはやめなさい……。それに、ちゃん付けも止めてと言ったでしょう?」
だからこそ、堀北にとって愛が話しかけてくることはある意味櫛田よりも鬱陶しく感じていた。
純粋に“疲れる”のだ。
「え? 何それ初耳なんだけど」
「はぁ……」
今の注意も以前に何度したことか。堀北はそう思いながらため息を漏らした。
堀北がやめてほしいと言ったことはことごとく無視された。関わるな、抱きつくな、ちゃん付けするな……。
堀北がどれだけ関わりを持たないようにしても、愛は次の休み時間には同じように話しかけてくる。
優先順位の先頭が自分自身ではないことが唯一の救いかも知れない、そう思わなければ今まで孤独を貫いてきた堀北のキャパを超えてしまいそうだった。
それは堀北に限ったことではない。綾小路や佐倉といった、友人を作ることに失敗したり、一人を好む人によく話しかけているのを見る。にも関わらず、軽井沢をはじめとしたグループには関わろうとしないばかりか、拒絶とも取れる反応を示していた。櫛田に似ているようで全く違う。八遠愛はそんな少女だった。
「あ、そういえば今日って水泳の授業があるんだったよね」
「らしいわね。あそこで集まって良からぬことをしているけれど」
堀北が視線を向けた先では、池や山内をはじめとした男子生徒数名が下らない会話をしている。その声は教室中によく響いていて、何人かの女子生徒が怪訝そうな顔をしながら会話していた。授業を見学しよう、という類だ。
その男子の集団の中には綾小路の姿もあり、すぐに愛の目に留まった。
「池くんたちがこんなに朝早くに来てるなんてね。面白そうだし行ってみようっと」
「そ、そう……」
愛が池たちの方へ向かって行くのを確認すると、堀北はまた小さくため息を零す。
八遠さんは自分とは違って一人を好むタイプではない。ポイントも全て使い切った訳ではないはずなのに、山菜定食ばかり食べている。コンビニで会った時も、真っ先に0円コーナーを見つけてそこの物を買っていた。
八遠愛の行動の目的は何なのか。
いくら考えても、堀北の頭に浮かぶのはそんな疑問だけだった。
「へえ、童顔で貧乳だから興味ない? 子供っぽい体型で悪かったね!」
「ごめんって、ごめんなさい!」
そう騒ぎ立てる池と愛を無視して、堀北は本を開く。一刻でも早く本の世界に入って、頭痛の種から逃れたかったのだ。
それでも既に悩みの種は堀北の頭にしっかりと根を張っていた。ページをめくる手がほとんど進んでいないのだ。
ちょうど教室に入ってきた高円寺の元へぱたぱたと駆けていく少女の謎の多さが、かえって興味を惹いてしまう。
「おはよう、高円寺くん。今日も決まってるね」
「おはよう、八遠ガール。今日も君は相変わらずだねぇ」
どうやら高円寺は愛とだけまともな会話をするらしい。変わり者同士、何か近いモノを感じたのか分からない。
そんなことを考え、堀北は一度上げた顔をまた本に戻した。
そこにあるのは、いつもと何ら変わらないただの日常だけなのだから。
今日もDクラスは騒がしい。休み時間も、授業中も。堀北には本当にこれを授業と呼んでもいいのかと頭を抱えるほど悲惨なものだったが、教師は誰も注意する様子はない。
そんな騒がしさの中、時間はあれよあれよと経過していく。
そして数時間後、男子が楽しみにしていた水泳の授業を迎えた。
高度育成高等学校のプールは、屋内型でしかも温水だ。そのため、4月という水泳には早い時期でも授業を行うことができる。
いつもは遅刻したり時間ギリギリに登校してくる池たちが朝早くから盛り上がっていたのは、この授業のためだ。
「長谷部は!? 長谷部がいないぞ!」
女子が着替えて男子と合流すると、池がそう叫んだ。
池の言う長谷部という生徒は、併設された見学スペースに姿を現した。
「巨乳が……。あぁ……」
目に見えて落胆する池たち数名の男子生徒。女子たちはそんな彼らを汚物を見るような目で見下している。
「何してるんだか。朝からあんなことしてたらそりゃそうなるって」
「俺たちは今崖っぷち……。そして目の前には断崖絶壁……痛い、痛いって! ギブ! ギブ!」
「何か言うことは?」
「ご、ごめん!」
池を羽交い締めにすると、どこから出したのか分からないほど冷たい声で愛は池に迫った。
池は謝ったことで無事に解放されたが、膝は笑っていた。しかし、周りの男子には聞こえていないようで、揃って首を傾げていた。
「愛ちゃん、池くんが可哀想だよ」
「……」
「櫛田ちゃん……!」
愛は櫛田を──正確には櫛田のある一部分を──睨みつけていた。
何人かはそれに気づいて理由を察して苦笑いを浮かべていたが、櫛田は気付いていないかのように笑顔を浮かべていた。
愛は櫛田を一瞥すると、顔を伏せて横を通り過ぎていく。
「櫛田ちゃんには私の苦労なんて永遠に分からないだろうね」
「……」
すれ違いざまに発せられた、二人にしか聞こえない声。だが、周囲の空気を一変させるには十分だった。櫛田にさえ聞こえていれば、お得意の笑顔が消える。異変に気付いた周囲に広がっていくまでにはそう時間はかからない。
櫛田の目標に『全員と友人になる』というものがある。本人もそれを達成できるだけの力はあると思っているし、だからこそ未だに愛と友人関係になれていないことに疑問を抱いた。
八遠さんはコミュニケーションが苦手なわけじゃない。現に堀北や佐倉さんをはじめとした子との仲はいいように見える。でも、私や軽井沢さんたちに対しては
八遠さんとは違う中学校。
堀北が教えた……? そんなことをあいつがするはずがない。多分あいつの中では
様々な憶測が櫛田の頭を駆け巡るが、どれ一つとして当てはまるものがない。
「櫛田ちゃん……?」
「ごめん、何でもないよっ!」
池に声をかけられて櫛田は我に返った。離れたところで高円寺と親しげに談笑している愛には、さっきの面影はどこにもなかった。
「おーい、お前ら並べー」
体育教師の号令がかかり整列する。教師の男は参加者の少なさを一瞬だけ気に留めたが、追及することはなかった。
「今日は最初だし、50m泳いでもらうからな」
「先生、泳げません!」
男子生徒の一人が、そんな悲痛な声をあげた。他にも何人かいるようだったが、教師はそんな彼らを見渡して言った。
「大丈夫だ、俺が絶対に泳げるようにしてやる。いつか役に立つときがくるからな」
「絶対にいらないですって!」
「いいや、ダメだ」
そう言って準備運動をするように指示した。各自散らばって、楽しげに喋りながらする人、見えきった未来に絶望する人など様々だった。
愛は相変わらず高円寺との会話を楽しんでいた。
「高円寺くんは水泳も速そうだよね。筋肉割れてるし」
「そうだねぇ。この中では私に匹敵する相手はいないね」
相変わらずの自信家だ。誰の実力も見ていないのに、自分が一番と言い切った。
実際にそうだから反応に困るなぁ……。
ポーズを決める高円寺を見て、愛は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そういう八遠ガールはどうなんだい? 早くから私の魅力に気づいた君なら一位を取って当然だと思うんだが」
「あはは、どうかな。でも、負けるつもりはないかな」
強敵といえば、堀北や水泳部の小野寺たち。
だが、負ける未来は見えなかった。
自分には才能がある。ちょっと運動ができるから、部活動でやっているから、そんな理由で負けるつもりは全くなかった。
各自準備体操が終わると、50mの競争をすると宣言した。
泳ぎが得意な人からは歓声が上がるが、苦手な人は悲痛な叫び声をあげるしかなかった。
「記録が悪いやつ10人は補習だからな、ちゃんと泳げよ。その代わり男女それぞれ一位の生徒には俺から5000ポイントあげよう」
その言葉が運動が不得意な生徒に追い討ちをかける。一方の自信がある人は、少しでもポイントを得ようと躍起になった。特に、多くの生徒は金欠になり始めている頃だったのだから。
その後、男女共にいくつかのグループに別れて予選を行う。予選突破を決めて喜ぶ生徒、まずまずの成績で安堵する生徒、最下位フィニッシュを決めて補習確定に嘆く生徒など様々だ。
男女別にいくつかのグループに分けられて予選を行うことになった。最初に男子の予選を行いそのあと女子の順位決定戦、男子決勝へと続いていく。
「堀北ちゃんとグループかぁ。楽しみ」
「相手があなたでも小野寺さんでも負けるつもりはないわ」
「言うねー、堀北ちゃん」
その会話の間、男子の予選が行われていく。まず須藤が決勝進出を決めた。
「あれ、綾小路くんはダメだった?」
「ああ。順位は真ん中辺りだからな」
2組目の綾小路は決勝には進まないが、補習もないという微妙な位置で泳ぎ切った。
「その割にはフォームはすごく綺麗だったよね」
「そうね。体つきもしっかりしているもの。綾小路くん、中学の頃は何かやっていたのかしら?」
「ああ、ピアノと書道なら」
綾小路はそう言ったが、堀北は全く信じていない様子だった。
「書道ってあのでっかい紙に書くやつなんじゃない? 座って書くやつじゃここまで筋肉いらないでしょ」
「ちょっ」
「おおー、筋肉だ……。堀北ちゃんも触る?」
「やめておくわ」
愛が綾小路の許可なく体を触り出し、堀北にも勧める。綾小路は急な出来事に驚いていた。
「お、最後じゃない?」
スタート地点に向かっていたのは平田だ。女子からの歓声を一身に浴びていた。
「フッフッフ、私の肉体美に見惚れているだけではいけないよ」
「……」
同じ組の高円寺は何をどう勘違いしたのか、平田に向けられた黄色い声援を自分に向けられたものだと思っているらしい。
女子からは気持ち悪い、などと言われているにもかかわらず、本人は気にしていなかった。
高円寺が履いているのはブリーフ。女子が引くには十分すぎる威力だった。
「高円寺くん、頑張って!」
「フッ」
愛が高円寺に向かって声援を送ると、高円寺は手を上げて応える。しかし、周りからの視線は冷たいものだった。
けれども、愛には野望がある。最速で2000万ポイント集めてAクラスに上がるという野望が。与えられた才能と知識をフル活用し、誰も成し遂げたことのない偉業をやってのけるのだ。
そのためには、多少の恥さらしは我慢せねばならない。
「よく高円寺くんと仲良くしようと思ったわね」
「なんか逆にあれくらいの方が面白そうかなーってね」
その会話とほぼ同時に笛が鳴る。
一斉に飛び込み、平田と高円寺が先頭争いを展開する。
しかし、それも長くは続かない。
「うおっ、あいつ速っ!」
高円寺は平田を突き放し、折り返しの時点で体半分ほど先行した。須藤が驚くのも無理はないだろう。
そのまま高円寺が独走を続け、先頭でフィニッシュ。
「フッ、今日も私の筋肉は絶好調だねぇ」
それでも本人はまだ余裕そうだ。
平田は2位でフィニッシュしたが、決勝には出場できるタイムだった。
「平田くんすごいよね。何でもそつなくこなすイメージじゃない?」
「まあ、そうね」
2位は1位の影に隠れて目立ちにくいと言われているが、平田にはそんなことは関係ないらしい。決勝でリベンジしてやれ、と女子から声援を受けていた。
「あ、次私たちの番だね」
「ええ」
愛と堀北は立ち上がり、スタート台へ向かう。しかしその途中で一度立ち止まり、堀北の方を振り返る。
「本気で泳いでよ」
「……」
事実上の宣戦布告。堀北がそう理解するのにほとんど時間はかからなかった。まだ戦いは始まっていないにも関わらず、そう言い切った。その自信家っぷりは高円寺に似ているものがあった。
「流石だね、高円寺くん」
「私ならこれくらいは当然さ」
すれ違った高円寺からの返事に、相変わらずだねぇ、と苦笑いを浮かべ、愛はプールの中へ入る。温かな水が心地いい。
「よーい」
そして笛が鳴り響く。
同時に壁を蹴り、ゆっくりと浮上していく。十数メートルのところでクロールの形に。
隣には──堀北ちゃんだけ。みんな、もう何十センチか後ろだ。これからどんどん差が広がっていくのだろう。それは堀北ちゃんも多分同じ。それは寂しい。
ターンしたところで後ろとの差は身体一つ分。これでも本気では泳いでいない。周りが遅いだけだ。
来たところをまた戻り、愛は1着でゴール。他も続々と泳ぎ終えた。タイムは25秒ジャスト。記憶の中での小野寺のタイムは26秒台だったはずだから、これでいいはず。
プールから上がり、ゴーグルを外し、元いた場所──今綾小路がいるところへ戻っていく。後ろから堀北が早歩きで追いかけて来た。息が荒いので堀北なりに全力で泳いだのだろう。
「はぁ……はぁ……あなた、今の本気じゃなかったわよね?」
「どう思う?」
互いの視線が交錯する。愛の挑戦的な笑みを、堀北は真正面から受け止める。
愛は小柄ではあるが、堀北には愛のシルエットがいつもよりも大きく見えていた。
堀北から目を逸らし、愛はまた綾小路の隣へ移動する。
「意外と速いんだな」
「意外って言葉が腑に落ちないけど……まあいいや。まあ、あの中じゃ負けることはないかな」
堀北が愛を睨んでいたが、それ以上何か言うことはなかった。
腰を下ろし、プールの方へ目を向ける。
こちらの方が色々な意味で激戦区だ。小野寺と櫛田がいる。各所で激しい争いが行われることは間違いないな、と愛は思った。
「八遠、高円寺はいいのか?」
「……あんなんじゃちょっと近寄りにくいでしょ」
「だな」
視線の先では、水道の鏡に向かってポーズを決めては『嗚呼、今日も私は美しい……』と自画自賛している高円寺がいた。その身なりも相まって、さすがの愛でも易々と近づくことはできなかった。
そんな高円寺の様子を眺めていると、スタートの笛が鳴り渡った。
スタートから抜け出したのは、やはり小野寺。水泳部に所属しているだけあって力量はかなりのもの。どんどん後ろを引き離していく。
「やっぱり水泳部は強いね〜」
「経験が違うんだろうな」
そのまま小野寺が一位でレースを終えた。タイムは25秒台だったが、僅かに愛には届かなかった。
「あっぶなー……」
「あなたが一位かしら」
「そうだね。樋口は私のものよっ!」
堀北は興味なさげに「良かったわね」と言うとそれきり口を開かなくなった。まだ負けたことを根に持っているらしい。
ため息を漏らした愛は、これから行われる男子の決勝を見るべく視線をプールの方へと移す。
男子の決勝には概ね予想通りの生徒が集まったと言えるだろう。
決勝でも平田は誰よりも歓声を浴びていた。それを見た須藤は舌打ちをしていたが、高円寺は相変わらず自分に向けたものだと勘違いしている様子だった。
「綾小路くんは誰が勝つと思う?」
「オレは……須藤だと思う。予選も相当速かったしな」
「平田くんはないでしょうね」
「平田くんも速いけど、やっぱりこの相手には厳しそうだよね」
優勝者が誰かなんて
きっと与えられた知識が無くとも、誰が優勝するかなんて簡単に予想がつく。
「でも、多分高円寺くんが勝つんじゃないかな」
「それは単純にあなたが勝って欲しいだけじゃないかしら」
「ううん。須藤くんも平田くんも予選でかなり疲れてる。でも、高円寺くんだけはまだ余裕があったからね。多分本気で泳いでないんじゃないかな」
陸上を例に出すと分かりやすいかも知れない。
予選だと突破を確信した場合、最後に流すのが普通だ。それは決勝に向けて体力を少しでも多く残しておくための戦略の一つ。
もっとも、高円寺自身にそんな意図があるかどうかは愛にも分からなかったが。
「始まったな」
「そうね」
一斉に飛び込むと同時に歓声が沸き起こる。ほとんどが平田に向けられたものだということは言うまでもない。
しかし、折り返しの時点で先頭は高円寺。それに須藤が続く。平田は僅かに遅れる形となった。
しかし、最終的には高円寺が須藤を5m離して先にフィニッシュ。須藤は前半で体力を使い果たしてしまっていた。
そのあと3位で泳ぎ終えた平田だったが、プールサイドに上がるとすぐに女子に取り囲まれていた。
ちなみに決勝にはもう一人いたが、愛も堀北も綾小路も誰も名前を覚えていないいわゆるモブ生徒だった。
無事に愛は5000ポイントを獲得した。『最速でAクラスに昇格する』という彼女の目的に一歩近づいたと言えるだろう。必要なポイントが2000万である以上、全工程から見ればとても小さな一歩だ。
目標を成し遂げるためとはいえ、高円寺というもっとも面倒であろう男と交友関係を築くことは非常に気に食わない。しかし与えられた知識がそうしろと警鐘を鳴らす。この先行われる無人島試験や体育祭で高円寺はサボってしまう。それだけは食い止めなければならない。
授業後、偶然高円寺の姿を見つけた愛は彼の下へ向かった。
「高円寺くん、一位おめでと」
「フフッ、私にかかれば当たり前のことさ」
髪を掻き上げ、高円寺は続ける。
「そう言う八遠ガールも一位だったじゃないか」
「結構ギリギリだったけどね……」
「その割には余裕そうだったようだねぇ?」
「うっ……」
高円寺は協調性が皆無なだけでとても優秀な男だ。やはりバレていたか。
「一度も息を荒くしていなかったことに私が気づかないとでも?」
「……ううん。意外とちゃんと見てるんだなって思っただけ。私が見た時はいつも鏡と睨めっこしてたからさ」
「相手の方から話しかけてくるというのは珍しいからねぇ。気になるのは当然だと思うのだがね」
それもそうだ。ただ、もう少し時間がかかるだろうという予想でいた。高円寺は自分にしか興味が無い男だと愛は考えていたからだ。
「そうだよね」
あはは、と愛は笑った。
何にせよ、状況は少し進展したと言えるだろう。友人とは言えなくとも、興味を抱いてくれたのだから。
この平和な生活が終わるまで残り2週間、それまではぬるま湯に浸かっていてもいいだろう。
高円寺の隣を歩く愛の足取りが僅かに軽くなった。