書きたいことが多すぎてただでさえ文字数が多い裏話の分量がさらに1.5倍になってしまいましたが、頑張って読んでください(丸投げ)
クラス内投票試験を終えた翌日。
整然と並ぶ机の列に、1箇所だけぽっかりと穴が空いた。
退学が決まった山内春樹が使用していた椅子と机は、初めからなかったかのように取り除かれていた。
「こうして見ると、少し寂しさを感じるわね」
隣の席の堀北がその方を見ながらそう呟く。
年度が変わって席替えが行われない限り、あれは残り続ける。
「これ以上退学者が出ないといいけどね」
「そうね。そのためにはプライベートポイントを用意しておく必要がある」
「だねぇ」
「あなたにも協力して欲しいのだけど?」
「なんでさ」
「あなたがこのクラスの一員だからよ」
「ほどほどに頑張るよ」
このクラスがAクラスに昇格しない程度にではあるが。
愛としてはこのクラスがどうなろうとどうでもいい。
2000万という莫大なポイントを集め、Aクラスに移動することができれば。
極論、綾小路や堀北、龍園が退学しても救済しようとは思わない。
それを嫌うのは愛が存在しなかった場合にたどるルートとの乖離によって、原作ルートが役に立たなくなることをなるべく避けたかっただけだ。
「この学校の本性を見せつけられたような感覚ね」
「そう?」
「今まで何度か退学の危機に直面した生徒がいたことはあったけれど、今までそういう生徒はいなかった。けれど今回、退学者は出てしまった」
「確かにそうかも。中学生までは義務教育だし、何しても退学にはならないっていう印象だったからね」
高校からは義務教育の枠を外れる。
学校の品位を落とすような言動を行えばそれ相応の罰が降るわけで。
それでもこの学校の特異性は十分に体感させられているのだが。
「全員揃っているか?」
入室した茶柱が開口一番にそう言う。
この場には確かに39人全員が揃っている。過不足はない。
「では、これより今年度最後の特別試験の発表を行う」
要約すると、自クラスと相手クラスがそれぞれ作成した10の種目──合わせて20の種目から7つの種目を選んで戦い、その勝ち数を競う試験。
作成する10の種目のうち、5つを本命、残りの5つをブラフとするところは特筆しておくべきだろう。
そして肝心のポイント変動だが、1種目ごとに負けたクラスから勝ったクラスへ30クラスポイント移動させる。また、勝ったクラスに100クラスポイントが付与される。
例えば4勝した場合、相手クラスからの30ポイントと100ポイントを合わせて130ポイント獲得することになる。
一方、3勝しかできなかった場合30ポイントのマイナスという結果になる。
3勝と4勝では160ポイントの差が生まれるということだ。
また、種目はルールが簡単で有名なものであればなんでも良い。
特技を聞かれた池が『じゃんけん』と答えると、茶柱がそれを記入していく。
「ルールはどうする?」
「えっと……3本先取?」
「大勢が知る種目かつ単純明快なルール。学校がこれを認めない理由はないだろう」
「種目決まっちゃったよ……」
と、このような具合に。
種目の範囲は意外と広い。その中からクラスに合った種目を選ぶ必要がある。
「また、各クラス1名ずつ『司令塔』を選出してもらう」
「具体的に何をするんすか?」
「『司令塔』の役割は各種目の参加生徒を決めることだ。なお、『司令塔』は種目に参加できないという点は注意しておくように。だが、各種目の任意のタイミングで介入することができる。条件は種目を決める際に同時に策定してもらうことになる」
さらにいえば勝利した場合『司令塔』は追加報酬を獲得できる。
敗北した場合は退学という厳しい処分を受けることにも注目しておく必要があるだろう。
「特別試験の今後の日程を説明しておく」
今日が8日。種目の発表は15日。試験本番は22日。
つまり種目の決定に1週間、それから本番までの準備期間が1週間ということだ。
「なお、種目決定の際のルールはこのパンフレットに書いてあるのであとで目を通しておけ」
質問がないことを確認した茶柱は、そう言って教室を後にした。
愛は隣の堀北の方へ目を向ける。
現状平田が全く機能していないので、その代わりを堀北にやってもらう予定だ。
実際、チラホラとパンフレットを見に動く生徒はいるものの動きにまとまりはない。
クラスポイントが大きく動く特別試験でまとめ役がいないとなると大敗は避けられない。
まあ負けることには変わりないのだが。
「……はぁ、わかったわよ」
ちょいちょい、と目配せをすると堀北は仕方なくといった感じのため息を漏らした。
Aクラスに上がりたい堀北が嫌そうな仕草を見せているのは、愛に従うと愛の計画を進行させてしまうと危惧しているからかもしれない。
しかし現状のまとまりのない状況を打開しなければならないことは共通認識であるから、ああいった表情を見せたのだろう。
「……今回はまたほぼ出番なし、かなぁ」
司令塔は綾小路の役目。まとめ役は堀北の仕事。
愛は面白くなさそうに窓の外の景色を眺めた。
***
その夜、愛は堀北の部屋を訪れていた。学年末試験の作戦会議をするためだ。もちろん泊まりである。
写真に収めた種目決めのルールを改めて確認する。
「これは結構難解だ」
「ええ。全員が理解するまで時間がかかりそうね」
ここまでの成績だけを見れば最も優秀と言えるが、一部の生徒の活躍によるところが大きい。
アベレージの高いAクラスであれば全員で話し合いをして種目決めを行えるかもしれないがBクラスには難しいだろう。
愛の髪を堀北が梳かしながら続ける。
「このままだと非効率だから別の策を考えたほうがいいかしら」
「そうだね。具体的な中身の話し合いは少数でやって、草案に不満がないか確認する方が良さそうかな」
「とはいえ一人一人のことを詳しく理解しているわけではない。まずはそれを知るところからね」
「じゃあ明日みんなに聞くことになるかな。アンケートみたいな感じで紙に書いてもらうのがいいかも」
愛も全員の得意分野を把握しているわけではないし、そもそも記憶量が多すぎるのでやろうと思ったこともない。
堀北のこともそこそこに勉強も運動もできる程度にしか理解していない。
強いて言うなら料理が美味しくて面倒見が良くて意外と母性があるというくらいだ。
あとは意外にも辛いものが苦手で実はブラコンである。
要するにあまり知らないということだ。
「大会とかで実績を残しているのであればそれも書いてもらった方がいいわね」
「ひとくくりに得意と言っても本人の主観になっちゃうもんね。そういう客観的な指標も欲しいね」
例えば愛であれば『テニス(全国大会3回戦進出)』と書ける。
同じテニスが得意な人でも、ただテニス部に属しているだけで大会で実績のない人と全国で戦う人では雲泥の差がある。
得意不得意の基準は非常に曖昧だ。
「終わったわよ」
「ありがと。やっぱり堀北ちゃんにやってもらうと仕上がりが違うね。さすがプロ」
「慣れているだけよ。それにしても、随分と髪が伸びたわね」
「ほんとだね」
確かに、と鏡の向こうの自身を見つめながら髪を撫でる。
愛は長い髪は手入れが面倒な上、邪魔に感じていたので入学前は短くしていた。
髪を伸ばしているのは当然ポイントを消費したくないからだ。
美容室に行ってカットをお願いすると1回5000ポイント程度。
堀北くらいの髪の人がどれくらいの頻度で通っているのかは不明だが、入学前の愛は2ヶ月に一度くらいのペースで髪を切っていた。
つまり1年で30000ポイントの消費となる。移動するまでにおよそ50000ポイント程度使うことになるだろう。
他のオプションも合わせるともっとかかるわけで、これは最低ライン。
もはや吐き気を催すレベルである。
とはいえ放置していると前髪が鬱陶しいので、そこだけは自力でどうにかしている。
「あとは種目の決め方ね」
「単純に普段のテストの成績がいい人でいいと思うよ。幸村くんとか、王さんとか。平田くんが使えないのはちょっと残念だけど」
「そこは割り切るしかないわね」
平田は綾小路がなんとかしてくれるはずである。
堀北とともに種目決めに注力するのがベストだろう。
「Aクラスは平均的なレベルが高い。そうよね?」
「うん、それは間違いないよ。だけど突き抜けた能力を持っている生徒はそんなに多くないかな」
「そこは司令官……綾小路くん次第ね」
であれば問題はないだろう。
「あとはいかにAクラス一人一人の得意不得意を把握できるかだ」
「それはあなたの仕事ね」
「……いや、私あまり知らないんだけど」
確かに愛はAクラスと一定の交流があるが、よく知っているのは坂柳くらいだ。
「そういうことは櫛田さんの方が詳しいんじゃない?」
「問題は彼女が協力してくれるか、ね」
「そこは堀北ちゃんの腕の見せ所だよ」
「そうね」
どうしても口を割らない場合は綾小路に直接聞いてもらうしかないだろう。
「でも、Aクラスは筆記を中心に種目を選んでくると思うけどね。それも比較的大人数の」
「Aクラスに頭のいい生徒が多い……というよりはこちらの問題ね」
「そう。運動能力に長けた生徒は多いけど、勉強は苦手な子が多いから」
もちろんそうでない生徒はいるが、Aクラスに遠く及ばないのが現状。
勝敗はいくらこちらが運動形の種目で固めたとしても筆記ばかりが選ばれたら勝ち目はないだろう。
「ところで、あなたはもしテニスが選ばれたとして勝算はどれくらいあるのかしら?」
「当然100%だよ」
堀北の問いかけに愛は間髪入れずに答える。
「大会も近いからね。Aクラスには男子も女子も含めて全国レベルの選手はいないし、勝って当たり前だよ」
「頼もしいわね」
「もちろん、もしテニスが選ばれなかったとしても筆記でも満点をとるから」
これまでも特別試験には真面目に向き合ってきた。そのスタンスはこれからも変わらない。
「それにしても意外ね」
「何が?」
「特別試験への姿勢のことよ」
「Aクラスに移動するって言ってるのにってこと?」
「ええ。ただAクラスに移動したいのであればもっと楽な方法はあるでしょうし、特別試験に真面目に取り組む必要もないはずよ」
「誰かの力を借りたくないだけ。一番信用できるのは自分自身だから」
他人を無条件に信用するのは危険だと言うことは愛自身が一番理解している。
だから坂柳との契約も書面で行った。
「もし私がAクラスに移動したら堀北ちゃんはどうしたい?」
「それはどういうことかしら」
「堀北ちゃんもAクラスに移動したいかってこと」
「それは……当然今のクラスで戦うに決まっているじゃない」
「え〜、寂しいなぁ」
「ならあなたが諦めることね」
堀北が残る選択をしたならそれまでで、再びDクラスまで突き落とすだけだ。
「ところで話は変わるのだけれど」
「なあに?」
「先日のクラス内投票、裏で私を動かしたのはあなたね?」
堀北は真実を知ろうと愛の瞳の奥底を覗き込む。
「ん? なんのこと?」
「兄さんをけしかけて私にアドバイスをさせたのはあなたかと聞いているのよ」
「まあ否定はしないよ。そうでもしないと危うく私が退学するところだったし」
堀北は不服そうな表情だったが、愛は決して嘘をついているわけではなかった。
自身の退学を回避したいという安直な考えによって多くのクラスメイトは山内に賛同し、愛の名前を書こうとしていたのだから。
「まあいいわ。あなたからは真実を引き出せないそうにないもの」
「嘘をついているつもりはないんだけどなぁ」
「嘘じゃないかもしれないけれど、真実とも限らないでしょう?」
「じゃあそういうことでいいよ……。ふわぁ、眠くなってきちゃった」
時計を見れば、間もなく日付が変わろうとしていた。
それは愛の活動限界が迫っていることを指し示している。
「あなた本当に泊まっていくの?」
「えっ、そう言ったつもりだけど。女の子は日常茶飯事だと思うよ」
実際にそう言う約束事をする会話は耳にするし、付き合っていると思われる男女もたまにそういう話をしている。
「まさかこんなに寒い中帰らせようとはしてないよね?」
「……それもそうね」
「わっほーい! お泊まり! お泊まり!」
いくら3月を迎え徐々に暖かくなってきたとはいえ、昼夜の寒暖差は大きく相変わらず朝は冷え込む日々が続いている。
綾小路に容赦なくコンパスの針を突きつける堀北でもさすがに躊躇われるようだ。
「子供みたいな真似はやめなさい」
「まだ子供だもーん」
16だもんね、と悪気もなく言い張る愛に堀北はため息を漏らす。
「このベッド、シングルよ。狭くないかしら?」
「へーきへーき、ほら」
先に入った愛が端に寄れば十分なスペースが生まれる。
手招きすれば堀北は観念して、電気を消しベッドに入ってきた。
「おお、顔が近い」
「本来は1人で寝る場所だから当然ね」
少し顔を動かせば鼻同士がぶつかりそうな距離感だ。
両手を背中に回せばさらに近づく。
「八遠さん、これは恋人同士がすることではないかしら?」
「そうかな。でも私たち乳繰り合った仲だし問題ないよね」
「あなたが一方的にやっていただけでしょう」
「私には揉まれるものがないから仕方ないね。……うん、仕方ないの。ぐすっ」
「自滅してどうするのよ」
まもなく高校生活の4分の1が終わろうとしているが、やはり愛は幼児体型のままだった。
腹いせに、堀北の胸に顔を埋めておくことにする。
「これはよく寝れそうだ」
「なら早く眠ることね」
「冷たいなぁ」
「疲れたのよ」
そうは言ったが、普段であれば寝ている時間だ。
しばらくすれば眠気が襲ってきて、愛は温もりの中で堀北よりも先に夢の世界へと旅立った。
***
対戦相手クラスが決定した種目が発表されたその日の夜、愛はまたしても堀北の部屋を訪れていた。
前回と違うところは、堀北からの要望だということ。
デレたのかと思ってちょっかいをかけたが、軽くあしらわれたのでどうやらことではないらしい。
話を聞けば、ここに綾小路を呼んで話をするのだとか。
「なるほど、それで3人分のご飯を用意しているのか」
「そうね」
1人暮らしなのに3人分の食器を用意できたのかと思ったが、ちゃんとあるらしい。
手持ち無沙汰になった愛はエプロンを纏った料理をする堀北の後ろ姿を眺めることにした。
このあと綾小路を呼んで特別試験の──堀北が考えたプランを評価してもらうのだ。
事前に愛も目を通したが、よくできていると思う。
選んだ20の種目と、クラスメイト各人の得手不得手。そこから堀北が割り出した勝率や評価が細かく書かれていた。
さらに言えば、Aクラスの危険人物も愛が把握できる範囲で記載してある。
「結局、私がいる意味ってあったの?」
「後でわかるわ」
いまだにその真意が見えてこないが、堀北なりに考えがあるのだろう。
今の堀北がリーダーとしてどの程度の能力を有しているか見ることができる可能性もある。
愛は深く追求することはしなかった。
しばらくすると、インターホンが鳴った。おそらく綾小路だろう。
私が行くわ、と堀北が言うので愛はソファーで寛いだ体勢のままでいることにした。
「八遠もいたのか」
「やっほー」
堀北が綾小路を机に座らせたので、愛はその向かいに腰を下ろした。
「八遠、どうして俺が呼ばれたのか分かるか?」
「さあ? そもそも私がここにいる理由もわかってないから」
「そうなのか」
綾小路はキッチンに立つ堀北の方を見る。
「邪魔だったか?」
「いいえ、せっかくだしあなたにも夕飯を食べてもらおうと思って」
堀北の言葉に綾小路は黙り込んでしまった。おそらく堀北の目的に気づいたのだろう。
「綾小路くんは堀北ちゃんから何も聞かされてないの?」
「話があるとしか言われていない」
「あー……。なるほど」
堀北は綾小路に夜ご飯と引き換えに面倒な話を聞いてもらおうとしているのだ。
ついでに愛にも。
「ちなみに味は保証するから安心していいよ! 堀北ちゃんに餌付けされた私が言うんだから間違いないっ!」
「そ、そうか」
愛は満面の笑みでサムズアップする。
綾小路が若干引いている気がするな。
「いや、本当だからね!? 全財産賭けてもいいレベルだからね!?」
「じゃあポイント全て預かっておこうかしら?」
「ステイ、今のは比喩表現だ」
エプロンを身につけていると、オカン属性が付与される気がする。
愛としては堀北の子供にはなりたくないところだ。厳しそうだから。
「何かついているかしら?」
「いや、そんなことないよ」
愛は座り直し、大人しくしておくことにする。
いよいよ皿が机に並び始めたところで綾小路が手伝いを申し出た。
「私は何かできることある?」
「そこでおとなしくしておくことね」
「ミッションを全力で遂行する」
「遂行すること何もないだろ」
「確かに」
愛も協力を申し出たものの堀北にあっさりと断られてしまったので、2人の様子を眺めることにした。
堀北が白米や味噌汁を装い、綾小路が配膳する。言葉を交わさずとも、実に息のあった連携プレイだった。
「これもう夫婦だよ夫婦」
「は?」
「もしあなたがそう見えるのだとしたら、その目は腐っているわ。新しいものに取り替えてもらいなさい」
「それはオレも傷つくんだが」
綾小路が流れ弾で致命傷を負ったところで、堀北特製の夕飯が全て食卓に並んだ。
「いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
実に揃わない挨拶を終えて、箸を手に持つ。
綾小路が味噌汁の大根を口にした直後。堀北が綾小路に一冊のノートを突き出した。
呆気に取られている綾小路に、堀北は言い放つ。
「食べたわよね?」
「え?」
「ご飯。それも私の手作り」
「前にもこんなことあったような……」
渋々といった感じで堀北からノートを受け取ると、綾小路は読み始める。
それを見て、堀北は驚いた表情をする。
「八遠さん、あなたにも見てもらうから」
「えっでも」
「この前も食べたわよね?」
「はい」
愛は悟った。オカンモードの堀北には逆らえない、と。
とはいえ綾小路が読破するまで食事に手をつけないのも申し訳ないので、味噌汁の椀を手に取った。
「うん、今日も美味しい!」
「それはよかったわ」
うまい! うまい! と言いながら食べ進め、半分ほど減ったところで綾小路からノートが回ってくる。
読み進めていくと、その情報量に愛は驚かされた。
クラスメイト各個人の得意不得意に始まり、堀北主観の評価や各種目に割り当てた場合の想定や勝利できる確率。そして愛が提供したAクラスの情報など。
よくできている、というのが愛の評価。
自分にはこんな作業はできない、というのが正直な感想だった。
「どうかしら?」
堀北にしては珍しく、愛の様子を窺いながら尋ねてくる。
このノートの作成に相当な時間と堀北の全力を費やしたことが要因だろうか。
「うん、よくできてると思うよ。私からは特に言う事はないかな」
「ありがとう」
ノートを堀北に返すと、綾小路が口を開いた。
「オレも内容に異論はない。が、一つだけ頼みたいことがある」
「何かしら?」
「確かチェスのところには八遠の名前があったよな」
堀北がノートを開き、該当部分を確認する。横から愛が覗くと、確かに愛の名前がそこにはあった。
「他に得意な生徒もいないもの」
「だが、八遠には可能な限りテニスに参加してもらいたいと思っている」
「じゃあ代わりはどうするつもり?」
「お前だ、堀北」
「私?」
堀北はまさか自分の名前が上がるとは思っていなかったようだ。
「ああ。お前に頼みたい」
「どっちも選ばれる確率は意外と高いからね。私以外にもできる人がいて損はないと思うよ」
「八遠の言う通りだ。それに、司令塔の関与が強すぎると言うのも気になる」
司令塔の持ち時間は30分。1試合丸々とまではいかないまでも、他の種目が人員入れ替えや1問の答案変更程度にとどまっていることを考えると、綾小路の考えは正しい。
「有栖ちゃんの腕前はプロにも引けを取らないのは間違いないね。何回も対局してるからわかる」
愛が坂柳の立場だったとして、10種目の中にチェスを組み込んだ場合必ず本命の1つにする。
得意分野なのだから、当たり前の話だ。
「残念だけれど、私はチェスをしたことがないわ」
「オレが教えるから問題ない」
「八遠さんではなくて?」
「お、私が恋しくなった? なっちゃった?」
「綾小路くんにチェスの経験があるか気になっただけよ」
愛が堀北の顔を覗き込みながら煽るが、堀北は表情を変えることなく受け流す。
対応に慣れてきてしまっている。
「オレもある程度はできる」
「あなたがそう言うのなら私から言う事は何もないわ」
「堀北ちゃんが冷たいよぉ」
「あなたが1人で盛り上がっているだけよ」
チェスの段取りが決まったところで愛の頭に一つの疑問が浮かぶ。
「綾小路くん、テニスとチェスでチェスが先だったらどうする?」
「堀北だ。八遠の強みはどの種目にも対応できる万能性にある。仮にテニスだけが抽選されなかったとしても必ず出番は来る。これは逆でも同じだ。先にテニスが選ばれた場合は八遠を起用し、堀北はなるべく温存する」
「おっけい。じゃあテニスは私、チェスは堀北ちゃんで決まりってこと?」
「そういうことになるな」
「はーい」
頭の中のわだかまりが解消されたことで、愛は大人しくなった。
「それで、練習はどうするつもり?」
「堀北には無理を強いることになるが、夜中にネットでやろうと思う」
「それなら人目につくことも、知られることもないわね」
「私もある程度は教えられるよ。有栖ちゃんの戦い方とかクセとか」
「それは知っておきたいわね。綾小路くんもでしょう?」
「そうだな。知っておいて損はない」
そうして、夜の秘密の特訓が行われることになったのだった。
***
運命の日はあっという間に訪れた。
平田に関してはやはり綾小路がどうにかしてくれたらしく、数日前からいつもの爽やかさを取り戻していた。
しれっと退学していたらそれはそれで面白い展開になるのかなぁと考えたりもしたがそうはならなかったようだ。
「あなたはいつも通りなのね。八遠さん」
「まあこういうのは慣れたしね」
大きな大会は何度も経験している。強敵との対決もあった。それに比べれば、今回の愛の役割は難しいものではない。
「堀北ちゃんはどう? 緊張してる?」
「少しね。考えた作戦は上手くいくのか、Aクラスに勝てるのか、不安要素は山ほどあるもの」
それは種目決めから戦略まで頭を捻り続けてきたリーダーゆえの責任感からか。
不安、心配、そういったネガティブな感情が渦巻いていることを愛は確かに感じ取っていた。
愛は僅かに震える堀北の手を取った。
「大丈夫! 私も綾小路くんも堀北さんが考えてきた作戦に文句はなかったんだから。今さら色々考えたってどうしようもないよ」
「……そうね。人選は綾小路くんに任されている。私たちができることは選ばれた種目に全力で取り組むこと」
「うんうん。その調子だとも」
『これより第一種目を発表する。画面に注目しろ』
堀北を鼓舞していると、控室にアナウンスが響き渡る。いよいよ、特別試験の始まりだ。
「最初は……タイピング技能ね」
「僕の出番ですね」
綾小路が選出したのは、林間試験でござる口調というアイデンティティを失いパソコンが得意という特徴のみになってしまった博士こと外村。
だが、今回限りはそれが大いに役に立つことになる。
「堀北ちゃんはパソコン使うことってある?」
「全くないわね。入学する前も使った事はないし、高くて到底買えた物じゃないもの」
「うんうん、その気持ちよくわかる……ッ!」
「あなた、ポイントのことになるとわかりやすくなるわね」
そうかもしれないと思いつつ、画面の向こうの外村の勇姿を見守る。
対するAクラスは吉田健太。
「話した事ないな」
だが原作通りであれば外村の勝利となる。
勝負内容は、単語、短文、長文をいかに正確に早く入力するかというもの。司令塔は発見したミスを1箇所だけ伝えることができる。
誰もが固唾を呑んで見守る中、制したのは──外村だった。
「ひとまず先制ね」
クラスメイトが喜びの声をあげる中、堀北は安堵して一息ついていた。
本気で勝つのであれば、ここで喜んでいる場合ではない。
外村が戻ってきて皆から祝福を受ける中、第二種目が発表される。
「──テニス!」
「あなたの出番ね」
早くも、愛の出番であるテニスが選ばれた。
必要人数は4人で、ルールは2ゲーム先取の勝ち残り制。先に4人倒したクラスの勝利となる。
綾小路の選択は沖谷、南、井の頭、そして愛。
攻めた人選に、司令塔の坂柳は小さく笑った。
「いいのですか? それで」
「ああ。問題ない」
「愛さんは確かに全国レベルの実力者ですが、弱点がないわけではありません」
だが、綾小路の決断は変わらなかった。
愛の登場は4人目。最初の3人はオマケだ。
対する坂柳は2人目以降をテニス部員で固める。だが1人目もそれなりに実力をつけているようで最初の3人は見せ場なく撃沈する。
「ご、ごめん、八遠さん」
「気にしないで。全員太陽まで吹き飛ばしちゃうから」
「う、うん、とにかく頑張って!」
困惑気味の沖谷と交代し、愛がコート上に姿を見せる。
相手のサーブからスタートする。
球速は速くないし、球も正直。
適当に揺すってやるだけで相手はついて来れなくなり、1ポイントも与えることなく初戦を終えた。
「やはりこのレベルでは相手にもなりませんね」
「そのようだな」
試合の様子を眺めていた坂柳は、驚くこともなくそう言った。
次の試合は愛が水分補給を終えてすぐ始まった。
「こちらの冬森さんも愛さんと同じ女子テニス部員です。何度か対戦したことがあるようですよ」
「そうか」
だが、画面の向こうではやはり一方的といっても過言ではない試合が行われていた。
Aクラスの生徒は左右、前後と振り回され、返球だけで精一杯の様子だった。
「綾小路くんは愛さんの動きを見てどう思われますか?」
「八遠は一歩目の動きだしがとにかく早いな。そうすることでより打ちやすい場所で構えられるようになる」
「愛さんは私と同じくらいの身長ですから、やはりその対策はしているというわけですね」
「そういうことだろうな」
1ゲームを終えた時点で、両者の差は如実に表れていた。
息一つ乱さない愛に対し、冬森は肩が上下しているのが見て取れる。
「冬森さんは限界が近いようですね」
「焦らないんだな」
「試験はまだ始まったばかりです。他の種目で取り返せばいいだけですから」
愛の2試合目も、やはり一方的な試合展開のまま終了した。
「次からは男子が相手です。ただでさえ小柄な愛さんとは力に大きな差があるでしょうが、愛さんはどう対処してくれるか楽しみです」
「敵を応援してどうする」
「フフ、友人ですからつい」
3試合目もAクラス側──高宮のサーブから始まる。
球速、鋭さともにレベルが一段上がったことが綾小路にもはっきりとわかった。
だが、愛はそれを当然のように打ち返す。
「君のサーブはそんなもの? 男ならもっとかっこいいところ見せてくれよっ!」
「ぐっ……!」
高宮が必死に手を伸ばすも、その思いは届くことなく球は目の前を横切っていく。
「まだまだ……!」
「その調子その調子」
高宮は苦戦を強いられていた。八遠愛は坂柳と変わらないほど小柄な少女であることは高宮もよく知っている。
だから、女子部門とはいえこの少女が全国に駒を進めたという話は俄かに信じがたかった。
しかもテニスを始めたのは高校に入学してからだというから、高宮は耳を疑った。
だが実際に対面するとどうだろう。
低身長を補う素早い動きでコート端の打球にも手を伸ばし、どんな体勢でも正確なショットを打ち返してくる。
しかもコートの奥深く、ラインのギリギリを狙ったものばかり。
「……くっ」
放たれた打球の軌道を見て、高宮は慌てて駆け出す。
フォームはストレートとほとんど変わらないのに、ドロップボールが放たれたせいだ。
普通の選手は球種ごとにフォームが異なる。だから、相手の動きを見ればある程度の予測はできる。
それが愛には通用しない。ギリギリまでフォームを変えていないのだ。
おまけに飛んでくる打球は重く、返球が軽くなってしまう。
球速はもっと速い選手がいる。だから、愛は回転数で補っていた。
文字通り、格が違った。
辛うじて拾った球は当然、甘い返球になってしまう。
しかも高宮は前方で体勢を乱している。得点をあげますよと言っているのと何も変わらない。
「ふ……ッ!」
高宮の逆をついた最後の球が、コート内で弾んで背後へと飛んでいく。
高宮は一度たりとも愛の牙城を崩すことができなかった。
戦わなければわからない愛の怪物ぶりを、高宮は見せつけられる形となった。
「八遠すげー!」
「がんばれ!」
この逆襲劇に盛り上がったのはBクラス側だ。
いきなりあと1人になったかと思えば、一気に3人を撃破。あれよあれよという間に、状況はイーブンに戻っていた。
「全国レベルの強さは本物らしい」
「もっと喜んでいただいても良いのですよ?」
「いくら八遠が劇的な勝利を飾ったとしても、1勝の価値は変わらない」
「外村さんの1勝と愛さんの1勝は全く同じだと?」
「八遠の活躍でこちらの士気は大幅に上がるだろうがな」
坂柳は薄く笑みを浮かべる。
Aクラスの4人目、兼松は県大会でも上位に入賞できる力を持っているが、愛はそれを歯牙にも掛けない。
どんな球を放たれても、決して甘い返球はしない。
最も基礎的で、最も難しいことだ。
「坂柳は連敗がほぼ確実なものとなったわけだが、それでも冷静なんだな」
「ここまで連続でそちらが選んだ種目が採用されています。それに、試験はまだ始まったばかりですからね」
「確かに、筆記が立て続けに抽選されたら一気に窮地に立たされる」
坂柳が言う通り、タイピング技能もテニスもBクラスが選択した種目。取れるという自信があったから本命として選ばれているわけで、絶好調というよりも想定通りと評した方が正しい。
「……鉄壁だな」
ネット際のたまに反応した兼松の鋭い打球に身を投げ出して反応した愛に、綾小路は思わず驚嘆する。
テニスに限らず、多くの球技では身長が高い方が有利になりやすい。
身長が高い方が単純に手の届く範囲が広がるテニスにおいて、愛の身長は明確な弱点であることには間違いない。
兼松も当然それは理解しているだろうし、そこを狙っているということも見て取れる。
愛はそれをあらゆる方法でカバーしていた。
得点を取れそうで取れない。このような状況が続けば、己に原因があるだと自問自答し徐々に精神から崩れていく。
兼松の返球精度は初めと比べて別人かと疑うほど悪くなっていた。
「ほい、私の勝ち! 対ありっした〜」
膝に手をついて疲労困憊の兼松に手をひらひらと振ると、愛はさっさと引き上げてしまう。
息切れはしていないとはいえ、汗が染み付いた服を着たままなのは気分が悪かった。
さすがにシャワールームは用意されていなかったので、タオルで汗を拭き取って着替えを済ませ、控室に戻る。
次の種目である現代文テストが行われている最中だった。
「すごかったわね。1回も点を与えないなんて」
「まあ私にかかればこんなもんよ」
堀北の元へ行くと、珍しく褒められる。
「あなたがテニスなら負けないと話していたけれど、これほどとは思っていなかったわ」
「そりゃ嬉しい」
「とはいえ、まだ安心できる状況ではないわ」
堀北が見つめる先では、現代文テストの成績発表が行われている。
結果はAクラスの勝利。筆記ではやはり大きく遅れを取っていた。
「あちゃー。こうなるといかに自分たちが選んだ種目を引き当てるかのゲームになってくる」
「私たちが選んだ種目が多く選ばれること、そしてそれを落とさないことが必須ね」
そんな中、次の種目として選ばれたのは弓道。
Bクラスが選んだ種目だ。
三宅の得意分野であり、Aクラスに弓道部員はいない。そういう理由で採用されたものだ。
「──それにしても」
随分と地味な存在になったなと愛は対戦に臨む三宅を眺める。
本来であれば綾小路グループの一員で、重要な位置にいた三宅。しかし今回はグループは形成されず、三宅は相変わらずクラスメイトとは距離を置いていた。
「戦況はこっちから丸見えだし、真面目にやってくれるでしょ」
「何か言ったかしら?」
「なんにも」
愛は画面に目を向ける。三宅が的の中心を射抜いたところだった。
***
三宅くんの働きで勝利を重ね、私たちは勝ちを目前にした。けれどその後の2戦は英語テスト、数学テストと立て続けにAクラスが選んだ種目となってしまった。
あと1戦で勝利できるとあって綾小路くんは成績上位者を並べて応戦するも、どちらも制したのはAクラス。
3勝3敗となり、全ては最終戦に託されることになった。
「……チェス」
最終戦の種目が表示された瞬間、思わず声が出た。
自分の出番だと自覚したからだ。私にクラスの行く末の一端を託されたことも。
そして、司令塔である綾小路くんの選出は当然私。
「堀北さん頑張って!」
「堀北! 絶対勝てよ!」
「……ええ」
控室を出て、会場へと向かう。
この1週間、綾小路くんと八遠さんに教えてもらってわかったことだけど、私の出番は半分の30分しかない。
坂柳さんもそれを狙った種目決めをしていることは司令塔の関与量を見れば明らか。
前半は私が自力で戦うことになるだろうし、それを前提にした練習を行ってきた。
私の役割は、なるべく有利な状況のまま綾小路くんにバトンを繋ぐこと。
会場に到着すると、すでにチェス盤が用意されていた。
インターネットでしかプレイしたことがない私にとって、実物は初めてのものだ。
そして、私の入室とほぼ同時に反対側の扉が開かれる。
坂柳さんが選んだのは──橋本くん。
話したことはないけれど、名前はよく知っている。どういう人物かも、八遠さんから聞いている。
「よろしくな、堀北」
へらへらと笑みを浮かべる橋本くんを睨みつける。
余計な話に付き合うつもりはないという意思表示だ。
「怖い表情をしてるな。この状況を楽しもうとは思わないのか?」
「この1年間独走していたあなたたちには、この1戦の重要性がわからないようね」
「いやいや、俺たちだって負けたら状況が厳しくなるのは変わりないぜ」
勝ったクラスが130ポイントを得て、負けたクラスが30ポイントを失う。
CクラスとDクラスの対決の結果によっては再びCクラスに下がってしまう可能性がある。
Bクラスの私たちと400ポイント近い差があるAクラスにすこでも近づくためにはここで勝つしかない。
「俺、チェスを始めて数ヶ月だからさ。手加減してくれよ」
「おあいにく様。私は1週間ほどよ」
「へぇ……」
対戦相手が姿を見せた時点で戦いは始まっている。
チェス歴だって、橋本くんが嘘をついている可能性がある。
『相手が誰だろうと、手を抜いたオレより強い相手はいない』
試験前に綾小路くんが言い放った生意気で憎たらしい言葉を思い出す。
普段なら呆れて一言二言言い返していたけれど、今は頼もしく感じる。
坂柳さんは舌戦の得意な橋本くんを使って揺さぶりをかけようとしているのでしょうけれど。
残念ながら、お調子者の相手は私の得意分野よ。
いつも楽観的で、誰よりも努力家で、誰よりも鬱陶しい友人が私には居るもの。
「これより第7戦の種目、チェスを行う。両者席に着くように」
先生の指示により、私たちは席に着く。
「それじゃあ始めようか。先攻後攻の決め方はわかるよな?」
「ええ」
そう答えると、橋本くんは白と黒のポーンを手の中でかき混ぜる。
少しして私の前に両手が突き出された。
「左手よ」
開かれた手には白のポーン。私の先攻だ。
「楽しませてくれよ」
「1週間の私があなたの期待に添えられるかしらね」
初手はE4。E2のポーンを2マス前進させた。
初めは駒を中央に移動させることを考える。
橋本くんの一手目はE5。それを見て、すかさずナイトをG3へ動かし、出方を伺う。
序盤はお互いに無駄な時間を使うことなく進行していった。
だけど、打ち筋に明らかな違いがあることに気づく。
私は堅実に運んでいくタイプだけど、橋本くんは型に囚われない大胆なタイプ。
坂柳さんの入れ知恵であることは容易に想像がついた。八遠さんが坂柳さんのチェスについて『あまり見ない』と評していたことを思い出しながら駒を動かしていく。
それは気付かぬうちに不利な状況に追い込まれてしまう可能性があるということでもある。
それでも、1週間しか触れていない私にテクニカルなことはできない。
教えられたことを、愚直にこなしていくだけ。
それでも、着実にリードを広げることができているということは分かった。
時間が進むにつれて、橋本くんの表情が険しいものに変わっていく。
橋本くんは持ち時間をどんどん消費していき、それでも状況を返すことはできない。
それでも決して気を抜くことはできない。
もうすぐ打ち手が変わることがわかっているからだ。
真の相手は、私の実力を遥かに上回る強者だ。
突如、橋本くんの表情が変わり、水を得た魚のように駒を動かし始める。坂柳さんにバトンタッチをしたということはすぐにわかった。
綾小路くんからの指示はない。
持ち時間はまだ30分には遠いし、盤面だけで言えば私の方が有利。
圧倒的格上に対して私がどこまでやれるのか、確かめようとしているのだろう。
けれど、時間が経過していくごとに形勢が逆転されていく。
このままであれば私が──Bクラスが負けるというのは容易に想像ができた。
綾小路くんと八遠さんの、対坂柳さんを想定した対局を観戦したことがある。
坂柳さんのチェスは、その時の八遠さんとよく似ていた。
2人の会話の意味は全く理解できなかったし、盤上の駒は私の時と同じ競技なのか目を疑うほど躍動していた。
──けれど、私だって対策を何も教えられていないわけじゃない。
「坂柳?」
それまでノータイムで動いていた黒の駒が止まった。思わず橋本が主の名を呼ぶ。
けれど、1分と待たず動き始める。
私はゆっくりと時間をかけて駒を進めていく。
教えられた対策は坂柳さんを出し抜く逆転の一手ではない。坂柳さんの猛攻をわずかに遅らせる、いわば悪あがきのようなもの。
だから私が守りに入っているという状況は何一つ変わっていない。
「……」
手が完全に止まった。
綾小路くんと八遠さんにはできるところまで1人で戦うようには言われたけれど──これが限界のようね。
インカムが接続される音が耳に届く。
それから3秒程度で、無機質な機械音が耳に入る。私にできることはこの音声に従って駒を動かすことだけ。
勝負の行方は、綾小路くんと坂柳さんに託されることになった。
***
「堀北さんは本当に1週間しかチェスを遊んでいないのですか?」
坂柳にとって想定外だったのだろう。思いの外善戦した堀北が。
驚きを隠せない坂柳が、興奮気味にオレに問いかける。
「本当だぞ。基礎中の基礎と坂柳の対策しか教えていない」
「私の対策は愛さんに教わったのですか?」
「何度も対局しているんだろ?」
今回堀北がここまで抗うことができたのは本人の努力もあるだろうが、何より八遠の存在が大きい。
坂柳のことをよく知る八遠だからこそ、堀北でもできる対策を教えることができたのだからな。
「ええ。彼女との戦いはいつも私の心を突き動かしてくれます」
「それはよかったな」
「綾小路くんも一度対局することをお勧めします。きっと有益なものとなりますよ」
八遠とは一度だけ対局したことがあるが、その時は坂柳のチェスをトレースしていたから八遠の実力だったとは言えない。
坂柳がそこまで太鼓判を押すのであれば悪くないかもしれない。
お互いに考える時間はわずかだけ。キーボードの上を指が駆け回り、指示を受けた2人が駒を動かす。
八遠の言葉を信用していないわけではなかったが、坂柳の腕前はプロにも匹敵することはすぐに分かった。それも、世界に通用する程だ。
が、初めて手が止まった。オレの手が。
ミスをしたつもりはない。思い描いていたルートから外れたつもりもない。
坂柳の実力がオレの想定を超えていたのだ。
『綾小路くん……!』
縋るような表情で、画面上の堀北がオレの名を呼ぶ。
堀北が作ってくれた猶予を使いながら、新たにルートを構築する。
そうして数分の後に堀北に指示を送る。
再び駒が動き出し、次に止まったのは坂柳の方だった。
「ああ……なんと楽しい時間なのでしょうか。愛さんとの対局で腕を上げたつもりでいましたが、あなたはそれすらも越えようとしてくる。この瞬間を最上のものにしたい。この時間がずっと続いてほしい。そう願いたいほどです」
数分にも及ぶ長考の末に坂柳が放った一撃は、それに見合うだけの重いものだった。
『綾小路くん……もう打つ手はないの……?』
オレはあの対局の後の八遠の言葉を思い出す。
──有栖ちゃんは戦うたびに進化している。今日の1戦が無駄になる可能性を考慮した方がいいよ。
控室の八遠がどんな心境で戦いを見ているか、オレには知りようもない。
だが、坂柳がオレを越えようと言うのであればそれを阻止するだけ。再び勝利までの道筋を思い描き、堀北に指示を送る。残り時間はわずかだ。
再び駒が目まぐるしく動き出し、黒のキングにチェックをかける。
「見事です……」
坂柳が感嘆の声を漏らす。
お互いが考えうる限り最高の手を打ち続けた極限の戦い。その終わりが迫っている。
『おいおい! 何か手はないのかよ!?』
オレも坂柳も、残された時間はごくわずか。短い時間で最上の選択を迫られる極限状態に達している。
「本当に見事です。綾小路くん。冷や汗をかいたのは久しぶりです。ですが、これで終わりです」
『待ってたぜ、お姫様!』
坂柳から放たれた起死回生の一撃は、一瞬にして状況をひっくり返した。
一手一手進めていくごとに、こちらが追い込まれていくのがわかる。
「……」
残りが2分を切る中、オレは盤面をじっと見つめる。
こちらがチェックをかけていた先ほどとは打って変わり、今はチェックをかけられている状況。
次の一手が勝敗を決すると言っても過言ではない。
『綾小路くん……』
何度目かわからない、堀北のオレを呼ぶ声。
『勝ちたいの……。ここまで来て、私は負けたくない』
涙を堪えているかのような震える声で、堀北は言葉を絞り出している。
『……私だってわからないなりに必死に考えてる。どうすればこの状況を打開できるのか、どうすれば勝てるのか!』
今までの堀北からは想像のつかない、感情任せの叫びだった。
『でも、私には坂柳さんを越える一手は打てないの! この状況をどうにかできるのはあなたしかいないの!』
打てる手は少ない。残り時間が1分を切った。
結末まで脳内でシミュレートする。そうしてオレは、唯一の回答を入力する。
その一手が堀北に届くまでの時間はとても長く感じられた。
……いや、実際に30秒ほどかかっただろう。
オレからの指示を受け取った堀北は、目を見開いてそれに従う。
──嗚呼。
『まだやろうって言うのか綾小路!』
再び、坂柳の持ち時間が減少し始める。
「ふふ、お見事です。綾小路くん」
坂柳がオレを褒め称える。
「綾小路くんも、堀北さんも素晴らしかった。ここまで胸が躍る戦いは久しぶりです」
持ち時間が10秒を切った。これで勝敗は決したか。
「──ですが」
坂柳がエンターキーを叩く。
今度は黒が活気を取り戻す。手が進むごとに窮地に追いやられていく。
『綾小路くん……! もう打つ手はないの……!?』
オレに打つ手はない。これからの手は全て、坂柳に誘導されたもの。
『お願い! さっきのように、私が思い付かないような手はないの……!?』
悪いな、堀北。オレはお前の期待に応えられなかったようだ。
オレの持ち時間が0になり、通信が断絶される。
『……参りました』
堀北と橋本の両名が座礼をする。勝ったのは、坂柳だった。
これで全ての種目が終了。Bクラスは3勝4敗で、Aクラスの勝ちとなった。
この結果はホワイトルームからの刺客によって歪められたものだとオレたちが知ったのは、それからすぐのことだった。
ゴールデンウィークの予定がほとんどバイトで埋まっているので失踪します。